ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

レッドクリフ2を観てひとり言

2009年04月22日 | Weblog
パート1は三国志を知らないと理解できないのでは?と思うほど展開が早かったが、パート2は赤壁の水上戦だけが舞台なので、心理戦や絆など人間の感情や心情を映しており、少し映画らしくなってゆっくり観られた。それでも観終わった感想は何も残っていない。出演人数の多さや特殊撮影などは、嘗ての「ベンハー」や「クレオパトラ」なんかを彷彿させるが、登場人物の心理表現などが薄いように思う。韓国映画のほうが心情表現は良く分かる。映画は映画として、中国でこの赤壁の戦いをしている頃、日本はどんな時代でしょう?神功皇后摂政8年、神功皇后が夫の仲哀天皇急死後、朝鮮半島へ三韓征伐に出かけた頃です。(ブログの気比神社でひとり言参照)中国はこの後三国時代に入り、魏・呉・蜀の鼎立となる。230年代には卑弥呼が魏に使者を送る。中国の歴史は三国志がかなり史実を伝えているが、残念ながらこの時代の日本の歴史はまだまだ想像の世界にある。日本の歴史がこんな不可解で良いのだろうか?宮内庁は史実をもっと公開して欲しい。昨日、先進国家の中国観光客が資生堂の化粧品を大量に買って行った。支払いは「銀聯カード」を出してきて、この店では使えないことを言っても納得しない。結局日本人ガイドにTELして現金で支払った。「銀聯(ぎんれん)カード」は、中国内の銀行がネットワークを組んで運営しているカードで、中国本土では現在、10億枚以上が発行されており、日本でも約6000店舗で利用することができるが、JCBの様な銀行の残高を超えて買い物ができるクレジットカードとは違って、残高以上の買い物はできず、「信用取引」はまだ一般的ではないようだ。しかし、曹操軍の軍船のように数にものを言わせて世界を変えて行く、恐るべき中国。毎度ありがとうございます…。

醍醐寺でひとり言

2009年04月11日 | Weblog
平日の、桜真っ盛りに休みとなったので、考えた。この辺りで一番混雑する花見の名所はどこだろうと…。ネット検索で出てきたのは、JR東海 「そうだ 京都、行こう」で紹介されている醍醐寺だった。学生時代は山科で過ごしたが、一度も醍醐寺には行ったことが無く、平日の特権で混雑がましだろうと出かけることにした。JRのうたい文句は、(太閤秀吉が催した「醍醐の花見」で知られる京都屈指の桜名所。桜の馬場や、三宝院の土牛の桜、霊宝館前のしだれ桜の巨木など、圧巻の春風景が広がります。)と、とにかく屈指…らしい。早速、阪急に乗り京都地下鉄に乗り換え、乗り換え辿り着いた。JRは結局利用せずに醍醐寺エリアさくら散策マップだけ拝借した。平日にしてはさすがの混雑振りだが、女性か学生、老夫婦などでいい年の男は少ない。長年染み付いたサラリーマンの習性で、平日に人前に出ると後ろめたい気持ちになってしまう。最近でこそやっと平日に大手を振って歩けるようになったが、無意識に人目を気にしている自分が笑えてくる。さすがに世界文化遺産に指定登録された寺院だけあって、京都府最古の国宝五重塔や寺宝・伝承文化財は約15万点に及ぶらしい、境内も広く、拝観料だけでも3エリアで1500円もかかるほど広い。そのうえ三宝院の庭園では写真撮影も全面禁止で、監視員が二人も目を光らせている。私は古代史が好きなので奈良へはよく行くが、奈良と違って京都の寺院は拝観料が高く、写真撮影などの禁止が多い。壁画や絵画などフラッシュ光線でダメージがありそうなものは分かるが、庭園はどうして撮影がいけないのか分からない。商業ベースとしか考えられないし、せっかくの美しい景色を見ても、自分のものにならない疎外感を感じる。美しいものはもっと広く共有するべきだ。花見の話がぼやきになってしまったので、次回で書き直します。


吉備路でひとり言2

2009年04月06日 | Weblog
岡山は学生時代に来てからのご無沙汰で、黒い岡山城はかすかに覚えているが、倉敷は記憶があるような無いような状況だ。吉備路を廻った翌日は岡山に一泊し、倉敷の美観地区と岡山城を見てから帰ることにした。気になるのは倉敷市にある井原鉄道に吉備真備(きびのまきび)駅がある事で、歴史上の人物名が駅名になっているのは珍しいと思う。吉備真備は奈良時代に地方豪族出身者としては破格の出世で、学者から立身して大臣にまでなった。近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。717年に遣唐使として入唐し734年に玄(げんぼう)らと種子島に漂着するも無事帰国した。3年後に天然痘が流行り藤原四兄弟が全滅し、当時縦(ほしいまま)にしていた藤原家の勢力が衰え、吉備真備の朝廷で活躍が始まったが、藤原仲麻呂の台頭によって左遷される。この当時は天武の子として反藤原に目覚めた聖武天皇が橘諸兄(たちばなのもろえ)らと藤原家との権力抗争で争っていたが、藤原仲麻呂によって聖武天皇は引きずり降ろされた。その仲麻呂は淳仁天皇の時、恵美押勝(えみのおしかつ)の名をもらい皇帝になろうとした。しかし、国家を私物化し藤原家だけが繁栄すれば良いという考えに反発が強く、「恵美押勝の乱」で吉備真備らに追討された。孤軍奮闘し、「古き良き大和」を最後まで守りとうそうとした吉備真備。国家を支え尽くした偉人だが、時の権力者によって人物像が矮小化され、後世の人間にもあまり評価されなかった孤高の人である。今も昔もどこにもよくある話で、何も見えていない者は、徒党を組み、邪魔になる優秀な人材は潰しにかかる。