ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

越の国でひとり言2

2012年09月24日 | Weblog
天気予報は雨!?今まで旅行先で傘をさしたことがない「晴れ男」だから心配はない。仲居さんに「雨降らない事を祈っています」と送り出された。しかし、最近のゲリラ豪雨を思うと、ひょっとすると降られるかもと思い予定を一部変えた。
 朝一番、あわら温泉から越前へ向かい、途中丸岡城に寄った。日本最古の天守閣で、こじんまりした天守内の狭くて急な階段が印象的だ。

 永平寺へ行く前に、六呂瀬山古墳と松岡古墳群を見に行った。六呂瀬山古墳は九頭竜川の右岸、六呂瀬山山頂に位置する前方後円墳や方墳があるところで、継体天皇の生母を輩出した一族の大首長墓であるとの説がある。車を止めて登ろうとしたら、整備中で入山禁止の看板があり生木が倒れていた。あきらめずに少し歩くと、坂井市の教育委員会の荷物で道が塞がれていた。ここは断念して車で10分程の松岡古墳群へ向かった。こちらは公園として整備されているが、予想以上に広いので入り口の春日山古墳だけを見ることにした。横穴式石室がドームの中で解放されていて、石室には笏谷石で作られた横口式舟形石棺が安置されていた。この横に穴が開いている石棺は出雲地方で見られるタイプで、春日山古墳に納められた首長は出雲地方と関わりがあったと考えられ、同じ部族であったかも知れない。

 幸いに雨はまだ降らないし、それどころか真夏のような暑さになった。干からびそうな体で車内に戻ると、エアコンが救ってくれた。
 さて、永平寺は僧侶の育成と信徒の信仰の源の曹洞宗大本山らしく、威厳があり壮大なスケールの寺院だった。門前町も栄えているようで、各店舗の駐車の車獲得の賑わいも楽しいが、古刹を巡っていると、この様な大寺院にはあまり尊厳と畏怖を感じない。「儲かってるな」…宗教より経済が優先している様に感じてしまう。

 いよいよ最後の目的は勝山市にある平泉寺白山神社だ。思わず息をのむ杉木立の参道、苔むした境内、今まで訪れた他の古刹を圧倒する幽玄さ、すばらしい。717年泰澄によって開かれたという、白山信仰の越前拠点として、最盛期には48社36堂6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成した。その栄華は今の境内に全くない。あるのは絨毯のような苔だけ。泰澄大師がここで神様に出会ったことが、平泉寺の始まりと言われる「御手洗の池」の前に座り込むと、時代も季節も忘れて、静寂の中から何かが現れそうな畏怖を感じた。
 入り口の食事処で蕎麦を食べた。岡本太郎や櫻井よしこさんらのサインがあり、みんな感動しただろうなと思った。女将さんに、「苔は自然に生えるのですか?」「えぇ、すぐに生えるので大変ですよ」「庭の手入れは誰がされるんですか?」「年に2回だけ地域住民が総出でやりますが、それ以外はほとんど手付かずです」「それにしてはきれいですね」「まだ日にちがそう経っていませんからね」あまりに境内がきれかったので、思わず次々と質問してしまった。

 雨の予報だったので、降りだしたら行こうと思っていた恐竜博物館にも時間があるので寄ってみた。宇宙船のような銀色の丸いドームが迎えてくれた。
 今回は縄文から大和政権のできる前の弥生時代、そして8世紀の白山神社と、千年以上の永いタイムトラベルだったが、最後に何と2億年前まで行ってしまった。
 丹後、越と廻って感じたことは、大和ができる前から日本海沿岸には半島からの渡来人により、発達した文化があり、鉄や塩などの貴重品を基に経済力と軍事力を蓄え、大和建国に貢献し、また大和連携と並行した半島との独自外交も維持しながら繁栄した地域であること。この地には敦賀の地名になった「ツヌガアラシト」と、出石に定着した「アメノヒボコ」が神として存在するが、二人は同一人物ともいわれ、気比神宮の祭神である神宮皇后との関係もおもしろい。
 新羅を攻略した神宮皇后、新羅の王子であるアメノヒボコ…。「ウガォー、ガォー」ティラノサウルスが睨んでいた。古代妄想から現実に戻ったら、そこは太古の恐竜時代だった。ついに雨は降らなかった。

 

越の国でひとり言

2012年09月12日 | Weblog
7月は丹後半島に出かけ、その古墳の多さや大和政権前からの繁栄と、その後の大和への貢献などを実感できた。今回は継体天皇を輩出した越の国を見て回ろうと福井県へ出かけた。朝早く出発し、京都市内を抜け最短距離の若狭街道で小浜に向かった。最初に立ち寄ったのは若狭町の「瓜割の滝」。まだ8時台なので誰もいない。残暑の朝にはこの冷たい水は気持ち良い、瓜が割れるほどの冷たさとは思はないが、神聖な雰囲気ですがすがしい。

 明通寺は806年坂上田村麻呂がこの地の「ゆずり木」で薬師如来など3体を彫って安置した事に始まる。檜皮葺のきれいな本堂と三重塔が国宝になっている。参道にリンドウがひっそりと咲いていた。

 若狭神宮寺は奈良東大寺の二月堂のお水取りの、お水送りの神事が行われる。この寺に渡来した印度僧実忠和尚が東大寺開山の良弁僧正を助け東大寺を完成させ、二月堂の建立とお水取りを始めた。二月堂の水は「若狭井」と言う井戸から汲まれる。若狭は朝鮮語ワカソ(往き来)が訛った地名で、朝鮮半島から上陸して、朝鮮語ナラ(都)「奈良」へ行く一番近い道であった。神宮寺の仁王門は遠く真っ直ぐな参道の向こうにある、そこには七堂伽藍二十五坊を有していた賑わいを感じさせる距離があった。この寺院は若狭彦神社の別当寺である。

 若狭彦神社は上社(若狭彦神社)、下社(若狭姫神社)の2社からなる。祭神は上社が彦火火出見尊(ホオリのみこと)一般には山幸彦と言われており、神武天皇の祖父に当たる。下社は豊玉姫命(トヨタマヒメ)で山幸彦の妻に当たる。二人の子を出産の時に豊玉姫命が八尋和邇(やひろわに)の姿となったのを、夫のホオリが約束を破って見たため、妻は綿津見神の国へ帰ってしまった。鬱蒼とした杉の巨木が立ち並ぶ参道の奥に、ひっそりと本殿が鎮座する。まったく人の気配がなく、社叢に吸い込まれるような霊気を感じる、すばらしい雰囲気の神社だ。

 下社の若狭姫神社は街中にあり、道路から本殿までの距離がないので先ほどの静寂さは感じない。それでも本殿を守るように立っている千年杉は圧巻である。小浜は「海のある奈良」と言われるほど古刹が多く、大和への重要な入り口であったことが良くわかる。
 若狭歴史民俗資料館(小浜市)では鳥浜貝塚から出土した丸木舟と漆塗りの櫛が観れた。縄文時代から漆を使っていたなんて初めて知ることができたし、対馬に行った時に玄界灘を丸木舟で渡れるか疑問だったが、この丸木舟の実物を見ると、結構大きく凪を選べば十分渡れると思った。続いて三方にある縄文博物館も訪れ、たっぷりと縄文の世界に浸ることができた。

 鯖江には王山古墳群と言われる54基の墳墓・古墳がある。弥生中期から古墳時代中期まで累々とこの地に築かれてきた。弥生時代後期(2~3世紀)の土器には近江や尾張の物が見られ、それらの関係がどのようであったか興味を引く。誰もいない王山の中を歩いていると、この地域の王族になってタイムスリップできそうな気がする。
 鯖江の海岸近くの織田は織田信長公の祖先の故郷であり、氏神の剱神社があるので寄ってみた。

 今夜の宿のあわら温泉目指し、北上して福井市内を抜ける。途中、九頭竜川流域は豊かな穀倉地帯で、男大迹(継体天皇)王子が三国の河口を切り開き湖沼であった越前平野の水を日本海に流出させ田園地帯としたと伝えられており、今の世も黄金の稲穂がたわわに実り、我々は継体天皇の恩恵を受けている。
 
「あ~もしもし、今夜宿泊予約の者ですけど、到着が早くなりましたので晩御飯は早くできます?」…と、ケイタイの恩恵に与かった。