ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

纏向遺跡でひとり言

2009年11月18日 | Weblog

新聞は英国人女性死体遺棄事件で逮捕された市橋容疑者や、詐欺事件で逮捕されている女性との接点を持つ、6人の男性の不審死などの記事で埋められている。そんな新聞の2面に驚く様な記事が掲載されていた。<奈良・纒向遺跡>3世紀前半の大型建物跡 邪馬台国か! ついに、やっと纏向遺跡から大型の建物が出た!しかも3世紀前半の建物となれば卑弥呼が生きていた時代そのもので、卑弥呼の宮殿かと想像は広がる。しかも記事を読むと4つの建物は同じ方向に軸線を揃えてあり、明確な設計図に基づいて、強い規格性をもって構築されている。最大の建物は南北19.2m×東西12.4mと、この時代では国内最大級の規模になる…。吉野ヶ里の建物よりも大きい居館の発掘で、いよいよ畿内巻向が邪馬台国の可能性が強くなった。
そして、楽しみにしていたその日がやってきた。発掘現場は巻向駅のすぐ横にあり、まるで卑弥呼の宮殿のために駅を作ったかのようで、卑弥呼は定期券でどこかへ通っていたのかな?と思った。平日だったので人は少なく、俳優の刈谷俊介さんが大きな体を折って作業をしている姿を間近で見ることもできた。発掘現場は降った雨水で水溜りができていた。大きな居館の前には石が貼ってある溝らしき跡があり、雨水でぬかるみ、まるで居館域へ引き込まれた水路が再現され、当時の船が行き来している様に感じた。ふと隣に目をやると卑弥呼の様な女性が私に微笑んでいた。
紅葉がはじまる時期なので、談山神社へ足を伸ばした。残念ながら少しまだ早かったようで、緑色の葉っぱも多かったが、緑、黄色、橙、赤のグラデーションが着物の模様のように艶やかだった。ここで「乙巳の変」(イッシノヘン)の密談があり、大化の改新へと続くことになっているが、藤原不比等が残した日本書紀の真相は、今となっては遺跡のように深く埋もれてしまって分からない。
乙巳の変で殺された蘇我家の弔いも兼ねて、晩秋の飛鳥石舞台(蘇我馬子の墓)に寄って帰ることにした。さっきから一緒にいる卑弥呼と…?


清水寺でひとり言

2009年11月02日 | Weblog


清水(キヨミズ)と読むが、京都ではない。東条湖の近くで、辺りはゴルフ場銀座である。こんな所に古刹があったのかと不思議に思い、ゴルフバックではなくカメラを手に車を走らせた。
御嶽山 播州清水寺 西国第二十五番霊場 
縁起:推古・聖武 両帝勅願所 本尊 大講堂(千手観音)・根本中堂(十一面観音) 奉安
御開山法道仙人は印度の僧で、今より1800年前、人皇十二代景行天皇が治められていた時に中国、朝鮮を経て御嶽山に住まわれ鎮護国家豊作を祈願されました。
  推古35年(627年)推古天皇勅願により、根本中堂が建立され、仙人一刀三礼の秘仏十一面観音、脇士毘沙門天王、吉祥天女の聖像が安置されました。もともとこの地は水に乏しく、仙人、水神に祈ったところ、霊泉が湧水しその事に感謝して「清水寺(きよみずでら)」と名付けられました。神亀2年(725年)聖武天皇は行基菩薩に勅願して大講堂を建立、永く経典の講義をする道場として、法灯を国中に輝かされました。ウィキペディアで調べたら、あるわあるわの業績で、伊丹の昆陽池も、有馬温泉も行基の業績だったなんて。いくら弟子が多くいても、これだけの仕事をこなすのは大変なことで、その建設スキルやリーダーシップは相当なものだったのだろう。聖武天皇とくれば治世時代に長屋王の乱が起こり、藤原四兄弟が皇后である光明子(藤原不比等の娘)の立后を図った事件である。しかし、その四兄弟が天然痘で全員死亡するなどの「祟り」が起こり、ますます仏教に帰依し、東大寺盧舎那仏を建立した。そして皇后になった光明皇后が、聖武天皇の遺愛品を納め、その一部が正倉院に保存されている。今年も第六十一回正倉院展が開催されている。展示を一度でも見れば、当時の文化や技術が想像以上に高いことを思い知る。そんな時代に活躍した行基、今だったら大富豪になっていただろうな…。金か?どうも思考の行儀が悪い今人の代表でした。また正倉院に出かけて行基さんに会ってこようと思った。