ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

応神天皇陵でひとり言

2012年06月09日 | Weblog
飛鳥に「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」の2箇所あることはあまり知られていない。近つ飛鳥(羽曳野市)にある15代応神天皇陵の誉田八幡宮へ行ってみよう。歴史上実存する最古の天皇とも言われ、倭の五王の讃に比定する説も有力で、年代的にも「広開土王碑」に書いてある倭国の朝鮮進出を指揮した可能性が高い大王である。
 神功皇后が、朝鮮を攻め込んだとき胎内に宿していたのが応神天皇と言われている。夫である仲哀天皇は、「新羅は金銀の宝庫である」という神託を信じず崩御してしまうが、その妃である神功皇后によって朝鮮半島の制圧が企てられた。
誉田八幡宮は天皇陵に隣接して、小さな太鼓橋の放生橋で陵と繋がっている。その手前に摂社の「当宗ムナカタ神社」があり、由緒には当宗神社の祭神は、現在素戔嗚命 (すさのおのみこと)であるが、当初は中部朝鮮の楽浪郡から渡来した「当宗忌寸」の祖神である山陽公を祭っていたようである。当宗忌寸の子孫には、宇多天皇の祖母(仲野親王の正室)が歴史上現れている。とあり、渡来人が祭られている。
古代の河内国安宿(あすかべ)郡に当たるこの地は、百済系渡来人の本拠地でもあった。応神天皇は仁徳天皇と同一とも言われているが、出自がはっきりしない。当時の倭国は、今来の渡来人ともっと前から居る渡来人同士、あるいは倭人と渡来人等との権力闘争が繰り広げられたと思う。応神天皇も福岡宇美で生まれ、近畿に攻め込んできたかもしれない。それが神武東征の逸話になっている可能性もある。
当時、秦氏や、倭漢直(ヤマトノアタイ)氏の先祖達も渡来してきたと考えられており、高句麗の侵攻によって迫害された朝鮮半島の人々の集団は、多くの技術や文化をたずさえて日本列島へ渡来してきた。百済から渡来してきた学者の阿直岐(アチキ)は優馬と太刀をもたらし、同じく学者の王仁(ワニ)は「千字文」と「論語」を伝えた。職工や機織り・酒造りの技術者なども多数来日し、日本文化の技術革新に多大の貢献をしたものと思われる。
近つ飛鳥も遠つ飛鳥も、人口のほとんどは渡来人であった。百済系や高句麗系、新羅系、中国系など…日本人の故郷飛鳥は当時の外国文化の結晶だったわけだ。

大阪を横切って、羽曳野へ行く道中には、今でも古代の生活を妄想させる地名がいっぱいある。
読み方の難しい、「杭全」クマタ(平野区)は平安時代、付近は杭全荘と呼ばれ、征夷大将軍にも任じられた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の子、広野麻呂の荘園だった。近くの平野区にある杭全神社は坂上氏が創建したのが始まり。坂上氏はもともと、朝鮮半島の百済(くだら)系の渡来人だったといわれ、杭全の由来は百済がなまったという説もある。ちなみに杭全交差点の南側にはJR貨物駅である百済駅もある。また、その渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術を持っていたことからこの地域を「猪飼野(いかいの)」と呼ぶようになる。さらに、渡来人のもたらした優れた技術により、文献上の日本最古の橋がここを流れる「百済川」(現在の平野川)に猪甘津橋が架けられ、時代が下って江戸時代になると「つるのはし」と呼ばれたことから現在の「鶴橋」の地名の元となった。心斎橋の元は「新羅橋」だった。加美鞍作は鞍作氏はじめ百済系渡来人が栄えた場所。鞍作部とは鞍をはじめとする馬具などの武具を作っていた部族。法隆寺本尊である釈迦三尊像などを作った仏師、鞍作鳥(止利)が出ている。
他にも難波や喜連瓜破、西成・東成や秦氏の居住地寝屋川地区。日本に漢字をもたらしたと言われる王仁博士(ワニ)のゆかりの地枚方など…。
現代でも焼肉で有名な鶴橋のある生野区は人口の20%強が韓国・朝鮮籍の人たちだ。1500年以上経った今でも、盛んに朝鮮半島との交流が続いている地域だ。
2年前に百済の古都、扶余へ行ったが、そこにあった武寧王の陵墓の中の棺材は日本にしか成育しない、あの高野山お供えの高野槙だった。
謎が広がりすぎて、妄想もまとまらなくなってしまった。こんなときは例のひとり言。
「いいかげんに百済ん妄想はやめなさい!」「はい」高句麗とうなずく。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
百済あっての日本 (山越清)
2019-06-06 17:33:52
応神天皇の実名は扶余昆(昆支王)、つまり、百済蓋鹵王の弟です。5世紀後半期、高句麗と戦って、兄の蓋鹵王まで殺害された扶余昆は海を渡って、加羅系倭国に助けを求めるために来日。その後、倭王興の妹を嫁に、加羅系倭国の左賢王(軍事を司る)になった。倭王興が死んだ後に、その軍事力を頼って、百済系倭国の初代王として倭王になった。これは倭王武です。高句麗との戦いがますます高まる中に、昆支王は百済の難民たちを計画的に日本に移住させて、高句麗と戦っていた百済の後ろ盾として倭国を育てて行くつもりでした。これは歴史の真実です。
返信する

コメントを投稿