ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

葛城にてひとり言

2007年08月15日 | Weblog
大和朝廷成立以前に「葛城王朝」が栄えていた地域とはどんな所か自分の目で見たくなり、毎日35℃を超える猛暑の中を出かけて行った。松原ICを過ぎ南阪奈道路に乗り葛城ICで降りればすぐに葛城山が見えてくる。
 その葛城山(959m)を目指しロープウェイで一気に頂上へ上った。北になだらかな生駒山地があり、東には畝傍山・耳成山・香具山と飛鳥三山が目印のように点在し、西は大阪湾が一望でき難波宮などからは日本最古の大道である竹内街道を通れば30Kmほどで堺市から当麻まで到着できる。遣隋使や遣唐使も不安と大志を抱いてこの道から大海へ出かけて行ったのだろうな…。この葛城の地が栄えた理由もこの山頂に立てば一目瞭然の説得力で納得がいく。太古には生駒山の近くまで海岸線があり、今よりもっと海岸線と飛鳥が近かっただろうし、大和川の流れも違い想像以上に便利な地域になっていたのだろうなと思った。
 葛城氏は神功皇后に仕え新羅征討などで活躍した葛城襲津彦(ソツヒコ)を始祖とし、紀元前200年頃に稲作を持って渡来した鴨族を祖とする豪族で、朝廷と縁戚関係を結び王権の外戚として活躍していく。葛城王朝が滅んだ後も平群(ヘグリ)・巨勢(コセ)・蘇我(ソガ)の豪族として栄えた。そうです、あの蘇我氏の先祖なんです。
 大化の改新ではすっかり悪者にされている蘇我入鹿・蝦夷親子はこの葛城氏とつながっている豪族で、中大兄皇子と中臣鎌足との外交政策など、おそらく出身に係わる問題で対立しあの乙己の変に至る。百済の救済を訴える百済の王子「豊璋」こと中臣鎌足と百済一極政策に反対する蘇我氏が対立し乙己の変が起きた。その後に起こる壬申の乱では蘇我系の豪族がこぞって天智天皇(中大兄皇子)を裏切り、丸腰状態の大海人皇子が朝廷側の天智天皇に勝利できたのである。