ひとり言

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古代出雲の旅二日目でひとり言

2010年10月21日 | Weblog
さて、残暑は残るがすがすがしい朝を迎え、須我神社へ急いだ。「八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を」という有名な和歌をスサノオが作ったされる所。ヤマタノオロチを退治した後、イナダヒメ命とやって来て、「心がすがすがしくなった」と言って宮を建てたとされる。境内には地域の皆さんが裏山や境内の草刈などに大勢来られており、熱心に奉仕されている姿を見て、本当にすがすがしい気持ちになった。境内には和歌の石碑があり、和歌発祥の地とされている。


須我神社から松江市に帰る途中に熊野大社がある。古代では出雲大社と並ぶ神格の大社で、出雲国造家が祀る。意宇(オウ)平野を流れる意宇川の水源になる熊野山を背に、堂々とした趣で祀られていた。さすが神格の高い神聖な場所になっている。この地意宇から、杵築(キヅキ)にある出雲大社に出雲国造家が移って行き、意宇には新たに神魂(カモス)神社を建立して、本来熊野大社で行われた火継式などの儀式が神魂神社で行われるようになった。出雲大社と神魂神社は直線でも40kmほど離れているのに、出雲国造が危篤になると後継者は一目散に神魂神社へ馳せ参じ、神魂神社で火を熾し、これを生涯守って行く。これが火継神事である。意宇の勢力が杵築を征服したのだろうか?国譲りか?

神魂神社は「八雲立つ風土記の丘」入り口のすぐ右手奥にある。急な石段を上がるとすぐに本殿がある。現存する大社造りでは最古の社殿で、国宝である。屋根の上にある神紋は亀甲に「有」の字が書かれている。10月に全国の神様が集まるので、全国では神無月だがここは神在月となり、それを「有」と象形してある。おもしろい!
 風土記の丘はその奥に岡田山古墳がある。前方後方墳と円墳の2基よりなり、1915年に出土した大刀から象嵌銘十二文字がうきあがり「額田部臣」と『風土記』に記載されている出雲の氏族と合致、その存在が考古学的に証明されることになった。この後の展示学習館で調べると、この古墳に埋葬された考えられる人物は、大和政権の支配機構であった部民制度に組み込まれた豪族というものの、最も高い「臣」という姓を持った人物として、出雲の政治勢力の大きさを示す。と大和政権との関係がはっきり見えて興奮する。やはり、大和建国に出雲の貢献は間違いない。古代出雲歴史博物館で見た「馬上の大首長像」を思い出しながら、金細工の冠や大太刀を身につけ馬にまたがる姿。私が習った弥生時代の人物像とは大違いだ。でも、よく考えたらこの時代から大和へ赴任して、故郷は遠い所になっていたんだろうな。そんな思いがここに展示されている「見返りの鹿」埴輪の様に、振返り振返り大和に向かったのだろうな。

風土記の丘から神魂神社を抜けて程近いところに八重垣神社がある。ここだけは何か別世界の賑わいで若い女性が多く、何だか場違いの様だ。社伝によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで櫛稲田姫との住居を構えたというところで、社殿後方には「奥の院」が鎮座し、「鏡の池」と呼ばれる神池や「夫婦杉」と呼ばれる2本の大杉、「連理の椿」がある。「鏡の池」は稲田姫命が、スサノオノミコトに勧められ、この社でヤマタノオロチから身を隠している間、鏡代わりに姿を映したと伝えられるもので、良縁占い(銭占い)が行われる。社務所で売られている薄い半紙の中央に、小銭を乗せて池に浮かべると、お告げの文字が浮かんでくる。半紙が遠くの方へ流れていけば、遠くの人と縁があり、早く沈めば、早く縁づくといわれる。このため、軽い1円玉を使うのを避け、10円もしくは100円で占いを行う事になっているが、早く沈めるには500円を使えば良いと思うが…!?池の淵には順番待ちができる程人垣ができている。「良縁を願う八重の人垣造る八重垣で…!」
さて、そろそろ昼飯を食べようと松江市内に戻ることにしたが、その前に山代二子塚古墳に寄る事にした。出雲の墓は西谷墳墓群で見た、四隅突出型墳丘墓だ。しかし、ヤマト建国後ほかの国が前方後円墳になっていくのに、出雲では前方後方墳(後ろも四角形)が造られる?ヤマトに逆らって独自の文化を継承しているのか?この二子塚古墳が前方後方墳なのだが、行ってみると草がおいしげりその形ははっきりしないが、パネルに四角形と台形の前方後方墳が描かれていた。

昼飯は有名な鯛茶漬けを食べようと宍道湖温泉のM旅館に行ったが、予約がないと平日でも1時間以上待ちになる言われ、仕方なくあきらめた。食べ損なった鯛は旨そうだった。この鯛は大阪店で食べれるとシンジコんだ?すきっ腹のやけくそで松江城を大急ぎで散策し、その後安来清水寺に向かう事にして、お昼はお寿司を買って車で食べることにした。
山陰道で安来まではスムーズであっという間に着いてしまった。清水寺は古代出雲とは関係ないが、学生時代に松江出身の同級生からここのお土産で、らっきょのシソ巻きを貰ったのがおいしくて忘れられなく、いつか自分で買いに来ようと思っていた。境内には古い羊羹を売る店があり名物らしい。しかし、残念な事にらっきょは見つからない。精進料理も2軒あるので、ひょっとしたらここの土産かもしれないが、あきらめて奥にある三重塔に向かった。ここの三重塔は登閣料を払って登る事ができた。真っ暗な細くて急なはしごを登って三層目に着いた。汗をかいた体を心地よい風が冷やしてくれる。ここで昼寝は気持ち良いだろうな。

さて、今夜は米子泊なので、とにかく安来を後にして向かうことにしたが、時間がまだ早いので急遽美保が関まで走らせることにした。まさに弓ヶ浜は弓状になっていて、越の国へ船が放たれたような地形だ。時間があれば境港の水木しげるロードにも寄って「ねずみ男の汁」(缶ジュース)を飲みたかったが?前回一度行っているので美保が関に急いだ。美保神社は港に面して、すぐの所に鎮座している。神事として青柴垣神事、諸手船神事がある。主祭神の事代主神が国譲りの話で、美保の岬に釣りに行っていたが、天つ神が来て迫ると、「天つ神の御子に奉りましょう」と海中の青柴垣に身を隠す…とあったが、そのところが伝えられているのだろと、古代のこの港で起きたことを空想してみた。最後に美保が関灯台まで行った。残念ながら隠岐は見えなかったが、この辺りの景色を見ると半島や越との交流が盛んだったことが分かる気がする。対馬海流は陸から遠くないので、海流に乗れば新潟や青森まで行きやすいそうで、漂流しても日本海側のどこかに漂着できたのかも知れない。新潟のヒスイや火焔土器、そして青森の三内丸山…どんなつながりがあったのだろう!?

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