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ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

丹生都比売神社でひとり言

2011年04月19日 | Weblog
高野山を下り県道4号で天野トンネルを抜けて、丹生都比売神社に着く。ここも世界遺産になっている。鮮やかな朱色の鳥居、太鼓橋、楼門、本殿と山間ののどかな立地に赤く映える。本殿は4棟が連座しており彩色もきれい。
第一殿 丹生都比売大神 にうつひめのおおかみ (丹生明神)
第二殿 高野御子大神 たかのみこのおおかみ (狩場明神)
第三殿 大食都比売大神 おおげつひめのおおかみ (気比明神)
第四殿 市杵島比売大神 いちきしまひめのおおかみ (厳島明神)
「丹」は朱砂(辰砂-朱色の硫化水銀)のことであり、その鉱脈のある所のことを「丹生」という。朱砂はそのまま朱色の顔料となり、精製すると水銀がとれる。丹生都比売大神は、朱砂を採掘する一族が祀る神であると考えられている。『丹生大明神告門(のりと)』では、丹生都比売大神は天照大御神の妹神であるとしており、稚日女尊(わかひるめのみこと)と同一神とする説もある。この神はB.C300年代に中国・越の難民が九州にたどり着き、その後九州から四国、淡路、紀州へと鉱脈を探し移住してきたとの説もある。また、第二殿の神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。

駐車場のすぐ横の民家に犬がいる。空海を高野山へ導いた犬の化身か?近づくと吠えられた。

高野山でひとり言

2011年04月18日 | Weblog
高野山は標高九百メートルほどの山上に築かれた聖地である。カーブの多い、国道480号をどんどん上がっていく。突然、朱色の大きな大門が現れる。壮大さに魅せられて車から降りると、少し肌寒く感じる。冷気なのか霊気なのか、高野山の結界を感じさせる堂々とした大門だ。高野山の中心である「奥の院」と「壇上伽藍」を観るために、一番奥にある「奥の院」へ向かった。日曜日ではあるが、午前中なので交通量は少なく、奥の院へ最短の「中の橋駐車場」にもすぐに駐車出来た。「奥の院」への参道は、「墓原」ハカワラと呼ばれる墓所が広がる。いきなりロケット型の墓石やしろありの供養塔など企業の社墓が目に入る。パロディのようで厳粛な気持ちが薄れる。御廟に一番近い最後の「無明の橋」を渡れば、自分の罪も取れ浄土へ渡れると信じられていた。ここからは写真撮影も禁止になる。なぜ写真撮影がだめなんだろう?神聖な場所が穢れる?神秘性が損なわれる?まあいいか。

 空海は真言密教の理想を実現し、即身成仏をとげた。その空海が生きながら仏になってこの御廟におられると信じられた。今日も熱心な信者さんが、お供えをして線香をあげている。
 御廟を後にして、参道を「一の橋」方向へ歩いた。大きな杉木立の中に、織田信長や豊臣秀吉…多くの戦国武将や地方大名の墓碑が続く。二十万基以上あるらしいが、知っている名前を見つける楽しみで、どんどん歩いてしまった。何か違う目的で奥の院を訪れてしまった。

 金剛峰寺前の駐車場に戻ったが、さっきより車も人も増えてきた。豊臣秀吉が亡母の菩提に建立した。豊臣秀吉に追放された養子の豊臣秀次(羽柴秀次)が、謀反の罪で追放され、無念にも切腹した「柳の間」が有名。また、中庭には我国最大の石庭があり、四国から140個もの花崗岩を運んだそうだ。

 車を置いたままにして、国宝の多宝塔のある金剛三昧院と徳川家霊台を歩いて回った。地図よりも実際に歩くと遠く感じる。一軒一軒の寺院が大きいので、隣が遠い。ついでに駐車場の奥にある霊宝館まで歩き、多くの国宝と重文を鑑賞した。車で移動して最後に根本大塔を訪れた。目が痛くなるほど朱色のまぶしい大塔が、周りの金銅や御影堂と異質なコントラストで違和感と生命力の両方を感じる。境内には同じく朱色に塗られた鳥居の明神社がある。お寺の境内に神社は不思議な状況だが、高野山開山の説話を調べるとよく分かる。この神社はもともとこの地に祀られていた地主神で、後から仏教を持ち込んだ空海は地主神も祀りながら、新しい宗教を融合させたのだ。日本人のすばらしい多神教の寛大さと曖昧さである。唯一神教でいまだに戦争しているところとは違う。


 最近は、月一ぐらいに両親を墓参りに連れて行くが、供える花はマキの木だけだ。いわゆる高野マキで色花は供えない、祖父母の希望だったそうだ。人は死んで何を残すのだろう。広い土地と大きな墓石を占有し、家康は神となり霊台の霊屋には鳥居がある。人の強欲は仏教でも、神道でも克服できないのか…。

九度山でひとり言

2011年04月17日 | Weblog
今年の桜は少し早いらしいが、東北にも桜は咲いてくれるだろう。私の北東北のランキングは、一番は青森弘前城、二番は秋田角館…番外で盛岡の石割桜や米内のベニシダレ。春への憧れと期待がいっぺんに咲いた美しさだ。今年は少し肌寒いので、暖かい和歌山へ温泉と桜を楽しむことにした。日数があれば東北まで行って、キャンセル続きのホテルを助けてあげたいのだが。
 一日目は高野山を中心に、和歌山市内の花山温泉、薬師の湯に泊まり、紀三井寺や神話ゆかりの神社を回る事にした。
高野山に入る前に、九度山町にある慈尊院、丹生官省符神社(共に世界遺産)に向かった。橋本の市内を抜けると間もなく紀ノ川で、橋を渡ると住宅街の中に慈尊院の山門に突き当たる。大きくはない山門に土塀と桜が美しい。

弘法大師(空海)が高野山開創に際し、一山の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所とした。承和元年(834年)に讃岐国(香川県)から高野山を訪れた弘法大師の母が、女人禁制のため入山を許されず、翌年にこの地で亡くなったことから、弘法大師は母公のために弥勒堂(御廟)を造られ弥勒菩薩坐像(国宝)を安置した。それ以来、慈尊院は「女人高野」とも呼ばれてきた。乳房が付いた珍しい絵馬が奉納されている。その境内の後ろに丹生官省符神社に上がる急な階段がある。
    

階段の途中には高野山の根本大塔まで180基の町石の続く町石道の入り口がある。ここから入山していくらしい。階段を、後から来た年配の爺さんが追い越して行く。「お元気ですね!」「わしかいのう?毎日登っているけんのう」結構きつい勾配の階段を、二段飛びで駆け上がっていった。大きな赤い鳥居が迎えてくれる。「あの人がここの神主さんじゃ、そうは見えんけんど」さっきの爺さんが話しかけてくれた。「今日は見えんの!」「霧が出てダメや」「この方向に高野山が見えるんだが…」と神主さんが、社殿の左方向を指差して教えてくれた。何て気さくでやさしい人達だと思った。九度山とは、空海が山上から20数キロの道を下って、月に九度母を訪ねたのが地名の由来らしい。
朝早く出てきたので、まだ紀ノ川から立ち込めた朝霧で当たりは霞んでいた。肌寒い空気と、力強い朝日の暖かさが気を引き締める。さあ高野山目指して出発だ。

水仙でひとり言

2011年03月23日 | Weblog
蕾から1週間ぐらいかかって、やっと水仙の花が咲いた。西洋ニンジンボクの大きな植木鉢に3、4年ほど前に植えたままの球根だが、毎年少しずつ増え、芽を出し咲いてくれる。
盛岡の冬は厳しい。最低気温は氷点下15度Cにもなり、最高気温も氷点下という真冬日が続く。庭の土が霜柱でボコボコと20cmぐらい盛り上がる。毎晩水道の水抜きをしたのを思い出す。そんな冬を過ぎると、フキノトウが顔を出し始め、そして自生の水仙があちこちの庭先に、あぜ道に咲き乱れる。コブシや桃もいっぺんに咲いている。待ちに待った春だなーとしみじみ思う時である。
今年の東北は大地震と津波に襲われ、悲惨な春を迎えようとしている。大船渡、大槌、陸前高田、宮古、釜石…、沿岸地区は何度も仕事で行った処で、街の風景も覚えている。何もかもなくなってしまった街をテレビで見ても信じられない。被災者の話を聞いていると、思わず涙がこぼれる。少ない配給に黙して並ぶ人々、足りない物資を分け合う人々。岩手を離れて長くなり、こちらでは感じ無くなってしまった大事な日本人の魂を見て尊く思う。春になれば、何もない大地から水仙も芽を出し花咲かせる。被災地に春が来ることを祈る。

観心寺でひとり言

2011年03月01日 | Weblog
梅が咲いている!そうだ梅を見に行こう!!
朝から本降りではあるが、午後からは回復する予報だったので、晴れ男のパワーを信じて出かけることにした。ネットで近場の名所を探したら、河内長野市にある観心寺は全く知らないところだったのでそこに決めた。
西暦701年に修験道の開祖・役行者が開創され、後に弘法大師空海が真言宗の道場とした寺院。秘仏の綺麗に彩色された手が六本の如意輪観世音菩薩を本尊(国宝)とし、御村上天皇が10ヶ月ほど日本の政治を執行した行在所であり、その御陵もすぐ上にある。また、楠木正成の学問所であり、湊川で討死後その首を送られた首塚も境内にある。今では大阪の外れ?とも言えるのだが、昔は交通の要所でもあった重要な場所だったのだと思う。
楽しみの梅はまだ3分咲きぐらいで、控えめな花が余計に控えめに見えた。ツユと言えば「梅雨」と書くが、梅と雨の関係は諸説あるらしい、中国では「梅雨(メイユー)」と同じ字を書くらしく、東アジア特有の雨期の事で、梅も東アジアだけに生息するらしい。今日はプラム酒(梅酒)でウメー肴でもつまもう。

出石神社でひとり言

2011年01月26日 | Weblog
久々に晴れた休日だったので、思いつきで出石へ出かけることにした。
無料になった舞鶴自動車道も快適で、NAVIの予想時間通り快適に走ることができた。
…ところが、福知山辺りから様子が変わってきた。雪が一面に積もっている。思い起こせば、年末年始に山陰地方など日本海側は大雪だったのだ。高速を降りると、そこは別世界だった。暫し銀世界に浸り、新潟や岩手の冬を懐かしく思い出した。
「白い雪がすべてを隠し 遠い足跡消してゆくなら ずっと忘れないよう今を 春の雪に閉じ込めていって」iPodにつないだカーステレオから徳永の「春の雪」が流れる。
道路横に積上げられた雪が融け、路面を濡らす。北国の経験から、これが直ぐに凍結してくる怖さを覚えている。思い付きでここまで来たが、ノーマルタイヤでどうするか迷った。後40Kmはこんな地道を走らなければならない。幸い天気は持ちそうだったので、行けるところまで行くことにした。除雪が行き届いていたので、目的の出石神社まで来ることができた。
住宅外の奥に鬱蒼とした森が見え、結構広い境内の真ん中辺りに駐車して参拝できた。
御祭神は、天日槍命(あめのひぼこのみこと)、出石八前大神(いずしやまえのおおかみ)。日本書記には、(新羅の王子である)『天日槍』(あめのひぼこのみこと)は垂仁天皇の御代に日本に聖王がいると聞いて、播磨国にやってきた。その時持っていた『八種の神宝』を奉じたので、天皇から好きなところに住むことを許された。
そこで宇治川を遡って近江国に入り、その後若狭国を巡り、但馬国に至り『出石』に居所を決めた」と記されている。
『古事記』では、書記とは違う話を伝える。昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。
ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚したとしている。
古事記においてアメノヒボコと阿加流比売神の子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理(たぢまもり・田道間守{日本書紀})であり、次の代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命であるとされている。
 アメノヒボコは泥沼を開拓し鉄も伝えたとされている。そして、神功皇后へとつながり、新羅や半島との交流が想像できる。
とにかく、出石蕎麦だけは食べて帰ろうと、急に舞だした雪を気にしながら、大きなドライブインの蕎麦屋に入った。つきだしに出た、椎茸のわさび漬けが美味しかったのでお土産にした。雪国を、何も考えずにノーマルタイヤで来てしまった、行き当たりばったりのドライブであった。青森の高速で、雪のスリップで廃車にした事故を思い出しながら、アメノヒボコではなく、ユキノヒボコボコの車にならないように、猛スピード!?で逃げ帰った。


西宮神社でひとり言

2011年01月16日 | Weblog
2011年が始まった。列島は厳寒にさらされ日本海側は大雪に埋もれた。日本の外交も2012年を控え、激しい年になりそうだ。昨年の尖閣や北方列島問題があったからではないが、本当に国家としてしっかりしてほしい。政治家やマスコミを批判することは簡単だが、問題は国民自身の自立が出来ていない事だ!何でも人のせいにして、自分の責務には全く無関心の人が多すぎる。無差別、通り魔殺人は、その動機を社会や人のせいにする典型的な自己責任放棄だ。他責(人の責任にする)現象は日常でも多く見られる。「禁止って書いてないから…」「みんながやってるから…」等など切りが無い。その反面自分の権利だけは主張する。本当に困った国民になってしまった。
 十日戎には開門と同時に境内を駆け抜ける、福男選びの神事で有名になった西宮神社へ初詣に行った。祭神の蛭子命(ヒルコ)は古事記で国産みの際、伊弉諾岐命と伊弉諾美命との間に生まれた最初の子である。しかし不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数には数えられなかった。その子が西宮の浜に漂着して祭られた。エッ!自分の子供を捨てるなんて、神も仏もあったもんじゃない!これも古代の常識内らしい。「えびす」も戎、恵比寿、夷、蛭子などいろいろ書かれるが、「えべっさん」は、大国主神と言われているし、また事代主神(コトシロヌシ)とも言われる。えべっさんが鯛を抱え釣竿を持っているのは、美保関で釣りをしていた所へ、国譲りを迫れた事代主神が、海中の青柴垣に身を隠した神話に由来する。蛭子神にしても事代主神にしても悲しい神だが、人形遣い(くぐつまわし)などの芸人や漁師、そして商売人達に祭られて、商売繁盛のにこにこ顔の神様になった。
 わが国も、TPP・外交など山積する課題を越え、えべっさんのように国民が商売繁盛でにこにこ出来る様に願いたい。そのためにも一人ひとりが、自分の事だけを考えず、もっと周りの人の事や、ひいては子孫や国家の事も考えて行動していかなければならない。

ブログパーツでひとり言

2010年12月15日 | Weblog
師走の忙しい中、他にすることがあると思うけど…
最近のブログパーツは素晴らしいものがある。特にフォト関係は旅行の想い出作りに役に立つ。
さっそく、去年の写真を使って体験しました。
これって、期限来たら自動消滅するのかな?


デジブック 『晩秋の飛鳥』
無料期限切れで削除しました。

洞川温泉から橿原までひとり言

2010年11月21日 | Weblog
静かな温泉宿で、日ごろ飲まない熱燗が旨かった。温泉と静けさと水にどっぷりとつかり、少し時間が戻ったようだ。朝も静かに明け、小降りの雨が異空間を守っているようだ。宿からすぐのところに、龍泉寺がある。役の行者によって草創された古刹で、丁度紅葉が小雨に濡れて光っていた。散歩から帰り、朝食をいただいてから宿を後にした。天河村にある天河大弁財天、紅葉の見所、みたらい渓谷に向かった。天河大弁財天は芸能の神さんだそうで、社殿は羽振りがよさそうだ。弁財天の向かいにある大銀杏の紅葉がすばらしことが記憶に残った。そして少し戻ってみたらい渓谷に向かった。まだ朝早いのにも関わらず、カメラ小僧ならずカメラ年寄りでいっぱいだ!他にも渓流釣りのおじさんたちもいるが、違法駐車が多い。若者の道徳心の無さを感じるが、老人のエゴがそれを育てているのだろうと思う。そんな俗世間の事は、車から降りて、少し渓谷を登れば忘れさせてくれる(駐車代は300円/時間)。

エメラルドグリーンの渓流と奇岩、そしてつり橋。そこにこの全山紅葉の錦秋!うたい文句通りの景色だ。岩手に5年暮らしたので、東北の鮮やかな紅葉が目に焼きついていたが、ここの紅葉は近畿とは思えない色どりで、東北の紅葉に負けず美しい。

久々に紅葉を満喫して、帰りに橿原考古学研究所付属博物館に寄った。「奈良時代の匠たち」の特別展を開催中。常設展(無料)は1938年以来の発掘調査の出土資料が展示されており、大和の考古学はここで全てが分かる。二上山のサヌカイト石器から纏向遺跡の土器、藤ノ木古墳の金銅製冠、倭の五王の古墳出土品等など…。気が付けば2時間も経っていた。何千年もの時空旅行が2時間では早いものだが、お陰でお腹はぺこぺこで足は埴輪になっていた。お土産に埴輪のミニチュアを買って帰った。洞川温泉で数十年ほどタイムスリップし、橿原では何千年も遡り戻ったけれど、現実には2日間が過ぎていただけだった。

吉野山でひとり言

2010年11月17日 | Weblog
169号から吉野川を渡り、町並みから製材所の中を上がっていくと、すぐに吉野神宮に到着する。そして間もなく駐車場となる!?こんなに低い山だったのか…と思った。想像と違って行き来しやすいけど、川が関門になる守りやすい場所だ。駐車場から参道を少し歩くと金峯山寺に到着した。参道からは眼下にロープウェイが見え、下千本の桜が見える。黒門、銅の鳥居、仁王門と登っていくと国宝の蔵王堂が現われる。遷都1300年記念で金剛蔵王権現の百日特別ご開帳をしていて、大人1000円で拝観できる!高い!「護摩木Deストラップとエコバッグ」をプレゼント中!役行者(えんのぎょうじゃ)もやりますな、経済修行ができている。でも秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体を拝見すると、その雑念は払拭され見とれてしまうほどの大迫力だ。悪魔を振り払う怒りの形相と、慈悲の心を表す青黒色の身体。蔵王堂再建以来、四百数十年にわたり鎮座している国内最大級の秘仏であり、過去・現在・未来を現す三尊の金剛蔵王権現像(重文)が像高は7メートルを超え、3体とも見事な彩色が残っているのである。幻想的な青色である。本堂に入ってから振り出した雨も、外に出ると止んでいた。駐車場に戻ってから、参道を車で再度上がり、勝手神社の近くの駐車場に車を止めた。そこから徒歩で吉水神社に向かった。南朝皇居として後醍醐天皇が潜幸された書院で、源義経が追われ潜伏した場所、豊臣秀吉が花見に滞在した場所と歴史的に重要なところだ。境内の看板も歴史のデパート状態です。しかし、源義経にしろ後醍醐天皇にしろ悲しい歴史が展開されたところでもある。

参道の柿の葉寿司を買い、車の中で頬張りながら金峰神社まで登った。どうやらナビでは遠い方の道をガイドしたようで、帰りの水分神社(ミクマリ)経由の道ではすぐに勝手神社に降りることができた。その金峰神社は拝殿の上に本殿があるが、拝殿からはほとんど見ることができない山岳神社だ。ここも世界遺産に登録されている。そこから少し降りたところに水分神社があった。本殿が横に3殿並んで、中庭が配されており、変わった社殿になっている。狭い境内ではあるが周囲に溶け込み、神聖な雰囲気のある変わったところだ。

吉野山にはやっぱり桜の時期に来たいなと思いながら、潜伏・潜幸して観る桜は無常だろうな…とセンチになりながら、早くも3時過ぎになったので、宿泊先の洞川(ドロカワ)温泉に向かうことにした。
「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」一人残して去った義経を慕う静御前の心情。
「花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に石走る音」玉座の下を流れる瀬古川のせせらぎを聞き、むせぶが如く泣くが如くの思い。(後醍醐天皇)

また少し降ってきた様で、山間の道は一層薄暗くなってきた。黒川村を通り309号線を行けば天川村、そして川合から21号を少し走れば洞川温泉に着く。山際の川沿いにあるここだけ時間が止まっている様な温泉街。泊まる宿は500年の歴史がある一番の老舗で、小雨の中にひっそり出迎えてくれた。こんな天気でも雨にぬれなかった今日一日が不思議だったが…。こんばんは、お世話になります。