ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

粉河寺でひとり言

2011年04月26日 | Weblog
今日は和歌山市内の花山薬師の湯に宿泊する。高野山を降り、丹生都比売神社に寄り、紀ノ川沿いに市内へ向かうが、その途中に奈良時代末(770年)に開創された名刹を訪ねる。平安時代から多くの人が参詣した粉河寺。西国三十三所観音霊場、第三番札所の観音信仰のお寺である。車道横にある大門を抜けると、参道一面の桜が飛び込んでくる。枝垂れやソメイヨシノの桜を眺めながら歩くと、堂々とした中門につく。その門には「風猛山」の額がかかっていて、門構えといい、額の山号といい本当に勇ましい。中門をくぐると本堂の大きな屋根が桜の木の上に覆いかぶさる。何度も焼失し、豊臣秀吉にも火の海にされすべてを失ったが、こうして見事に甦り、桜に囲まれた春を楽しんでいる。東北、北関東が一日も早く甦ることを願った。


 天気が良く日暮れまで時間がありそうなので、明日の予定だった伊太祁曽神社を観てから温泉にチェックインすることにした。のどかに流れる紀ノ川を離れ、ナビが伊太祁曽神社へガイドした道は市内の細い道で、奈良町や藤井寺の様に近代の都市整備がなく、古代の街道がそのまま残っている感じだ。
 伊太祁曽神社の祭神である五十猛命(イソタケルノミコト)は父神である素盞鳴尊と共に、高天原より最初韓国(カラクニ)に天下ったと記されています。この時、素盞鳴尊は木種を持っておりましたが、その地には植えずに 大八州国(オホヤシマグニ=日本)に持ってきたそうです。そして、息子である五十猛命に、大八州国にその木種を播き施すように命じました。五十猛命は、妹神である大屋津姫命・都麻津姫命 と共に、日本の国に木種を播き最後に、現在の和歌山県にお鎮まりになったということです。と言う事で、伊太祁曽神社が木の神様を祀る神社として広く知られている。紀の国は木の国である。

祭神の五十猛命は新羅から来たと「日本書紀」に書いてあるらしい、製鉄から鉄製品を作る鍛冶の神格がある。製鉄では森林資源は燃料として燃やされ枯渇する。そこに植林して森を再生する。朝鮮半島で製鉄が盛んに行われ、結果的に森林がなくなり、日本に移動してきた集団!これが五十猛命であり、この地の豪族の紀氏の先祖になるのか?この集団は出雲と筑紫に関係が深い海人族で、2世紀ごろの卑弥呼活躍直前の出来事かも知れない。
 古代妄想に浸っている間に、すっかり夕暮れになってしまった。続きは全国屈指の高濃度炭酸温泉に浸かりながら楽しみたい。

丹生都比売神社でひとり言

2011年04月19日 | Weblog
高野山を下り県道4号で天野トンネルを抜けて、丹生都比売神社に着く。ここも世界遺産になっている。鮮やかな朱色の鳥居、太鼓橋、楼門、本殿と山間ののどかな立地に赤く映える。本殿は4棟が連座しており彩色もきれい。
第一殿 丹生都比売大神 にうつひめのおおかみ (丹生明神)
第二殿 高野御子大神 たかのみこのおおかみ (狩場明神)
第三殿 大食都比売大神 おおげつひめのおおかみ (気比明神)
第四殿 市杵島比売大神 いちきしまひめのおおかみ (厳島明神)
「丹」は朱砂(辰砂-朱色の硫化水銀)のことであり、その鉱脈のある所のことを「丹生」という。朱砂はそのまま朱色の顔料となり、精製すると水銀がとれる。丹生都比売大神は、朱砂を採掘する一族が祀る神であると考えられている。『丹生大明神告門(のりと)』では、丹生都比売大神は天照大御神の妹神であるとしており、稚日女尊(わかひるめのみこと)と同一神とする説もある。この神はB.C300年代に中国・越の難民が九州にたどり着き、その後九州から四国、淡路、紀州へと鉱脈を探し移住してきたとの説もある。また、第二殿の神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。

駐車場のすぐ横の民家に犬がいる。空海を高野山へ導いた犬の化身か?近づくと吠えられた。

高野山でひとり言

2011年04月18日 | Weblog
高野山は標高九百メートルほどの山上に築かれた聖地である。カーブの多い、国道480号をどんどん上がっていく。突然、朱色の大きな大門が現れる。壮大さに魅せられて車から降りると、少し肌寒く感じる。冷気なのか霊気なのか、高野山の結界を感じさせる堂々とした大門だ。高野山の中心である「奥の院」と「壇上伽藍」を観るために、一番奥にある「奥の院」へ向かった。日曜日ではあるが、午前中なので交通量は少なく、奥の院へ最短の「中の橋駐車場」にもすぐに駐車出来た。「奥の院」への参道は、「墓原」ハカワラと呼ばれる墓所が広がる。いきなりロケット型の墓石やしろありの供養塔など企業の社墓が目に入る。パロディのようで厳粛な気持ちが薄れる。御廟に一番近い最後の「無明の橋」を渡れば、自分の罪も取れ浄土へ渡れると信じられていた。ここからは写真撮影も禁止になる。なぜ写真撮影がだめなんだろう?神聖な場所が穢れる?神秘性が損なわれる?まあいいか。

 空海は真言密教の理想を実現し、即身成仏をとげた。その空海が生きながら仏になってこの御廟におられると信じられた。今日も熱心な信者さんが、お供えをして線香をあげている。
 御廟を後にして、参道を「一の橋」方向へ歩いた。大きな杉木立の中に、織田信長や豊臣秀吉…多くの戦国武将や地方大名の墓碑が続く。二十万基以上あるらしいが、知っている名前を見つける楽しみで、どんどん歩いてしまった。何か違う目的で奥の院を訪れてしまった。

 金剛峰寺前の駐車場に戻ったが、さっきより車も人も増えてきた。豊臣秀吉が亡母の菩提に建立した。豊臣秀吉に追放された養子の豊臣秀次(羽柴秀次)が、謀反の罪で追放され、無念にも切腹した「柳の間」が有名。また、中庭には我国最大の石庭があり、四国から140個もの花崗岩を運んだそうだ。

 車を置いたままにして、国宝の多宝塔のある金剛三昧院と徳川家霊台を歩いて回った。地図よりも実際に歩くと遠く感じる。一軒一軒の寺院が大きいので、隣が遠い。ついでに駐車場の奥にある霊宝館まで歩き、多くの国宝と重文を鑑賞した。車で移動して最後に根本大塔を訪れた。目が痛くなるほど朱色のまぶしい大塔が、周りの金銅や御影堂と異質なコントラストで違和感と生命力の両方を感じる。境内には同じく朱色に塗られた鳥居の明神社がある。お寺の境内に神社は不思議な状況だが、高野山開山の説話を調べるとよく分かる。この神社はもともとこの地に祀られていた地主神で、後から仏教を持ち込んだ空海は地主神も祀りながら、新しい宗教を融合させたのだ。日本人のすばらしい多神教の寛大さと曖昧さである。唯一神教でいまだに戦争しているところとは違う。


 最近は、月一ぐらいに両親を墓参りに連れて行くが、供える花はマキの木だけだ。いわゆる高野マキで色花は供えない、祖父母の希望だったそうだ。人は死んで何を残すのだろう。広い土地と大きな墓石を占有し、家康は神となり霊台の霊屋には鳥居がある。人の強欲は仏教でも、神道でも克服できないのか…。

九度山でひとり言

2011年04月17日 | Weblog
今年の桜は少し早いらしいが、東北にも桜は咲いてくれるだろう。私の北東北のランキングは、一番は青森弘前城、二番は秋田角館…番外で盛岡の石割桜や米内のベニシダレ。春への憧れと期待がいっぺんに咲いた美しさだ。今年は少し肌寒いので、暖かい和歌山へ温泉と桜を楽しむことにした。日数があれば東北まで行って、キャンセル続きのホテルを助けてあげたいのだが。
 一日目は高野山を中心に、和歌山市内の花山温泉、薬師の湯に泊まり、紀三井寺や神話ゆかりの神社を回る事にした。
高野山に入る前に、九度山町にある慈尊院、丹生官省符神社(共に世界遺産)に向かった。橋本の市内を抜けると間もなく紀ノ川で、橋を渡ると住宅街の中に慈尊院の山門に突き当たる。大きくはない山門に土塀と桜が美しい。

弘法大師(空海)が高野山開創に際し、一山の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所とした。承和元年(834年)に讃岐国(香川県)から高野山を訪れた弘法大師の母が、女人禁制のため入山を許されず、翌年にこの地で亡くなったことから、弘法大師は母公のために弥勒堂(御廟)を造られ弥勒菩薩坐像(国宝)を安置した。それ以来、慈尊院は「女人高野」とも呼ばれてきた。乳房が付いた珍しい絵馬が奉納されている。その境内の後ろに丹生官省符神社に上がる急な階段がある。
    

階段の途中には高野山の根本大塔まで180基の町石の続く町石道の入り口がある。ここから入山していくらしい。階段を、後から来た年配の爺さんが追い越して行く。「お元気ですね!」「わしかいのう?毎日登っているけんのう」結構きつい勾配の階段を、二段飛びで駆け上がっていった。大きな赤い鳥居が迎えてくれる。「あの人がここの神主さんじゃ、そうは見えんけんど」さっきの爺さんが話しかけてくれた。「今日は見えんの!」「霧が出てダメや」「この方向に高野山が見えるんだが…」と神主さんが、社殿の左方向を指差して教えてくれた。何て気さくでやさしい人達だと思った。九度山とは、空海が山上から20数キロの道を下って、月に九度母を訪ねたのが地名の由来らしい。
朝早く出てきたので、まだ紀ノ川から立ち込めた朝霧で当たりは霞んでいた。肌寒い空気と、力強い朝日の暖かさが気を引き締める。さあ高野山目指して出発だ。