ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

壱岐島でひとり言

2008年12月28日 | Weblog

7:45伊丹発のJALで9:00に福岡に着き、博多港でゆっくりお茶して、10:35出航のジェットホイルで最初の目的地壱岐島に到着。壱岐島の芦辺港に着いたのは11:40だった。事前に予約したレンタカーのおばちゃんが私の名前をカタカナで書いた紙を持って待っていてくれた。
今回の旅行の目的は、玄界灘を縄文時代から丸木舟のような船で行き来する事はどれぐらい難しいことなのか見て感じることだった。で、どうだったかって。12月の冬空に凍えるような風が吹き、波のしぶきが白い泡となり飛び散るような情景とは違い、海面は琵琶湖よりも静かで、多くの小型漁船がそこら中にひしめき合って操業している。遣唐使船を沈めた北風が吹くと一変するのだろうが、こんな日を選べばたらい船でも往来できそうだ。玄海灘を支配していた海人族は安曇氏と言われておりアヅミは、阿曇、安曇、厚見、厚海、渥美、阿積などと表記され、その足跡は瀬戸内海を経由して阿波、淡路、播磨、摂津、河内、近江におよび、琵琶湖の西側には安曇川の地名を残している。愛知県の渥美や長野県の安曇野などが、この海人族の住み着いたゆかりの地で、彼らの子孫に秦氏がありその秦氏は航海や金属加工の技術を広め、また養蚕と機織(ハタオリ)の技術を広めたことも有名だ。
 レンタカーの手続きを終え、壱岐島一周のドライブを始めることにした。
芦辺港→男岳→勝本港→昼食(うに丼)かけ気→猿岩→双六古墳→掛木古墳→鬼の岩屋→月読神社→はらほげ地蔵→原の辻遺跡→鬼の足跡→郷ノ浦港
 レンタの軽自動車は思ったより軽快に走ってくれ、漁港の周辺を過ぎると他の車とは一台も合わないぐらい空いているので、小さい島を縦横無尽に走ることができた。
 原の辻遺跡は壱岐島の東南部にあり、大規模環濠集落で「魏志倭人伝」に記載された「一支国」の中心地だそうだ。「…また南に一海を渡る千余里、名付けてカン海という。一大国に至る。官をまた卑狗(ヒコ)といい、副を卑奴母離(ヒナモリ)という。方三百里ばかり。竹木・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市テキす。」遺跡からは弥生中期の捕鯨線刻絵画土器や五銖銭、弥生後期の人面石など多く出土品がある。遺跡のキャッチコピーは「時間(トキ)と海風(カゼ)の交差点」。
 魏志倭人伝にある一支国が特定できたことは、その他の国も存在した可能性が強くなり、邪馬台国もそのうち特定できるようになるのかな…と、思いが膨らんだ。
 心の中の隙間に弥生の風が吹きぬけた。永い目で見れば3年ぐらい早く辞めようが関係ない、むしろ3年早く次の道へ進むだけと思えば気も軽い。川の中で意味も無く踏ん張っていた杭は、まるで丸木舟に乗って玄界灘へ乗り出した弥生人のように、光を求めて大きく海原に漕ぎ出すことができた。


壱岐・対馬でひとり言

2008年12月20日 | Weblog
壹岐・対馬の旅





師走の都会の喧騒に反し、音のない空白の時間が流れている。
32年間勤めた企業を退職し、先の見えない次の階段への踊り場でたたずんでいる。
大きな川の流れの中に細く踏ん張る杭のように…

時間ができれば行こうと思っていた対馬が頭に浮かんだ。
縄文時代から朝鮮半島と北九州との往来があり、その拠点になっていた対馬。天智天皇の白村江の戦、そして元寇の時も、また豊臣秀吉の侵略出兵の時も拠点となり、まさに古代日本の表玄関である。そんな歴史的な場所は今どうなっているのか、本当にあの玄界灘を丸木舟で行き来できるのだろうか?そんな思いが強くなって川の流れに逆らって立っている杭が動き始めた。