ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

二上山でひとり言

2012年03月03日 | 古代史
「うつそみの 人にある我れや明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と我が見む」 大伯皇女(おおくのひめみこ)

壬申の乱に勝利した天武天皇と鸕野(うのの)皇后の一人息子である草壁皇子を皇太子にするのは当然に思えるが、大きなライバルが存在した。鸕野皇后の姉である大田皇女の子、大津皇子である、「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」(体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた)と『懐風藻』にある。天武天皇も大津皇子への思いが強かった。しかし、大田皇女はすでに亡くなっており、皇后の座に居る母の思いの方が強かった。681年に草壁皇子が皇太子に決まった。686年天武天皇崩御、追い詰められた大津皇子が崩御前後に取った行動は、伊勢に居る姉の大伯皇女に密かに会いに行ったことだ。その時姉が詠んだ歌が、
「わが背子を大和に遣るとさ夜深けて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし」( わたしの弟を大和に見送って、夜のふける中、やがて明方の露に濡れるまで、わたしはずっと立ちつづけたのです)
 崩御前後の大事なときに都を離れて東国に出向くこと自体許されない事で、また伊勢に居る姉は伊勢神宮の最高位の巫女で、天皇以外の男子が勝手に近づくということは、たとえ弟でも皇位をうかがう重罪として罰せられる。そこまでして会いに行った理由は何だったのだろうか、その弟の後姿を長く見送る姉の想いは…。
 天武天皇の死後一ヶ月も経たない十月二日、大津皇子の謀反が発覚、三十余人が捕まり、翌日皇子は処刑された。
「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」(磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか)
漢詩とこの短歌を残して死んだ。享年二十四、短くはかない命だった。きさきの山辺皇女は髪を振り乱して裸足で走り、殉死したと日本書紀にある。間もなく姉の大伯皇女は伊勢から都へ召し返された。その時詠んだ歌が冒頭の歌である。

二上山には何箇所も登山口がある、上の池から雄岳を登ることにした。肌寒い冬の快晴ではあるが、かすかに春の気配がする。芽吹きかけた木々の中を余裕で歩き出したが、途中からの階段にすっかり息が上がった。何度か休み「もうええわ」と思った所で雄岳頂上に着く。榊が御神木の簡素な葛木二上神社が鎮座し、大津皇子の墓とされる陵がある。二上山には馬酔木が咲きます。
「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」(岩のほとりの馬酔木を手折ってあなたに見せたいのに、あなたが居るとはもう誰も言ってはくれない)大伯皇女

 昼も過ぎ、大急ぎで下山した。大津皇子の事を思うと悲しい気持ちだが、下山を急ぐ膝は笑っていた。
大津皇子を追い込んだ鸕野(うのの)皇后は念願の草壁皇子を皇太子に立て、夫の葬儀を二年以上営み、皇太子の即位のため動揺した政権を磐石にしていたら、天武の死後三年目に草壁皇太子が、母の期待もむなしく二十八歳で急逝した。そして皇后自身が持統天皇に即位した。
「春すぎて夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」誰もが知っているこの歌を藤原京から見て詠ったのだろうか。
天香具山は154m程の丘の様な山で、麓には天香具山神社と天岩戸神社がある。この道を車で走ったので大変だった。ナビが示す道は車幅いっぱいいっぱいの細い道ばかり、天岩戸神社前は終に進む事が出来ずにバック。車で綱渡りをした思いで、喉がからからになった。迂回する道を、通りかかったおじいさんに聞いて命拾いした。天岩戸神社は神話由来の名前なのに寂れていて、祭壇は無く、社殿の後ろに竹林が広がり、大きな石が何個か組まれていた。古墳の石室のような造りで、これが岩戸?と息を呑む。

 目当てはこの神社前にある「みるく工房」だった。古代のチーズ「蘇」を食べたかったのである。持統天皇の孫である、つまり若くして亡くなった草壁皇子の子、文武天皇の時代に飛鳥で作られていた記録がある。藤原不比等も食べていたのかなと思い、ふと見上げると、みるく工房の前にある鞄工房の敷地に大きな楠木がこっちを見ていた!大木の幹は人面だらけ?店の奥さんに聞いてみると「何やら樹齢四百年以上らしくて、何か居はりますよ」と、食べたソフトクリームのせいかぞくっとする話。人面樹を後にして、夕日の沈む二上山に戻り、竹之内街道沿いの叡福寺で聖徳太子御廟に寄ってから帰った。


念願の「蘇」は大事に持ち帰ってその日に食べた。想像以上にチーズらしく、香ばしくて濃厚な絶品である。これは飛鳥人もとりこになっただろうな…大津皇子から持統天皇ゆかりの二山を訪れ、皇位継承の悲劇、母の強さ、姉弟愛など飛鳥時代の後半を生きた人たちの想いが、この「蘇」の濃厚さに凝縮されているよな…「あっ そウ!」