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天地創造の初め、神様は「光あれ」と仰った。そして、暗澹たるこの世に「光」である御子イエス・キリストを遣わされた。光には「命」があり、命は輝きを放っている。だから、命をいただいて生きる者も輝くのだ。それが「光の子」。しかしこの世を支配している闇の力は、光を理解することはなく、光と交わることはない。そんな状況下で、御言葉「光の子として歩みなさい。」を考える。
闇を好むものはいない。誰もが光の方へ来たがり、一旦光の子となったからには、喜んで光の子として歩むのが当然・・・のはず。ならば何故この御言葉があるのだろうか。果たして本当に、私たちは「光の子として歩む」ことを好しとしているのだろうか。
例えば聖書を読む。暗誦している聖句もあれば、信仰の碇である御言葉もあるだろう。しかし、自分にとって耳障りの良くないもの、読むことで痛みを感じるもの、目を逸らしたくなるものもある。それは「光の子」に対する「神様の戒め」のはずなのに、受け入れることができずにスキップしてしまう、勝手な自己流解釈をする、自分の快適さのために御言葉を歪めようとすることすらある。そんな「光の子として歩む」ことを拒む思いは、根源にある人間の罪と過去の傷から来る。
クリスチャンとは、かつて自分中心だった生き方から神様中心の生き方に変更すること、神様を人生の「主」とした人のことだ。聖なる神様を知り、愛し、近づきたいと願う。神様のように聖さを持ちたいと、真に願う。クリスチャンだからそれだけで聖い、それだけで罪がないのではない。聖さを求め、そのために妨げとなる罪と傷を癒しの「主」である神様の前に出してこそ、「光の子」としての輝きを得るのだ。「悔い改めよ、神の国は近づいた」、この招きの言葉は真実だ。妨げを作っているのは、自分自身(=中心)の価値観、自分自身(=中心)の生活習慣に他ならない。
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