Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

光の子 エペソ5:6-17

2008年09月07日 | Celebration
聖書では、クリスチャンは「光の子」と表現されれている。光があり、闇がある。本日の聖書箇所にあるように、私たちは「以前には暗闇」だったのだ。闇の中にあって闇そのものだった私たちには、光を生じさせること、自ら光となることはできない。しかし、光の方から闇に近づいてくださった。結果「今は主に結ばれて、光となる」ことができるのだ。

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ1:4-5)
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(ヨハネ1:9)

 天地創造の初め、神様は「光あれ」と仰った。そして、暗澹たるこの世に「光」である御子イエス・キリストを遣わされた。光には「命」があり、命は輝きを放っている。だから、命をいただいて生きる者も輝くのだ。それが「光の子」。しかしこの世を支配している闇の力は、光を理解することはなく、光と交わることはない。そんな状況下で、御言葉「光の子として歩みなさい。」を考える。

 闇を好むものはいない。誰もが光の方へ来たがり、一旦光の子となったからには、喜んで光の子として歩むのが当然・・・のはず。ならば何故この御言葉があるのだろうか。果たして本当に、私たちは「光の子として歩む」ことを好しとしているのだろうか。

 例えば聖書を読む。暗誦している聖句もあれば、信仰の碇である御言葉もあるだろう。しかし、自分にとって耳障りの良くないもの、読むことで痛みを感じるもの、目を逸らしたくなるものもある。それは「光の子」に対する「神様の戒め」のはずなのに、受け入れることができずにスキップしてしまう、勝手な自己流解釈をする、自分の快適さのために御言葉を歪めようとすることすらある。そんな「光の子として歩む」ことを拒む思いは、根源にある人間の罪と過去の傷から来る。

 クリスチャンとは、かつて自分中心だった生き方から神様中心の生き方に変更すること、神様を人生の「主」とした人のことだ。聖なる神様を知り、愛し、近づきたいと願う。神様のように聖さを持ちたいと、真に願う。クリスチャンだからそれだけで聖い、それだけで罪がないのではない。聖さを求め、そのために妨げとなる罪と傷を癒しの「主」である神様の前に出してこそ、「光の子」としての輝きを得るのだ。「悔い改めよ、神の国は近づいた」、この招きの言葉は真実だ。妨げを作っているのは、自分自身(=中心)の価値観、自分自身(=中心)の生活習慣に他ならない。

 「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」世の中には、そして自分の内には、善意よりも悪意、正義よりも不法、真実よりも見せかけが横行していることを知る。光を遮るそれら「実を結ばない暗闇の業」から離れるなら、自らが無意味に作って暗闇を生じさせる殻を破るなら、光の子は光の実を結ぶことができる。植物が陽光を受けて果実を結ぶように。


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