Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

しんがりの神 ヨハネ 20:11-16

2010年11月28日 | Celebration







ハワイに伝道旅行に行った時のこと。マウイ島からオアフ島行きに乗った飛行機の調子がどうもおかしい。何度エンジンをかけても何故か途中で止まってしまうのだ。整備員が修理して再びエンジンをかけるものの、やはり二つあるプロペラの一つが動かない。そうこうしている内に何だか焦げくさい臭いがして来るではないか?! 「主よ、どうかこの飛行機が飛ばないようにしてください!! この飛行機から降りられますように。」と私は必死になって祈った。結局その飛行機は無事、飛ばないで済んだ。

 私がこの飛行機から必死に降りたいと願ったのは、飛んでしまってからエンジンが止まったのでは遅いからである。いつエンジンが止まるか分からない飛行機の中で、どんなに機内食が美味しくても、どんなに景色が綺麗でも、どんなに映画が楽しくても、私は決して楽しむことはできない。死ぬかもしれないという不安の前には、そのような楽しみなど楽しみにはならないからである。

 しかし、よくよく考えてみると、私たちは誰一人も例外無く、死に突っ込んでいく飛行機の中の乗客と同じなのである。クリスチャンでなくても、人生それなりに楽しいことやエキサイティングなことは沢山ある。毎日楽しい食事をして、面白い映画を観て、様々な感動的な出会いがある。しかし、最後はみんな一人残らず死んでいくのだ。それはまるで機内サービスが充実しているけれど、エンジンが止って墜落の途上にある飛行機の乗客と同じではないか!?


地下700メートルの祈り
 今から約3ヵ月半程前、33人の労働者が地下700メートル下に閉じ込められるというチリで起きた落盤事故に世界中が注目していた。彼らは実に69日もの間閉じ込められていたが、全員が無事に生還することが出来た。何故のそのようなことが可能だったのだろうか?それは、地上との通気孔が有り、地下水が湧き、缶詰などの食料が避難所にはあったからである。そして、彼らが全員生還することが出来た最大とも言える理由がもう一つあった。

 それは、彼ら33人全員がクリスチャンであったことである。更に作業員の一人にプロテスタントの牧師(ホセ・エンリケス・55歳)がおり、彼の依頼によって33冊の聖書が通気孔から届けられ、彼らはで定期的に互いに励まし合い、神に救済の祈りを奉げるための礼拝を、地下700.mの下で行なっていたのである。

 そのことが、10月15日付け読売新聞の朝刊の『奇跡を生んだ団結力』という見出で、日本中に報道された。その記事には、「神が引っ張ってくれた」、「私のそばには神と悪魔がいたが、私を引っ張ってくれたのは神だった」という、作業員たちの迫真のコメントが写真付きで掲載されていた。それは神によって守られた正に奇跡の生還であった。

 さて、地下700mの下に閉じ込められていた彼らの境遇には三つの特徴があった。それは・・・

1) 彼らは自力では脱出することが出来なかった。
2) 彼らには仲間がいて互いに励ましあい、暫く生きるのに必要なものがあったが、いつまでもそれを続けていくことはできない。
3) 彼らにとって、外部から岩盤を取り除いてもらう以外に救出の道はなかった。

 地底に閉じ込められた33人の状況は、死に閉じ込められている人類の状況と同じである。私たちは地下にこそ閉じ込められてはいないが、誰一人死から自力で脱出出来る人はいない。その基本的状況において私たちは彼らと大差はないのである。また彼らに仲間がいたように、私たちにも友人たちや家族はいる。しかし、彼らとて、死の問題を解決する力は持っていない。そして彼らが外部からの救いを必要としていたように、私たちも神による救いを必要としているのである。


日本人の祈り
 日本人の祈りは、災いに遭いませにょうに『家内安全』、病気になりませんように『無病息災』、お金に困りませんように『商売繁盛』。この三つの願いに集約される。問題は、本当にこの三つが満たされたら、人は幸せになるのだろうか?ということである。残念ながら応えは否。そこには、『死』と『罪』と『裁き』という、人間には避けることが出来ない、実に重大な事実が欠落しているからである。

 この世の成功哲学や処世術は、人間は誰もがいつか死んで行く存在であるという事実と、人間は自己中心性という罪のために日々不安との内に生きていかなければならないという事実を覆い隠そうとしている。この世のどんな成功も、喜びも、慰めも、決して死の不安を超える希望には成り得ないのである。

 つまり、人生における様々な問題への解決を突き詰めると、結局それは死の問題を解決するということに他ならない。文学も、芸術も、哲学も、宗教も、結局そこに端を発していると言っても過言ではない。日頃私たちがそのようなことを考えないのは、考えても解決が見当たらないからである。しかし聖書はこの死という問題について、唯一解決を約束してくれている書物(神の言葉)である。


後ろに立たれていたイエス
 キリストが十字架刑に処せられた三日目の早朝、マグダラのマリアがイエスが埋葬された墓にやって来ると、重さ約2トンもある石の蓋が何者かによって取り除けられていた。うろたえながらマリアが墓の中を覗いてみると、何とキリストを埋葬した時に巻かれた布が抜け殻のように置いてあり、イエスの遺体が何処にもない。マリアは誰かがキリストの遺体を盗んだのに違いないと思い、悲しくなって泣いた。

 そんなマリアの後ろから、復活したイエスが彼女に話しかけた。すると彼女は驚き振り向いた。彼女はイエスと話しているのだが、自分が話している相手がイエスであることが全然分からない。しかし、マリアはそれでも必死になってイエスを求め続けていた。すると、イエスはマリアの正面に立って、「マリア」と、彼女の名前を読んだ。マリアはその懐かしい声を聞いて、「ラボニ(先生)・・・」と応えた。

 さて、イエスは何故、マリアの後ろに立たれておられたのだろうか?


イエスは、マリアが全く気付かないところで、彼女守り、支えておられた。人はその生まれもった罪の性質上、誰も見ていないと思うと、悪に走ってしまう。しかし、神は私たちの目には見えなくても、人間の視界を越えた所で、私たちを見ておられる。だがその視線は、私たちの過ちを追及し、批判し、裁くための眼差しなどではなく、ただ私たちを救うがための一心で、私たちを見ておられるのである。

 チームで山登りをするとき、熟練者は必ず列の最後につく。先頭は道案内のため、しんがりは後ろから全体を見守るためである。しんがりの人は、遅れがちな人、疲れている人、弱い人に対して特に気を配る。どうぞ覚えて欲しい。あなたが誰からも忘れられていると思っている時も、神は私たちの安全をずっと見守っておられるのである。


イエスが私たちの後ろに立っておられる理由は、私たちの人生における試練や悲しみに共感するためである。神は私たちが試練で苦しんでいる姿を、雲の上で腕を組んで眺めているようなお方ではない。後ろに立って見るということは、その人と同じ視点で見ているということである。マリアの後ろに立っておられたイエスは、マリアが見つめている対象を、同じ角度、視線で一緒になってご覧になっておられた。

 マリアが見ていたのは空っぽの墓だった。最愛のイエスが殺されてしまい、その上遺体まで盗まれてしまった。もうどうしていいのか分からない・・・、と途方にくれているマリアを、イエスは、「私は復活すると言っていたではないか」といった態度ではなく、悲しみに打ち震える彼女の後姿に心痛めておられたのである。

 人は、共通の趣味や仕事について共感することは出来る。しかし、人は他人の気持ちを共感することは非常に難しい。特にその人が大きな悲しみの中にある時、その気持ちを共感することは無理だと言っても過言ではない。何故なら、人はたとえその人と同じ経験をしたとしても、同じように感じることは出来ないからだ。しかし、イエスは私たちの気持ちを同じ環境、同じ視線で、完全に理解してくださることが出来るお方なのである。


イエスが後ろに立たれている理由は、私たちを神の方に振り返らせ、解決を示すためである。マリアの悲しみの根本的な理由は、イエスが死んだということであった。彼女は三日前にイエス処刑現場を見、その後に急いで葬られるところもじっと見ていた、だからこそ、安息日が開けた後直ぐに墓に飛んで来て、遺体を丁重に葬りなおしたいと思ったのだ。ところが、イエスは死んだままではなく、死んで甦っておられたのである。

 イエスは私たちの人生のすぐ後ろに迫っている死と、死後に定まっている裁きから私たちを救い出すために、しんがりとなって十字架に架かって下さった。「私の十字架の御業で、わたしはあなたに迫る全ての死と裁きは食い止めた、もうそれは過ぎ去り、死は恐れるに足らないものとなった。それなのにあなたは何時まで墓を見つめているのか?さあ身を翻し、永遠の命であるわたしを見上げなさい!」と私たちに語りかけておられるのだ。

 さあ、今まで神からずっと背を向けていた生活から、神の方へと向き直ろう!

 もしあなたが向き直るなら、そこにはあなたが真の自由と幸福を得るために必要な全てを、あなたに代わって成し遂げたキリストが両手を広げて待っておられる。

 真の希望を持たないまま、人生を送り続けて死に直面するほど、人間は愚かであってよいものだろうか?

 我々は皆、死ななければならない。どうしてその事実を無視したり、笑い飛ばしてしまおうとするのか?

 両手を広げてキリストを喜び迎え、キリスト者と呼ばれることを一生の内で最も誇るべき特権と考えることは、全ての人間にとって最もふさわしいことではないだろうか!

 どうぞあなたもイエス・キリストをご自分の救い主として信じ、永遠の命・真の喜び・平安を、自分のものとしてください! あなたの祝福を切にお祈り致します。



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生き生きと生きる! Ⅰコリント10:23-24

2010年11月21日 | Celebration
 クリスチャンは真面目で悪い人たちではないが、冗談が通じない面白くも何ともない人たち...。実際、一般の人々が教会に対して持っているイメージは、清く、正しく、真面目と言ったもので、それは悪いわけでも、間違っているわけでもないが、教会と聞いて、命、自由、喜びといった言葉は全くと言っていいほど出てこない。

 確かに聖書は私たちに清くあれ、正しくあれと言っているが、キリストが私たちに先ず望んでいることは、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神が私たちに望んでおられることである。(Ⅰテサロニケ5:16-18)

 真理を受け取るには、「頭(知識)」-「心(感情)」-「霊」の3つの段階がある。知識では知っていても、それを行動に移せなければ、それは知らないことと同じことであり、それが感情迄で止まっていると、時や状況や気分によって行動が変わってしまう。真理は霊に到達して始めて、その人のものとなる。喜びがないのは、真理が霊迄到達してない証拠。つまり、完全な片手落ちでなのある。

 世界中の人々が尊敬する人物の一人、マハトマ・ガンジーは、自分の生涯で最も影響を与えた本は聖書だというヒンズー教徒である。「もし、クリスチャンがその信仰に忠実に生きていたら、インドにはヒンズー教を信じる者達は一人もいなくなってしまうだろう」と彼は言った。

 世の中の人々は、私たちがキリスト者らしく生きることを期待しているのである。では、キリスト者らしく生きるには具体的にどうしたら良いのか?人はたとえ病気になっても、厳しい試練の中にいたとしても、生き生きと生きるためにはどうしたらよいのか?今日はその人生の大命題の初歩について語る。

 人間の身体は約兆個の細胞で構成されており、その細胞一つ一つにレセプターと呼ばれる、主体性を持った「糖鎖」と呼ばれる受信装置が付いている。この糖鎖機能の不備があらゆる病気の原因であることが、現代医学によって明らかにされている。

 それと同じように人間には、世の中のあらゆる情報の中から、自分が何を取り入れるかで、その人の人生が変わってくる。世の中の情報には、「生活のために必要な情報(無害)」、「自分の成長に繋がる+情報(有益)」、「自分の成長(救い)を妨げるー情報(有害)」の大きく3つの情報に大別され、その情報をどれくらい自分の中に取り入れているかかによって、その人の人格・人生が決まるのである。


ボルネオの猿:放せば楽になるのに、罪を握り締めたまま自分の人生をダメにする。
パタパタポラロイド:確かめもしないで、ただ周りがやっているから自分もやる。
カステラの底紙:よく考えもせず、我流に拘り続けて自分の世界を狭くする。

 つまり、生き生きとした人生を阻む最大のもの。それは、自分で変わろうとしない間違った価値観である。

 「種の起源」で生物進化論を提唱したダーウィンが、実はクリスチャンであったことは、ほとんど知られていない。聖職者になるためにケンブリッジ大学神学部で学んでいたダーウィン(1809-1882)は卒業後、海軍の測量船に乗り、南半球一周の旅に出た。その旅の途中でガラパゴス島に寄り、そこに生息している動物たちを見て、動物は下等生物から高等生物へと進化するのではないかと考えた。その後で南米の孤島に住む凶暴な原住民を見て、彼らは進化の途中にある猿に近い人間であると判断した。

 そして1859年、ダーウィンは「種の起源」を発表した。しかし、彼の目的は、創造論の否定ではなく、神の創造の過程を説明することにあった。ところが、唯物論者や共産主義者などの無神論者によって熱狂的に支持された「種の起源」は一人歩きを始め、また、名実共に時代の寵児になったダーウィンも、社会的成功に酔いしれて信仰を失い、第二版から「神」という言葉が出版社から削除されてしまったのである。

 その20年後、彼らが進化の途中にある猿と断定した原住民が住む南米の孤島を再訪問した時、以前は凶暴な猿人であったはずの彼らが、この島に派遣された宣教師たちの働きによってクリスチャンに変えられ、何とにこやかに握手を求めてきた。神の恵みによって高度な人間に生まれ変わっていた島人たちを目の当たりに見たダーウィンは、神否定に利用された『種の起源』を発表したことを後悔した。

 彼はこう言い残している。「宣教の働きの結果起こったテイエラデルフェゴの奇跡は、どんな奇跡より偉大であると確信する。それまでの彼らの不正や軽率な行動は、事実、キリスト教の影響によって変えられていた。」 またダーウィンは晩年、ある有名な女流作家とのインタビューで、「あなたは今、進化論をどう思いますか?」という質問に、「あれは未熟な若者の考える論理だった。あんな冷たい論理では人間は幸せにはなれない。」と答えた。

 ダーウィンが悔い改めてクリスチャンになったことは、ダーウィンとインタビューした女流作家(ホープ)が、ムーディの宣教大会で講演し、印刷部でも公表した。その中には、ダーウィンが死ぬ寸前に早く天国に行きたいという思いで、「あぁ神よ!」と叫んだことが記されている。ガラパゴス島にはあれから教会が建設され、現地の人から牧師になる人が現われている。


人生の目的達成に至るための3つの自己問答
悩みや不安の基となっている問題の原因と根拠を客観的に考察する。

その原因は複雑に重なっているので、一つ一つ書き出して、その責任の所在、修復の方法、可能性、将来性を分析する。

自分自身の内側にあるエネルギーの根拠を探る。


人生の目的達成のための4つの条件
明確なVisionを持つ。目的遂行のためには、他のものを切り捨てる勇気と決断が必要である。
幻のない民は滅びる。(箴言29:18) 

具体的に計画に立ててそれを着実に実行する。
だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。(Ⅱコリント8:11-12)

周囲の否定的意見や批判に流されない。御言葉に反するものを、きっぱりと拒絶する強い信仰。
しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。(Ⅰテモテ4:1)

自分の目的に賛同してくれる同志を持つ。
倒れれば一人がその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。(伝道4:10)

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15:15)

 「天才とは1%の才能と99%の努力だ」と言うトーマス・エジソンの言葉の真意は、「1% のひらめき(聖霊の力)がなければ、99%の努力も無駄になる。」という意味である。

 この1%のひらめきこそ、不可能を可能にし、私たちを絶対に間違うことのない方向に導いてくださる(目に見えない)聖霊の力である。私たち人間を目的を持って創造してくださった創造主から離れて人生の実現は絶対不可能。私たちを愛してくださり、私たちの人生を最善へと導いてくださる神に信頼しよう!




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魂を獲る漁師 ヨハネ15:5

2010年11月14日 | Celebration
 沖縄の糸満で生まれたツネさんは、7人兄弟の下から2番目。子供の頃から、男兄弟の中で自立心を養い、硬派の水産男子校で体育会系男っ気満々の環境に育ちました。若かりし日の彼は、体資本の仕事で稼いだ大金を、遊びのために湯水のように使うという生活を繰り返し、そして1972年の沖縄本土返還を機に、短期間で大金を得られるというアメリカでの漁へと渡りました。

 最初の航海は、ひきしに優る重労働でしたが、収入もこれまでにない大金。アメリカでも大きく稼いでは、大きく使うという生活の繰り返し。さて20代も後半になったある日、お寿司の板前さんになった漁師仲間から将来のビジネスについてアドバイスを受け、今迄の海での生活から陸に上がって、お寿司屋さんへと転向を試みます。そしてハワイ、ロサンゼルス、また東京の新橋で板前としての修行を積み、アラスカベーリング海での仕事で得たお金を元手に、遂に自分のお店を持つことが出来ました。

律儀なお寿司屋さんとして、これから新しい人生を始まる!と思いきや、開始早々大きな試練が彼を襲います。お店の従業員の一人が、原因不明の自殺をしてしまったのです。ツネさんにとってそれは大きな衝撃でした。仕事が直接的な原因でなかったにせよ、今迄一緒に働いていた人が死んでしまった…お店もこのまま続けていいのかどうかわからない、これからどうしたらいいんだろう? そんなことがいつも頭を過ぎって夜も眠れず、気が狂ってしまうかと思ったその時、当時クリスチャンだった婚約者(今の奥様)が「賛美を聴いて。」と言ってCDを送ってくれました。

 すると不思議なことに、賛美を聴いていると安らかに眠ることができたのです。今思うと、これが聖霊様の御業の始まりでした。その後、結婚して夫婦生活を続けて行く内に、タバコもお酒も休みのゴルフを自然と止められるようになり、今迄大好きだった演歌も賛美に変わってしまいました。こうして知らず知らずの内に、もっとクリスチャンになりたい、もっと学びをしたい、もっと御言葉を理解したい、という思いが少しずつ与えられて来たのです。

 そして今は、「私にはできないが、神にはできる!」の信仰へと至りました。「日々御言葉に生かされる生活が、ビジネスの秘訣であり、間違いない真理です。」という明確な信仰をお持ちのツネさん。彼のこれまでの人生を通して、神様はいつも背後で見守り、ツネさんを少しずつ、しかし着実に主の器として練られ、磨かれるよう導いておられたことをひしひしと感じました。海の男の力強いお証しに感謝します!


 




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真の故郷 ヨハネ14:1-6

2010年11月07日 | Celebration
■宇宙に半年間滞在した野口聡一

 神は人が生きていくために地球という環境をお創りになられたが、人は空気と水と食料があれば、宇宙でも生きて行くことが出来るのだろうか?答えはNoである。

 野口聡一氏が163日間に及ぶ国際宇宙ステーションでの滞在を経て帰国した。内部は地球上と同じ気圧の空尉、温度、湿度で、乗員は地上と変わらない軽装で活動することができる。ところが宇宙生活は、私たちが想像しているような快適なものではなく、肉体的にも精神的にも大変なストレスがかかるという。彼はそのストレスを乗り越えるために以下の3つの方法が欠かせなかったと言う。

 第1は熟睡。野口氏の就寝場所は、国際宇宙ステーションの中の日本実験棟。他の国の実験棟はポンプや機械の音がやたらと大きかったそうだが、日本の部屋にあるのは全て精密機械で音はほとんど出ず、宇宙ステーションの中では一番静かな場所だった。そのため、熟睡出来たのだそうだ。睡眠は健康の必要条件である。

 第2、彼には電話ボックス程度の個室があり、そこで必ず毎日家族とのテレビ電話や地上の友人たちとメールを毎日交わしていた。中でも最も頻繁に交信していたのが、南極基地の隊員たち。互いの孤独な気分を正直に分かち合える友と繋がっているという安心感が、彼のストレスを和らげた。人は人との関係の中で生きており、決して一人では生きて行くことが出来ないのである。

 決定的なのは第3。それはカルシウム溶解阻止剤。実は無重力状態では骨の中からカルシウムが骨粗鬆症の約10倍のスピードで抜けていくのだ。つまり何もしないで長時間宇宙にいると、骨がスポンジのようにすかすかになってしまうのである。それを阻止する薬を飲みながら、彼は毎日2時間体を鍛えることで肉体を維持した。


聖書は3千年前から地球が球体であることを伝えている

 多くの人は、聖書というと、数千年前に書かれた非科学的な書物だと思っているようだが、聖書には、当時としては驚嘆すべき科学的な記述が記されている。例えば、古代インド人は、この大地は巨大な象が支えていると考えており、古代エジプト人は、五本の大きな柱がこの地上を支えていると思っていた。しかし聖書は、今から約3000年前に地球が宇宙空間に浮かんでいる球体であることを告げている。

 彼は北の天を空間に張り、地を何もない所に掛けられる。(ヨブ26:7)

 わたしは密雲をその着物とし、濃霧をその産着としてまとわせた。(ヨブ38:9)

 「むつき」(口語と新改訳)とは、当時のユダヤ人が、生まれたばかりの赤ちゃんを巻いて包む産着のこと。つまり、神様は生まれたばかりの地球を、産着のように雲とオゾン層で包まれた。つまり、地は平面ではなく、球形であることが分る。

 原始の海の面に円を描いて、光と暗黒との境とされる。(ヨブ26:10)

 人類は、大航海時代が始まる中世まで、この地上は平面だと誰もが思っていた。地上が平面だとすると、太陽が地上の上にあれば昼で、下にあれば夜になるわけで、当時の天文学者は、太陽が地球の上を行ったりきたりしていると無理なことを考えていた。だが、このヨブ記の記述には、光とやみの境界線が円となるとある。つまり、聖書だけがこの地が平らではなく、球形であることを伝えていたのである。

 主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り、その上に御座を置かれる。(イザヤ40:22)

 主なる神はこう言われる、わたしはこのエルサレムを万国の中に置き、国々をそのまわりに置いた。(エゼキエル5:5)

 「地の中央に住む民」(エゼキエル38:12)

 エルサレムはイスラム、ユダヤ、キリスト教という3大宗教の聖地であり、アジア・ヨーロッパ・アフリカの3大大陸の接点であり、黄色・白色・黒色人種のそれぞれが住む地域の交わる地点である。アメリカの物理学者、アンドリュー・J・ウッド博士が、全陸地の中心が何処であるかをコンピューターによって算出した。

 「地球上の全ての分割地までの距離の総和が最小となる地点」

 これを算出した結果、全陸地の中心はパレスチナ地域であることが判明。今から2600年前、未だ世界が球体であることが知られていない時代から、聖書は全地の中心がエルサレムであることを知っていたのである。


■奇跡の生還を果たしたアポロ13号

 3人の飛行士を乗せたアポロ13号は、地球から33万キロ上空で酸素タンクが爆発。電気が切れ、宇宙船誘導装置が止まるという、正に絶対絶命の状況に陥り、ニクソン大統領は殉職声明文を用意した。しかし、3人の飛行士たちは失望することなく、必死で神に祈った。実は彼らは3人共クリスチャンであり、Ⅰコリント10:13の御言葉を知っていたのだ。

 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 すると彼らに、月面着陸船を救命ボ-トとして使うという奇想天外なアイデアが与えられた。彼らは月面着陸船に乗り移り、着陸船用の燃料と電気と酸素を使って何とか地球まで辿り着き、大気圏突入を敢行し、奇跡の生還を果たした。確実に言えることは、彼らが神を信じていなかったら、この奇跡の生還はあり得ななかったことである。

 アポロ13号のジム・ラベル船長はこう語っている。「どんなことでも決して諦めてはいけない。神を信じ、神の内に夢と希望を持ち続けなさい。未来はあなたの手の中にあるのだ。神への祈りは必ず聞かれる。だから勇気を持ち続けなさい。希望を失ってはいけない。」

 アポロ14号の出発の際、宇宙船には16ヶ国語で書かれた『聖書』が積まれた。聖書は、地球圏外から宇宙へ持ち運ばれた最初の書物であった。


人類初の宇宙飛行に成功したガガーリン

 「地球は青かった」と言う名言を残したのは、1961年、人類初の宇宙飛行に成功したソ連の宇宙飛行士・ユーリ・ガガーリン。また彼は、「宇宙に神などいなかった=ここでは神は見えない」と言ったことでも有名である。

 この彼の発言と、宇宙から帰還後、牧師・宣教師になった多くのアメリカの宇宙飛行士(特にアポロ15号で月面着陸を果たしたジム・アーウィンは世界をまたに駆ける宣教師として有名)との対照的な差は、神を否定する共産国と、キリスト教国家であるアメリカとの差ではないかとも言われた。

 ところが近年、ガガーリンの友人である空軍士官学校のワレンティン・ペトロフ大佐が、ガガーリンは無心論者などではなく、彼は共産主義によって崩壊されたモスクワの教会再建を公的に提唱していた敬虔なクリスチャンであったことを公に発表した。「ガガーリンは反政府主義者ではなく、人は自分のルーツを知らなくして愛国心は強まらない。」と言っていた。彼は洗礼を受けており、私が知っている限り、彼はキリスト信者だった。

 ガガーリンが言ったとされている「ここでは神は見えない」という言葉は、実はガガーリンのものではなく、当時のソ連共産党の指導者フルシチョフが共産党の会議の際に発せられた言葉が、政府による反宗教活動のプロパガンダとして、あたかもガガーリンの発言として利用されたのだ。彼はそんなことは言っていなかった。


月面まで行った科学者 チャールズ・デューク

 全くメディアに出ていないアポロ16号のパイロット、チャールズ・デュークに伝道された日本人牧師がいる。彼は牧師になる前、エジプトのカイロに駐在していた商社員だった。ある日、休暇を使って4泊5日のナイル川クルーズに一人旅の途中、たまたま船上でデューク一家と出会い、一緒に食事をしようということになった。共にテーブルについた時、彼らが手をつないで食前の祈りを始めたので、彼らがクリスチャンだということが分かった。その祈りの後に、デュークは彼にこう囁いた。「ユージ、神様って本当にいるんだよ」と。

 彼はこの時に始めて、デューク氏がアポロ16号で月面まで行った科学者だということを初めて知った。まさかナイル川の上で、月に行ったことがある宇宙飛行士に出会うなんて思いもしかなかったからだ。そしてもう一つ驚いたのは、彼の奥さんのドッティーだった。こんなにいつも笑顔で、喜びで輝いている女性を、彼は今まで見たことがなかったからだ。

 更に驚いたことに、その彼女が「実は、私は昔自殺しようと思ってたのよ。」と言った。彼女は人生のどん底の生活の中でキリストと出会い、聖書に書いてある通り、人は生まれ変わることが出来るということを知って、本当に自分の人生が変わってしまったのよ。」と彼女は言うのである。

 しかし、彼は、「人はそんなに変わり得るものだろうか?」と疑問に思った。デュークに対しても、「月まで行った科学者が、何故神がいるなどと言うのだろう?」という思いしかなかった。とにかく、彼にとってこのデューク一家との出会いはかなり強烈で、また同時に、「解けない謎」として、彼の心の中にずっと残っていた。

 それから暫くして、彼がエルサレムに出張した時に、何と彼は突然聖霊体験をしてしまうのである。それは彼にとっては何だかワケの分からない体験だった。いきなり自分は神と出会ってしまったものの、その神がどういう神なのかよく分からない。自分の中で何かが確実に変わってしまったということは判るのだが、何をどうしていいのか分からない。

 単なる気のせいじゃないかと自分で否定してみるものの、どうもそうではない。そこで頭に浮かんだのはデュークのことだった。彼はエルサレムからデュークに電話をし(留守電)、「彼に会えば、きっと次のステップがわかるにちがいない」と信じて長期休暇を取り、カイロからテキサスのデューク宅を訪ねて行こうと決心した。

 さて、カイロから遥々テキサスの空港に着いのは良かったが、気が動転していたせいか、空港でデュークの住所のメモに電話番号を書き忘れていたことに気が付いた。仕方なく色んな人たちに聞きまくりながら、何とかデュークの家迄たどり着いた。ドアの前にナイル川で会った日本人青年が立っているのを見て驚いたのはデューク家の人々だった。彼らは全く突然の訪問にも係わらず、喜んで一週間泊めてくれた。エルサレムからの留守電を聞いて、「あの日本人青年が神と出会ったことを知り、家族皆で喜び、主をあがめていた」のだと言う。

 デューク夫妻は彼を息子のように扱い、聖書を与え、祈り方を教えてもらい、彼がエルサレムで出会った神が、「聖霊」であったことを教えてくれた。そして日本に帰国後、生まれて初めて、もし何か変なことがあったら直ぐに逃げようと考えながら、教会の一番後ろの席に座っていた。しかし、礼拝に出るたびに、自分がエルサレムで出会った神が、確かに聖書に書かれている神だと分かり、もっとこの神のこと知りたい、神の近くに行きたい。この神に仕えてみたいという願いが強まり、約10年間勤めた会社を退社して献身した。

 退社の時、彼は「神様が私に会社を辞めるように言われたので辞めます。だからこれから先は、全て神が備えています。神学校に行って牧師か宣教師になります。」と言った。変人扱いされたことは言うまでもないが、彼自身もこれから先どうなるのか全く分からなかった。牧師となったことを一番喜んでくれたのは、デューク夫妻であったことは言うまでもない。彼らは「とてもエキサイテイングだ!」という手紙を送ってくれたという。

 デュークは、「私たちにとって『偶然』はないんだよ」と言っていた。そのとき彼にはその意味がよくわからなかったのだが、今はそれが「イエスが全てをなして下さっている」という意味なのだと言うことが分かった。彼は突然エルサレムで聖霊体験をしてしまったと思っていたが、それは既に進められていた神の計画であり、神は次のステップにちゃんと進めるように、前もってデューク家と会わせて下さっていた。そして、彼らとテキサスで再会し、日本帰国後の道も備えられていた。主の備えは完全で、なさることは時にかなって美しい。


天の御国こそ我らが故郷

 日本人初の女性宇宙飛行士・向井千晶さんが、「宇宙飛行で一番感動したことは?」と聞かれて、「勿論、地球に帰って来れた時です!」と答えた。自分の生まれ育った地球という故郷に戻って来たことの感動が、彼女にとっては何よりの感動だった。

 イエス・キリストがこの地上に来られた目的を一言で言うと、天の御国という、私たちが真の故郷に戻れるようにするためである。

 神が私たちのために創造してくださった地球は美しく素晴らしい星である。しかし、そこには人間の罪のために、不公平があり、不条理があり、戦争があり、災害がある。だが、私たちの本国は天国にある。そこに帰ることが私たちの最終目的であり、真の人生の希望なのである。






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