Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

となりはだれ? ルカ10:25-37

2008年09月28日 | Celebration
 最初に牧師先生が「わたしが神学校で学んだ第一のことは、如何に自分は聖書を知らなかったかということです」と仰った。続いて、聖書の真理を100理解していて、その1つを実行している聖書学者と、たった5つの真理しか知らないが、その2つを実行している田舎のおばあちゃんと、どちらが神様の御心にかなっているだろうか? この質問を皮切りに、聖書中、最も有名な喩え話である「よきサマリア人」からのメッセージが始まった。

 当時はユダヤ人とサマリア人との間には激しい民族間の対立があり、ユダヤ人は混血であるサマリア人を蔑んでいた。ルカ9章にサマリアに関する話があり、イエス様は、もともと同じ民族であるはずの両者の対立に心を痛めておられることを知る。そして、そのサマリア人を登場させた喩え話しを、永遠の命を問う律法学者に話される。問われたイエス様は逆に問い直される。『律法には何と書いてあるか?』と。知識を誇る律法学者は、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』と、律法の核心を即答する。その答えをイエス様も『正解』と認められた。客観的に聖書には何と書いてあるか?という最初の問いの正解はこれだ。しかし、二つ目の問いを見逃してはならない。『あなたはそれをどう読んでいるか。』

 その核心に気付かず、『わたしの隣人とはだれですか?』と問う律法学者に、この喩え話が語られる。だから、この話は決して道徳推進を語るものではない。礼拝し、祈り、施し、断食し、律法遵守だけに励み、それでよしとする律法学者にそんなことを語る必要はないのである。だが、律法遵守を謳うなら、完全でなければならない。一点も欠けることなく、100%完璧に律法を守り通さなければならない。イエス様は、私たちにそのような努力を求めていらっしゃるのだろうか? それを教えるために、この世に降ってくださったのだろうか?

 そして、律法を厳守しても、その動機が正しくなければ、すべてが無駄になる。律法学者の頑張りは神様を愛するゆえか? 否、自分のため、己の救いのためではないか。そこには律法学者が答えている愛はない。正しい答えを得ていることは、神を知っているということと同意ではない。大切なのは、頭で知っていることではなく、愛を持ってそれを行っているか? 愛を実践しているか? ということである。

 そして最後問い。『あなたはこの三人の中で、だれが襲われた人の隣人になったのか?』 私たちは、まず例外なく自分を助けたサマリア人に置き換えてこの話を考えている。だが、自分を与える側の立場に置いている間は、この話の真髄を知ることは出来ない。私たちは、ボロ布状態で倒れているのがいったい誰であるのかを知らなければならない。衣服を剥ぎ取られ、殴られ、半殺しの状態で倒れるのが、『わたし』なのだ。そして、助けても何の得にも名誉にもならない宿敵である、『わたし』を手当てし、自ら歩いてわたしをロバに乗せ、わたしの分の宿賃を払い、わたしに薬と油と葡萄酒を注いでくださるこのお方はいったい誰なのか?そう、私たちの隣人になってくださったのは、イエス様をおいて他に誰がいようか?

 油は聖霊、葡萄酒は十字架の血、宿屋は教会、そして支払いはイエス様の贖いを意味しているのかも知れない。律法の限界を知り、この無償の救いを受け取り、癒しを受け、感謝を捧げる時に、永遠の命が約束される者となる。そして、多くの者が行った「向こう側の道」、滅びに至る道ではなく、サマリア人の歩んだ命に至る道を、私たちの隣人であるイエス様と共に歩んで行くのである。

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幸福へのパラダイムシフト 申命記8:11-18

2008年09月14日 | Celebration



 最近の日本人の活字離れは進んでおり、今100万部売れる本は、ほとんどないそうです。その日本で何と一億部売れた本がありますが、それは漫画だそうです。では、活字本でいちばん売れている本は、何だかご存知ですか? 何と7千万部売れているその本は、細木数子さんの星占いです。何故、星占いの本がそんな売れるのでしょうか?それは、現代人が将来の見えない、不安の中に生きている表れではないでしょうか?私たちは、人生に目標や計画を立てます。そして、目標や計画に沿って、一生懸命努力をし、勉強をし、仕事をします。しかし、現代は、益々、将来に予想がつかず、まさに「一寸先は闇」です。

私たちには、将来を把握することはできませんが、神様は、私たち、一人、一人の人生を把握しておられます。そして、神様を信じる者を幸福にするためです。(申命記8:17)

 このような状況を何度も経験しているのが、イスラエルの人々です。イスラエルの人々は、ヤコブの息子、ヨセフがエジプトで宰相となった時代、飢饉によってエジプトに移り住みました。そして、それから400年の時が過ぎ、神様の約束によってモーセをリーダーとして、イスラエルの人々はエジプトからカナンの地に向けて出発します。カナンの地を知るイスラエル人は、一人もいません。日本で言うなれば、今から江戸時代初期の時代までさかのぼります。しかし、神様は、イスラエルの人々を約束したカナンの土地へ導き入れたのです。

 「パラダイムシフト」と言う言葉をご存知ですか?「パラダイムシフト」とは、「既存の体制や概念から全く違ったものへ移行する」と言う意味があります。それは、まさに、今まで、考えもしなかった、180度の変換を意味します。今日は、私たちを幸福へ導くパラダイムシフトの4つのポイントを分かち合いたいと思います。


1)幸福は、人生において何を得るかではなく、何を与えられるか?

 ある理髪店で見習いの青年がお客様の髭を剃るために蒸した熱いタオルを出しました。タオルがあまりにも熱かったので、持っていることができず、彼が手を離した瞬間、その熱いタオルがお客様の顔の上に落ちてしまいました。お客様は、驚いて、その青年に文句を言いました。「何てことをするんだっ!」すると、青年は怒り出して、お客様に言いました。「だって仕方ないじゃないですかっ!熱かったんだからっ!!」果たして見習い青年の怒りは正しいでしょうか?私たちは、自分の思い通りにならないとよく怒ります。しかし、その怒りは、本当に正しいでしょうか?世の中は、自分の思い通りには、なりません。この世界は、自分中心に動いてはいないからです。それでは、この世界は、何を中心に動いているのでしょうか?それは、神様中心に動いているのです。神様がこの世界を創りました。

 私たち人間も神様による被造物です。神様は、私たち一人一人を愛してくださっていますから、私のためにも、他の人のためにも世界は動いているのです。私たちは、人よりいい学校に行って、いい会社に入って、いいお給料をもらって、人よりいい生活をすること、自分が人生で何を持っているか、また、多く持っているかが、幸福な人生だと思ってしまうことがあります。しかし、私たちは、自分で生きているのではなく、生かされているのです。真の幸福な人生を送るには、自分が、何を得るかを考えるよりも、何を与えられるかを考える必要があります。これは、クリスチャンだけの考え方ではありません。この世の中で成功者と言われている人々は、多くの人々に何を寄与できるかを考え、それを実際に実行しています。


2)幸福は、人生を楽におくるかではなく、苦労しておくる

 「もし、宝くじで3億円当たったら…」誰もが、一度は、考える出来事ではないでしょうか?そしたら、朝早く起きて仕事に行く必要もないし、好きなことができます…。しかし、人間は苦労することにより、成長します。植物も同じです。オフィスビルの中にある観葉植物は、一定の温度に保たれた中で、水も肥料も与えられ、管理されますが、ほとんど、6ヶ月ほどで枯れてしまうそうです。しかし、いちばん風当たりの強い丘の上に立っている木は、周りの樹木に比べると、根も幹もしっかりとして寿命も長いそうです。このようにある環境は、整えられ、居心地が良く、もう1つは、厳しい環境ですが、どちらが植物のためには良いでしょうか?人間のストレスもこれと同じです。ストレスが多いと私たちは、疲れたり、病気になったりしますが、ストレスが全くないと、人間は、新しいことに挑戦したり、問題解決を図ったりする人生に対する意欲がなくなるのです。


3)幸福は、表面的な問題の解決ではなく、根本的な問題に取り組む

 私たちの人生にあるそれぞれの苦難には、意味があります。そして、それは、私たちの人生の目的につながっています。ですから、私たちは、人生に起こる苦難の意味を考える必要があります。ある女性が、お子さんが学校に行かなくなってしまったという問題を抱えているとします。彼女にとっては、それは、人生の中で大きな苦難です。お母さんは、子供を何とか学校に行かせようとします。何故なら、彼女の問題が解決するには、お子さんが再び、学校に行けるようになることだからです。しかし、彼女が「何故、子供が学校に行かなくなったのか?」と言う根本的な問題を知り、それを解決しなければ、お子さんは、決して学校に再び行くことはないでしょう。学校に行くように叱ったり、なだめたりしても、最初は、学校に行くかもしれませんが、また、行かなくなってしまいます。このように私たちは、問題の現象(=目に見えること)に囚われがちですが、根本的問題に目を向けない限り、真の問題解決にはなりません。むしろ、目に見える部分だけを体裁よく整えようとすると、問題は、更に複雑化してしまいます。


4)幸福は、苦難の中で見いだす解決

 苦難のない人生を送った人は、この世には、一人もいません。むしろ、苦難を通った人が真の幸福に到達するのです。そして、神様は、私たちの人生を苦難だけで終わりには、決してしません。Iコリントの信徒への手紙10章13節に、神様は、私たちにこのように約束してくださっています。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」私たちは、人生が自分の思い通りに行っている時は、当然だと思い、思い通りに行かないと怒りを感じたり、絶望したりします。

 しかし、今日の聖書箇所、申命記8章16-18節にあるように神様は、私たちを戒め、教えてくださっています。「あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには、幸福にするためであった。あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」私たちは、苦難や迫害に遭ったとき、心を頑なにしてはいけません。むしろ、その苦難や迫害を解決するため、乗り越えるため、神様を頼り、神様の道に従っていくことが大切です。


これらの4つのポイントは、決して目新しいものではありません。私たちは、どこかで、このポイントについて耳にしているかもしれません。しかし、「聞いたことがある」、「知っている」のと、実際、「そのポイントを行動にしている」のとでは、大違いです。ローマ5章3-4節には、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」と書かれています。クリスチャンの幸福は、このように、苦難→忍耐→練達→希望の結果として与えられています。しかし、多くの人々は、苦難→不安(→星占いなどに依存)→不平、不満(→鬱積し、刃物を振り回し、人を傷つけたり、自分を傷つけたりします)→失望、その結果、癒されない傷を心に負ってしまい、自分は、不幸だと言う思いに陥っています。どちらを選択するかは、私たち次第です。

 苦難に遭った時、私たちは、「神様、何故?(神様がいるんだったら何故?)」と思いがちです。しかし、私たちは、神様に問うのではなく、神様から「問われている」立場にいるのです。それは、苦難を益としてくださる神様の御心に応えていくためです。それがクリスチャンの生き方であり、クリスチャンの生き方、そのものが幸福なのです。「苦難→不安→不平、不満→失望」の生き方から、幸福へのパラダイムシフトを図り、更なる祝福された人生を歩んでいくために、イエス様を救い主として受け入れて、これからの人生を歩んでいきましょう。また、クリスチャンとして、益々、祝福された人生を歩んでいくために、聖霊様に依り頼んで人生を歩んでいきましょう!

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光の子 エペソ5:6-17

2008年09月07日 | Celebration
聖書では、クリスチャンは「光の子」と表現されれている。光があり、闇がある。本日の聖書箇所にあるように、私たちは「以前には暗闇」だったのだ。闇の中にあって闇そのものだった私たちには、光を生じさせること、自ら光となることはできない。しかし、光の方から闇に近づいてくださった。結果「今は主に結ばれて、光となる」ことができるのだ。

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ1:4-5)
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(ヨハネ1:9)

 天地創造の初め、神様は「光あれ」と仰った。そして、暗澹たるこの世に「光」である御子イエス・キリストを遣わされた。光には「命」があり、命は輝きを放っている。だから、命をいただいて生きる者も輝くのだ。それが「光の子」。しかしこの世を支配している闇の力は、光を理解することはなく、光と交わることはない。そんな状況下で、御言葉「光の子として歩みなさい。」を考える。

 闇を好むものはいない。誰もが光の方へ来たがり、一旦光の子となったからには、喜んで光の子として歩むのが当然・・・のはず。ならば何故この御言葉があるのだろうか。果たして本当に、私たちは「光の子として歩む」ことを好しとしているのだろうか。

 例えば聖書を読む。暗誦している聖句もあれば、信仰の碇である御言葉もあるだろう。しかし、自分にとって耳障りの良くないもの、読むことで痛みを感じるもの、目を逸らしたくなるものもある。それは「光の子」に対する「神様の戒め」のはずなのに、受け入れることができずにスキップしてしまう、勝手な自己流解釈をする、自分の快適さのために御言葉を歪めようとすることすらある。そんな「光の子として歩む」ことを拒む思いは、根源にある人間の罪と過去の傷から来る。

 クリスチャンとは、かつて自分中心だった生き方から神様中心の生き方に変更すること、神様を人生の「主」とした人のことだ。聖なる神様を知り、愛し、近づきたいと願う。神様のように聖さを持ちたいと、真に願う。クリスチャンだからそれだけで聖い、それだけで罪がないのではない。聖さを求め、そのために妨げとなる罪と傷を癒しの「主」である神様の前に出してこそ、「光の子」としての輝きを得るのだ。「悔い改めよ、神の国は近づいた」、この招きの言葉は真実だ。妨げを作っているのは、自分自身(=中心)の価値観、自分自身(=中心)の生活習慣に他ならない。

 「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」世の中には、そして自分の内には、善意よりも悪意、正義よりも不法、真実よりも見せかけが横行していることを知る。光を遮るそれら「実を結ばない暗闇の業」から離れるなら、自らが無意味に作って暗闇を生じさせる殻を破るなら、光の子は光の実を結ぶことができる。植物が陽光を受けて果実を結ぶように。


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