最初に牧師先生が「わたしが神学校で学んだ第一のことは、如何に自分は聖書を知らなかったかということです」と仰った。続いて、聖書の真理を100理解していて、その1つを実行している聖書学者と、たった5つの真理しか知らないが、その2つを実行している田舎のおばあちゃんと、どちらが神様の御心にかなっているだろうか? この質問を皮切りに、聖書中、最も有名な喩え話である「よきサマリア人」からのメッセージが始まった。
当時はユダヤ人とサマリア人との間には激しい民族間の対立があり、ユダヤ人は混血であるサマリア人を蔑んでいた。ルカ9章にサマリアに関する話があり、イエス様は、もともと同じ民族であるはずの両者の対立に心を痛めておられることを知る。そして、そのサマリア人を登場させた喩え話しを、永遠の命を問う律法学者に話される。問われたイエス様は逆に問い直される。『律法には何と書いてあるか?』と。知識を誇る律法学者は、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』と、律法の核心を即答する。その答えをイエス様も『正解』と認められた。客観的に聖書には何と書いてあるか?という最初の問いの正解はこれだ。しかし、二つ目の問いを見逃してはならない。『あなたはそれをどう読んでいるか。』
その核心に気付かず、『わたしの隣人とはだれですか?』と問う律法学者に、この喩え話が語られる。だから、この話は決して道徳推進を語るものではない。礼拝し、祈り、施し、断食し、律法遵守だけに励み、それでよしとする律法学者にそんなことを語る必要はないのである。だが、律法遵守を謳うなら、完全でなければならない。一点も欠けることなく、100%完璧に律法を守り通さなければならない。イエス様は、私たちにそのような努力を求めていらっしゃるのだろうか? それを教えるために、この世に降ってくださったのだろうか?
そして、律法を厳守しても、その動機が正しくなければ、すべてが無駄になる。律法学者の頑張りは神様を愛するゆえか? 否、自分のため、己の救いのためではないか。そこには律法学者が答えている愛はない。正しい答えを得ていることは、神を知っているということと同意ではない。大切なのは、頭で知っていることではなく、愛を持ってそれを行っているか? 愛を実践しているか? ということである。
そして最後問い。『あなたはこの三人の中で、だれが襲われた人の隣人になったのか?』 私たちは、まず例外なく自分を助けたサマリア人に置き換えてこの話を考えている。だが、自分を与える側の立場に置いている間は、この話の真髄を知ることは出来ない。私たちは、ボロ布状態で倒れているのがいったい誰であるのかを知らなければならない。衣服を剥ぎ取られ、殴られ、半殺しの状態で倒れるのが、『わたし』なのだ。そして、助けても何の得にも名誉にもならない宿敵である、『わたし』を手当てし、自ら歩いてわたしをロバに乗せ、わたしの分の宿賃を払い、わたしに薬と油と葡萄酒を注いでくださるこのお方はいったい誰なのか?そう、私たちの隣人になってくださったのは、イエス様をおいて他に誰がいようか?
油は聖霊、葡萄酒は十字架の血、宿屋は教会、そして支払いはイエス様の贖いを意味しているのかも知れない。律法の限界を知り、この無償の救いを受け取り、癒しを受け、感謝を捧げる時に、永遠の命が約束される者となる。そして、多くの者が行った「向こう側の道」、滅びに至る道ではなく、サマリア人の歩んだ命に至る道を、私たちの隣人であるイエス様と共に歩んで行くのである。
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当時はユダヤ人とサマリア人との間には激しい民族間の対立があり、ユダヤ人は混血であるサマリア人を蔑んでいた。ルカ9章にサマリアに関する話があり、イエス様は、もともと同じ民族であるはずの両者の対立に心を痛めておられることを知る。そして、そのサマリア人を登場させた喩え話しを、永遠の命を問う律法学者に話される。問われたイエス様は逆に問い直される。『律法には何と書いてあるか?』と。知識を誇る律法学者は、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』と、律法の核心を即答する。その答えをイエス様も『正解』と認められた。客観的に聖書には何と書いてあるか?という最初の問いの正解はこれだ。しかし、二つ目の問いを見逃してはならない。『あなたはそれをどう読んでいるか。』
その核心に気付かず、『わたしの隣人とはだれですか?』と問う律法学者に、この喩え話が語られる。だから、この話は決して道徳推進を語るものではない。礼拝し、祈り、施し、断食し、律法遵守だけに励み、それでよしとする律法学者にそんなことを語る必要はないのである。だが、律法遵守を謳うなら、完全でなければならない。一点も欠けることなく、100%完璧に律法を守り通さなければならない。イエス様は、私たちにそのような努力を求めていらっしゃるのだろうか? それを教えるために、この世に降ってくださったのだろうか?
そして、律法を厳守しても、その動機が正しくなければ、すべてが無駄になる。律法学者の頑張りは神様を愛するゆえか? 否、自分のため、己の救いのためではないか。そこには律法学者が答えている愛はない。正しい答えを得ていることは、神を知っているということと同意ではない。大切なのは、頭で知っていることではなく、愛を持ってそれを行っているか? 愛を実践しているか? ということである。
そして最後問い。『あなたはこの三人の中で、だれが襲われた人の隣人になったのか?』 私たちは、まず例外なく自分を助けたサマリア人に置き換えてこの話を考えている。だが、自分を与える側の立場に置いている間は、この話の真髄を知ることは出来ない。私たちは、ボロ布状態で倒れているのがいったい誰であるのかを知らなければならない。衣服を剥ぎ取られ、殴られ、半殺しの状態で倒れるのが、『わたし』なのだ。そして、助けても何の得にも名誉にもならない宿敵である、『わたし』を手当てし、自ら歩いてわたしをロバに乗せ、わたしの分の宿賃を払い、わたしに薬と油と葡萄酒を注いでくださるこのお方はいったい誰なのか?そう、私たちの隣人になってくださったのは、イエス様をおいて他に誰がいようか?
油は聖霊、葡萄酒は十字架の血、宿屋は教会、そして支払いはイエス様の贖いを意味しているのかも知れない。律法の限界を知り、この無償の救いを受け取り、癒しを受け、感謝を捧げる時に、永遠の命が約束される者となる。そして、多くの者が行った「向こう側の道」、滅びに至る道ではなく、サマリア人の歩んだ命に至る道を、私たちの隣人であるイエス様と共に歩んで行くのである。
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