Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

悪魔の正論 (ローマ 6:16)

2015年03月29日 | Celebration
妖怪ウォッチの流行に伴い、妖怪も注目を集めている。メディアでは特集番組が放送され、あちこちの町おこし運動や観光誘致のポイントにもなっている。八百万の神やアミニズムを信仰する多くの日本人は、河童のミイラが子宝をもたらすと聞けば、鰯の頭も信心から状態で、妖怪にすらご利益を求めて奉っている。

日本人はご利益に拘るが、欧米人は根拠に拘り、科学で証明できないような摩訶不思議な出来事に、多様な方面からの究明を図る。妖怪ではないが、ガーディアンエンジェルや守護天使とも呼ばれる「サードマン現象」、究極の危機状態に遭遇した時に助けに現れる第三者の存在については、長年研究が重ねられている。米国同時テロの際、炎に包まれるビルから避難した人の証言がある。火災と煙と非常用シャッターでどうにも身動きができなくなったその時、「わたしについてきなさい。あなたを家に送り届ける。」というはっきりとした声に導かれ九死に一生を得た。クリスチャンとしては、紛れもなく天使の助けと思うことだが、聖書を信仰しない一般的科学的論拠としては、(1)精神状態の混乱が招いた幻覚、(2)多重人格症例、あるいは(3)守護天使の存在など可能性としては挙がるものの、確証を得るには至らない。

物質的領域と人間的領域の相互作用は、何世紀にも亘って研究をされてきているが、殊、霊的領域と人間的領域の研究になると、現代に至っても尚、まったく無視されている。しかし、目に見えない世界を信じる人は年々増加し、50年前から数えると倍増というデータもある。霊的世界について、聖書ははっきりと語っている。そのポイントを確認しよう。

人間に類推できない未知の世界は理解できなくて当たり前

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。(Ⅱテモテ3:16)

聖書は、人間の類推では信じられないこと満載の書物だ。天地創造の神様、数多の奇跡、イエス様の贖い、復活と再臨。その内、理解できる部分だけ、あるいは好きな部分だけ信じているのは、ほんとうの意味で信じることではない。無限であり、永遠の神様が人間に類推できなくて当然と言えば当然なのだ。逆に、人間の理屈にすべて当てはめて理解できれば、それこそ眉唾。ここに、「人間創った神」か、「人間作った神か」の違いがある。自分には理解しえない未知の世界があるのは確か。それに否定的態度を取るのは愚かであり、知らない世界に対するオープンな気持ちとチャレンジ精神を抱いてこそ、新しい世界が広がっていく。

神がいるなら悪魔もいる

神様という言葉に抵抗のある人はほとんどいないが、話が天使とか悪魔とかになると、途端に荒唐無稽な御伽噺のように捉えられてしまう。この世界には、光と影、陰と陽、表と裏、 善と悪、男と女、のように必ず二つの対照がある。つまり神が存在しているのなら悪魔も存在し、神に仕える天使がいるのなら、悪魔に使える悪霊も存在する。天使や悪魔は、単に人間の心や善と悪とを象徴的に擬人化したものではない。創世記から黙示録まで、聖書は霊の世界の存在について繰り返し言及し、悪魔について警告しているにも係わらず、教会がこの事について論じないのは、この段階で悪魔の策略に陥っているのだ。犯罪を企む者にとって最も都合が良いのは、自分の存在と自分の目的を相手に知られないこと。私たちに対する悪魔の第一の働きは、自分の存在を隠すことなのだ。悪魔とか悪霊とか、そんな話しを喜んで聞きたいと人など誰もいないが、それは好きとか嫌いとかの観点で捉える問題ではなく、それが聖書にある事実か否かが問題なのだ。C.S.ルイスはこう語った。「サタンに対して無関心であることも、侮ることも、恐れることも、彼らの思うつぼなのである」と。 

悪魔の目的は、神と人間とを切り離すこと

へブル語ではサタン、ギリシャ語ではサタナス、いずれもその意味は「訴える者、告発する者」だ。この世の悪の根本原因は、すべてサタンの誘惑と人間の誤った自主判断に拠る。サタンは、人間の理性や感情に巧妙に働きかけ、この世の美しいものや楽しいものを使って人間を罪の道へ誘う。そして誘惑に陥って罪を犯すな否や告発する。サタンは、目に見える悪意ではなく、正論を持って誘惑してくるのだ。

「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません!」と豪語したペテロには、仲間を出し抜こうとする抑揚した感情があった。「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と呟くユダの正論には、自らの誤魔化しの奥にある隠れた心の動きがあった。私たち自身、時に自分の心の動機がわからないまま、言葉を発することがある。この世界、どこを見てもすべて正論が前提で動いている。政治も経済も道徳も。そしてあのイスラム国や北朝鮮であっても、彼らの「正論」によって動いているのだ。その歪んだ確信による「正論」が人を殺している。どこの国も、誰もが自分たちの正当性を主張する。しかしその正論に決定的に欠けているものがある。そこには愛が存在しない。

正論の応酬に、「愛」など持ちだせばせせら笑われるだろう。それくら、まったく愛が欠如している。国家間レベルから日常生活に至るまで、正論を振りかざす側と振りかざされた側のやり取りは平行線を辿るのみで、根本的な解決の糸口にはならない。こうして、世の中の正論を巧妙に用いながら、私たちを不幸と混沌へ陥れて行くのが、サタンの奥深いやり口なのだ。

サタンの究極の目的は、人間を苦しめることでも、殺すことでもない。一生、家庭や財産に恵まれていても、最後に神様との関係がなければ、サタンの勝ちであり、すべてを、命すら失っても、最期に主を呼び求めればサタンの負けなのだ。サタンは、神様の最後の審判の時、自らが滅ぼされてしまうことを知っている。だから、一人でも多くの人間を道連れにしようと必死に、ありとあらゆる手を使って唆してくるのだ。

人間は神につくか悪魔につくかの二つに一つ

知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。
つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。(ロマ6:16)

多くの人々、特に日本人は、神様側にいなければサタン側にいることになると理解していない。文化的に、イエスかノーかをはっきり主張せず、敢えて中庸を重んじ、白黒はっきりさせないのがマジョリティであり、良しとしている。しかし、霊の世界に中間のグレーゾーンはない。人間という存在は、神につくか悪魔につくかの二択を自らで選ぶことになっている。神様側につけば罪を赦され、永遠の命を得られる。一方、悪魔側につけば罪の奴隷となって、永遠の滅びになる。しかし徹底した現世主義に根差した自己中心性と霊的無知ゆえに皆、後者を選んでいる。明らかに人間を神から離そうとするサタンの働きに乗ってしまっているのだ。

イエス様に繋がること!

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。 (Ⅰペテロ5:7)

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(Ⅰペテロ5:8)

神様側についているために、必要なのは、イエス様に繋がっていること!ただそれだけ。サタンが最も敵視しているのは、クリスチャンの存在。他の人々は策略が功を奏して、知らずと悪魔陣営に繋がってしまっているのだから。ペテロの手紙は、各地に離散していて仮住まいしている選ばれた人たち、つまりクリスチャンに対してのメッセージだ。上記2つは良く知られているッ御言葉だが、前後して繋がっていることに気付いている人は少ない。聖句は呪文ではない。前後、そして全体の内容と意味を正確に把握理解することが大切だ。

ここで、悪魔に食い尽くされそうになっているのは、すぐ前にある思い煩いを任せることができないクリスチャンのことだ。神様と言う最強の味方を知りながら、日々悩みの連続、思い煩いの山。これら悩み煩いが不信仰となって、悪魔が噛みつく餌になる。クリスチャンの最も弱い部分につけ込み、躓かせようと、悪魔が狙う。実に「躓き」のギリシャ語は、スキャンダルの語源であり、人間が神様に躓くことが元祖スキャンダル、という訳だ。

神様に完全に委ねた途端に、サタンは手出しすること適わず、イエス様の前には何もできなくなるのだ。この戦いは、イエス様によってすでに勝利が決定している。決して侮ってはならないものの、神の子にとって悪魔は恐れる対象ではない。ただ、イエス様と繋がっていることだけに、気を配ればよいだけだ。


「全ての人に要請されている最も重要な決断は、心の底からイエスキリストに対する態度を決断することである。 一切のことがそれに懸かっている。」
聖書ハンドブックを著したヘンリー・ハーレーの言葉通り、誰もがこの決断に日々直面する。そのことに、あなたの人生の一切が懸かっている。受難週の今、イエス様の言葉を聞いてほしい。「あなたの罪は赦された。今日、あなたはパラダイスにいる。」この言葉をあなたが選び、確実にあなたのものになりますように。Happy Blessed Easter!




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怒り対処法 (ヤコブ 1:19)

2015年03月22日 | Celebration

聖書は少年法について何と言っているのか、子供は罪を犯しても許されるのか、今の世相を反映した質問が牧師に投げかけられる。少年犯罪の相次ぐ昨今、日本では少年法改定、選挙権年齢の引き下げの動きがあり、巷では喧々諤々と議論が交わされている。

18歳未満を「児童」と定義し、その権利を包括的に定めた国際条約によって、児童に死刑は適用されていない。この国際条約に批准している多くの国で、18歳未満は死刑にはならない。現在の日本では、性別を問わず満20歳以上の者が「成年者」とされており、それ以下の「少年=未成年者」には、原則的に刑事処分ではなく保護更生のための処置、量刑の緩和などの配慮が規定され、「少年法」で定められている。が、成人に達する年齢は、世界的にメジャーなのが18~21歳で、統計によると18歳が圧倒的に多い。同時に刑法でも18歳以上に死刑が適用されることになる。

昨今の議論の中、その筋の専門家の意見として、少年犯罪抑制のための3つの力が挙げられていた。が、日本を代表するような犯罪学権威のご高察に対抗し、一民間牧師えんぢぇるのシニカルな反論がある。

羞恥心:他人の目を気にして止めておこうという意識によって抑制される。
「恥」の意識と「罪」の意識は異なる。罪意識は、人を悔い改めに導く入口になり、改善への姿勢を生む。しかし、知られたくないことを知られてしまった故の恥意識は、まず隠そうとする意識から自分の内側に向けられ、多くは自己防衛から引きこもり、あるいは最悪自殺に発展する可能性が強い。また、恥意識として外側に矛先が向いた場合、家族や社会に対して犯罪に走ることになる。

罰に対する恐れ:処罰の厳格化によって抑制可能。実際に飲酒運転は、厳罰によって半減した。
受刑者に対し、その人が犯した犯罪によって被害者家族や周囲の人、社会の痛みをしっかりと示してわからせる、というプログラムを試したところ、逆に再犯率が高まる結果となった。このプログラムによって、「人をこんなに不幸にした自分が幸せになる価値などない」という意識が最も強く植え付けられたからだ。セルフイメージの否定&破壊は、そのまま否定的破壊的行動に繋がる。劣等感は決して人を立て上げることはない。

絆:家族、友人との絆があれば、犯罪抑制に効果がある。
正論すぎるほどの正論。しかし、正論は役に立たないことが多い。絆とは、家族のように、何が起ころうと決して崩れない関係のことだ。しかし、震災ですべてを一気に失った人と、第三者的な意識しかない人との間に絆が成り立つはずもない。人として、生きるために絆は必要だ。しかし、だから持て、と言われて簡単にできることではない。

少年法は、未成年者の人格の可塑性に着目するが故に作られている。また一つ一つの事件で、本来見るべき点は、年齢や何をしたかではない。少年であれ、成年者であれ、その動機においてそれが人間成長における未熟さ故なのか、人格的欠陥の故なのか。対処はそれによって変わるはず。そしてクリスチャンであれば、知っている。誰もが、同じ状況にいつ何時立つかわからないことを。犯罪も日常生活の小さく見える事件も、その要因は「怒り」という誰もが持つ感情から起こる。今や世界中に怒りが渦巻いている。そしてその渦は、平凡な生活を送っているはずの私たちをも巻き込む。わかっていても制御が困難な「怒り」は私たちが常に対処しなければならない切実な問題なのだ。

怒りの以下の4つに起因している。Hungry(飢餓感)、Anger(怒り)、Tired、(疲れ)、Stress(ストレス)。それぞれの頭文字をとってHATSと覚えられる。必要が満たされない時、大切にされていないと感じた時、疲れ果てた時、過大なストレスに、これらマイナスエネルギーが蓄積され、何かの拍子にその導火線に火が付き、爆発する。怒りと悲しみは表裏一体の関係にある。しかし、悲しみ要因は誰も大差ないのに対し、怒りは人によって非常に様々で複雑だ。あの人は何故あんなことで起こっているのか?と感じることは少なくないだろう。というのは、怒りと言うのは二次的感情であり、潜在意識の中に蓄積されたある感情によって二次的に起こるものだからだ。爆発の凄まじさに、しばしば火のついた導火線にばかり注意が注がれるが、実は爆発するのは導火線ではなく、その先のダイナマイトだ。それこそが、怒りの原因である第一次感情である。

例えば、夜遅く帰宅した娘に父親が怒る。「何故、こんなに遅くなったんだ!」この怒りを表した言葉の奥には、娘を心配する心、愛情がある故だ。しかし厳しい言葉で耳に届いたばかりに、娘は反撃。更に言い返して怒りの爆撃応酬となる。こうなると手が付けられない。夫婦でも、友人でも、類似の経験は一度はお持ちだろう。、世の家庭内戦、社会戦争、そして教会内紛争然り、これで怒りを繰り返している。

人生、寂しい、哀しい、辛い、期待はずれ、何で分かってくれないの!?の連続である。だが、それでいちいち爆発していたのでは、いくら体があっても持たない。そういった感情を制御出来るようになるのが、「大人」になると言うこと。何が自分をそうさせるのか?その自分の一次感情を、一度自分に問いかけ、そこを辿ってみると大抵はそこには何か深い根っこがある。その人が何に対して怒るのか?という所に、その人が本来解決すべき問題が潜んでいるのである。

安全な人生を送るための指南書とも言える箴言には、多くの怒りに対しての警鐘となる御言葉がある。

短気な者は愚かなことをする。(箴言14:17)
忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる。(箴言14:29)
穏やかな心は肉体を生かし 激情は骨を腐らせる。 (箴言14:30)
激しやすい人はいさかいを引き起こし 忍耐深い人は争いを鎮める。(箴言15:18)
激しく憤る者は罰を受ける。救おうとしても、あおるだけだ。(箴言19:19)
愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。(箴言29:11)
怒りやすい人はいさかいを引き起こし 激しやすい人は多く罪を犯す。 (箴言29:22)

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(ヤコブ1:19-20)

聖書は怒り自体を罪とはしていない。イエス様も怒られた記述もある。しかし、問題は怒りをどう表すかにによっては、そこに罪が生じることがあるということだ。ということで、怒りに対する7つの対処法伝授!

7秒耐えて祈る!
瞬間的怒りの持続時間は6秒だそうだ。怒りがこみあげたら深呼吸して、心を落ち着かせて7秒祈る。

その場を離れる。
怒りの対象を目の前にしたままでは、収まるものも収まらない。怒り爆発の寸前、真っ先にすべきはひとまずその場を離れること。衝動的な行動を起こさずに済む。

怒りはその日のうちにおさめ、翌日に持ち越さない
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェソ4:26)

怒っている時に重要な判断をしてはならない。
怒りの最中は正常な精神状態ではない。一旦口にした言葉は、簡単に取り消すことができない。

怒ると叱るは違う。
親が子に対し、叱ってもよいが、怒ってはダメ。叱るは教育だが、怒るは感情。怒ると叱るがこんがらがっていては子供に伝わらない。

怒りの代償は高くつく。
人前で起こるのは、感情制御できない子供と同じだ。その代償は高い。

私の怒りは正しいのか?再チェック。
怒っている人の頭の上には、「私は正しい」の錦の旗が堂々とはためいている。が、それは正しいことか?感情に支配される前に、なぜ憤っているのか?をチェックするのは賢明だ。

言うは易し、行うは難し。怒りのコントロールは難しい。しかし難しいことだからこそ、そこに神様の救いを求めることができる。誰もが怒りから解放される必要がある。過ちを犯した時、「お前はもうダメだ。生きていられないよ。」と囁くのは悪魔。私たちの主、イエス様は、こう仰る。「確かにお前は間違いを犯した。でも、お前の罪はすべてわたしが肩代わりしたんだよ。さあ、安心して行きなさい。」怒りは必ず制御することができると確信を持つこと。そうすれば、あなたは命を得るのだ。あなたのすべての過ち、怒り、涙の理由は、すでにイエス様が代わりに背負ってくださった。このことに信頼し、解放の人生へ今、歩み出そう!




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