Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

風の吹くまま ヨハネ3:3-8

2008年02月24日 | Celebration

イエス様は、よく木のたとえを用いてお話をされます。ヨハネによる福音書15章の「ぶどうの木」のたとえやルカによる福音書13章の「いちじくの木」のたとえがそうです。私たちの人生を木にたとえるなら、人生の目的は、花を咲かせること、実をつけることです。それでは、どうしたら、人生の花を咲かせることができるのでしょうか?今日は、そのことについて、ヨハネによる福音書3章3-8節を通して、田中啓介牧師からメッセージをいただきました。

 青森県に佐藤初女(はつめ)さんとおっしゃる方がいらっしゃいます。彼女は、「森のイスキヤ」と言う、家を開放し、全国からいろいろな問題を抱えた方々を迎え、もてなしと癒しの働きをされていらっしゃいます。その「森のイスキヤ」ができたばかりの頃、初女さんは、庭に白樺の苗を植えたそうです。ある日、嵐が来ました。初女さんが外を見ると、庭に植えられている白樺の若木は風に揺らされていました。しかし、その若木は、倒れることがありませんでした。その時、初女さんは、「木に芯が一本、通っていれば、倒れることがないのだ。」と気づかれたそうです。後日、そのお話をある方にしたところ、その方は、初女さんのお話に大変感動され、「嵐に遭い、強風にさらされている時、木は成長するのですね。」とおっしゃったそうです。初女さんは、その方の言葉に大変感動されたそうです。

 「木に芯が通っている」と言うことは、その木の根がしっかりしていると言うことです。もし、1mの木があれば、その木の根っこも1mあるということです。私たち人間を木にたとえるなら、根っこは、「私たちの存在(being)」の部分にあたります。「私たちの存在」、それは、「私たちが何のために生きているか?」と言う、人生における使命や思想、哲学などです。それに対し、幹は、「私たちの行動(doing)」の部分にあたります。私たちの人生における使命や思想、哲学などが、実際の生活、社会の中で活動するにあたり具体化されていく部分です。枝は、それに応じて成長し、花を咲かせ、実をつける部分です。枝はその行動が具体化した結果と言っていいでしょう。ですから、人間も、根本をしっかりさせることが何よりも大切です。

 木は、色々な環境の中で生きています。雨の少ない、渇いた土地に生えているサボテンや反対に雨の多い熱帯雨林のようなところに生息している木や植物もあります。また、都会のオフィスの中にある観葉植物など、環境は様々です。オフィスの中にある観葉植物などは、寒暖の差もなく、いつも水が与えられ、木にとっては、絶好の環境のように見えます。しかし、驚くことに、オフィスの中にある観葉植物は、変化の多い自然の中で生きている木に比べ、寿命が大変短いそうです。先にお話した、佐藤初女さんの木のエピソードにもあるように、木は、いろいろな条件の中で、成長していくのです。人間も同じように、人生の色々な状況、時には、試練と言われるようなことを通し、強められ、成長していくのです。木が豊かに成長しているのは、その根がしっかり成長しているからです。人間も豊かに成長するには、その根本、「『自己の存在』が、主イエスにあって確立している」ことが大きなポイントです。イエス様にある確信のポイントは5つあります。

1) 罪から解放されているという確信 (Iヨハネ1:9)
2) 永遠の命を持っているという確信 (Iヨハネ5:11)
3) クリスチャンの人生は聖霊様に導かれているという確信 (箴言3:5)
4) クリスチャンの祈りは必ず応えられるという確信 (Iヨハネ5:14)
5) クリスチャンの人生は必ず勝利するという確信 (Iヨハネ5:5)

 この5つの確信があれば、クリスチャンはどんなひどい試練に遭い、つまずいても、また立ち上がることができます。それは、どんなひどい嵐で幹が倒れた木でも、根が生きている限り、また芽吹き、再生していくのと同じことです。「クリスチャンなのに、なぜ、こんなひどいことが起こるの?」と感じたことがあるでしょう。それは、クリスチャンとしてすばらしい花や実をつけるためです。クリスチャンの人生は、このように試練と思われることがたくさんあります。それは、ほかならぬ神様の介入なのです。

 ヨハネ15章1-17節にぶどうの木の話があります。ぶどうの木であるイエス様につながっている私たち、クリスチャンは、その枝です。ぶどうの木は、放置しておくと、枝がどんどん伸びていきます。しかし、それでは、養分が分散してしまい、ぶどうの実はならないそうです。ですから、ぶどうの実がなるためには、いらない枝をどんどん刈り込んでいくのだそうです。私たち、クリスチャンも、クリスチャンとしての実をつけるために神様から必要のないところは、刈り込まれていきます。神様の刈り込みは、2つあります。

 1) 訓戒(実をつけるため)
訓戒は、罪と関係しています。私たちの中にある罪を手放す必要があるときに、神様は、訓戒の刈り込みをされます。私たちが神様の訓戒を受けた時は、その罪を気づかせていただき、悔い改めに導かれる時です。

 2) 訓練(実がついているが、もっと豊かな実をつけるため)
訓練は、心の平安と関係しています。神様の訓練は、私たちが自分の力でするのではなく、神様の力に信頼する必要がある時に与えられます。ですから、神様の訓練を受けた時は、自我を捨て、神様にもっともっと頼る時です。

 私たち、クリスチャンには、聖霊様が働かれ、私たちを導いてくださっています。聖霊様は、ギリシア語で、「プニューマ」、風と同じ意味の言葉です。木が風にその枝を任せて、揺れている時に成長していくように、私たちクリスチャンも聖霊様に任せて、イエス様のように変えられ、成長していきましょう

〔写真:クリスマスカクタスの花〕

天国の真珠 マタイ13:44-52

2008年02月17日 | Celebration

皆さんは天国についてどのように考えていらっしゃいますか?

イエス様を知らない方たちは、一般的にこのように考えています。

1)天国について考えたこともない
  日々の生活に忙しくて、天国のことなど考えている時間がない。
  科学的に証明できないことを考えても仕方がない。
  死ぬなどという縁起の悪いことを考えたくない。

2)天国も地獄もない
  人は死んだら無に帰する。天国も地獄もただの作り話。

3)天国も地獄もあるだろうけど、自分は極悪人ではないから天国に行ける。


 私たちクリスチャンは、天国と地獄が存在していることを知っていますが、目に見えず、行ったことがない天国について、天国(もしくは地獄)のことを、知らない人々にどのように伝えることができるでしょうか? 聖書は、天国についてたとえ話を用いて分かりやすく説明してくれています。

 今日のメッセージは、マタイによる福音書13章44-52節から、天国について共に理解を深めていきたいと思います。聖書における「天国」は、「神の国」のことを意味していますが、「天国」と言う言葉は、聖書の中でマタイにしか記されていません。

 マタイ13章44節では、「天国」を「畑に隠された宝」にたとえています。「畑」とは、私たちの人生を意味しています。畑に宝が隠されていることに気づいた人は、「持ち物をすっかり売り払って」までして、その宝を手に入れます。「宝」は人生で「最も大切なもの」を意味しています。

 しかし、私たちのそれぞれの現実をふり返った場合どうでしょう?「畑」には、いろいろなものが植えられています。それらは、人生の副産物です。富や名声、地位、不自由のない安定した生活などが、畑にあるのです。しかし、「宝」は、その畑の中に隠されています。私たちの人生は、目に見えるものばかりを追い求め、それらに囚われて、地中にある真の宝を掘り起こすことを躊躇してしまうことがほとんどなのです。

 また「天国」は、「商人が探している良い真珠」にたとえられています。(マタイ13:45)当時は、宝石を研磨したり、金を精選したりする技術が発達していなかったため、何の手も加える必要のなかった真珠は、いちばん高価なものにたとえられました。

 私たちの中にある、「宝」、「真珠」は、私たちの「命」、私たちの「存在」そのものを指しています。富や名声、地位、不自由のない安定した生活などは、私たちの命があってこそ、意味を成すものです。しかし、現代は、富や名声、地位があっても、何不自由ない人がうらやむような生活をしていると言われている人々でも、自らの命を絶ってしまったり、犯罪を起こしてしまったりすることがあります。それは、人の「命」、「存在」の尊さを理解できないが故に起こります。

 しかし、私たちは、自分自身の力で自分自身の「命」、「存在」が尊いと言うことを知るには、限界があります。しかし、私たちを創造してくださった全知全能の神様が私たちの「命」、「存在」を尊いとおっしゃってくださり、愛してくださるのです。(イザヤ43:4)そして、畑の中で泥だらけになっている私たちの存在を宝として見出してくださり、その命が光り輝くようにと、十字架上で自分の命を代償にするためにイエス様をお送りくださいました。イエス様を知り、イエス様を救い主であると告白することにより、私たちの「命」、「存在」は、朽ちることのない永遠の命に変えられ、真珠のように光り輝くのです。(コロサイ2:3)

 そして、その宝の真の価値を本当に知った時、私たちは、今まで持っていたものを全て手放しても、その宝や真珠を得ようとする、商人のようになります。それは、今まで人生の中で追い求めていた富や名声、地位、安定した生活や快楽などの副産物ではなく、神様が与えてくださる真の喜びや祝福で満たされるからです。「本当かな?」と思われる方もいらっしゃると思います。イエス様は、クリスチャンとして歩む私たちに、はっきりと、こうお約束してくださっています。

 『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる』(マタイ6:33)そうです! 神様を第一とする歩みをすると、富も名声も地位も安定した生活もみな与えられると神様は、保証してくださっているのです。

 自分の内に真珠を見つけた人(=クリスチャン)は、他の人たちの内にも真珠を見出すことができます。今週も周りの人々に真珠とその真珠を与えてくださった神様、イエス様を伝えていきましょう

耳をすませば 列王記上19:9-13

2008年02月03日 | Celebration
 私たちの教会、Good News Stationのあるロサンゼルスには、たくさんの外国から移民としてきた人々、仕事や勉強のために来ている人々がたくさんいます。そのため、街中には、初めて見る文字で書かれた看板や、いろいろな国のレストランなどをたくさん目にします。各国の文化に触れるのに一番手っ取り早い方法は、その国の食事を食べてみることなのです!

 さて、キリスト教が生まれたイスラエルは、私たち日本人にとっては、あまり馴染み深い国とは言えません。日本が、海や山に囲まれた雨の多い土地柄であるのに対し、イスラエルは、赤茶けた岩山や砂漠が続く雨が少ない国です。日本が稲作中心の農耕民族であるのに対し、イスラエルは、羊や牛などを飼う遊牧民族。日本が「水の文化」であるのに対し、イスラエルは「血の文化」等々・・。

 このように、気候や土地柄、生活様式の違う国で生まれたキリスト教が明治時代、鎖国が解けた日本に、欧米の宣教師によって紹介された時、日本の文化との違いに対して、互いに理解がなかったせいで、一般市民への伝道が浸透しなかったと今日、言われています。しかし、全知全能で、宇宙の創造主である神様は、ユダヤ人を創られ、そして、日本人も創られました。そんな神様が、私たち日本人が持っている文化を、決して否定されてはおられません。いやむしろ、日本人の特質を愛しておられるのです。

 とかく、「島国根性」、「オリジナリティ、クリエイティヴィティがない」と、言われがちな日本人気質、またクリスチャン人口に関しては、お隣の韓国に比べたら、いるか、いないかわからないほどの日本ですが、私たちは、偶像崇拝につながる生活習慣や日本古来の行事に対しては注意しつつ、日本人の特質を考えた上での福音伝道を、今日は日本語独特な表現方法から、みなさんと共に分かち合いたいと思います。

 
耳をすます

 今日の聖書箇所、列王記上19章9-13節で、神様がエリヤに語りかける箇所があります。神様の声は、静かにささやく声です。(列王記上19:12)日本人には、「耳をすます」と言う表現があります。英語の「Listen Carefully」と言う表現に似ていますが、「Listen Carefully」と言う表現は、聞こえている音や言葉の意味を捉えると言う意味を持っています。それに対して、日本語の「耳をすます」と言う表現は、漂う音や言葉を捉えると言う意味を持っています。

 耳は音を捉える器官ですが、その音を分析しているのは脳です。私たちが音楽を鑑賞するのは、右脳の働きによるものです。また、私たちが、人の話を聞いたり、ある音を雑音か、そうでないかと判断したりするのは、左脳の働きによるものです。面白いことに、日本は秋の夜長に響いてくる虫の音を、風流なものとして捉えていますが 、そのような感覚は日本人独特のものです。日本以外の他の国の人々は、左脳で虫の音を聞く(つまり一種の雑音として)そうですが、何と日本人(だけ)が、虫の音を右脳で感知(つまり音楽のようなものとして)するのだそうです!?

 「Listen Carefully」に対する音や言葉は、その対象は明確ですが、「耳をすます」に対する音や言葉は、対象がはっきりしていません。その対象をはっきりさせるために私たちは、「耳をすます」必要があるのです。フロイトは、この「耳をすます」と言う行為を「平等に漂う意識に集中をする」と表現しました。何が真理なのか? 何が本当に大切なことなのか? 多くの情報が飛び交うこの世の中で、私たちは先ず、「耳をすます」必要があります。私たち日本人は、生活の中で、日本の文化の中で、「耳をすます」と言う行為に慣れ親しんでいます。その慣れ親しんだ行為によって、神様の静かにささやく声に耳をすましてみましょう。


主語を明確しない表現

 「日本人は、自己主張が得意でない」と言われています。それは、言葉の表現方法にも出ています。「ぞうさん」と言う、歌があります。2番の歌詞で「♪ぞうさん、ぞうさん、誰が好きなの~?そうよ、母さんが好きなのよ~」これを英語に訳しますと、「Yes,I Love My Mom」となり、「I」を入れなければ、文として成立しませんが、日本語の歌詞には、「わたしは」の部分がないのです。英語の表現では、必ず、「I」や「You」、または、「It」のように主語になる言葉が文頭に来ますが、日本語には、倒置法のような表現が多く使われます。このように日本人は、「自分を前に持ってこない」、これを良く言うと、「奥ゆかしさ」があります。この日本人が持つ一種の美的感覚は、クリスチャンが聖霊様に満たされた時、「自分のことばかりでなく、他の人のことを考えることができる」力に共通するものがあるのです。


腹を決める

 「腹を決める」と言う表現も日本独特のものです。「腹を決める」と言う意味は、「言動一致=Integrity」と言う意味。第二次世界大戦中、多くの若者が戦争で尊い命を失いました。特に、終戦直前に特攻隊という部隊に属していた若者たちは、自らの命を引き換えに敵軍に向かっていきました。また、捕虜になることを潔しとせず、自決していった人たちも大勢います。彼らは、「日本のため、天皇陛下のため」と言う名目で自分の命を捧げました。そのことを彼らは「頭」ではなく、「腹」で決めたのです。このことは、あまりに不幸で間違った歴史でした。ですが、この自分の都合や利害関係などを全く考慮に入れない真摯な姿勢を、イエス様のため、福音宣教のために用いることができたとしたら、瞬く間に日本中にリバイバルが訪れ、その火は世界中へと広がることでしょう!


和の精神

「和」とは、日本を最もよく表している言葉です。「和」という言葉の意味は日本古来のもので、聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条が、「和をもって尊しと成す」です。「和」と聞くと、「何が真理か?と言うことよりも、人に迷惑をかけないことが最優先」と教えられ、一つ間違うと、真理が間違った大多数の意見に飲み込まれてしまうことがあります。「赤信号みんなで渡れば怖くない」の世界です。

 しかし、「人に迷惑をかけない」と言うことが、「真の正しさ」によって行なわれるなら、「和をもって尊ぶ」と言うことは、イエス様がおっしゃる「互いに愛し合いなさい」と言う御言葉とリンクします。私たちは、古来の「五人組」制度のような村人意識ではなく、キリストの愛の一致によって、大きな「キリストにある和」の世界を創り上げていくことができます。なぜなら、日本は「大和の国」と呼ばれているからです。

「日本には霊的覆いがかかっている!?」「日本文化にキリスト教は浸透しない!?」「日本がキリスト教国になるには、全ての日本文化を否定しなければなならない!?」 そんなことは、絶対にないと思います。勿論、主によって変えていただかなければならない部分も沢山あります。でも、私たちは絶望することも、落胆することもありません。何故なら、イエス様は日本人の特性を愛しておられるからです

 もし、イエス様が日本を愛されていなかったら、祝福されていなかったら、国土も狭く、資源もない日本が、現在のような豊かな国になり得るはずがありません。日本は戦後の何もない焼け野原から、僅か40年で経済大国へと復興を遂げました。今、「Made in Japan」と記された製品が世界中に流通している今、イエス様の愛が、日本から大きく発信されることを期待しつつ、日々の生活の中で、神様から私たち一人一人に与えられている働きを聖霊様に導かれつつ、希望を持って歩んで行きましょう!



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