Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

こうすりゃ家族は明るくなる! by 中野雄一郎

2007年07月22日 | Special
世界をまたにかける福音伝道師、男・中野雄一郎見参!! 今月68歳になられたとはとても思えない益々冴え渡る中野節! 『天声妻語』暦40年のキャリアで、ビジネスに、家庭生活に、そして信仰生活に成功する秘訣を教えてくださいました。


友達になろう! ヨハネ15:12-17

2007年07月17日 | Celebration
 本日の聖書箇所は、イエス様の教えの核心部分。今回のメッセージは、絵本のベストセラーで、アニメにもなった『あらしのよるに』という物語から始まった。このお話は、オオカミ<喰う者>とヤギ<喰われる者>との間に生まれた、通常起こり得るはずのない友情の物語。本来、宿敵同士であるはずの二人(二匹)の間には、大きな葛藤と、社会との対立が立ちはだかる。それでも二人は友情を選び、育み、そして最後に 『友のために自分の命を捨てる』 という行為に出る。

 この御言葉(ヨハネ13節)の意味は重い。「自分にはとてもできない・・」と思う。しかし、イエス様はどうしただろう。この時、『友』と呼んだ弟子の中にはユダもいた。3度も否認したペテロもいた。『友』であったはずの弟子達は、十字架刑の前にほとんど全員逃げ出したのだ。そんな友のために、命を捨ててくださったイエス様。もちろん、ここには私達も含まれる。このイエス様に倣い、私達はクリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、周りの人達に対していつも『良き友』であるべきだ。

 本当に困った時、何でも打ち明けられる友人はとても大切。そして、友人が困っていてもいなくても、御言葉を宣べ伝えるのはキリスト者としての務め。聖書の御言葉を適切に、そして確実に伝えるためのステップがある。GNS基礎講座にことあるごとに登場する、①御言葉②聖書理解③人間理解の3ステップ。キリスト者として一番大切な①、そして②、最後に③の順は間違いではない。が、神様を知らない人に「人を見ないで神を見ろ!」と言うのは無理というもの。彼らが先ず最初に見ているのは、彼らと接している『あなた』なのだ。だから人は先ず、③から入り、②へ降りて、ようやく①の御言葉へと辿り着く。

 最初は、相手から本音を引き出す『解放スイッチ』を入れてもらわないことには、先へは進まない。つまり、上記の3ステップをベースとした親密な人間関係が伝道への土台となるのだ。次に、キリスト者だけが知っている奥義へ入っていく。誰もが幸福になりたいと思うのに、周囲は実に不幸ばかりである現実の背後には、どうしようもない人間の『罪の問題』があることを気付かせる。そうしたところで最後、取って置きのメッセージ! 罪だらけのどうしようもない人であっても、神様にとっては、愛すべきかけがえのない存在であること、この福音の核を伝える。そして、神様の愛へと導いていくのだ。

 とはいえ、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(12節)」 と言われて、「はい、分かりました」と、直ぐに行動出来れば誰も苦労はしない。そこで、とっておきの牧会カウンセリングの基本中の基本、人とのコミュニケーションを構築するための4つの柱を教えられた。

(1) 時間:その人のために自分の時間を割く。
(2) 交流:話すよりも聞いてあげる。“I”が出たら“You”ターン!
(3) 距離:甘くもなく冷たくもない距離が、長く付き合うコツ
(4) 受容:徹底的な受容は人を癒す。

 この4つの秘訣に加え、それぞれの人に合わせて、正しい聖書理解を持って御言葉を語ろう。そして、混沌の中にいるノンクリスチャンと友達になろう。一般社会にはない受容が、キリスト者には出来るのだ。『知性』の部分でイエス様の教えを知り、罪が赦されたという深い『体験』を持ち、そして最後の切り札、『聖霊様のパワー』が注がれるからだ。できないと思うときは、祈ろう! 求めよう! 友だちを作ることから、神の御国が拡がって行く。そのために必要なものは与えられる!これが、まごうことなき神様の約束なのだ!

キリストは、私たちのためにいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(Ⅰヨハネ3:16)

キリスト者の航海 フィリピ1:8-11

2007年07月08日 | Celebration
☆映画タイトル編その三:海洋アドベンチャーの巻。日本語では「地球」の文字自体から「地」が「球」であることが明白だ。しかしこの言葉ができたのは、江戸時代と言われ、「地球」を認識した最初の日本人は、南蛮渡来の地球儀を見た織田信長とのこと。聖書は最初から「地」が「球体」であると語っているが、その証明がされたのは、かの大航海時代。1492年のコロンブス新大陸到着と、1522年にマゼランが世界一周を成し遂げたことによる。

 人生は航海によく喩えられる。キリスト者の人生もまた航海である。その航海に絶対必要なものが2つある。それは、羅針盤(コンパス)と、航海図(チャート)である。この二つがなければ、たとえプロでも目的地に到着することは不可能である。キリスト者の航海も然り。コンパスと航海図がなければ、目的地(天国)に辿り着くことは出来ない。キリスト者にとってのコンパスとは、聖霊様の導き、そして航海図は聖書に他ならない。

 そこですかさず牧師の質問。「羅針盤と航海図がないままハワイに到着するのと、聖霊様の導きと、聖書がないまま天国に到着するのと、どちらが難しいか?」 答えは後者である。なぜなら、ハワイ航路の困難は、嵐や大波などの自然現象だが、天国航路においては、意図的且つ計画的な悪の力の妨害があるからだ。

 キリスト者の航海の目的は、航海自体にあるのではなく、目的地に着くことである。決して沿岸添いをグルグル廻ってるだけの観光クルーズではない。行き先は遥か彼方のパラダイス!だから目的をしっかと見つめて進む。先は長いが必ず目的地に到着しなければならない。

 天国行きの船。それがイエス・キリスト丸に属する教会だ。彼らは、生死を共にする仲間である。一生を通した長い航海であれば、尚更。ある時には、一人旅、波の行くまま、気の向くままの方が気軽なこともあるだろう。しかし、一人乗りのボートで目的地まで辿り着くことは無理。目的地(天国)到達を真剣に考え、それを心から望む時、目の前にあなたが乗るべき船が停泊しているはず。それが神様が導いてくれている船(教会)だ。

 GNSでは聖書を読む時、必ず以下の3ステップを踏むように教えられている。それは、

① Observation (観察)
② Interpretation (熟考)
③ Application (実践)イエス・キリスト丸乗務員の心構えも同じである。それは、

① 真理を求める。(自分の立場や状況を客観的に認識する)
② 真理を知る。(「これだ!」という真理を求め、それを知る)
③ 真理に従う。(真理を知ったら、それに従う)

福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(Ⅰコリント9:23)

 “Partaker”という言葉がある。この御言葉の某英訳でも使われている「共にあずかる者」を意味する言葉だ。生死を共にする船では、この意味は大きい。厳しい航海を乗り切って行くために、励まし、助けてくれる仲間が必要だ。共に喜び、共に感謝し、共に讃美しながら進んでいく。

 そして、キリスト者の航海にはもう一つの目的がある。それは、航海の途中で出会う、座礁している船や難破している船、また、方向が定まらないまま漂流している船の救出作業である。「信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」に、GNS丸も進んで行こう。イエス・キリスト船長と共に!

よし松親分の贖い ルカ 23章32-43節

2007年07月01日 | Celebration
アクション映画の次は任侠映画か?? と、思いきや、今日のメッセージは、日本人独特のメンタリティ、『忠義心』から始まった・・・。よし松親分は、あの清水次郎長の最後の子分で、滋賀県大津の町を取り仕切っていたやくざの長。彼が死の床にあった時、親分の息子が連れて来たのは、何故かお坊さんではなく、大津に赴任して来たばかりの若い宣教師だった。彼はよし松親分の枕元でこう語りかけた。

 「よし松さん、天国には神様がいて、私達はみんな神様につくられた神の子なのです。しかし、私達はその神様に対して罪を犯して、天国へ帰れなくなってしまいました。慈悲深い神様は、何とか私達を赦してあげたいと願いましたが、聖い神様は、どうしても罪は罪として罰しなければなりません。そこで神様は、自分のひとり子であるイエス・キリストをこの世に送って、私達の罪を全て肩代わりするために、十字架にかかって死んでくださいました。だから、このイエス・キリストを信じれば、私達の罪は赦されて、天国へ帰ることが出来るのです。」

 この話をずっと黙って聞いていたよし松親分は、うっすらと目に涙を浮かべながらこう答えた。「先生、ようわかりました。」と。そのあまりに素直な返答に驚いた宣教師。しかし、よし松親分はしっかりと語り続けた・・・。

 「先生、わしのようなヤクザ者でも、自分の子供はかわいいものです。そして、子分達もかわいい。もし、子分が何かしでかしたら、わしは自分の子供を身代わりに差し出すようなことも致します。本当にわしは今まで悪いことばかりして来ました。とても聖い神様の前に出れるような身分ではありません。しかし、このような者のためにも、自分のひとり子をこの世に送ってくださって、わしの罪の身代わりになってくださったということを聞いて、安心致しました。もう、何も思い残すことはありません。」

 そうしてよし松親分は、病床洗礼を受けた翌日、イエス様のいる天国へと帰って行ったのである。

実はこの救いの背後には、よし松親分の昔話があった。かつて、県庁を大津から彦根へ移すことが議会で取沙汰された。郷土愛に燃える大津市民の猛反対にも関わらず、次の議会で県庁移転が決定することになったその当日、よし松親分の子分300人が県庁へと乗り込んだ。議会は蜂の巣を突付いたような騒ぎとなり、知事も議長も窓から逃げて、当然議会は中止。子分達は全員現行犯で逮捕されてしまった。それを後で知ったよし松親分は、子分達を助けに一人で警察へと出頭した。

 「今回の事件は、わしがやりました。このわしが命令したのです。子分達は、わしの命令には逆らえません。ですから、悪いのはわしです。どうぞ、このわしをお縄にして、子分達を赦してあげてください。お願いします。」こうして子分たちの身代わりになったよし松親分は、12年の実刑を受けたのである。

 イエス様が人の罪の身代わりとなったという話を、よし松親分はとても他人事として聞くことが出来なかった。それが信仰へと至らせた。宣教師も呼ばれて来たものの、ヤクザの親分前にいったい何を語そうかと悩んだそうだ。しかし、キリスト者が伝えるべきことは結局これしかない。「あなたの罪のために死んでくれたイエス様を信じれば、天国へ帰ることが出来る!」まさにこの時、よし松親分はイエス様と出会うことが出来たのである。

 「自分はとても、神様の前に出ることなど出来ない。」と、心から遜る時、神様は大きな憐れみをくださる。イエス様が十字架に掛けられた時、右側にいた男もその一人だった。彼も最初はイエス様に毒づいていた。しかし、最後の最後に悔い改め、彼は何とクリスチャン第一号となった。信仰は、ただ恵みとして受け取るだけで良いのだ。

 イエス・キリストを真ん中に、左右の十字架に付けられているのは、実は私達であるということに気付かなければならない。イエス様を受け入れて右につくか、拒んで左につくか。私達は、必ずそのどちらかを選択しなければならない。私達の人生の全ては、そのことにかかっているのである。

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。(使徒4:12)