Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

愛の物差し Ⅰテモテ4:6-10

2009年03月29日 | Celebration
 愛の冷えたこの時代、あちこちに衝突がある。物理的であれ心理的であれ、衝突の原因は、それぞれが持っている物差しにある。人は誰しも心に物差しを持っている。自分の視線、自分の距離感覚、自分の価値観から成る自分の物差しだ。自分では唯一と思っているその物差しが他人や社会のそれとは違っていること、自分の持つ物差しは、実は自分だけにしか有効でないこと、ここに気づかないで突っ走ると、相手と衝突してしまう。ついで言えば、自分で絶対と思っているその物差しには二種類の目盛りがあり、しばしば自分には甘い尺度で、他人には厳しい尺度でと無意識に使い分けるという、衝撃の事実がある。

 計っているその瞬間はともかく、後で冷静になって考えると、社会の物差しは自分の尺度とは違うと気付くことがある。そうして社会的生物である人間は、ふと我に返って社会の物差しに一生懸命自分を合わせて生きようとしてみる。しかし、社会の物差しは、国、時代、民族、風潮、習慣、権力の移ろいに応じて変化するものだ。数年前の基準が既に廃れていること、文化圏という場所によって適合不可になること、真理と思われていたものが一時の風潮に過ぎななかったことなど、特にこの現代社会では、急激なスピードで変化し続るのを容易に見ることができる。だから社会の物差しを自分の価値基準とすると、状況によって価値観がフラフラする人間、安定を欠く人生という最悪な結果になってしまう。

 では私たちは、たった一度しかない人生の照準を何に持っていればよいのか。信念として据えるべき確固たる基準は何か。取り分け子育てを考える時、親は子供のアイデンティティを確立させる責任がある。あれこれしたい、と言う子供に対し、個人的感覚ではなく、確かな基準に基づいたYES/NOを教えていくことが大切だ。国や時代を超えた普遍の価値観、それは聖書にある。

この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。(Ⅰテモテ4:9)

 聖書は信じるに値するものだ。聖書では天地創造から語られている。イエス様がいらっしゃった時代だけを取り上げても、今から二千年前のこと。聖書以外に、二千年も読み継がれている書物はない。日本にあったと推定される邪馬台国は、イエス様より300年も後のことであり、その存在を確かに示すのは魏志倭人伝のごく一部以外には残っておらず、必ずしもその状況を正確に伝えているとは限らないとされている。しかし、それよりも以前のことであるイエス・キリストについて、聖書は実にリアルに、多角的に述べている。それは、聖書が真実であるからに他ならない。

 更に、聖書は実に多くの人々の生を変えてきた。イエス・キリストを体験することは、本人にとっては確固たる事実であるのだが、それは他人にとって状況証拠の域を出ない。しかし、その体験は疑いようのない真実であり、明らかな新生によって変えられた人生が多くの実を結んでいく。その結果が第三者の人生に作用し、新たなキリスト体験を生まれさせるのである。マザー・テレサ然り、イレーナ・センドラー然り、三浦綾子然り。聖書の言葉には、人生を180度変える力が秘められている。

 聖書のテーマとは何か?それは「愛」である。仏教を始め多くの宗教では、煩悩として扱われ、捨て去るべきもののように言われる「愛」は、本当にに人間にとって無用のものなのか?? 例えば、墜落しつつある飛行機の中、残り数分間という自分の人生の最期に、人は何を想うだろう。仕事の引継ぎ?読み終えなかった本の結末?いや、人は自分の最後の最後に脳裏に浮かぶのは、『愛したという記憶と、愛されたという実感』その愛の体験以外にはない。それが神様が創られた人間の本当の姿なのである。

 愛したいのに愛せない、愛されたいの愛してもらえない、人々はそんな満たされない思いの中で生きている。それは、罪によって神様との関係を自ら絶ってしまった人間の現実だ。だからこそ、聖書は「愛」を語る。愛の不在による悲劇を終わらせるため、イエス・キリストが十字架の上で、神様と私たちとの関係を回復させてくださったのである。この十字架の愛を受け取ることによって、私たちは「愛の物差し」という普遍の価値観を持つことが出来る。自分の物差しや、社会の物差しだけで生きているのは空しいことだ。時代にも流行にも権力にも、どんな時でも決して変わることのない「愛の物差し」を持って、新しい人生を生きて行こう!(睦美)

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北野実師 証しメッセージ

2009年03月22日 | Celebration
 僕は大阪で、クリスチャンホームに生まれ育ちました。我が家では、朝起きると最初に聖書を読むことが鉄則。多分、普通のご家庭ですと、朝起きて、テレビをつけたり、新聞を読んだりしますよね?僕の家では、朝聖書を読まないで新聞を広げたり、テレビをつけたりすると、母親の雷が落ちるのです。「神様の言葉を聴く前に、テレビをつけるなんて、いったいどういうこと!?」という風に・・。我が家には、「NO-BIBLE NO-BREAKFAST」という言葉があったくらい、とても厳しい家庭でした。でも、僕にとってキリスト教は、ただ毎週通うだけの教会(通わないと怒られるから)。ただの毎日教訓として読む聖書(読まないと怒るられるから)でした。つまり、自分にとっては単なる宗教・文化でしかありませんでした。そして僕は、中学生になったころからサッカー部の活動に夢中になり、日曜日はほとんど教会に行かなくなり、教会生活から段々遠のいて行きました。

 そんな僕に転機が訪れたのは中学三年生の時でした。その頃、父親はうつ病にかかっていました。当時僕は、うつ病のことが良く分からず、“お父さんは精神科医にかかっている”という認識しかありませんでした。父親はとても真面目な人で、ストレートな信仰の持ち主でした。一代目クリスチャンの父は長男で、祖父から先祖供養などの責任を負うように言われていたようでしたが、自分はクリスチャンなので、それは出来ないとはっきりと断り、それで財産相続が出来なくても、頑としてクリスチャンとしての行き方を変えない。そんな人でした。

 とにかく一徹な人でしたから、職場でもいろいろな葛藤があったようです。父は、神様の前にまっすぐであった分、世間からは融通の利かない人間だと評価されていました。父はある大学の事務局で働いていたのですが、そこで発生したちょっとした失敗にとても責任を感じ、自分を責め、悩むようになりました。僕が小学六年生の頃から父はうつ病になり、中学三年になった頃は、父は大分苦しい状態まで追い込まれていました。そんなある日、病院から疲れて帰ってきた時の父の表情を見て、「もしかして父は死んじゃうんじゃないか? 自殺するんじゃないか?」という不安がよぎりました。しかし、父は真面目なクリスチャンです。そんなはずはないと直ぐに思い直します。それから数日後の夕食の時に、僕は父にこう言いました。「お父さん、自殺なんかすると、すごく大変なんだって。自殺したら家族みんながすごく大変な思いをするんだよ」僕はただ、父親に自殺をしてほしくないが故に言ったつもりでした。ですが、その心の奥底には、「父親に自殺されてしまったら、自分の人生はどうなるのだろう? もう大学にも行けなくなってしまうじゃないか?」という、自分中心の思いがあったのです。

 その3日後の夜、病院から「お父さんが怪我をされたのですぐ来てください」という電話が家にありました。病院の方は詳しいことは何も話してくれず、母だけが病院へ向かいました。僕はその時、「父が死んだ」と直感的に感じました。翌朝、僕たちのことを心配して、夜中に駆けつけて下さっていた教会の人たちに私は起こされました。そこで、父親が自殺したことを聞かされたのです。僕は思いました。「僕のせいだ・・僕のあの言葉が父を殺したんだ。自分は取り返しのないことをしてしまった・・」僕は今までサッカー部で頑張りながら、勉強もしっかりとやる模範的な子供だと思っていました。しかし、その心の奥底には自分さえ良ければよいという自分に対する思いしかなかったのです。そんな僕が、父親を死に至らせてしまった。こんな僕は刑務所に行かなければならないと真剣に考えました。父親の自殺は、癒されようのない大きな痛みと、深い罪責感を僕に与えました。

 僕はそれ以来、「自分は人を傷付け、人を利用する悪い人間だ!だから人を傷つけるのが怖い。人に傷つけられるのも嫌だ」そう思って、絶えず人と距離を置いて付き合うようになりました。高校生になっても決して友人達と本音で接し合うことはありませんでした。だけど、本当は寂しくて仕方がなかったのです。「世の中にこんな自分を愛してくれる人などいるのだろうか? 何のために勉強しているのだろうか??」人生の目的を見出せず、人との出会いもなく、空しい風が吹く生活ってこんなことなのかなぁという毎日でした。そして、高校三年生の時、学校の先輩が、一緒に教会のキャンプに行かないかと声をかけてくださいました。僕は「教会主宰のキャンプなんて行きたくない!聖書なんて嘘だよ!」と思ったのですが、キャンプ場が“軽井沢”だったという言葉に魅力を感じ、軽井沢に遊びに行きたい!という一念でキャンプに参加する事にしました。僕の目的は、軽井沢のタレントショップで買い物して、軽井沢銀座で遊んで、東京の女子高生たちに会える!ただそれだけでした。

 そうしたらキャンプ場で、「北野君、君はイエス様のこと信じてるの?イエス様は君にとってどういう存在なの?」と、一人の伝道師の先生から声をかけられました。僕はクリスチャンホームに育っていますから、この手の質問には慣れています。「僕は、神様のことが科学で証明できたら信じたいって思っているんですけれど、なかなか信じられないんですよね~」と軽く交してやろうとこう言ったのですが、この先生は、高校で科学の教師をしておられる人でした。「北野君、僕も君のように科学的に神様の事を証明しようとしたけど、それで納得出来たとしても、それは頭で信じる信仰なんだよね。頭だけの信仰なら、何か大変なことがあったらすぐにやめちゃうでしょ。400年前、日本のクリスチャンは信仰の故に殺されたんだけど、もし、今そういう事になったら、北野君はすぐにやめちゃうでしょ。でも、心で信じたらやめないんだよ。北野君、どうせ信じるなら、命かけて信じてみなよ!」と。

 僕はこの言葉で、自分が今までの人生で、大切な問題をちゃんと考えていなかったことを恥ずかしいと思いました。それで僕は、「軽井沢で遊んでいる場合じゃない!」と思って、その日の礼拝に出席しました。その礼拝では、十字架の愛は条件がない!どんなに悪い人間でも、罪人でも、どんなことでも赦す神様だよ。君がハンサムでもなくても、君が勉強が出来ても出来なくても、変わらずに愛しているよ! 君は愛される価値があるんだとイエス様は言っているんだよ!!」そんなメッセージでした。それでも僕は、「本当かな? 僕にはお父さんの事があるんだ。それでも僕を愛してくれるのだろうか?」と考えていました。

 メッセージで一つの実話が話されました。韓国のソン・ヤンウォンと言う牧師さんのお話でした。ソン牧師はハンセン病の人達の為に教会を始め、“愛の原子爆弾”というあだ名がつけられているほど、愛に溢れた牧師でした。ところが、朝鮮動乱の時、二人の息子さんが共産党軍の兵士にリンチをされて殺されてしまったのです。その後、南韓国軍が盛り返し、韓国の地が回復したときに、ソン先生の息子さんを殺した兵士が捕まり、死刑の判決が下されました。しかし、ある人がやってきて、その犯人を無罪にして欲しいと申し出ました。その人とは誰あろう、彼に二人の息子を殺されたソン先生でした。

 「イエス・キリストは、あなたの敵を愛しなさい。と言われています。だから、赦さないといけません。彼を赦してやってください」とソン先生は韓国軍に懇願しました。人を何人も殺した殺人鬼を無罪には出来ないと、申し出は却下されたのですが、それでもソン先生は諦めないでこう訴え続けました。「彼を私の死んだ息子の変わりに養子にします。私がこれから、彼の人生に責任を持ちますから、どうぞ許してあげてください」そうしてソン先生は、自分の息子を殺した兵士を自分の養子として迎え入れたのでした。

 僕はそれがキリストの愛だと聞いて、「そんな愛だったら僕も信じたい!そんな愛を僕もほしい!そんな愛をもって僕も生きたい! そんな愛を持って生きるのなら、この世の中怖いものなんてないじゃないか!この愛の神様を信じたい!」と心の底から思いました。そして礼拝後すぐに牧師さんのところへ行き、「僕は本当に信じたいです」と言いました。そこで信じる祈りをしたら、今までただの文字に過ぎなかった聖書の言葉が、僕の中に温かく流れ込むようになりました。こんな体験は初めてでした。「こんなの初めてだ!映画みたいだ!」と思いました。それはまるで、今まで白黒の世界に生きていた僕の人生が、突然カラーの世界に変わって行くような、実にリアルな体験でした。「愛されるって気持ちいいなぁ~愛されるって自分を自由にするんだなぁ~」と思いました。そして神様に向かって黙想している時、父が死んで天国に行った時、イエス様が自分の手の傷跡を見せて、『お前の息子の罪のために、わたしは十字架で死んだ。だから、赦してあげてくれ』と言ってくださっている姿が浮かんで来ました。

 夏休みが終わって学校へ行くと、「自分はクリスチャンになった!」と僕は友人達にどんどん告げはじめました。周りの方が、「家がクリスチャンだからだろう」などと気を使いますが、僕は「いや、違うんだ。本当に信じたんだよ」周りからは、「お前どうしたの?」「最近北野は明るくなったね」などと言われました。それまでは、人と距離を置くようにしていたのに、イエス様を信じてから、全てが嬉しくて仕方がない。イエス様のことを皆に話したくてしょうがない!イエス様に愛されてるんだから、たとえ世界中が僕の敵になったとしても、イエス様の愛があるから大丈夫なんだ!と叫ぶほど、僕は変えられたのです。神様の子供になるということは、本当に素晴らしいことです。僕のこの世の父親は死んでしまいましたが、天の父なる神様は僕の霊的な父親として、僕の人生をいつも見守って下さっています。

 高校時代の僕には一つの悩みがありました。それは、お金がなくて大学には行けないんじゃないかと思っていたことです。ところが、指定校の大学に僕が推薦されるという、全く期待していなかったことが突然決まったのです。学費は親戚の方が出してくださるわ、保証人には教会の方がなってくださるわ、入試の時はたまたま出会ったクリスチャンの先輩に、「君の為に祈らせてください」と祈ってもらうわ・・・・。「神様の子供になるってすごいな!!!」それは、王様の子供になるってことは、王子になることなんだ!ということを実感させられた体験でした。今日、僕がこうやって生きているのは、僕が生きているのではなくて、僕のことを愛して、命を捨ててくださったイエス様を信じる信仰によって生きているんだと言うことを、心から告白したいと思います。

 最後に、今朝、こちらの教会にバスで来る途中、いつも使っているディボーションガイド「リビングライフ」を読んでいると、今日の箇所の中で「見よ」と言う言葉に目が留まり、主が僕に語ってくださいました。「僕ではなくて、神様がしてくださった素晴らしいことを観る者として下さい。そして、疲れた者に、あなたを必要な者に、僕のぼろぼろの人生を、最高の人生に変えてくださった神様のことを伝えさせてください!」と祈りました。僕は神様の証しを何度となくしていますが、何度話しても感動があります。神様が僕を愛してくださっている!神様は僕を王なる子供として生かしてくださっている。「お前は最高に幸せに生きるんだ。お前の人生をわたしが計画している。わたしの恵みを最高に享受して、人生をエンジョイしなさい!」と、神様は僕にそう言ってくださっています。その神様の素晴らしさを証し出来る恵みを心から感謝し、全ての栄光を神様にお返し致します。本当にありがとうございました。(筆記/Ako) 【写真:北野先生を囲んでランチタイム】

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)


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自分の十字架 マタイ10:34-39

2009年03月08日 | Celebration
自分の十字架とは?

 マタイ10章は、イエス様が弟子たちを最初に集められ、自分に従う者としての重要な心構えが凝縮されている章です。イエス様はここで、自分は何のためにこの地上に来られたのかを説明されました。34-35節で、「私が来たのは~」を3回繰り返し、また37-38節でも、「~これは私にふさわしくない」とまた3度。この御言葉は、イエス様が自分がこの世に来られた目的を明確に伝えておられる箇所です。そして、38節、「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない」と、イエス様はおっしゃいました。「自分の十字架を担う」とはどういうことなのでしょうか? 皆さんは、今まで自分の十字架をどのように理解しておられましたか?

 一般的な解釈は次のようなものです。①、神様から与えられた人生の目的、②、自分が人生で持ち続けている原罪、③、捨てきれない自分の自我。しかし、もし①だとしたら、例えばリック・ウォーレン師のように、主に大きく用いられている人たちに対して、「あなたは自分の十字架を立派に背負われていますね」と言うような表現するでしょうか? 誰もそんなことは言いませんね。では、②はどうでしょうか? イザヤ53:5に、「彼の受けた傷によって、私たちは癒された」と完了形で書かれています。「癒されるだろう、癒されるはずだ」、ではありません。また、イエス様は十字架上で、「完了した」と言われました。これは、「完済した」という会計用語で、「1セント残らず(罪の代償が)支払われた」という意味です。つまり、私たちの罪は、既に完済されたのですから、私たちはもう、自分の罪を自分で背負う必要はないのです。

 それでは、③なのでしょうか? 聖書は先ず、勝手な解釈をしないで、そのまま読むことがとても大切です。当時、「自分の十字架を担う」という意味は読んで字の如く、十字架にかかる、つまり、死ぬと言うことを意味していました。ローマの迫害時代の中にあって、弟子たちは主のために死んで永遠の命を得るか、自分にために生きながらえて永遠の滅びに至るか、そのどちらかを選択しなければなりませんでした。ここでイエス様は、「自我に死になさい」と言うような、教訓的なことを言われたのではありません。イエス様は、私たちの心を楽にさせるため、喜ばすため、感心させるために御言葉を語られたことなど一度もありません。この言葉は、緊迫した生きるか死ぬかの状況の中で語られた言葉なのです。

 このことは、何も2千年前の話ではありません。実は現状は今も同じなのです。例えば、この教会を挟んだ道の向こうがガザ地区だったら? そこには、血を流して苦しんでいる子供たちが何人もいます。お金がなくて、病院に行けずに苦しんでいる家族が大勢います。この世界には、そういった生きるか死ぬかの現実に瀕している人たちが沢山おられるのです。私たちは、そのことが直接見えていないから、無関心でいられるだけの話しなのです。一見、平和そうに見える日本も、毎日100人以上の人々が自殺している正に霊の戦場です。イエス様は、戦場で戦っている将校のように、自分の兵士(弟子)たちに、死にたくなかったら私について来なさい!と、必死で言われたのです。もし、そのイエス様の言葉に、「はい、従います!」と答えたとするとその後には必ず、「ではイエス様、これからどうしたらよいのですか!?」という問いが必ず続くはずです。自分の命がかかっているからです。そして、その私たちの問いに対する答えが、「自分の十字架を担いなさい」なのです。


十字架を背負わされた人

 ところで、この地上で、実際にイエス様と共に十字架を背負った人が一人だけいます。それはクレネ人シモンと言う人です。彼は、今のリビアにあたる田舎町から、はるばる過ぎ越し祭を見に来ていました。喧騒な街の賑わいの中、イエス・キリストという死刑囚が、十字架を担がされて道を歩いていました。その光景を見ていたシモンは、ローマ兵からいきなり十字架を担ぐことを強要されます。シモンはわけが分からないまま、血だらけのイエス様と十字架を無理矢理担がされました。シモンは、いきなり自分に振りかかって来た災難に、戸惑い、恐怖の念にかられていたことでしょう。「もしかして自分もこの罪人と一緒に殺されてしまうのではないか??」 しかし、聖書に彼の名前が残されているのは、おそらく彼は、ゴルゴダの丘についても逃げ出さずにイエス様の十字架を最後まで見届け、彼が神の子だったことを信じて、キリスト者に変えられたからだと思います。このことからも分るように、十字架を背負うなどということは、人間の意志や理性で出来るようなことではありません。最初は無理やりに背負わされ、「どうして私が?」と理解出来ないものなのです。

 イエス様の十字架は、本来、彼が負う必要などなかったものでした。しかし、イエス様は私たちの罪、怒り、憎しみ、悲しみを全て一手に担ってくださったのです。では、私たちが担うべき十字架とは何なのか? それは、本来私たちが担う必要のない、自分にとっては直接関係のない誰かの重荷を、その人のために背負うということなのです。イエス様の目的は、一人でも多くの人を救うことです。人の救いがイエス様の目的ならば、それは同時に、私たちに託された目的とも言えます。私たちは、自分の罪をイエス様に赦されたと言う深い実体験があるからこそ、私たちは人の罪や救いについて、考えられるようになります。でも、人の為に人の十字架を負うなんて・・・、みんな自分のことだけで精一杯です。人のために生きるということはどういうことなのか? そんなことが本当に自分に出来るのだろうか・・・。


十字架を背負った人

  去年の5月、イレーナ・センドラーという方が98歳で昇天されました。彼女は第二次世界大戦下のヨーロッパで、2500人以上のユダヤ人の子供たちの命を助けたポーランド人です。彼女が助けた子供の数は、あのシンドラーさんの倍以上に達します。ところが、そんな彼女の存在を、世界は50年以上も知らないでいました。しかし、この終わりの時代に、聖霊様がイレーナさんの存在を明らかにしてくださいました。当時、ユダヤ人はゲットーという劣悪な環境に隔離されていました。イレーナさんは衛生局の保健婦という肩書きでゲットーの中に入り、子供達をトランクに入れたり、時にはスカートの中に隠したりして、一人一人助け出したのです。そのままでいたら子供たちは、強制収容所行きだったからです。

 シンドラーさんも杉原さんも、多くのユダヤ人を救ったことで世界的に知られています。しかし、彼女の凄いところは、ユダヤ人迫害の真っ只中にいたということです。当時、ナチス占領下における最も恐ろしい規則は、もし、誰かがユダヤ人を助けたりしたら、本人もその家族も全員死刑というものでした。そのような状況下で、彼女は子供たちの救済活動を続けたのです。遂に彼女はナチスに捕まってしまいますが、酷い拷問にも、頑として彼女は口を割ることをしませんでした。そして処刑される直前、彼女は何と奇跡的に逃出することが出来たのです。

 彼女は、戦争が終わった後に、助け出した子供たちの記録を残すために、親子の名前を書いた紙をビンの中に入れて林檎の木の下に隠しておきました。後でそのビンが掘り起こされた時、ビンの中にあった子供の名前は2500人以上に上りました。戦争終了後、ポーランドは彼女の功績を公にしませんでした。地下組織の活動は、社会主義国家にとっては好ましくなかったからです。イレーナさんに助けられた子供たちは、大人になって自分たちの命を救ってくれた恩人を必死で探しましたが、彼らは彼女の「ヨランダ」という暗号名しか知らなかったので、50年間以上も誰も分からないままでいたのです。

 彼女にとってユダヤ人救済は、誰から頼まれたわけでもなく、何の報酬にも賞賛にもならないことでした。だけど、彼女はユダヤ人の子供たちを、自分の命と引き換えにして助けたのです。イレーナさんは最後にこう言われたそうです。「今の時代は、あの当時よりももっと悪くなって来ています。だけど、愛は必ず最後には勝つのです」と。それは自分の意志とか理性を遥かに超えた聖霊様の働きでした。イエス様は「私に従いますか?」と聞かれ、私たちはその問いに対して「YES」と答えました。その後に続く言葉が、「自分の十字架を担いなさい」です。「私はあなたの十字架を背負っている。だから、あなたはまだ私を知らない人の救いのために、彼らの痛み、悲しみ、苦しみを彼らの代わりに担ってあげなさい」それが、イエス様が私たちに託された「自分の十字架」です。皆さんの十字架は、誰のことですか?(Ako)   〔写真:暗号名「ヨランダ」ことイレーナ・センドラーさん〕
 
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3つ目の力・4人目の自分・5つ目の目的 (イザヤ57:15-19)

2009年03月01日 | Celebration
 人間は創造力を持つ。それは天使も悪魔も持っておらず、神が人間だけに与えられた能力である。その創造力の中核となるのは、知力や体力ではなく、第三の力である「霊力」である。

 今、日本人に最も影響力を持つ国民的作家・宮崎駿。彼が生み出すアニメーションは、日本全国の老若男女に注目され、社会現象にまで発展する。何がその感動を生むのか? 実は、彼の創作過程は、他に類を見ない非常にユニークで方法で行われている。通常は、まず骨格となるシナリオがあって、それに沿って制作が進められていくが、宮崎氏は、作品の「核」となるたった一枚の絵から、制作活動に入り、制作の進行具合に添って、ストーリーが構築されて行く。「私は、自分が好きなように作品を創っているのではない。この作品にはこうあるべき宿命があり、私はそのために働かされているだけなのだ」と、宮崎氏は語る。作為のない自由な発想が、作品に生命を与え、そして、その作品は作者の手から離れて、普遍的価値を有するに至る。宮崎駿氏然り、人間のクリエイティビティーは、触れる者に大きな感動を与えるのだ。その力の根源は、実に「霊力」にある。

3つ目の力
 人間は、「霊」、「体」、「心」の三重構造である。体と心は一般に認知されているが、人間の本質は実は「霊」にあるのだということを、聖書は幾度も語っている。それぞれの部分はそれぞれに力がある。残念ながら、世の中の人は、肉体と心の働きが全てであると考えている霊的文盲の人が大半であるが、実は「霊力」無しに真の人生実現はあり得ないのである。

4人目の自分
 「霊」はしばしば「心」と混同されているが、その違いに大きくアプローチできるのは、誰しもが内に抱える4人の自分。自分も他人も知る自分、自分しか知らない自分、他人しか知らない自分、そして自分も他人も知っていない自分がいる。この未知の自分は潜在意識の中に存在している離れた部分である。ここに神の霊と直結した無限の可能性がある。

5つ目の目的
 人間は人生に何を求めているか。心理学者マズローの5段階欲求説では、第一に生理的欲求、次に安全、そして所属、承認と続く。しかし、この4段階は、動物世界にも存在していることで、人間だけが有する5つ目の目的に、「創造」である。マズローはこれを「自己実現」と表したが、それは、人間関係の構築、仕事、喜びや励まし、親切、感動等々、それらは全て、人間が創造力によって生み出しているのである。私たちは、自分の人生を自発的に「創る」という行為によって、自己を実現していくのである。


神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。(ヘブル4:12)

 近年では、学術研究者によって、精神(心)と霊の違いがやっと公認され始めているが、「霊」について的確に教えてくれているのは聖書である。例えば、ヨハネ3章の、イエスとニコデモとの会話の中において、「霊」の存在が明確に語られているが、先ずここで知ることが出来るのは、「精神」は100%肉体に依存し、「霊」は肉体を離れて機能するということである。

 神の息吹という意味を持つ霊は、「インスピレーション」、「」、「良心」、そして「」の4つの働きを成す。この働きが人間の創造を促すのである。そして、この霊の働きは、愛と義と調和である神からの霊の補給を続けることによって作動する。人間の本質は実に「霊」にある。「霊」こそが人間の主体なのだ。「霊の所在」こそ、人間が人間らしくあるために、人生を創造に満ちた素晴らしいものにするために、唯一問題とすべきものなのである。(睦美)


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