「自分がミジメなのは分かっている。でも教会に行くともっと自分がミジメに思えてくる」
こう言ったのは、以前風俗店で働いていた経験のある女性だった。実際、多くの日本の教会は、真面目で常識的で教育レベルも高そうな人たちばかりで、そんな彼らを見ていると、とてもじゃないが「私もクリスチャンです。」とは言えなくなる。教会へ行って慰められるかわりに、劣等感を植えつけられてしまいそうになるのである。
そう感じさせてしまう日本の教会の体質にも問題はあるが、基本的にそれは彼女の誤解である。何故なら、清く正しく立派になることがクリスチャンになる目的ではないからだ。そんなことではなく、大切なことは先ず、「あなたは何を信じているのか?」ということなのである。
クリスチャンは何を信じているのか?それは、キリストを自分の救い主として信じているということである。それを砕いて言えば、「自分には出来ないことを神が代わりにして下さった」ということ。つまり信仰とは、先ず自分の限界を知るところから始まるのだから、教会で劣等感を感じるということは、元来話しがおかしいのである。
□心の探求
あなたの周りには多くの友人や知人たちがおられると思うが、あなたが人生の境地に立たされた時、自分の周りには、以下の4種類の人間がいることが分かる。自分が本当に困った時、色々と心配してくれる人はいたとしても、実際に力になってくれる人は、現実には非常に限られている。自分にとって真の友人が何番目の人なのかは言うまでもない。
1).あなたの状況を何も知らない人
2).あなたの状況を見て見ぬフリをしている人
3).あなたを励ましたり、助言をしてくれる人
4).何も言わないでただ力になってくれる人
このように、人に対する洞察は、良い人間関係を構築する上において非常に大切であるが、それよりも大切なことは、自分自身に対する洞察である。自分は本当は何を求めているのか?自分にとって本当に大切なものは何なのか?自分は本当は何をしたいのか?自分の希望だと信じていたことが、実は親の希望であったり、実はクリスチャンとしての建前であったり、世間の流行だったり、他人の夢だったり、一時的な感情・感覚に流されていたということは、現実によくあることである。
□心の時間
藤井美和さんはクリスチャンホームで育ち、15歳で洗礼を受け、新聞社に勤務していたキャリアウーマンだった。ところが28歳の時に突然ギランバレー症候群という原因不明の難病に冒され、生死の間をさまよう。そこで彼女は、日本の病院では死に直面している患者の心のケアーをする人もシステムも何もないことを知る。
ところがある日、彼女を測りに来た看護婦が涙を流しながら、「藤井さん辛いね。でも、神様の力はあなたの弱いところに完全に現れてくださるからね」と言ってくれたのである。それで藤井さんは、自分は何が出来るからとか、何を持っているから価値があるのではなく、たとえ何も出来なくても、何も持っていなくても、愛されて生かされているということが尊いのだ。
彼女は苦悩の闘病生活の中で、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。」というイザヤ43:4の御言葉を、神様から霊で受け取ることが出来た。神にあって自分は尊い存在なのだという充足感がなければ、人は劣等感と傲慢を往復する人生になってしまうのである。
その後、奇跡的に回復した藤井さんは、30歳で関西学院大学に編入し直して大学院に学び、米国に留学後、関西学院大学に『福祉学科』を設立し、そこで学生たちに『死生学』を教えている。死生学とは、『死』を自分自身の問題として真剣に受け止め、自分の人生の終着点として明確に位置付けることによって、限られた人生の課題を、真に明確化させる実践的学問である。
一人の健康な学生が突然癌を宣告され、自分が日に日に死に近付いていく過程を、日記を辿る形で疑似体験していく。自分がもう直ぐこの世からいなくなるとすると、今、自分を取り巻いている環境や、自分の身の周りにあるものを、一つ一つ真剣に検証して行かざるを得ない。そこで、自分にとって大切なものを、以下の4つのカテゴリーに分けて、3つ(人)づつ挙げてみる。
1). 大切な形あるもの(家、車、パソコン、携帯等)
2). 大切な活動(仕事、音楽、運動、趣味等)
3). 大切な人(親、配偶者、子供、友人等)
4). 大切な形のないもの(愛、感謝、信仰、神等)
そして宣告された日が後3ヶ月、1ヶ月、一週間、一日..と日を追うごとに、自分にとって大切な12のものを、一つ一つ消していく。そして、結局人間は、最終的には、最後に残ったものも、手放なさなければいけなくなる。これが人生の現実であり、これに該当しない人は世界中で誰一人として例外はいない。
その意味において、この世の人生は公平なのである。しかし、決して諦めではなく、もし、自分が今までの人生で得てきた『人生の宝』を、信頼出来る者に委ねて行くことが出来るとすれば、自分の人生は、そして死は、意味のあるものとなるのである。
今、崖から身投げしようとしている人には、どんな宗教であろうと、どんな優れた哲学であろうと、全く意味をなさない。その人に必要なことは、「それでもあなたは愛されているんだ!あなたは必要な人なんだ!」という事実を知ってもらうことしかないのだ。
その為に私達に必要なのは、その事実を伝えるための実体ある言葉と行為である。
□心の平安
日本で伝道・牧会しているイラン人牧師、アリ・レジャイアン師は、1969年イランのテヘランで8人兄弟の末っ子として生まれた。しかし生後半年で父親を事故で失い、8人の子供を抱えた彼の母親は、その後4回再婚を繰り返し、家には絶えず不特定多数の男性出入りしていた。アリ少年はそんな生活に嫌気がさし、9歳の時に家を出て、ストリートチルドレンになった。暫く万引きやサッカー賭博などで食いつないでいたものの、そんな生活にも疲れた彼は10歳の時に真冬の川の辺で凍え死のうと決心する。
ところが見知らぬおじさんに助けれ、彼からイスラム教の神のことを教えられたのだが、コーランに書いてある様々な規則を守ろうとしても守れない。いくら祈って神様は応えてくれず、何時までたっても平安がない彼は、神への思いをきっぱりと捨てる。
成長したアリ少年はイラン・イラク戦争の最前線に送られることになり、そこで彼は、自分の目の前で兵士たちが、手榴弾でバラバラになったり、兵士同士でも衣類や食料の奪い合うという、疑惑と緊張と恐怖と増悪の生活を強いられることになる。そんなある日、自分の食料を食べないで少しずつ貯め、それを食料を失くした兵士たちに分け与えている一人のアルメニア人の兵士がいた。
アリ青年は、「自分たちは皆、何時死ぬか分からない状況なのに、人を助けて何になる?あなたは何でそんなことをしているのか?」と聞くと、その兵士は「私がしているのではない。私の中にいるイエス・キリストがしているのです」と静かに答えた。彼はその時、感動するどころか、「また宗教かよ、いい加減にしてくれ!」と思った。しかし、それからその兵士のことが気になり、何となく彼の行動を見ていたが、その兵士の態度は周囲から誤解されようが、逆に迫害されようが、一環して変わることがなかった。
そんな姿を「すごい!」ではなく、「くそ!」と思ったアリ青年は、宗教批判もこれで最後だと思い、最初から批判・否定するつもりで聖書を読み出した。彼は今まで自分の生活を振り返り、自分も、自分の家族も、世の中全部罪だらけということだけは、嫌と言うほど味わって来た。自分だって出来るならそんな人生から抜け出せるものならそうしたい。だけど、規則なんか守れやしないし、勉強も出来ないし、ましてや修行など出来るわけがない。他の連中だって自分と大差はないはずだと彼は思っていた。
ところが聖書を読んで見ると、救われるためには、イエス・キリストが、自分のために十字架に架かって死んだと言うことを信じるだけで良いと書いてある。彼にはにわかに信じられないことだったが、自分の心では「ウソだろ?」と思うのだが、聖書には確かにそう書いてある。「もしそれが本当なら、この自分にだって出来る!」と思い、彼はイエス・キリストを信じたのであった。
しかし、イスラム原理主義国家であるイランで、キリスト信仰を保つということは、実に命懸けのことであった。イランではクリスチャンということが判ると国家反逆罪で、捕まったら死刑にされてしまうからだ。アリ青年の霊の命は救われたのだが、今度は、肉の命が危険に晒されることになったのである。
何とか無事に兵役から帰ることが出来たアリ青年は、以前から憧れていたサムライの国、日本へ信仰の自由を求めて来日を決意した。クロサワ映画以外に日本に対する予備知識が全くなかったアリ青年にとって、実際に日本での生活のカルチャーショックはかなり大きなものがあったが、教会で知り合った牧師の人々に助けられつつ、彼は必死で日本語を習い、JTJに通い出し、牧師になる道が開けて行った。
□心の宝
特攻出撃前に記されたある特攻隊員の手記。それにはこう書いてあった。「俺のために泣いた奴が一人、俺を恨んでる奴が一人、それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人、俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人、みんな合わせてたった一人・・。」彼にはたった一人だけ、親友と呼べる友がいた。
私たちも、仮にたった一人の友しかいなくても、そのたった一人が自分の真の理解者、共感者、応援者、見方であるならば、人は決して孤独に陥ることはない。また、自分で命を絶つことなどはない。真の見方が一人でもいたら、人は希望を見失うことなく、決して人生に失望することはないのである。
「さきほど友里愛は天国に旅立ちました。亡くなる直前に抱っこしてあげたら、にこって笑って最後はミルクも舐めて、安心した顔で、私たちよりももっと温かい神様の腕の中に行きました。友里愛の心臓は素晴らしい心臓でした。あの心臓だからこそ私たちや皆さんを繋いでくれたと思います。みなさんのお祈り本当に感謝します。」
人間にとっての本当の希望は天国にある。私たちの希望はまさしくそこにある。信仰とは、私の努力や信念でキリストに従い通してみせる!というのではなく、弱くてダメな私でも、幼いまま死んでしまったとしても、それでも神に愛されているのだということを信じることである。
つまり信仰とは、信じる私たち側の努力や能力にかかっていのではなく、神様側の能力、つまり愛にかかっているというのが、聖書信仰なのである。神がして下さるというのであるなら、それは決して途切れることはない。即ち、信仰はいつまでも残るのである。
イエス・キリストは、あなたを生かすために、自らの命を十字架上で捧げてくださった。私たちは、そのキリストの愛を知り、その信仰によって生きている者たちである。
信仰とは、苦しいことも、嬉しいことも、前向き肯定的に全てを丸ごと受け止めて、
全てに感謝する。何故なら人生で起こる全てのことには意味があり、その最終的なゴールまで、私たちを真の幸福を願い、それを成就してくださる神が導いてくださっているのだから。
イエス・キリストに対する信仰と希望は、たとい自分は死んでも、人を生かすようにしてあげるというキリストの愛によって結実する。「信仰」と「希望」と「愛」。私たちの人生においてこの3つは永遠に続き、決して消えることがないのである。
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こう言ったのは、以前風俗店で働いていた経験のある女性だった。実際、多くの日本の教会は、真面目で常識的で教育レベルも高そうな人たちばかりで、そんな彼らを見ていると、とてもじゃないが「私もクリスチャンです。」とは言えなくなる。教会へ行って慰められるかわりに、劣等感を植えつけられてしまいそうになるのである。
そう感じさせてしまう日本の教会の体質にも問題はあるが、基本的にそれは彼女の誤解である。何故なら、清く正しく立派になることがクリスチャンになる目的ではないからだ。そんなことではなく、大切なことは先ず、「あなたは何を信じているのか?」ということなのである。
クリスチャンは何を信じているのか?それは、キリストを自分の救い主として信じているということである。それを砕いて言えば、「自分には出来ないことを神が代わりにして下さった」ということ。つまり信仰とは、先ず自分の限界を知るところから始まるのだから、教会で劣等感を感じるということは、元来話しがおかしいのである。
□心の探求
あなたの周りには多くの友人や知人たちがおられると思うが、あなたが人生の境地に立たされた時、自分の周りには、以下の4種類の人間がいることが分かる。自分が本当に困った時、色々と心配してくれる人はいたとしても、実際に力になってくれる人は、現実には非常に限られている。自分にとって真の友人が何番目の人なのかは言うまでもない。
1).あなたの状況を何も知らない人
2).あなたの状況を見て見ぬフリをしている人
3).あなたを励ましたり、助言をしてくれる人
4).何も言わないでただ力になってくれる人
このように、人に対する洞察は、良い人間関係を構築する上において非常に大切であるが、それよりも大切なことは、自分自身に対する洞察である。自分は本当は何を求めているのか?自分にとって本当に大切なものは何なのか?自分は本当は何をしたいのか?自分の希望だと信じていたことが、実は親の希望であったり、実はクリスチャンとしての建前であったり、世間の流行だったり、他人の夢だったり、一時的な感情・感覚に流されていたということは、現実によくあることである。
□心の時間
藤井美和さんはクリスチャンホームで育ち、15歳で洗礼を受け、新聞社に勤務していたキャリアウーマンだった。ところが28歳の時に突然ギランバレー症候群という原因不明の難病に冒され、生死の間をさまよう。そこで彼女は、日本の病院では死に直面している患者の心のケアーをする人もシステムも何もないことを知る。
ところがある日、彼女を測りに来た看護婦が涙を流しながら、「藤井さん辛いね。でも、神様の力はあなたの弱いところに完全に現れてくださるからね」と言ってくれたのである。それで藤井さんは、自分は何が出来るからとか、何を持っているから価値があるのではなく、たとえ何も出来なくても、何も持っていなくても、愛されて生かされているということが尊いのだ。
彼女は苦悩の闘病生活の中で、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。」というイザヤ43:4の御言葉を、神様から霊で受け取ることが出来た。神にあって自分は尊い存在なのだという充足感がなければ、人は劣等感と傲慢を往復する人生になってしまうのである。
その後、奇跡的に回復した藤井さんは、30歳で関西学院大学に編入し直して大学院に学び、米国に留学後、関西学院大学に『福祉学科』を設立し、そこで学生たちに『死生学』を教えている。死生学とは、『死』を自分自身の問題として真剣に受け止め、自分の人生の終着点として明確に位置付けることによって、限られた人生の課題を、真に明確化させる実践的学問である。
一人の健康な学生が突然癌を宣告され、自分が日に日に死に近付いていく過程を、日記を辿る形で疑似体験していく。自分がもう直ぐこの世からいなくなるとすると、今、自分を取り巻いている環境や、自分の身の周りにあるものを、一つ一つ真剣に検証して行かざるを得ない。そこで、自分にとって大切なものを、以下の4つのカテゴリーに分けて、3つ(人)づつ挙げてみる。
1). 大切な形あるもの(家、車、パソコン、携帯等)
2). 大切な活動(仕事、音楽、運動、趣味等)
3). 大切な人(親、配偶者、子供、友人等)
4). 大切な形のないもの(愛、感謝、信仰、神等)
そして宣告された日が後3ヶ月、1ヶ月、一週間、一日..と日を追うごとに、自分にとって大切な12のものを、一つ一つ消していく。そして、結局人間は、最終的には、最後に残ったものも、手放なさなければいけなくなる。これが人生の現実であり、これに該当しない人は世界中で誰一人として例外はいない。
その意味において、この世の人生は公平なのである。しかし、決して諦めではなく、もし、自分が今までの人生で得てきた『人生の宝』を、信頼出来る者に委ねて行くことが出来るとすれば、自分の人生は、そして死は、意味のあるものとなるのである。
今、崖から身投げしようとしている人には、どんな宗教であろうと、どんな優れた哲学であろうと、全く意味をなさない。その人に必要なことは、「それでもあなたは愛されているんだ!あなたは必要な人なんだ!」という事実を知ってもらうことしかないのだ。
その為に私達に必要なのは、その事実を伝えるための実体ある言葉と行為である。
□心の平安
日本で伝道・牧会しているイラン人牧師、アリ・レジャイアン師は、1969年イランのテヘランで8人兄弟の末っ子として生まれた。しかし生後半年で父親を事故で失い、8人の子供を抱えた彼の母親は、その後4回再婚を繰り返し、家には絶えず不特定多数の男性出入りしていた。アリ少年はそんな生活に嫌気がさし、9歳の時に家を出て、ストリートチルドレンになった。暫く万引きやサッカー賭博などで食いつないでいたものの、そんな生活にも疲れた彼は10歳の時に真冬の川の辺で凍え死のうと決心する。
ところが見知らぬおじさんに助けれ、彼からイスラム教の神のことを教えられたのだが、コーランに書いてある様々な規則を守ろうとしても守れない。いくら祈って神様は応えてくれず、何時までたっても平安がない彼は、神への思いをきっぱりと捨てる。
成長したアリ少年はイラン・イラク戦争の最前線に送られることになり、そこで彼は、自分の目の前で兵士たちが、手榴弾でバラバラになったり、兵士同士でも衣類や食料の奪い合うという、疑惑と緊張と恐怖と増悪の生活を強いられることになる。そんなある日、自分の食料を食べないで少しずつ貯め、それを食料を失くした兵士たちに分け与えている一人のアルメニア人の兵士がいた。
アリ青年は、「自分たちは皆、何時死ぬか分からない状況なのに、人を助けて何になる?あなたは何でそんなことをしているのか?」と聞くと、その兵士は「私がしているのではない。私の中にいるイエス・キリストがしているのです」と静かに答えた。彼はその時、感動するどころか、「また宗教かよ、いい加減にしてくれ!」と思った。しかし、それからその兵士のことが気になり、何となく彼の行動を見ていたが、その兵士の態度は周囲から誤解されようが、逆に迫害されようが、一環して変わることがなかった。
そんな姿を「すごい!」ではなく、「くそ!」と思ったアリ青年は、宗教批判もこれで最後だと思い、最初から批判・否定するつもりで聖書を読み出した。彼は今まで自分の生活を振り返り、自分も、自分の家族も、世の中全部罪だらけということだけは、嫌と言うほど味わって来た。自分だって出来るならそんな人生から抜け出せるものならそうしたい。だけど、規則なんか守れやしないし、勉強も出来ないし、ましてや修行など出来るわけがない。他の連中だって自分と大差はないはずだと彼は思っていた。
ところが聖書を読んで見ると、救われるためには、イエス・キリストが、自分のために十字架に架かって死んだと言うことを信じるだけで良いと書いてある。彼にはにわかに信じられないことだったが、自分の心では「ウソだろ?」と思うのだが、聖書には確かにそう書いてある。「もしそれが本当なら、この自分にだって出来る!」と思い、彼はイエス・キリストを信じたのであった。
しかし、イスラム原理主義国家であるイランで、キリスト信仰を保つということは、実に命懸けのことであった。イランではクリスチャンということが判ると国家反逆罪で、捕まったら死刑にされてしまうからだ。アリ青年の霊の命は救われたのだが、今度は、肉の命が危険に晒されることになったのである。
何とか無事に兵役から帰ることが出来たアリ青年は、以前から憧れていたサムライの国、日本へ信仰の自由を求めて来日を決意した。クロサワ映画以外に日本に対する予備知識が全くなかったアリ青年にとって、実際に日本での生活のカルチャーショックはかなり大きなものがあったが、教会で知り合った牧師の人々に助けられつつ、彼は必死で日本語を習い、JTJに通い出し、牧師になる道が開けて行った。
□心の宝
特攻出撃前に記されたある特攻隊員の手記。それにはこう書いてあった。「俺のために泣いた奴が一人、俺を恨んでる奴が一人、それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人、俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人、みんな合わせてたった一人・・。」彼にはたった一人だけ、親友と呼べる友がいた。
私たちも、仮にたった一人の友しかいなくても、そのたった一人が自分の真の理解者、共感者、応援者、見方であるならば、人は決して孤独に陥ることはない。また、自分で命を絶つことなどはない。真の見方が一人でもいたら、人は希望を見失うことなく、決して人生に失望することはないのである。
「さきほど友里愛は天国に旅立ちました。亡くなる直前に抱っこしてあげたら、にこって笑って最後はミルクも舐めて、安心した顔で、私たちよりももっと温かい神様の腕の中に行きました。友里愛の心臓は素晴らしい心臓でした。あの心臓だからこそ私たちや皆さんを繋いでくれたと思います。みなさんのお祈り本当に感謝します。」
人間にとっての本当の希望は天国にある。私たちの希望はまさしくそこにある。信仰とは、私の努力や信念でキリストに従い通してみせる!というのではなく、弱くてダメな私でも、幼いまま死んでしまったとしても、それでも神に愛されているのだということを信じることである。
つまり信仰とは、信じる私たち側の努力や能力にかかっていのではなく、神様側の能力、つまり愛にかかっているというのが、聖書信仰なのである。神がして下さるというのであるなら、それは決して途切れることはない。即ち、信仰はいつまでも残るのである。
イエス・キリストは、あなたを生かすために、自らの命を十字架上で捧げてくださった。私たちは、そのキリストの愛を知り、その信仰によって生きている者たちである。
信仰とは、苦しいことも、嬉しいことも、前向き肯定的に全てを丸ごと受け止めて、
全てに感謝する。何故なら人生で起こる全てのことには意味があり、その最終的なゴールまで、私たちを真の幸福を願い、それを成就してくださる神が導いてくださっているのだから。
イエス・キリストに対する信仰と希望は、たとい自分は死んでも、人を生かすようにしてあげるというキリストの愛によって結実する。「信仰」と「希望」と「愛」。私たちの人生においてこの3つは永遠に続き、決して消えることがないのである。
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