Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

心の宝 Ⅰコリント13:11-13

2010年10月31日 | Celebration
 「自分がミジメなのは分かっている。でも教会に行くともっと自分がミジメに思えてくる」

 こう言ったのは、以前風俗店で働いていた経験のある女性だった。実際、多くの日本の教会は、真面目で常識的で教育レベルも高そうな人たちばかりで、そんな彼らを見ていると、とてもじゃないが「私もクリスチャンです。」とは言えなくなる。教会へ行って慰められるかわりに、劣等感を植えつけられてしまいそうになるのである。

 そう感じさせてしまう日本の教会の体質にも問題はあるが、基本的にそれは彼女の誤解である。何故なら、清く正しく立派になることがクリスチャンになる目的ではないからだ。そんなことではなく、大切なことは先ず、「あなたは何を信じているのか?」ということなのである。

 クリスチャンは何を信じているのか?それは、キリストを自分の救い主として信じているということである。それを砕いて言えば、「自分には出来ないことを神が代わりにして下さった」ということ。つまり信仰とは、先ず自分の限界を知るところから始まるのだから、教会で劣等感を感じるということは、元来話しがおかしいのである。


□心の探求
 あなたの周りには多くの友人や知人たちがおられると思うが、あなたが人生の境地に立たされた時、自分の周りには、以下の4種類の人間がいることが分かる。自分が本当に困った時、色々と心配してくれる人はいたとしても、実際に力になってくれる人は、現実には非常に限られている。自分にとって真の友人が何番目の人なのかは言うまでもない。

1).あなたの状況を何も知らない人
2).あなたの状況を見て見ぬフリをしている人
3).あなたを励ましたり、助言をしてくれる人
4).何も言わないでただ力になってくれる人

 このように、人に対する洞察は、良い人間関係を構築する上において非常に大切であるが、それよりも大切なことは、自分自身に対する洞察である。自分は本当は何を求めているのか?自分にとって本当に大切なものは何なのか?自分は本当は何をしたいのか?自分の希望だと信じていたことが、実は親の希望であったり、実はクリスチャンとしての建前であったり、世間の流行だったり、他人の夢だったり、一時的な感情・感覚に流されていたということは、現実によくあることである。


□心の時間
 藤井美和さんはクリスチャンホームで育ち、15歳で洗礼を受け、新聞社に勤務していたキャリアウーマンだった。ところが28歳の時に突然ギランバレー症候群という原因不明の難病に冒され、生死の間をさまよう。そこで彼女は、日本の病院では死に直面している患者の心のケアーをする人もシステムも何もないことを知る。

 ところがある日、彼女を測りに来た看護婦が涙を流しながら、「藤井さん辛いね。でも、神様の力はあなたの弱いところに完全に現れてくださるからね」と言ってくれたのである。それで藤井さんは、自分は何が出来るからとか、何を持っているから価値があるのではなく、たとえ何も出来なくても、何も持っていなくても、愛されて生かされているということが尊いのだ。

 彼女は苦悩の闘病生活の中で、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。」というイザヤ43:4の御言葉を、神様から霊で受け取ることが出来た。神にあって自分は尊い存在なのだという充足感がなければ、人は劣等感と傲慢を往復する人生になってしまうのである。

 その後、奇跡的に回復した藤井さんは、30歳で関西学院大学に編入し直して大学院に学び、米国に留学後、関西学院大学に『福祉学科』を設立し、そこで学生たちに『死生学』を教えている。死生学とは、『死』を自分自身の問題として真剣に受け止め、自分の人生の終着点として明確に位置付けることによって、限られた人生の課題を、真に明確化させる実践的学問である。

 一人の健康な学生が突然癌を宣告され、自分が日に日に死に近付いていく過程を、日記を辿る形で疑似体験していく。自分がもう直ぐこの世からいなくなるとすると、今、自分を取り巻いている環境や、自分の身の周りにあるものを、一つ一つ真剣に検証して行かざるを得ない。そこで、自分にとって大切なものを、以下の4つのカテゴリーに分けて、3つ(人)づつ挙げてみる。

1). 大切な形あるもの(家、車、パソコン、携帯等)
2). 大切な活動(仕事、音楽、運動、趣味等)
3). 大切な人(親、配偶者、子供、友人等)
4). 大切な形のないもの(愛、感謝、信仰、神等)

 そして宣告された日が後3ヶ月、1ヶ月、一週間、一日..と日を追うごとに、自分にとって大切な12のものを、一つ一つ消していく。そして、結局人間は、最終的には、最後に残ったものも、手放なさなければいけなくなる。これが人生の現実であり、これに該当しない人は世界中で誰一人として例外はいない。

 その意味において、この世の人生は公平なのである。しかし、決して諦めではなく、もし、自分が今までの人生で得てきた『人生の宝』を、信頼出来る者に委ねて行くことが出来るとすれば、自分の人生は、そして死は、意味のあるものとなるのである。

 今、崖から身投げしようとしている人には、どんな宗教であろうと、どんな優れた哲学であろうと、全く意味をなさない。その人に必要なことは、「それでもあなたは愛されているんだ!あなたは必要な人なんだ!」という事実を知ってもらうことしかないのだ。
その為に私達に必要なのは、その事実を伝えるための実体ある言葉と行為である。


□心の平安
 日本で伝道・牧会しているイラン人牧師、アリ・レジャイアン師は、1969年イランのテヘランで8人兄弟の末っ子として生まれた。しかし生後半年で父親を事故で失い、8人の子供を抱えた彼の母親は、その後4回再婚を繰り返し、家には絶えず不特定多数の男性出入りしていた。アリ少年はそんな生活に嫌気がさし、9歳の時に家を出て、ストリートチルドレンになった。暫く万引きやサッカー賭博などで食いつないでいたものの、そんな生活にも疲れた彼は10歳の時に真冬の川の辺で凍え死のうと決心する。

 ところが見知らぬおじさんに助けれ、彼からイスラム教の神のことを教えられたのだが、コーランに書いてある様々な規則を守ろうとしても守れない。いくら祈って神様は応えてくれず、何時までたっても平安がない彼は、神への思いをきっぱりと捨てる。

 成長したアリ少年はイラン・イラク戦争の最前線に送られることになり、そこで彼は、自分の目の前で兵士たちが、手榴弾でバラバラになったり、兵士同士でも衣類や食料の奪い合うという、疑惑と緊張と恐怖と増悪の生活を強いられることになる。そんなある日、自分の食料を食べないで少しずつ貯め、それを食料を失くした兵士たちに分け与えている一人のアルメニア人の兵士がいた。

 アリ青年は、「自分たちは皆、何時死ぬか分からない状況なのに、人を助けて何になる?あなたは何でそんなことをしているのか?」と聞くと、その兵士は「私がしているのではない。私の中にいるイエス・キリストがしているのです」と静かに答えた。彼はその時、感動するどころか、「また宗教かよ、いい加減にしてくれ!」と思った。しかし、それからその兵士のことが気になり、何となく彼の行動を見ていたが、その兵士の態度は周囲から誤解されようが、逆に迫害されようが、一環して変わることがなかった。

 そんな姿を「すごい!」ではなく、「くそ!」と思ったアリ青年は、宗教批判もこれで最後だと思い、最初から批判・否定するつもりで聖書を読み出した。彼は今まで自分の生活を振り返り、自分も、自分の家族も、世の中全部罪だらけということだけは、嫌と言うほど味わって来た。自分だって出来るならそんな人生から抜け出せるものならそうしたい。だけど、規則なんか守れやしないし、勉強も出来ないし、ましてや修行など出来るわけがない。他の連中だって自分と大差はないはずだと彼は思っていた。

 ところが聖書を読んで見ると、救われるためには、イエス・キリストが、自分のために十字架に架かって死んだと言うことを信じるだけで良いと書いてある。彼にはにわかに信じられないことだったが、自分の心では「ウソだろ?」と思うのだが、聖書には確かにそう書いてある。「もしそれが本当なら、この自分にだって出来る!」と思い、彼はイエス・キリストを信じたのであった。

 しかし、イスラム原理主義国家であるイランで、キリスト信仰を保つということは、実に命懸けのことであった。イランではクリスチャンということが判ると国家反逆罪で、捕まったら死刑にされてしまうからだ。アリ青年の霊の命は救われたのだが、今度は、肉の命が危険に晒されることになったのである。

 何とか無事に兵役から帰ることが出来たアリ青年は、以前から憧れていたサムライの国、日本へ信仰の自由を求めて来日を決意した。クロサワ映画以外に日本に対する予備知識が全くなかったアリ青年にとって、実際に日本での生活のカルチャーショックはかなり大きなものがあったが、教会で知り合った牧師の人々に助けられつつ、彼は必死で日本語を習い、JTJに通い出し、牧師になる道が開けて行った。


□心の宝
 特攻出撃前に記されたある特攻隊員の手記。それにはこう書いてあった。「俺のために泣いた奴が一人、俺を恨んでる奴が一人、それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人、俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人、みんな合わせてたった一人・・。」彼にはたった一人だけ、親友と呼べる友がいた。

 私たちも、仮にたった一人の友しかいなくても、そのたった一人が自分の真の理解者、共感者、応援者、見方であるならば、人は決して孤独に陥ることはない。また、自分で命を絶つことなどはない。真の見方が一人でもいたら、人は希望を見失うことなく、決して人生に失望することはないのである。

 「さきほど友里愛は天国に旅立ちました。亡くなる直前に抱っこしてあげたら、にこって笑って最後はミルクも舐めて、安心した顔で、私たちよりももっと温かい神様の腕の中に行きました。友里愛の心臓は素晴らしい心臓でした。あの心臓だからこそ私たちや皆さんを繋いでくれたと思います。みなさんのお祈り本当に感謝します。」

 人間にとっての本当の希望は天国にある。私たちの希望はまさしくそこにある。信仰とは、私の努力や信念でキリストに従い通してみせる!というのではなく、弱くてダメな私でも、幼いまま死んでしまったとしても、それでも神に愛されているのだということを信じることである。

 つまり信仰とは、信じる私たち側の努力や能力にかかっていのではなく、神様側の能力、つまり愛にかかっているというのが、聖書信仰なのである。神がして下さるというのであるなら、それは決して途切れることはない。即ち、信仰はいつまでも残るのである。

 イエス・キリストは、あなたを生かすために、自らの命を十字架上で捧げてくださった。私たちは、そのキリストの愛を知り、その信仰によって生きている者たちである。

 信仰とは、苦しいことも、嬉しいことも、前向き肯定的に全てを丸ごと受け止めて、
全てに感謝する。何故なら人生で起こる全てのことには意味があり、その最終的なゴールまで、私たちを真の幸福を願い、それを成就してくださる神が導いてくださっているのだから。

 イエス・キリストに対する信仰と希望は、たとい自分は死んでも、人を生かすようにしてあげるというキリストの愛によって結実する。「信仰」と「希望」と「」。私たちの人生においてこの3つは永遠に続き、決して消えることがないのである。




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試練の実 ヤコブ1:1-8

2010年10月24日 | Celebration
 「経験とは、自分の身に起こった現象のことではなく、自分の身に起こったことを、あなたがどう扱ったかということである。」

 人は人生の経験を重ねることによって成長する。ところが、経験した事象そのものが、人を成長させるのではない。人生に対して、悲観的、批判的、自虐的、攻撃的な考えを持っている人々は、自分が経験したことに対する対応を間違えていたのだ。

 ユダも他の弟子たちも、イエスを裏切ったという点に関しては変わりはない。イエスを3度も拒否し、イエスを呪ったペテロの方がある意味では深刻とも言える。「どうして自分はこんなことをしてしまったんだ!?」この段階まで弟子たちは全員同じだったのだ。問題は、裏切りそのものより、裏切った後の彼らの対応であった。ペテロは悔い改め、ユダは自己完結した。そこがこの二人の明暗を分けたのだ。苦難に対する考え方とその対処の仕方は、人生における最も重要なポイントとなるのである。

 イエスの十字架から約20年後、エルサレム教会の指導者的立場にいた主の兄弟ヤコブは、福音が拡大して行く一方、多くのキリスト者の生活がイエスの教えから離れ、世俗化して行く教会に対して厳しい警告と、特に異教文化の中における誘惑や試練に耐えて行くように、世界中に離散しているユダヤ人たちに、キリスト者に求められている『信仰者の規準』を、主の兄弟としてではなく、主の僕としてこの手紙を書き送った。その数年後、ヤコブは殉教し、エルサレムはAD70年に崩壊した。

 「僕」のギリシヤ語はデューロス(奴隷)、しかも最下位の奴隷を指している。彼は自分を「イエスの兄弟から書き送る」とは言わず、自分はキリストの奴隷だと言っているところに、ヤコブの謙虚さ(品性)が表れている。彼は自分の環境が、自分の霊的位置とは関係がないという真理を理解していたのである。

 異教文化の中で生活している内に、神の民としてのアイデンティティを失いつつあるユダヤ人たちへの警告と励ましは、現代社会で信仰生活を続ける私たちへのメッセージでもある。聖書の言葉はいつも、時代と空間を超え、現在に生きる私たちに対して語りかけている言葉であることを忘れてはならない。


試練に秘められたメッセージを聞き取る
 私たちは人生で起って来る様々な試練を前にして、「どうしてこんなことが私にだけ!?」と、神にくってかかる習慣が身に付いている。しかし、神に「何故?」と問う前に、実は私たち自身がこの試練を前に、神から問われているのだということに気付くことが大切である。何故なら、世界の主役はあなたではなく、あの人でもなく、神だからである。

 また、あなたの人生の本当のオーナーはあなた自身ではなく、あなたを創造された神である。そこで人生の謎を解き、真の人生を歩むための第一歩は、「自分は何らかの目的によって神に創造され、生かされている者なのだ」という事実を認めることである。人がその逆転の発想に辿り着いた時にはじめて、人の人生は真に生き甲斐のあるものへと変えられるのである。

 人は当然、自分の目の前に立ちはだかった問題への解決に心が囚われ、先ず直すことが先決だと誰もが思うが、焦燥と不安を抱えたままでは、人は冷静な判断が出来なくなり、かえって問題が深刻化することがある。問題解決に心を向ける前に、先ず一度心を落ち着かせて、心を平常心にリセットし直すように心掛けることが必要である。静まって、その問題に秘められたメッセージを聞き取ろう。


試練を通して人間は成長する
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となります。

 私たちは勉強もせず、働きもせず、人間関係にも患わされず、悠々自適の生活を夢想することがあるが、それはあまりに非現実的であり、努力なしに人間は幸せにはなれないことぐらいまともな人間なら悟っているはずである。勉強にせよ、スポーツにせよ、習い事にせよ、最初から面白くものなど何もない。それを続けるには忍耐が必要であり、そうした訓練を通ることによって、人は人生を豊かなものしていくのだ。

 つまり、試練とは自分が幸せになるために与えられた機会なのだ。そう捉えた時、たとえそれが精神的・肉体的な傷となっても、人そこから解放されることが出来るのだ。この御言葉にある「完全」という言葉はパ-フェクトという意味ではなく、「十分」ということ。つまり、不可能への挑戦ではなく、忍耐を十分に働かせたら、成長し十分に成熟した人となるという意味。器の土は練り込こんで中の空洞をなくさなければ、焼いた時に、割れてしまう。人間も同じである。

 「大切なことは面白さではなく、厳しさです。」人間国宝の陶芸家・井上萬二氏は、作陶の心得をこう語った。焼き物は形自体が美しければ模様を付ける必要はない。目に見える部分のみならず、内側から清い精神で作品に打ち込むことによって、良い作品というものが生まれるのである。

 器は練られ、焼かれて完成するように、人間も人生の試練を乗り越えた時喜びを見出し、そこに新しい発見が生まれる。人間は試練を乗り越えることによって成長し、神は試練を通して人格が造り上げられることを望んでおられる。作品には作者の創造性と品性が表れ、クリスチャンの人生にはキリストの品性が現れるのである。


試練に対する答えは神から来る
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

 私たちが何か大きな問題に直面したときに、そこで必要なのは、実際的な知恵である。そういった時は、宗教も哲学も主義主張ロなどは何の立にたない。机上の空論は言うに及ばず、評論家も批評家もこういった場には必要ない。ここでは、具体的に何を、どうしたら良いのか。実際に成すべきことの具体的な知恵が必要である。

 「完全な者となるためには知恵が欠かせない」これは当時のユダヤ人にとって伝統的な考え方であった。しかしその知恵は、律法からではなく、神を信頼する祈りによって与えられる。自分の能力や努力によって得た知恵は、返って神への信頼を失わせる誘惑となり、人間を安定性が欠けた「二心の者」としてしまう。二心の者とは、自分の判断基準が、状況によって、神になったり、人になったりしている信仰情緒安定なクリスチャンのことである。

 試練は人間にとっては分岐点である。一つは「なぜ、主よ、このようなことを起こすのですか?」と、自分の思いにかられて、人や神に対する不信、そして苦みを抱く道。もう一つは、試練に忍耐を働かせ、人生の糧とする。苦しみ不安と失望の道と、人生に磨きをかけ、信仰が練り清められ、成長する道。

 約1万人の孤児たちを育て『孤児の父』と言われたジョージ・ミューラーは、物質的にも霊的にも、必要なものは全て祈りによって神から与えられるという信仰・信念の持ち主であり、実際にそれを実行した人だった。神以外にスポンサーがいなかった彼の孤児院の食料(400人分)が尽きてしまうことはしょっちゅうだった。しかし、彼はその時々に、神の国と神の義を求めてひたすら祈った。するといつも全く予期していなかった不思議な方法で食料が与えられ、彼の孤児院では孤児たちが飢える日は一日もなかったと言う。『5万回の祈りの回答』 私たちは肉のパンを求める前に、先ず、命のパンである御言葉を第一に求めれば、必要なものは必ず与えられるのである。

 神なき世界で信仰生活を続けるということは、クリスチャンにとっては、かなり試練との闘いが要請される。しかし、それに忍耐することが、罪人であった私たちが成熟した者へとつりかえられるための重要な要素である。その如何なる人生の嵐にも動かされることのない不動の信仰は、ジョージ・ミューラーのような神への絶対的信頼に基づいた不断の祈りから生まれるのだ。

 「石の上にも3年。でも耐えていたのは石の方」 私たちの悪い癖はそう簡単には直すことは出来ない。それも神は、一度神の子となった者を決して捨てようとはなさらない。忍耐は神のご性質の一つなのである。

 その神に信頼することによって、はじめて私たちの内に忍耐が生じ、その忍耐を働かせることによって、練達、そして希望が生まれる。その結果、私たちはキリストに似た者へと変えられて行くのである。

 そのような堅い信仰に立つ者には神の力が働き、全てのことが可能になる。苦難が大きければ大きいほど、天の御国で得る喜びは大きい。人生の試練を喜びへと変えること。これこそ、キリスト者の醍醐味なのである。




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Boys, be Ambitious IN CHRIST! Ⅰコリント9:23-27

2010年10月17日 | Celebration



□ギャラップ調査による尊敬出来るいい人の条件 
1) 高い道徳(倫理)観を持つ。
2) 家族の一員という意識が強い。
3) 仕事においてより生産的。
4) 社会においてより活動的。
5) 成功・失敗の基準は、物質的なものではなく対人関係。
6) 対人関係に成功を収めている。

 決して人に嘘をついたり、騙したりせず、勿論、盗みも、殺しも、姦淫もしない、世間的な波風を立たせない真面目な常識人。一般的にはこういった人たちが、優しくて親切な「愛の人たち」と思われている。実際、多くの人たちが、このような所謂いい人として、平穏無事で快適な生活をおくることが理想的な生活であると考えている。

 しかし愛の人とは、平穏無事な生活を守っている保守的な人たちのことではなく、何かに対して犠牲を奉げているという、積極的な行為を実践している人たちのことである。つまり、いくら常識的な良い人たちであっても、そこに何か目的のある自主的行為がなければ、ではいったい「何のために良いのか?」という課題が残るのである。

 また、学校に行き、仕事して、結婚して、子供が生まれ、そこそこ子供は無事に成長し、そこそこ貯金をつくり、適当な時期にリタイアして、日向ぼっこでもしながら優雅な老後生活をしようと考えているのなら、あなたは人生に対して大変な誤解をしていることになる。隠居生活は、ハタから見ると優雅に見えるかも知れないが、実際の隠居生活は決して、優雅でも楽しくもなく、直ぐに空しさを感じるものなのだ。

 人は食べることをやめたら肉体的に死ぬように、学ぶことをやめたら知的に死ぬ。祈ることをやめたら霊的に死ぬ。人生における苦闘を放棄したら、自尊心が死ぬ。人は人生に立ち向かって生きる姿勢をやめたら、それは生きることをやめてしまったことと同じなのだ。人は年齢に関係なく、成長し続けるように創造されているのである。

 人類は長い歴史の中で、ずっと人生の意味を考え続けて来た。人生の意味をとことん追求した4人のユダヤ人がいる。彼らは人生の意味を、人間の持つ根本的な欲求まで掘り下げ、人間そのものを深く洞察した。そして、マルクスは経済的平等、フロイトは快楽、アドラーは権力、そしてフランクルは意味への追求という結論に達した。

 確かに神から離れた人間は、人生の目的を、お金、権力、快楽に求めるしかない。しかし、いくら努力しても、それが自己中心的な活動範囲である限り、人間は決して自分を満足させることは出来ない。何故なら人間の欲望には終りがないからである。また、私は学生時代、フランクルに深く傾倒した。しかし、人はいくら人生の意味を追究しても、それが人の救いや癒しにはつながらないのである。

 実は、人間の最も深いところにある基本的欲求とは、神の子としての自尊心を回復することなのである。そのことに気付いた人間は、それを回復するために何かをしたくなり、新しいことにチャレンジする可能発想者へと変えられる。但し、そこで「自分は神の子供なのだから、立派にならなければならない」という設定を自分の中に立ててしまうと、私たちを非現実的な完壁主義者に仕立て上げてしまう危険性が出てくる。

 そこで、卑屈にならず、かと言って傲慢にならず、向上心を持ちつつ、完璧主義に陥ることなく、健全な自尊心を持つ方法はただ一つ「キリストの十字架による贖い」である。人は無条件に愛されていることを知った時に初めて、神の子供としての価値を見出すことが出来るからである。

 このキリストの愛に基づいた自尊心こそ、人間の根本的な欲求を満たす。人は神の愛に触れると、その愛を人々に分け与えたくて仕方なくなるからである。真の愛とは、他人の問題を自分の問題とし、解決のために行動すること。これこそ、キリストが私たちのためにしてくださったことである。私たちはどうしたら、そのような愛の人生のスタンスに立つことが出来るのだろうか?


思考回路の刷新
 主イエスを受け入れた途端、神の霊が私達の霊の中に注がれ、私達の霊は新しく生まれ変わる(新生)。だが、私たちの習慣や思考の刷新(聖化)には長い時間と努力を要する。ネガティブな思考の中では神は自由に働くことが出来ない。私たちはいつも聖書を読むことによって、積極的・肯定的思考へと心を新たにせなければならない。

心を空にする
自分の雑念で心の中が一杯のところに、神の御言葉は入って行き様がない。「主よ、あなたの御心にかなった願いを私の中から起させてください」と心静かに神の臨在を待ち望む姿勢が必要である。

神の願いを受け入れる
 神の最終的な目的は、いつでも人の魂の救いにある。従って、私たちが、人々に対する幸福を本心から願う時、その思いは神の思いと一体化しており、それは間違いなく聖霊の働きである。私たちの人間的な思いは結局、自分に対する栄光だが、聖霊が私たちに与えてくださる究極的なビジョンは、いつも神の栄光である。神の御心に叶った願いは必ず聞き届けられると、聖書は何度も繰り返し宣言している。

 私たちの真の使命は、私たちの内で働いてくださる聖霊から来る。しかし、私たちの内にある思いが、自分の思いなのか、神の思いなのか? それとも、サタンの思いなのか?このことはクリスチャンなら必ず一度は悩むことである。以下は、自分の中に涌き出る思いが、神から来ているか否かを判別するために、チェックすべき点である。

人々の必要を満たすか
 今からおよそ半世紀前、ロバート・シューラー師は、ドライブイン教会建設に着手した。今まで全く前例がなかったこの斬新的な教会建設は、車の中でなければ礼拝に参加することが出来なかった一人の老婦人への思いがきっかけだった。この教会は、心に傷を負った人たちや、障害者を持った家族が周囲を気にしないで共に礼拝をしたいと願う人々の受容に応えた。

わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネ1512)

その思いは、聖書と一致しているか
「銀行強盗したい」という思いがどんなに強くあったとしても、それが神から来た思いではないことは論議するまでもない。「汝盗む無かれ」と聖書に明記されているからである。

 ボンフェッファーはルーテル教会牧師で20世紀を代表する優れた神学者である。しかし、ヒトラー暗殺計画を企て、ナチスに処刑されたというあまりにエキセントリック性故に、多くの牧師は彼を異端視している。だが彼は決して限られた状況下では殺人は合法されると考えていたのではなかった。マタイ26:52:の御言葉を彼が知らなかったはずはない。彼は同胞が次々と逮捕され、殺されて行くという緊迫した状況の中で、一人で罪を背負うとしたのである。しかし、そんな彼に神はこう語りかけていたのだ。

あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。(伝道の書7:16-17 新改訳)

 聖書講読を習慣化させることはとても大切なことだが、私たちはついつい御言葉を読み過ごす、自分の好きなところだけ読み、自分流に解釈するということをしてしまうがある。御言葉の権威に従うことがどれだけは難しいことか、人に与えられた自由意志を、正しく使うことがどれだけ責任が伴うことか、御言葉は私たち人間の生命線。決して侮っても、軽んじてはいけない。神の導きは100%、聖書の御言葉と一致するのだ。

その思いは、いつまでも心から消えないか
 人間的な思いは、環境によって変化し、時代の流行や権力に大きく影響され、時間の経過と共に弱くなり、また、記憶から完全に消えたりするが、神から与えられたにビジョンは、心の中でいつまでも燃え続ける火のように、決して消えることはない。そしてその思いは、祈れば祈るほど熱く燃え上がるのである。

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(ピリピ2:13)

その思いに平安があるか
 コロサイ3章15章に「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」とあるように、心の平安は大切な霊的バロメーターである。その思いが主から導かれたものならば、そこには必ず豊かな平安があるはずである。逆に言うと、もし、私たちが主の御心から外れると、途端に心から平安がなくなってしまう。

その思いは自分の力より大きいか
 当時3億円という莫大な建設費用を要したこの計画は、僅か500ドルの資金から始められた。人間的な見地からすると実に無謀だが、神の業を行なわれるのは神であって、私たちではない。神の御業は自分の力ではなく、神の力によって成されるからだ。大きな目標を前に「私の力ではとても出来そうにない」と諦めるのではなく、むしろその計画が大きければ大きいほど、それは神によって与えられビジョンであると確信すべきである。逆にそれが自分の力だけで実現可能な計画だとすれば、それは神の計画にしては小さ過ぎると疑うべきであろう。私たちには、祈りによって神の国(4次元)の力を、この世(3次元)に適応させる事が出来る特権が与えられているのである。

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。(ヨハネ4:12)

苦難をチャンスと考える
 未だ社会保障とか施設という言葉すらなかった明治時代に、実に2千人の孤児たちを養った“孤児の父”石井十次は、保母さん一人に子供十人で共に小屋で生活するというコッテージシステムを取っていた。その小屋の名前は「ライオン館」。十次の孤児院には、ライオンの創業者・小林富次郎という強力なスポンサーがいたからである。マッチ製造の会社を起業し、1年分の材木買い付けた後、何と洪水で全て流され、莫大な賠償請求される。服の袂に石を詰めて、橋から飛び降りようとした時、この御言葉が彼の命を救った。

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。(ヘブル12:11)

 工場は売却した後、牧師から教わった歯磨き粉の製造方法を研究開発し、1896年ライオン歯磨きを発売し、全国的な大成功を収めた。これが今日のライオングループの基礎である。「あの時の洪水は、当時の私にとって、命を失うほどの大打撃でした。しかし、あの洪水がなかったら、あれから数年後に起こった燃料革命によって、私のビジネルはジリ貧に陥っていたのです。神は私が信仰によって乗り越えるように試練を与えて私を成長させ、今の事業展開へと導いてくださいました。これは神の業以外の何ものでもありません。」と語った。

 これらの条件が全て満たされたなら、必ず実現の方法があると信じ、創造的な解決策を発想すべきである。私たちが神に信頼し、信仰への第一歩踏み出すところから、神の御業は開かれて行くのである。自分のためにしたことは、肉体と共に滅び去るが、神と人に奉げたものは何時までも残る。世のため、人のため、神のために生きる可能発想者こそが、神の御心に叶った最高の人生の祝福を得ることが出来るのである。受けるより、与える方が祝福されるのである。



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解放の福音 ヨハネ8:31-38

2010年10月03日 | Celebration
私たちは期間限定・当地限定品が大好きである。「ここでしか買えない」。「今しか買えない」といわれると、財布の紐がつい緩くなってしまう。ところが、普段は大の限定品好きの私たちが、「キリスト以外に救いがない!」といわれると、「“キリスト限定”とは何て独善的なのだろう」と反発してしまうのである。

 多くの日本人がキリスト教に対して感じる違和感は、実にこの点にある。今、流行りのニューエイジ系新興宗教は、特定の教義を押し付けないバリアフリー宗教である。つまり、仏陀でも、アラーでも、キリストでもいいじゃないか。という考え方。しかし、それはあくまで救いに対する一つの考え方であって、救いそのものの(命)ではない。

 「世の中には、様々な宗教があってそれぞれに良い所がある。そのいい部分を学べばいいじゃないか。キリストしか救いがないというのは、独善的な考え方だ!」と普段からよく言っていた友人がいた。彼の奥さんが入院した時、こういう電話があった。「今、妻は病院に運ばれて手術中だ。どうかお前が信じている神様に助かるように祈っていてくれ。念のため、近所のお寺のお坊さんにもお願いしておいたから。」と。

 次の日、病院にお見舞いに行くと、彼が笑顔でロビーに出てきてこう言った。「ありがとう。幸い、たいしたことはなさそうだ。この薬を飲んでおけば、一週間もすれば回復すると医者が言ってくれた。お前の神が助けてくれたのか、お坊さんのお経が効いたのかどっちか分からないけど、とにかくありがとう!」

 奥さんが退院して数日後、私は彼にこう聞いた。「医者はこの薬さえ飲んでおけば大丈夫って言ったんだよな? じゃもし、医者が、ここに薬が4種類ありますが、奥さんの体質次第で、どの薬が効くかは断定できません。これで治るかも知れませんが、副作用で悪化することもあります。選択は自由ですからどれか好きなのを選んでください。」と言われたら、お前はその医者を信用できるか?その医者から言われた通りにその薬を選んで奥さんに飲ませられるか?

 聖書が単なる『教え』の一つなら、オレもお前を同じように、あの教えもいいし、この教えもいいって思うだろう。でも、『命』というのは教えじゃないんだ。あの時お前が求めていた答えは、「これもいいかも知れないが、あれいいかも知れない」などと言った曖昧な答えじゃなく、『これが効きます。奥さんを助けられるのはこれしかありません!』という確信ある答だったんじゃないか?聖書は単なる教えを説いた書物ではなく、命の書。『命の解決策はこれしかない!』と断言しているのは、世界広しと言えども聖書だけ。イエス・キリストは人間に死と命の問題に解決をくれる唯一のお方なのだ!」


解放とは?
 私たちの人生における悩みの多くは、実に対人関係にある。元来神は人間を互いの関係の中で生きるようにデザインされたのだが、人間は神との基本的な関係が壊れてしまったが故に、対人関係もうまくいかなったというのが現実である。当時の宗教学者たちは、この対人関係を円滑にするために、600以上にわたる細かな規則をつくり、それを守るとように人々に強制した。しかし、元来、律法は人間のためにつくられたのだが、規則をつくった途端に、それを守ることが出来ない人は、罰を受け、救いから除外されてしまうという問題が発生する。

 当時のエルサレム人口は、約60万人で、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派等の宗教的特徴を持った人々は、多く見積もって3万人程であった。それ以外の大多数の人々は、「地の民」と言われ、救いの対象外(天国には入れない)人々と、軽蔑されていた。しかも、その中の多くは、自分の命さえ、自分の自由にはならない奴隷という人たちがいた。イエスはそんな救いの対象外にされていた人々、生きる権利も希望も剥奪されていた人々を救うためにこの地上に来られたのである。

 イエスは、そんな彼らに対し、救いの条件については一切語らなかった。イエスの救い(解放)のステップは3段階ある。先ず、イエスの方から奴隷状態の所までやって来られて、奴隷の代価を無償で支払い、自由な世界へと連れ出し、そこから解き放つ。そしてそこには何の条件も、義務もない。その恵み(贖い)を受けさえすれば良いのである。このイエスの救いから漏れている人は、世界中、誰一人としていない。ただ、多くの人たちは、奴隷の生活に馴れ親しみ満足してしまい、自分が奴隷であるということを分かっていないのである。

 「救い」というギリシャ語は、身体的な危険からの助けを意味する「ソジェイン」と、罪からの救い、死からの救い(解放)を意味する「ソーテーリア」という二つの言葉があり(聖書の救いは後者)、「救われるべき(ソーセーナイ)」は、神の必然性を表す助動詞で、救いとは宗教一元論でも、選択の問題でもなく、イエス・キリストによる神の絶対的救済計画のことであり、それは人類に課せられた大命題。という強い意味がある。

 彼の奥さんは、医学によって病から救われたが、私たちはいったい何から救われなければならないのか?そもそも聖書が語る「救い」とは何なのか?これは決して、「当時は大変な社会だったなぁ…」というよう他人事ではない。聖書は私たちは罪の奴隷であり、「そこから解放されなければならない!」と証言しているのである。今日は私たちを束縛している4つの障害と、そこからの解放の必要性を語る。


自我からの解放
 先々週の「慰めの人」のメッセージを聴いた方の反応が二つに分かれた。ある人は、神を信頼することの幸い、神を信じて生きる人生の輝きが分かったと言い、もう一方の人は、「あんなに一生懸命神に祈ったのに、何故神は奥さんの病を癒してくれなかったの?いくら祈っても祈りを聞いてくれのなら、そんな神を信じていったい何のメリットがあるの?」と。

 「自分の願いを聞いてくれない神などいらない」実際に多くの人たちはこう考えている。しかし、人間の思い通りになる神、人間の欲求に対してNOと言わない神を果たして神と呼んで良いのか。彼らが求めているのは、天地創造の神ではなく、魔法のランプ・アラジンのジニーである。こういった考え方の根底には、「この世は、自分の欲求を満たすために存在している」という見当違い且つ、稚拙な人生観がある。しかし、聖書はこういった自己中心の世界観こそが、諸悪の根源であり、人間が悔い改めなければならないことだと警告している。

 交通事故で半身不随になり、車椅子生活となってしまったあるスポーツ選手がいた。彼の多くの友人たちは、彼にかける言葉を失い、なかなか訪問する勇気がなかった。それから数年後、彼と同じような苦しみに遭った一人の友人が思い切って彼の家を訪問した。そこには穏やかに自分を迎え入れてくれた懐かしい友人の顔があった。すると彼の部屋には「石の上にも3年、でも我慢したのは石の方」という額が飾ってあった。

 彼はその額を見てハッと目から鱗が落ちた。誰もが自分が試練に遭っている時、また何かに対して我慢している時は、当然主体は自分にあり、どうしてこんな事が自分に起こったのかと、神や社会に向かって問い正す。しかし、その文句を言っている当人に、如何に多くの人々が耐えているのかということに誰も気付かない。

 人間は、このような自己中心性から、なかなか離れることは出来ない。そのような自己中心の人生観から、神中心の人生へと変わることを忍耐して待っておられる神の存在に誰も気付かない。神はあなたの幸福をいつも願われ、あなたの人生を最善にして下さる神。その神を無視して、自我に囚われている以上、その人に内に平安も幸福もないのは当然である。


空しさからの解放
 もし、あなたがアメーバーから進化しただけの存在ならば、あなたは単なる有機物なのであって、そこに人生の価値を見出すことは不可能である。あなたをお造りになった神だけが、あなたの人生の意味と目的を持っておられるのである。この神から離れているが故に、人生の意味と目的が分からなくなってしまったのだ。

 この世に生を受けているのに関わらず、自分が存在している意味が分からないでいることほど空しいことはない。そこで人はこの空しさから解放されようと、一生懸命に人生の意味や価値を探そうとしているが、自分を創造された創造主から離れていくら自分の存在目的を求めたところで、真の回答が得られるはずがない。

 人が創造主から離れて人生の意味と価値を見出そうとすると、その方法は他人との比較でしかなくなる。神ではなく、人に認められるために、人と競争して人に勝利する人生の価値を見出そうとする。しかし、他者との比較競争は、何時まで経っても終りがない。たとえ一度は頂点を極めても、次は追われる身となる。

 そう言った人生には、安らぎがなく、絶えず焦燥感に追われる結末のないイタチゴッコで終わってしまうのだ。イエスはただ、「悔い改めて、私を信じなさい。」と言われた。つまり、互いに尊重し合い、認め合うということ。愛を基準にすることによってでしか、人間は競争人生における空しさから解放されることはないのである。


不安からの救い
 生まれて初めて一人で中国に行き、北京のホテルに宿泊した時のこと。ホテルの部屋にあった地図を見て、天安門広場まで行ってみよう表に出た。ところが、北京市という街は四国よりも大きいということを彼は知らず、迷路に入り込んでしまった。そこで入ったひなびた中華料理店で、とんでもない量が出て来くるは、べらぼうな金額をふっかけられ、メニュー金額の何と10倍!突き返すと請求金額がどんどん減っていくものの、結局メニューの倍の金額を支払わされた。大声でやり合ったので、近所の人たちが集まって来くるは、日は暮れて真っ暗になるはで、言葉は通じず、誰も助けてくれない見知らぬ人々に囲まれ、自分が何処にいるのかさえ分からない時、人は恐怖を感じる。

 こういった状況に置かれていながら、まるで平気な人がいる。赤ちゃんは、言葉は出来ず、自分で動くことも出来ず、何処にいるのかも分からないのに、いつも笑顔で生きている。何故なら、絶対的に信頼できるお母さんの胸に抱かれているからである。人間という存在は、自分が信頼出来る存在とつながっているとき、たとえ自分は無力であっても、平安を得ることが出来る。

 しかし反対に、信頼出来る存在がいないのなら、人は大人であっても、平安を持つことが出来ない。真の親である神様との関係が切れている。これが不安の根本原因。神は私たちの存在そのものに責任を持っておられ、あなたの幸福をいつも願われ、あなたの人生を最善に導いて下さる神様。その神から離れていれば、人生が不安になって当然である。


死からの解放
 この世は神から離れた不完全な世界であり、神が究極的に準備して下さっている幸いは、この世ではなく、天国にある。それは、この世よりも遙かに素晴らしいもの。なぜなら、この世は長くて100年。しかし、天国は永遠に続く世界。100年の中で、仮に100%な幸せがあったとしても、いずれは死によって、すべて手放すことになる。この世は通過点にしか過ぎず、この世にゴールに据える人生観は、非常に刹那的である。

 私たちは罪ゆえに、必ず死を迎えなければならない。誰も死から逃れることのできる人は一人のいないのだ。また、死後に神のさばきを受けなければならない、と聖書は語る。しかし、聖書は、キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。(ローマ8:2)と、高らかに宣言している。

 信仰というものは、霊の世界に属しているので、人間の努力で得られるものではない。つまり、信じることによって得られる救い(解放)は、聖霊による御業(Ⅰコリント12:9)、であり、神の恵みによってのみ得ることが出来るのである。そしてその信仰は聖霊の力によって継続される。多くの人が救いを受け取ることが出来ない理由は、創造主なる神への祈りと、悔い改めが欠如したまま、人間の手段と方法によって救いを得ようとしているところにある。

 キリスト者が信仰を人生の指針とした時、救いはあらゆる問題において万能に機能する。「信じる者は救われる」ということは、「教会に通えば救われる」ということではない。たとえば列車で旅行をする時、切符がなければ列車に乗ることが出来ないのと同じで、救われるためには、救いの切符、つまり信仰(信じること)が必要なのである。救いは「信じるということを経て、「愛」によって、全うされるのである。

 この空しさ、争い、不安、自我、そして死という、人間の罪から発生した様々な足枷を、イエス・キリストは、十字架のよる血潮によって、見事に切断してくださった。空しさから喜びへ、争いから平和へ、不安から平安へ、自己中心から神中心へ、そして死から永遠の命を与えてくれるのが、イエス・キリストによる救いなのだ。

 このイエス・キリスト以外に罪からの救い開放を与えることのできる方は誰もいない!イエス・キリストを自分の救い主、開放主を信じたその日から、あなたは、今までの様々な束縛から無償で解放されることが出来るのだ。今日、皆さんがキリストを信じる者となり、真の自由人となるように、心からお勧めする


 



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