Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

恵みの書簡 (黙示録1:1-11)

2009年08月30日 | Celebration
〔写真:ミレトスから約40マイル沖合いにある現在のパトモス島)

こんにちは GNSのAkoです
待望の“ヨハネの黙示録講解説教”わくわくの第一回目『恵みの書簡』と題してのメッセージでした。一般に難解といわれるこの黙示録、私なんて、毎回黙示録の番が来ると、じっくり読み込むぞ!とかなり意気込むのですが、いつの間にか「あ~ん、やっぱりむずかしぃ~」とあきらめムードになってしまう繰り返し。
ですから、今日の礼拝も気合が入っちゃったわけです(笑)

ヨハネの黙示録は聖書66巻の完結編、総括編なのですから、この黙示録をきちんと理解していないのに、“私はクリスチャンです!イエス様を愛します!”というのは、本当は、ちょっとおかしいのですって。それは、大好きな映画を絶賛している人に、その結末を聞いてみても、大好きな映画の結末を知らないと答えるような、頓珍漢。確かに大好きな映画の結末を知らないのはおかしいですよねぇ、、でも私は、その頓珍漢をしているなぁ・・・(痛)
私達人間にとって、聖書を読むことは祝福です。特に、この黙示録を読むものは幸いだと書いてあります。
この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。黙示録1:3
サタンは人間が聖書を読むことを嫌い、あらゆる手段を使って、私達が聖書を読むことを阻止しようと動くそうです。特に読んでほしくないのが黙示録!なぜなら、完全なるサタンの敗北と神の国の到来がはっきりと示されているからだそうです。
黙示録は聖書全66巻の総集編で、他の書とリンクしていますから、この黙示録だけを読んでも分かりません。黙示録を理解するには、聖書全体をバランスよく黙示録と平行して読んで行く(総合理解)が大切だということでした。

それではいよいよ黙示録一章です。
黙示録とは? : 今まで誰にも分からなかったイエスキリストの奥義が明らかになりますよ!ということです。(黙示:覆いが取れる、幕が開くという意味)
                      第2コリント3:14
                      ダニエル:12:4-9
・・だからすごい!是非、理解したいですよね。
黙示録は長老ヨハネによって、神の霊で書かれた書物です。
イエス様が昇天されてから65年、エルサレムが崩壊してから35年後に黙示録は書かれました。イエス様の弟子は全員殉教、ヨハネだけが黙示録を書くために生き残っていたのです。
長老ヨハネは、激しい迫害を受け、パトモス島に流刑されました。
黙示録はパトモス島にいるときに、神様より啓示を受け見た幻を開放されたあとに(おそらくエペソで)書かれたものです。聖書は全て神の霊によって書かれた書物ですが、それぞれにそれぞれの個性が出ています。しかし、この黙示録に限っては、書いている人の感情、理性、知性、類推が一切入り込む隙間がありません。人間の類推が全く効きませんから、2次元的に読む私達には黙示録は難しいと思われてしまうのです。過去、現在、未来と時間を超越し、螺旋状に立体的に書かれている黙示録なのです。
ヨハネは啓示を受けて、7つの教会へ手紙を送ります。7とは完全数。
黙示録一章だけでもどれだけ7という数字が出てくるでしょう。
7つの教会、7つの霊、7つの星、7つの燭台、、、、。
7の意味は、3:三位一体+4:全世界をあらわす=7完全数だそうです。
4、そういえば、世の中は4で治まっていますね。4大陸、東西南北(四方)、そして、福音書も4つです。
7つの教会への手紙、現存していた教会へ、これからの各時代の教会へ、そして、今ある私たちの教会へ送られた手紙です。全ての教会へ宛てられた手紙!もし、GNSにイエス様からのお手紙が来たら、必死に読むよね!!!読まない人はいないでしょう。この黙示録、神様が私達に大事なことを書き送ってくださった手紙なのだと思いました。

黙示録1:7節にはイエス様が昇天されたときと同じ様に、また世に来られるとあります。(ダニエル7:13、マタイ24:30、マタイ26:64、使徒1:9 使徒1:11参照)イエス様の再臨は、クリスチャンにしか分からないようにそうっと起こるのではなく、誰にでも分かる形で起こる、イエス様は来られるのです。時が迫っているからである(黙示1:3)といいます。
完全なる神の国の到来のためにイエス様が来られます。
サタンをやっつけるために私たちのためにイエス様が再臨されます。
そのときまで、神様の奥義を知るために聖書を読むものになりたい思いました。
そのときが来るまで、ぎりぎりまで伝道に努める者になりたいと思わされたメッセージでした。感謝

メッセージ(音声)はこちらをクリック!↓
http://goodnewsstation.com/celebration.html

今回は礼拝記録ではなく、礼拝感想レポートとさせていただきました。
黙示録、神様の言葉を少しでも素直に理解できるように学んでいきたいと思っています。この講解説教についての感想、質問などどしどしコメントください!お待ちしております。

次回、第2回黙示録講解説教は、10月25日の予定です。





☆Good News Stationのメインページはこちら!

鹿の角と土の器 Ⅱテモテ 2:20-26

2009年08月16日 | Celebration



人間は、意味のないことを続けることはできない。意味なく生きることはあまりに空しく、生きる意味、人生の価値を見失った時、人は死へと足を向ける。だから「生きる」ために、有史以来、多くの人々が人生の意味を探し続けて来た。『人生の意味とは何か?』を体系化した4人の見識を、参考のために例に挙げよう。

カール・マルクス    経済的平等
アルフレッド・アドラー 権力(力への意志)
ジークムント・フロイ 快楽(感情と感覚の充足)
ヴィクター・フランクル 価値の追求

 彼らが打ち立てた人生に対する意味は、非常に高度で卓越している。この四人のユダヤ人は、生涯をかけて人生における思想体系を生み出した。それはメシア不在の地上における生きる意味の追求であった。しかし、神不在の自尊心や向上心は、『非現実的な完璧主義者』に陥らせてしまうのだ。確かに彼らの思想は優れている。しかし、そこには救いがないのだ。卓越した人間洞察力を持っていた夏目漱石。しかし、彼はただ信じ、ただより頼む「信仰」という単純な真理を受け取ることなく、「あぁ苦しい、あぁ苦しい、今死んじゃ困る、今死んじゃ困る・・・」と叫びながら死んでいった。これが神不在の人生の結末なのである。

 人生も、そして生きる目的も段階的に進歩する。立ち止まったらそこまでだ。「生きててよかった!」「あぁ、いい人生だった!」「みんなありがとう!!」と思える人生、人間だけが叶えられる『自己実現』の人生に至るための、踏むべきステップがある。

外観的基準からの脱却
 財産、異性、名誉、地位などを求めることは、人生の意味にも目的にもならない。理屈ではそれがわかっていても、長年こびりついた価値観が知らないところに残っている。この基準から完全に解放されること。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 (Ⅱコリント4:18)


無用なプライドの放棄
 出自や過去の功績、経済力や権力などに自己アイデンティティを置いていることがある。誇りを持つことは大切だ。しかし、自分を尊ぶだけの自尊心は、自己実現を妨げるものだ。

ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。 (Ⅰコリント8:1-2)


対人関係における他者受容
 他人を受け入れる、人の話を聞く態度が、自己実現を先導する。「大人」の定義は、いつもニコニコと穏やかでいて、深く闊達に相手の話を聞き、尚且つ自分の信念を崩さないこと。

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。(フィリピ2:3-4)

対神関係における自己受容
 自分がしっかりしないまま相手の話を聞いても、双方に負の感情を生むだけだ。他人を受け入れるには、自分の確固たる信念が不可欠なのだ。だから真の神様を知り、見上げる。


・・・とは言え、正直なかなか自己受容できない私たちの現実がある。人間誰しも劣等感を内に抱き、自分の中の嫌な部分、足らない部分、欠けている部分、未発達な部分、苦手な部分を持っている。しかし、創造主たる神様は、長所も短所もそれぞれの目的と使命のために創られた。そこでタイトルになっているイソップ物語の鹿が登場する。

大きく立派な角を持つ鹿がいた。鹿は、泉の水面に映る自分の見事な角に惚れ惚れとしていた。「こんな立派な角は誰も持ってない。これはオレの誇りだ!」と、悦に入って眺めていた。が、視線を少し下に向けると、そこには大きな角には不似合いな細くて貧弱な足が見えた。「もっとガッシリ堂々としたトラのような足があれば、オレ様は完璧なのになぁ・・・。」その時、お腹をすかせたトラに出会ってしまったから、さぁたいへん!! 鹿は一目散に逃げ出した。彼の細い足は俊敏に跳躍し、一気にトラを引き離した。森の中に逃げてホッと一息ついたところ、自慢の角が森の茂みにひっかっかって身動きができなくなってしまった。ジタバタするものの、大きな角は枝に絡み付いて外れない。そうこうしている間に、トラに追いつかれてしまい、結局鹿は食べられてしまいました・・・というお話。


短所と思っていた足が彼の命を助け、長所と思って誇っていた角が鹿の命取りになった。これと同じことが私たちの人生にも言える。これが長所!これができる!と思っている自信が、人生の命取りとなることがあり、これは短所、これはダメだ、と思っている劣等感の原因が、成長を促し、人を育てることがある。だからこそ、神様はそれぞれに長所と短所を与えられているのだ。パウロはこう書いている。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)

熱帯魚を飼うには、綺麗な水と酸素が必要なように、私たちがこれ等のステップを自分のものとするためには、そういった環境に自分の身を置くことが必要である。それが、聖霊主体の透明な人間関係、悔い改めた人々の集いである教会である。その環境下においてはじめて、私たちは周囲の人々に、福音真理を伝えて行くことができるようになる。これが、この地上に生きる私たちの人生の目的であり、使命なのだ。(睦美)


メッセージ(音声)はこちらをクリック!↓
http://goodnewsstation.com/celebration.html



☆Good News Stationのメインページはこちら!

聖書の読み方 Ⅱぺテロ 1:16-21

2009年08月09日 | Celebration
 先週、アメリカの神父さんたちが、広島と長崎へ謝罪と巡礼のために来日されたというニュースが、日本で報道されていました。その数日後、アメリカ人の6割以上が、原爆を落としたことは間違いではなかったと考えていると言うニュースがCNNで流されていました。アメリカは原爆を切手のデザインにしているくらいですから、一般的に原爆に対する、罪意識はほとんどないと言っても過言ではないでしょう。こういった意識は、現在のイラクやアフガニスタンに対する増兵にもつながっていると思います。

 よく、「キリスト教は戦争を肯定しているの?」、「ブッシュさんって、クリスチャンなんだよね?」などという質問を受けます。私も、以前、ある有名な牧師さんから、「聖書は戦争を否定していない」という話しを聞いたことがあります。牧師からそう言われたら、「あ、そうなんだ」と思ってしまいますよね? でも、イエス様は戦争や、世の中の様々な争い事について、何て言われているのでしょうか?「迫害する人のために祈りなさい」、「あなたにひどいことをする人がいても7の70倍ゆるしなさい」、「復讐をしてはいけません、復讐は私のすることです」、「剣を持つものは、剣によって滅びます」と、イエス様は言われました。さて、イエス様は、戦争を肯定しているのでしょうか? 否定しているのでしょうか?勿論、否定しているに決まっています。

 考えても見てください、イエス様が、核ミサイルのボタンを押されると思いますか? 絶対に押しません。福音は、戦争を明確に否定しているのです。ここのところをクリスチャンは、はっきりと知らなければなりません。この世の悲惨や不条理は、聖書を無視している、または曲解しているが故に起こっている悲劇なのです。これらの誤りに真っ向から否定できるのは、聖書を正しく理解している者だけの特権なのです。今のクリスチャンの多くは、このアイデンティティが欠けているように思います。

 21世紀は、本物が問われる時代です。数千年間にわたって、人々に読み継がれて来た聖書も、人々を騙している大嘘か、神の言葉なのか、そのどちらかです。中間はありません。ですから、聖書を読むことに関しても、本物志向で、正しく、的確に読みたいものです。今まで「何故、クリスチャンが戦争をしているの?」という質問にちゃんと答えられなかったのは、聖書の読み方を間違えていたからです。今日は、聖書の基本的な読み方を、4つのポイントに分けてお話します。


自分の先入観や道徳感を入れないでそのまま読む

 人が「神が」と言った場合、それはどんな神が前提となっているのでしょうか? それは、その神に関する情報を、どこかから仕入れて来て、それに自分の解釈を加えた神概念です。私達クリスチャンが「神が」と言う場合、それは『天地を創造された全人類の神様』のことを言います。ところが、そこに、自分の神、自分にとって都合のいい神、日本人の神、ユダヤ人の神と言うような、勝手な条件を付けてしまうから、おかしなことになるのです。私達の神様は、この世界に生きている全ての人間の神様です。神は、個人の先入観で語れるような存在ではなのです。


聖書の不変性と適応性を理解する

 世の中は二つの対極的なもので成り立っています。光と闇、男と女、陰と陽、プラスとマイナスがあるように、聖書にも、旧約と新約、律法と福音、へブルとギリシア、十字架と復活、死と命があります。そこで、私達が理解しなければならない大切なことは、聖書の適応性と普遍性です。聖書は2000年前のユダヤ人だけに適応されて書かれたものではなく、21世紀に住む私達にも適応されるものです。それは、時代、民族、人種に関係なく、聖書の御言葉は適応されるのです。それと同時に、聖書の言葉は、どんな時も決して変わることはありません。世の中の状況や、環境、読む人の立場によって、変化するものではないのです。

 この聖書の適応性と普遍性を理解することは、聖書を正しく読む上でとても重要です。つまり、聖書の御言葉は一つですが、それを受け取る人側の状況によって、同じ御言葉が、「然り」ともなり、「否」ともなるのです。私達が聖書の御言葉を読み時は、その聖句が自分の現状と、どのように適応するのかを考えなければなりません。ここのところを誤ってしまうと、聖書理解は、非常におかしな事になってしまいます。一つの例をお話しましょう。

 イスラエル民族は、神に選ばれた民族であるにもかかわらず、神に対して非常にかたくなで、神の言葉に従うことなく、勝手に偶像を造って、神に反逆し続けました。その結果、北イスラエル王国はアッシリア捕囚となり、南ユダ王国はバビロンに捕囚となりました。彼らの捕囚生活は70年間も続きました。その状況で、ユダヤ人たちは自らの民族アイデンティティを問わざる得ない状況に陥りました。そこで預言者が現れます。一人は真の神の預言者、もう一人は偽預言者です。

 一人は、「我々は神の選民である!こんなことが何時までも続くわけがない。もう直ぐ解放されるのだ!」と言い、もう一人は、「確かに我々は神から選ばれた民だが、神は必ず悪を滅ぼされる方である、私達は先ず悔い改めなければ、祝福されることはないう!」と言いました。ユダヤ人達はどちらを信用したでしょうか?人々に受け入れられたのは前者で、「悔い改めなければ、私達はここから逃れることができない!」と人々に悔い改めを迫った預言者は迫害されました。その預言者がエゼキエルです。

 確かに神は、ユダヤ民族と祝福の約束をされました。その約束は、決して変わることはありません。ですから、アブラハムの信仰を継承している者には、当然その約束は適応されます。しかし、その信仰(神との約束)を自ら放棄してしまった者に、その約束が適応されるわけがありません。つまり、同じユダヤ民族であっても、その御言葉の前にいる本人の状況によって、御言葉の適応は変わってくるのです。

 これは、私達も同じことです。礼拝メッセージを聞いて、自分の中で引っ掛かった御言葉を取り出すことが、普段私達が行なっているアプリケーションですが、実はこれを続けていても、霊的な成長はありません。言葉は、イエス・キリストです。主体はあくまで御言葉にあるのです。自分が気に入った御言葉をピックするのではなく、御言葉に、自分の現状を正直に照らし合わせ、御言葉と現在の自分が、どのように関っているのかを考えることが、真のアプリケーションです。この姿勢に立った時、はじめて聖霊が働くのです。


自分を弱い立場において読む

 『THE READER (愛を読む人:邦訳)』という映画での話です。10年前に別れた恋人同士が偶然、裁判所で再会しました。彼女はナチスの戦犯として被告席に立たされ、彼は弁護士の卵として、傍聴席にいました。彼女はナチスの収容所で働いていた時に、ある濡れ衣を着せられて、終身刑になってしまったのです。実は彼女は読み書きが出来ない人で、そのことが彼女自身の傷となり、深い恥となっていました。本当は、その訴訟の証根となっている殺人レポートを、「これはあんたが書いたんだ!」と言われた時に、「実は私は字が書けないのです」と言えば、無期懲役の罪は避けることが出来たのです。しかし、彼女は公の法廷の席で、自分が字が書けないことが恥ずかしくて、その恥故に、彼女は自ら罪をかぶってしまったのです。

 このナチス収容所という現実を見た時に、それを意図的に計画した人がいて、その計画に賛同した人がいて、事情を知らないまま従った人がいて、また、そのことを傍観していた人がいました。ナチスの収容所で働いていたドイツ人は約8000人といわれていますが、その中で戦犯として裁かれたのは6人だけです。このことを、神様の目にはどう映るでしょうか?確かに、彼女は大量殺人という犯罪に関っていたことは事実ですから、たとえ彼女がそのことを知らなかったとしても、彼女は裁かれなければなりません。しかし、それと同時に、私は彼女も赦されて欲しいと願うのです。

 収容所で殺された人達側からしてみれば、「死刑だ!」と主張しても当然だと思います。しかし、私達が、このような問題と接する時に、ドイツ側に立って考えるということは、まずありません。このことを思う時、私は、どうして神様は人間を赦すためにこの世に来られたのか? その理由が分かったような気がしました。人は悪を行った以上、悪は悪として裁かれなくてはなりません。と同時に、人は赦されなければならない存在でもあるのです。何故なら、人は人を正確に裁くことが出来ないから。どうしても人間は、人や物事に対して、偏った見方しか出来ず、正しい判断をすることは不可能だからです。

 今月のリビングライフに、『戦時中、韓国の教会は、日本軍に靖国神社参拝を強要され、屈辱な思いをした。この教訓は、21世紀を生きる我々も、同じ危機感を持って臨まなければならない。』と書いてありました。もし、私が韓国人だったら、「日本はとんでもないサタンの国だ!」と思うに違いありません。けれども、韓国の教会が強いられたことと同じことを、日本の教会も強いられたのです。その迫害に対して、日本軍と妥協をした教会もありましたし、勇敢に迫害と戦って、投獄され殺された牧師も沢山いました。ここで真の問題となるのは、日本対韓国の問題ではなく、神側に立つ者と、サタン側に立つ者との戦い、つまり、神対サタンとの戦いなのです。しかし、私達は、なかなかこういう考え方が出来ません。そして聖書を、このような立場で読んでいても、正しく理解することは出来ないのです。

 例えば、ヨセフ物語を読む時に、私達はどうしても自分をヨセフの立場に置いて読んでいます。兄達はとんでもない連中だと思ってしまうのです。このヨセフ物語は、ヨセフの兄弟の立場で読まなければなりません。何故、彼らはそんなことまでしなくてはならなかったのか…と。そういった視点で読まないと、この物語の真理は見えて来ません。良きサマリア人の話も同じです。私達は、良きサマリア人ではなく、律法学者(目の前で倒れている人を見ぬふりをして避けて通った人)の立場に立って読んだ時に、はじめてこの箇所の意味が分かるのです。ですから、聖書は、先ず自分を弱い立場に置いて読むことがポイントです。


神様側の立場を考えて読む

 創世記に『イサクの犠牲』の話があります。アブラハムにとってイサクは目に入れても痛くない一人息子でした。しかし、神は、“私のために捧げなさい”と言われ、アブラハムは神の言いつけに従って、自分の子供を生贄にしようとした話。この話は、一般の人々にとって、非常に理解することが難しい話です。「自分の子供を神様が殺せと言うから殺すの?」これはほとんどカルトの世界ですよね。イサクが何故、与えられたのか?その原点に戻って、この話は考えなければなりません。イサクは、人には出来ないが、神には出来るという、神の偉大なる力の顕現であり、神と人間との約束の成就であり、神が人間に与えた祝福の器として与えられた子供でした。にも関わらず、アブラハムは、年老いて授かった子供を溺愛し、私物化したのです。

 神は、アブラハムに約束の民としての祝福を山ほど与えたいと願っておられるのですが、当のアブラハムは、その祝福を与えたくても、与えられない状況にいました。それで、神はアブラハムに祝福を与えるために、彼の信仰を、もう一度試さなければならなかったのです。ヨセフとベニヤミンを溺愛したヤコブの場合も同じです。神は、ヨセフとベニヤミンを溺愛して離そうとしないヤコブから、一度子供を、無理矢理に離されました。ここで、「神様は何故、こんな酷いことを!」などと言っていてる間は、神様側の気持ちは分かりません。神様の試練は、私達との祝福の約束を守り、私達に祝福を与えたいがための、忍耐の愛なのです。
 
 裁判官のお父さんに二人の息子がいました。ある日、弟が兄の奥さんを殺してしまったという事件が起こります。お父さんは裁判官ですから、いくら被告が自分の息子であっても、罪は罪として、誰が見ても公平な形で裁かなければなりません。それと同時に、息子に悔い改めて欲しい、罪を赦してあげたいとも願っています。また、弟に対して怒りの炎を燃やしている兄に対しても、弟を赦す気持ちを持って欲しいと願います。これが、父親としての神様の苦悩であり、気持ちなのです。どうしても、私達は、世間の立場か、弟の立場か、兄の立場かという、一方的な方向でしか、物事を見たり考えたりすることが出来ません。しかし、神様側に立場に立って、聖書を読む時に、今まで見えて来なかった真理が見えてくるようになります。霊で書かれたものは、霊によらなければ、理解することが出来ません。聖霊は、私達のへりくだった魂に、降りて来てくださるのです。どうぞ皆さん、この聖霊主体、御言葉主体の本物志向で、聖書の真髄を味わってみてください!(Ako)


メッセージ(音声)はこちらをクリック!↓
http://goodnewsstation.com/celebration.html



☆Good News Stationのメインページはこちら!

エデンの東 ローマ 1:18-23

2009年08月02日 | Celebration
 今日本では、村上春樹の『1Q89』と言う本がベストセラーになっています。この本の売れない時代に、ここ2ヶ月間、ベストセラーだんとつの一位だそうで、今や社会現象とまでなっているそうです。この本の主人公は、地下鉄サリン事件の犯人。全く普通の人が一つの組織に入り、その流れに流されている内に何の罪悪感もないままに、何人もの人を殺し、気がついたら全国指名手配。まさに混沌とした世界が描かれています。

 今日本は、600万人のフリーター、100万人の引きこもり、4人に1人が鬱病、1時間に1人が自殺する、と言う国です。日本にはテロや民族紛争などはなく、明日の命を心配しなければならない危険性はありません。アフリカのように、食料飢餓で明日食べるものがないということもなければ、独裁政治国家で、クリスチャンであることが分かったら投獄、殺されてしまうと言うようなこともありません。何でもある、何でも自由な日本が何故、このような状態に陥っているのでしょうか?

 いつ爆弾が飛んでくるか分からない環境で暮らしている人にとっては、命の実感と価値はどれほどでしょう。明日の食べる者がない人にとって、食べられることの価値感はどれほどでしょう。また、独裁政治下で暮らしている人々にとって、自由は、どれほど感謝なことでしょうか。しかし、日本では、これらのことは当たり前になり過ぎていて、全く実感がないのです。何がよくて、何が悪いかのかさえも分からない状態。では、彼らはどういう基準で生きているでしょうか。自分にとって、都合のよい選択をして生きているのです。何故、こうなってしまったのか? 教会ではこれを「愛の欠如」と言います。確かに究極的には愛の欠如なのですが、私たちの足元にある問題から見て行きたいと思います。

 世の中にはルールがあります。自然界にもルールがあり、神と人間との間にもルールがあるのです。聖書は旧契約聖書、新契約聖書から成り立ち、タイトルの意味は“神と人間とのルールが書いてある”ということになります。もし、私達はルールがあるのにもかかわらず、それを全く無視していたらどうなるでしょう。私たちが交通のルールを守らず「信号なんて関係ないぜ!」と車に乗っていたら、大変な事になるのは当たり前、警察に捕まって当然ですね。しかし、このルールを守れない人が、多くいるのです。

 今、日本では青少年の犯罪が増えています。これはアメリカも同じです。ある州では、少年鑑別所に収容される少年たちに対して、5日間のキャンプのプログラムがあるそうです。5日間の鑑別所か、5日間のキャンプかを少年たちは選択することが出来るのです。ほとんどの子供たちがキャンプを選びます。このキャンプは特に“滝に打たれる”式な特別な修行をさせるようなものではなく、険しい山道を登って、5日間で目的地まで到達するというキャンプです。。出発時のバスの中で教官が生活のルールを話します。テントの作り方、寒いときの防寒具、5日間の食量と水の取り方等々。

 ところが、ほとんどの子供たちはこのルールを守れないのです。5日間のキャンプですから、荷物はとても重く、気候は激しく、昼は暑く、夜は寒い。険しい山、ものすごい暑さの中、防寒具を捨て、テントを捨てる子供たちが出てきます。あまりの暑さに5日間分の水を1-2日で全て飲んでしまう。昼間は暑いのですが、夜は凍えます。テントがなければ、どうなりか?食料も水もなくなったら残りの3日間はどうなるのか。どうしようもなくなって、「ママぁ~」と泣いて叫んでみても、誰も来てくれません。自分がルールを破った事によって、彼らはそのツケを払わないといけないのです。

 この少年たちは今まで親から、学校から、先生から、警察から、散々ルールを守るように注意され続けて来ました。しかし、彼らは全くその注意を聞きませんでした。何故、彼らは聞かなかったのでしょうか? ルールを破っても、今まで自分が痛い目にあったことがないからです。自分がルールを破ったことに対して、それで自分が困ったという経験がない。実はこのキャンプは、ルールを守らないということは、命取りになるんだよ。と実体験をもって教えるためのキャンプなのです。

 キャンプで困るくらいならいいですよ。でも神様と人間の契約を破ったらどうなるでしょう。人間は、悪いことを悪いことと分からずに続けています。罪なのに、罪だと分からずに、罪を犯し続けることほど、恐ろしいことはありません。聖書には“罪の報酬は死です”とあります。人間が人間として何故、幸せに生きていけないのか。それは本来の人間の生きるべき方法で生きていないからなんです。もし、水芭蕉が湿地帯でなくアリゾナの砂漠にあったとしたら、すぐに干からびてしまいますサボテンが湿地帯に行ったら、すぐに腐ってしまいます。それと同じように、本来、人間が人間であるべく生き方をしていかなければ、人間であるべくルールを守らなければ、支障をきたしてしまうのは、ごく当たり前のことです。

 『君は愛されるために生まれた』と言う歌があります。“きみは愛されるために生まれた。君の生涯は愛で満ちている~♪”この歌は歌だけの話ですか?それとも本当なのでしょうか。これは本当のことです。「何を言っているのよ、愛で満たされている?やめてよ、、」とネガティブなことを持ってしまう人がおそらくおられるでしょう。人間の心はそれほどガチガチになってしまっています。しかし、聖書は言います。人間は神を賛美するために造られた。神は人を喜ぶために人を造られた、と。

 つまり、神様の人間創造の目的は、神が人を喜び、人が神を喜ぶ、愛し愛されるためなのです。しかし、愛を受けるために生まれた人間が、全く愛を受けずにいたらどうなると思いますか?誰も気にかけてくれない、大事にされない、誉めてもらえない、励ましてももらえない。そうすると、人間はもともと愛されるようにと造られているのですから、間違った方法で愛を求めるようになるのです。

 例えば、お母さんがいつも忙しくて、かまってもらえない子供がいたとします。ある時、その子が病気になるとお母さんはその子に付き添って看てくれました。そこで子供は「僕は愛されてる}と実感します。しかし、病気がよくなるとまたお母さんはかまってくれなくなりました。今度は怪我をしました。そうしたら、お母さんはその子のそばにずっといてくれました。そして、直るといつもの忙しいお母さんに戻ります。こういったことを繰り返していると、その子供は「自分は病気になれば愛してもらえる」という間違った価値観を持ってしまうのです。

 それと同じように、いつも自分には無関心な忙しいお母さんが、ある日自分がお膳をひっくり返してしまった時、お母さんが飛んで来てくれた。そこで自分は叱られたけれど、お膳とひっくりかえせば、自分は周囲から集中される・・・。この様な間違った価値感を3歳から6歳までの間に自分の内に蓄積してしまうと、何と人間は、大人になっても繰そういった間違った行動を繰り返すのです。

 また、親から間違った価値観間を植え付けられることがあります。子離れできない母親は、「この子は私がいないと駄目なの」子供が失敗するとすごく叱るけれど、心の内の10%くらいは「この子はやっぱり私がいない駄目なんだ」と、安心する心理があるのです。このような間違った心理を受け付けられてしまった子供は、大人になっても自立することが出来ません。人間は子供の頃に植えつけられたマイナス感情(ドライバー)を証明しようとして行動を繰り返します。(このことを心理学用語でゲームと言います)

 私たちが何故、今ここにいるのか。家庭がどうだった、環境がどうだった、学校が、先生がということで、他人に責任転嫁をしてしまうことがよくあります。しかし、これは他の誰のせいでもなく、自分で作ったものです。ですから、無意識の内にある自分の間違ったサイクルに、気がついて転換しなくてはなりません。実は私たちの内には、そのような強力な欲求があり、人間はその欲求に従って行動を起こすのです。

 『統合失調症』と言う病気があります。これは人間の歴史始まって以来、古代ギリシャ時代から認知されている精神疾患です。この病気は現代医学においても治療が非常に難しいと言われています。様々なパターンがありますが、この病気は大きく、解体型と妄想型の二つに分けられます。解体型というのは、思春期の子供に多く、まとまった考え方ができずに、その場限りの行動をしてしまう。物事を筋道立てて考えることができず、支離滅裂で心が解体してしまう病気です。多くの場合、自分の世界にこもり、外界との交流を断ってしまいます。コンピューターゲームなどは、まさに子供の統合失調症・解体型を助長させるためにあるようなものです。

 もう一つの妄想型は、30代くらいから発病する人が多く、現実には在りもしないことを在ったと思い込んでしまう。皆さんも被害妄想とか、誇大妄想とか聞いたことがあると思いますが、その一種です。「私は誰かに後をつけられている・・・」「あの人は私をこの会社から追い出そうとしている・・・」「あの人は私を愛しているに違いない・・・」などと真剣に思い込んでいるのです。一般的に統合失調症は、100人に1人と言われていますが、私は10人に一人くらいはいると思っています。この病気は自覚症状がないので、本人は全く気がつきません。文鮮明やジョセフ・スミス、チャールズ・ラッセル、彼らは「自分は神の預言者なんだ、自分は神なんだ」と思い込んでいる統合失調症の宗教妄想型の患者なのです。(あるいは詐欺師かのどちらか)

 このように、多かれ少なかれ、私たちの内にはそのような問題が存在しているのですが、自分ではこの事実に気が付くことが出来ません。問題は、これをどのように解放に導くか。以下は、この解放のための4つのステップです。

自分の内にある間違った問題に気付くこと

 実はこれが一番難しいのです。誰でも人間は変わりたいと思っているし、成長したいと思っていますが、その反面、「自分はこのままの自分でいいや」とも思っています。自分を守ってしまう自分がいるのです。私はあるクリスチャンの交わり会に参加しているのですが、そこにおられるリーダー格のご夫人が、一度話し始めると止まらないのです。集会の最初から終わりまでしゃべりっぱなし。人々の救いのための集会が、彼女のための集会になってしまっていることに、彼女は全く気が付いていないのです。彼女は30年以上のクリスチャンなのですが、未だ彼女の心の中に満たされないものがあり、それで一生懸命に話しているのです。

 人はどうしたら心を開いて本音を言い、自分の問題(深層心理)に気がついて、それを回復したいと願うのか。その精神治療法を考案ししたのが、カール・ロジャースという人です。彼はもともと牧師志望でした。カウンセリング理論の最も基本となるのが、「受容」です。ロジャースはこう言います。「人は徹底的に愛されると本音を話すようになる、心を打ち明けて、自分の問題を話すようになる」と。何故、それば可能となるのでしょう?それは、は私たちの日常生活において、受容されるということがないからなのです。では、「受容」とは何なのでしょう?ロジャースは牧師志望でしたから、その答えは聖書に在ります。

 A子さんがあることで、非常に怒って自分の家に相談に来ました。私たちは、通常A子さんに対して、「肯定」か「否定」のどちらかの対応することしか出来ません。「それは大変だったわね」これは肯定。「それは聖書的じゃないよ」は否定。このどちらも「受容」ではありません。A子さんの場合、彼女の怒りが問題の焦点となります。否定は、A子さんに拒絶感を起こさせ、彼女のことを肯定すると、問題が、A子さんを起こらせた相手に移ってしまいます。ここで、A子さんを「受容」するには、「何故、怒ったの?」ではなく、「あなたがそんなに怒っている理由を私に聞かせてくれる?」という応答です。

 そこでA子さんは、はじめて自分が怒っている理由を考え始めます。自分の問題に気付く事は、「我」との戦いです。私達は自分が、自分がと、いつも思っています。統合失調症の人に、「あなたは実はこうなんだよ」と行っても本人は分かりません。自分の内に存在するマイナス感情に、自分が気付くことがどれほど大変かがお分かりになると思います。それを可能とさせる唯一の方法が「受容」なのです。

 とにかく、人を受け入る努力をしましょう。肯定も否定もしてはいけません。肯定はその人の成長を阻み、また同じ怒りを再発させるからです。自分の怒りが何処から来ているのか?それを冷静に考えてみましょう。人間には、自分の内にある間違った問題をあえて認めたくない気持ちがあります。しかし、その問題を知らないまま生きていることは、自分の顔に泥が付いていることを知らないまま、外を歩いていることと同じです。真理は、冷静に受け取る謙虚さが大切です。自分の問題、矛盾点を認めて、直すための次のステップへ行きましょう。


解放を願う!

 自分の人生と真剣に向き合って、では、どうしたらいいのかと考える。

イエス・キリストに委ねる! 

 全ての問題の根本的な解決は聖書にあります。

イエス・キリストに従う!

 イエス・キリストを信じたら、私たちは罪から解放されます。問題に気付き、解放を望み、イエス・キリストに持って行き、従うことによって、解放されるのです。イエス・キリストによって、生と死の法則からあなたを解放したのです。エデンの東において、アダムとエバは禁断の知識の木の実を食べて、エデンの園を追放されてしまうという記事が創世記にあります。なんと厳しい神様と思われますか?しかし、人が罪を罪と知らないで罪を続けて行く、悪を悪と分からないままに続けて行くことほど悲惨なことはありません。アダムとエバは神様と人間とのルールを破ってしまったにもかかわらず、破ってしまった罪を分からないまま、エデンの園にいることは、彼らにとって不幸なことなのです。神様は、彼らのためにエデンの園から出さざるをえなかったのです。

 へブル語の「東」と訳されている“ケデマー”という言葉には、「前方」という意味もあります。つまり、人間が全部自分で決める!自分でやる!と言って神様のことをよけてしまったのです。それで神様はどうされたでしょうか?「もう、わたしは知らない」と言ったでしょうか。そうではありません。神さんは、私たちの後ろで、私たちをずっと見守っておられるのです。人間が自分で神様をよけて、前に行ったのですから、いくら前を見たところで神様が見えないのは当然です。神様を無視して自分勝手に生きている社会は、少しでも良くなっているでしょうか?いえ、なっていないですよね。この便利な世の中で、何でも食べれて、何でも自由なのに、どうして人は幸せに生きて行くことが出来ないのでしょうか??

 神様とのルールを破り、自然のルールを破り、人間関係のルールを破り、全く悔い改めることなく、罪を犯し続けている人を全面的に受け入れることは愛ではありません。しかし、自分で転んで気が付いて、悔い改めて振り返った時、神様が見守っていて下さっていた。私たちが倒れても、それをしっかりと抱きしめてくださる。これが聖書の神様です。私たちが神様に立ち返ったとき、神様は、しっかり後ろにいて守ってくださっているのです。誰しも問題はあります。それは、自我との戦いですが、少しづつ、改ざんし、悔い改めて、どうぞ、早くエデンの東からエデンの中へ入ってください!心からお勧めします。(Ako)


メッセージ(音声)はこちらをクリック!↓
http://goodnewsstation.com/celebration.html



☆Good News Stationのメインページはこちら!