1)
受洗は信仰の始まりであって終わりではない
神を信じ、洗礼を受けたということは、その時点では、イエスを主と告白する信仰があったからだが、折角子供が生まれても、ミルクなどの体の栄養や、心の栄養が与えられなければ、成長しないか、死んでしまうのと同じで、クリスチャンとして生まれても、御言葉の栄養が与えられなければ、信仰の成長は止まり、霊的に死んだ状態になる。赤ちゃんの場合、拒食症はないが、クリスチャンの場合は、教会拒否症や、御言葉拒食症になる人がいる。そうなると、信仰の成長が止まるというより、霊的に死ぬと言ったほうが適切である。
人が死ぬと、ハエやハゲタカは思うがままに寄って来る。アフリカなど貧しい国の人たちが、ハエを追い払う気力もないほど弱っている様子を見ることがあるが、クリスチャンが霊的に死んだような状態もそれと同じ。悪魔が自由にやってきて、その人の内に巣くい、ますます真理から遠ざけ、最後には地獄へと堕として行く。神との関係下にある者は、「信仰がある」ということが前提であり、キリスト者間における信仰云々は、受洗後の問題である。
2)
成長できる環境下に自分の身を置く
プロの選手になったということは、同時にどこかのチームに属していることを意味するように、キリスト者も受洗したということは、キリストの体である教会に属していることを同時に意味している。チームに属していない人は、ゲストとしてベンチに一緒にいることはできるが、試合に出ることはできない。子供は心と体の栄養を十分に受けることができる環境にいれば、必ず成長するように、キリスト者としての成長は、自分の努力によってではなく、聖霊と共に歩むことによってのみ成就する。従って、先ず私たちが最初にすべきことは、神の御言葉を受けることができる環境下に自分の身を置くことである。教会にしっかりと属すること。それが、キリスト者であることの前提である。
3)
福音理解に一致を、宣教方法に自由を
クリスチャンにも、実に様々なタイプの教会や人がいるが、キリスト者である以上、信仰は一つである。(エペソ4:4-6) 我々の信仰の歩みを阻むものが二つある。一つは自分の内に残留している罪の性質と、同業者からの非難・中傷である。(パウロの敵はローマではなく、かつての自分の同胞ユダヤ人であったように)クリスチャンがクリスチャンたる理由はただ一つ。それは信仰である。
4)
信仰者としての目標を明確にする
オ-ストラリアのクリスチャンDr.ハムリンは、アフリカの幼児奴隷として、幼いときからSexを強いられて婦人病に苦しむ少女達の救済にあたっている。医者は、大抵お金持ちで、実際にお金や地位を目当てに医者になる人が大勢いる。自分の人生を貧しい少女達を救うために捧げている彼女は、個人的な財産など何も持っていない。しかし、真の勝利者とは誰か?それは、ローリングヒルズに豪邸を構える医者ではなく、世のため人にため、神のために生きる人のこと。自分の価値観の標準をこの世でなく、天に置く人のことである。
5)
信仰による歩みは決して安易な道ではない
フットボ-ル選手の体格は、自分の努力によって得たものではなく、神からの一方的な恵みである。だが、彼がプロの選手になるためには、努力と忍耐、強い意志と計画性が必要であることは言うまでのない。人はフットボ-ル選手になることと、主の弟子・神の共同管理人になることと、どちらが難しいだろう? いずれにせよ、その栄光の大きさから考えると、その道は決して安易な道ではないことだけは確かである。
6)
信仰の実践に個人プレーはありえない
何故、クリスチャンが羊に喩えられているのか? 羊には必ず羊飼いが必要だからである。羊飼いがいない群れは、いくら羊同士が結束しようが、狼に勝てる見込みは全くない。羊の群れには、生ける御言葉を取次ぎ、それを実践する霊的リーダー不可欠。教会には様々な人が来る。そのために教会には様々なタイプの人が必要。フォワードとディフェンスは常に一体。説教や賛美がフォワードなら、受付や食事当番はディフェンス。それが一つとなってはじめて宣教という形が作られる。神の目からは、その尊さも重要度も同じである。
7)
信仰者は必ずこの世に勝利する
ギデオンの戦士・3200人中、1%以下の300人が、13万5千の敵国に対して勝利をもたらした。それは、神に属する民とこの世との戦いである。主に信頼するという点において彼らは勇敢だった。この世的には退散すべき状況の中で、彼らは目に見えない神への信頼に賭けた。彼らのように、主によって勝利することがクリスチャン生涯の証しである。不治の病が癒された、不思議な方法で経済的に満たされたといったことに人は目をうばわれがちだが、キリスト者としての証しはそのような現象にあるのではなく、この世では癒されなかったけれども、勝利の人生を送った。これこそ、キリスト者の特徴・醍醐味である。
アメリカでは金持ちになることがドリームなようだが、主はただ、信仰による勝利者だけを求めておられる。目に見えないが、確かにおられる神に信頼して、神を第一にして生きる歩みを貫き通すことこそが信仰の道である。神に賞賛される人々とは、ただ神を信じたということではなく、神を信頼しつつ、信仰者として歩んでいる人たちのことである。
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神を信じ、洗礼を受けたということは、その時点では、イエスを主と告白する信仰があったからだが、折角子供が生まれても、ミルクなどの体の栄養や、心の栄養が与えられなければ、成長しないか、死んでしまうのと同じで、クリスチャンとして生まれても、御言葉の栄養が与えられなければ、信仰の成長は止まり、霊的に死んだ状態になる。赤ちゃんの場合、拒食症はないが、クリスチャンの場合は、教会拒否症や、御言葉拒食症になる人がいる。そうなると、信仰の成長が止まるというより、霊的に死ぬと言ったほうが適切である。
人が死ぬと、ハエやハゲタカは思うがままに寄って来る。アフリカなど貧しい国の人たちが、ハエを追い払う気力もないほど弱っている様子を見ることがあるが、クリスチャンが霊的に死んだような状態もそれと同じ。悪魔が自由にやってきて、その人の内に巣くい、ますます真理から遠ざけ、最後には地獄へと堕として行く。神との関係下にある者は、「信仰がある」ということが前提であり、キリスト者間における信仰云々は、受洗後の問題である。
2)
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プロの選手になったということは、同時にどこかのチームに属していることを意味するように、キリスト者も受洗したということは、キリストの体である教会に属していることを同時に意味している。チームに属していない人は、ゲストとしてベンチに一緒にいることはできるが、試合に出ることはできない。子供は心と体の栄養を十分に受けることができる環境にいれば、必ず成長するように、キリスト者としての成長は、自分の努力によってではなく、聖霊と共に歩むことによってのみ成就する。従って、先ず私たちが最初にすべきことは、神の御言葉を受けることができる環境下に自分の身を置くことである。教会にしっかりと属すること。それが、キリスト者であることの前提である。
3)
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クリスチャンにも、実に様々なタイプの教会や人がいるが、キリスト者である以上、信仰は一つである。(エペソ4:4-6) 我々の信仰の歩みを阻むものが二つある。一つは自分の内に残留している罪の性質と、同業者からの非難・中傷である。(パウロの敵はローマではなく、かつての自分の同胞ユダヤ人であったように)クリスチャンがクリスチャンたる理由はただ一つ。それは信仰である。
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オ-ストラリアのクリスチャンDr.ハムリンは、アフリカの幼児奴隷として、幼いときからSexを強いられて婦人病に苦しむ少女達の救済にあたっている。医者は、大抵お金持ちで、実際にお金や地位を目当てに医者になる人が大勢いる。自分の人生を貧しい少女達を救うために捧げている彼女は、個人的な財産など何も持っていない。しかし、真の勝利者とは誰か?それは、ローリングヒルズに豪邸を構える医者ではなく、世のため人にため、神のために生きる人のこと。自分の価値観の標準をこの世でなく、天に置く人のことである。
5)
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フットボ-ル選手の体格は、自分の努力によって得たものではなく、神からの一方的な恵みである。だが、彼がプロの選手になるためには、努力と忍耐、強い意志と計画性が必要であることは言うまでのない。人はフットボ-ル選手になることと、主の弟子・神の共同管理人になることと、どちらが難しいだろう? いずれにせよ、その栄光の大きさから考えると、その道は決して安易な道ではないことだけは確かである。
6)
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何故、クリスチャンが羊に喩えられているのか? 羊には必ず羊飼いが必要だからである。羊飼いがいない群れは、いくら羊同士が結束しようが、狼に勝てる見込みは全くない。羊の群れには、生ける御言葉を取次ぎ、それを実践する霊的リーダー不可欠。教会には様々な人が来る。そのために教会には様々なタイプの人が必要。フォワードとディフェンスは常に一体。説教や賛美がフォワードなら、受付や食事当番はディフェンス。それが一つとなってはじめて宣教という形が作られる。神の目からは、その尊さも重要度も同じである。
7)
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ギデオンの戦士・3200人中、1%以下の300人が、13万5千の敵国に対して勝利をもたらした。それは、神に属する民とこの世との戦いである。主に信頼するという点において彼らは勇敢だった。この世的には退散すべき状況の中で、彼らは目に見えない神への信頼に賭けた。彼らのように、主によって勝利することがクリスチャン生涯の証しである。不治の病が癒された、不思議な方法で経済的に満たされたといったことに人は目をうばわれがちだが、キリスト者としての証しはそのような現象にあるのではなく、この世では癒されなかったけれども、勝利の人生を送った。これこそ、キリスト者の特徴・醍醐味である。
アメリカでは金持ちになることがドリームなようだが、主はただ、信仰による勝利者だけを求めておられる。目に見えないが、確かにおられる神に信頼して、神を第一にして生きる歩みを貫き通すことこそが信仰の道である。神に賞賛される人々とは、ただ神を信じたということではなく、神を信頼しつつ、信仰者として歩んでいる人たちのことである。
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