Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

世に打ち勝つ信仰 Ⅰヨハネ5:1-5

2007年12月30日 | Celebration
1)受洗は信仰の始まりであって終わりではない

 神を信じ、洗礼を受けたということは、その時点では、イエスを主と告白する信仰があったからだが、折角子供が生まれても、ミルクなどの体の栄養や、心の栄養が与えられなければ、成長しないか、死んでしまうのと同じで、クリスチャンとして生まれても、御言葉の栄養が与えられなければ、信仰の成長は止まり、霊的に死んだ状態になる。赤ちゃんの場合、拒食症はないが、クリスチャンの場合は、教会拒否症や、御言葉拒食症になる人がいる。そうなると、信仰の成長が止まるというより、霊的に死ぬと言ったほうが適切である。

 人が死ぬと、ハエやハゲタカは思うがままに寄って来る。アフリカなど貧しい国の人たちが、ハエを追い払う気力もないほど弱っている様子を見ることがあるが、クリスチャンが霊的に死んだような状態もそれと同じ。悪魔が自由にやってきて、その人の内に巣くい、ますます真理から遠ざけ、最後には地獄へと堕として行く。神との関係下にある者は、「信仰がある」ということが前提であり、キリスト者間における信仰云々は、受洗後の問題である。


2)成長できる環境下に自分の身を置く

 プロの選手になったということは、同時にどこかのチームに属していることを意味するように、キリスト者も受洗したということは、キリストの体である教会に属していることを同時に意味している。チームに属していない人は、ゲストとしてベンチに一緒にいることはできるが、試合に出ることはできない。子供は心と体の栄養を十分に受けることができる環境にいれば、必ず成長するように、キリスト者としての成長は、自分の努力によってではなく、聖霊と共に歩むことによってのみ成就する。従って、先ず私たちが最初にすべきことは、神の御言葉を受けることができる環境下に自分の身を置くことである。教会にしっかりと属すること。それが、キリスト者であることの前提である。


3)福音理解に一致を、宣教方法に自由を

 クリスチャンにも、実に様々なタイプの教会や人がいるが、キリスト者である以上、信仰は一つである。(エペソ4:4-6) 我々の信仰の歩みを阻むものが二つある。一つは自分の内に残留している罪の性質と、同業者からの非難・中傷である。(パウロの敵はローマではなく、かつての自分の同胞ユダヤ人であったように)クリスチャンがクリスチャンたる理由はただ一つ。それは信仰である。


4)信仰者としての目標を明確にする

 オ-ストラリアのクリスチャンDr.ハムリンは、アフリカの幼児奴隷として、幼いときからSexを強いられて婦人病に苦しむ少女達の救済にあたっている。医者は、大抵お金持ちで、実際にお金や地位を目当てに医者になる人が大勢いる。自分の人生を貧しい少女達を救うために捧げている彼女は、個人的な財産など何も持っていない。しかし、真の勝利者とは誰か?それは、ローリングヒルズに豪邸を構える医者ではなく、世のため人にため、神のために生きる人のこと。自分の価値観の標準をこの世でなく、天に置く人のことである。


5)信仰による歩みは決して安易な道ではない

 フットボ-ル選手の体格は、自分の努力によって得たものではなく、神からの一方的な恵みである。だが、彼がプロの選手になるためには、努力と忍耐、強い意志と計画性が必要であることは言うまでのない。人はフットボ-ル選手になることと、主の弟子・神の共同管理人になることと、どちらが難しいだろう? いずれにせよ、その栄光の大きさから考えると、その道は決して安易な道ではないことだけは確かである。


6)信仰の実践に個人プレーはありえない

 何故、クリスチャンが羊に喩えられているのか? 羊には必ず羊飼いが必要だからである。羊飼いがいない群れは、いくら羊同士が結束しようが、狼に勝てる見込みは全くない。羊の群れには、生ける御言葉を取次ぎ、それを実践する霊的リーダー不可欠。教会には様々な人が来る。そのために教会には様々なタイプの人が必要。フォワードとディフェンスは常に一体。説教や賛美がフォワードなら、受付や食事当番はディフェンス。それが一つとなってはじめて宣教という形が作られる。神の目からは、その尊さも重要度も同じである。


7)信仰者は必ずこの世に勝利する

 ギデオンの戦士・3200人中、1%以下の300人が、13万5千の敵国に対して勝利をもたらした。それは、神に属する民とこの世との戦いである。主に信頼するという点において彼らは勇敢だった。この世的には退散すべき状況の中で、彼らは目に見えない神への信頼に賭けた。彼らのように、主によって勝利することがクリスチャン生涯の証しである。不治の病が癒された、不思議な方法で経済的に満たされたといったことに人は目をうばわれがちだが、キリスト者としての証しはそのような現象にあるのではなく、この世では癒されなかったけれども、勝利の人生を送った。これこそ、キリスト者の特徴・醍醐味である。

 アメリカでは金持ちになることがドリームなようだが、主はただ、信仰による勝利者だけを求めておられる。目に見えないが、確かにおられる神に信頼して、神を第一にして生きる歩みを貫き通すことこそが信仰の道である。神に賞賛される人々とは、ただ神を信じたということではなく、神を信頼しつつ、信仰者として歩んでいる人たちのことである。

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クリスマスの心 ヨハネ1:1-18

2007年12月23日 | Celebration
今から約2千年前、地上は差別と偏見、偏狭さに溢れ、人々は独裁恐怖政治の下で、悲しみと苦悩の中にあった。それでも、人々はそんな生活の中でも、喜びを見付けながら必死で生きていた。しかし、罪と死の暗闇の世界から人々は抜け出ることは出来なかった。地上はどこまでも深い闇の中にあった。

 天上と地上の世界をつなぐ一つの扉があった。そこにある日突然、天の扉が開き、一筋の光が地上を照らし出した。闇の中で星がまばゆいばかりに光輝き、天使たちの歌声が響きわたった。その驚くような光景を目にしたのは、野宿をしてた貧しい羊飼いたちだった。

 同じ夜、もう一つのしるしが天に現れた。ある東の国の天文学者たちが、ひときわ明るく輝く、ふしぎな星を見つけたのだ。彼らはこの星に導かれて広い砂漠をはるばる旅をした。星が彼らを小さなベツレヘムの村まで導いたのだった。彼らはそこで、ひとりの幼な子に宝をささげて帰っていった。

 そして、間もなくその扉は閉じられ、地上は再び暗闇に戻った。地上の世界は以前と比べて何も変っていないかのように見えた。しかし、地はもはや前と同じではなかった。地上には、天から送られたひとりの幼な子がいたからである。2千年前のある夜。クリスマスの意味を理解していた者は、地上では羊飼いたちと天文学者以外には、誰もいなかった。

 それは、人類の長い歴史の中で、神が直接地上に介入された、最初の出来事であった。今まで隠されていた神の神秘の成就。その事の重大さにどよめき、神のなさった大いなる御業を讃め頌えずにいられなかったのは、御使いたちと天の軍勢であり、地上の人間ではなかった。最初のクリスマスは、地上ではなく、天上において祝われていたのである。

 聖書はこの出来事について、事実を淡々と報告しているだけで、一切解説めいた説明はない。この世界の救世主誕生の物語は、霊的に読まなければ、何も見えてこない。

 羊飼いは、世の中の最下層にいる貧しくて孤独な人々、心に大きな闇を持つ人々の代表である。彼らは突然光に打たれ、その輝きが一体何か分からず、恐れおののいた羊飼いたちに、天からこう声がした。「見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである」と。

 それは、何百年も前から預言されていた救い主の誕生だった。「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」救い主のしるしは、「幼な子が布にくるまって、飼葉おけに寝かしてある」ことであった。

 この箇所で、「飼葉おけ」という言葉が3度登場する。聖書が同じ事を3度繰り返すとき、そこには特に重要な意味が込められている。布にくるまり飼葉おけの中で眠る貧しい幼な子、それはやがてゴルゴタの丘の上で十字架につけられて殺される救い主の姿であった。

 「布にくるまって」とは、オムツをしてというのが本来の意味。すなわち神の子は、普通の赤ちゃんとまったく同じだった。そしてこの子は成長し、神と人から愛され、多くの人々を癒し導き、やがて十字架にかかられ、そこからおろされた後、「亜麻布にくるまれていた」(ルカ23:53)。それは、生まれる時から、十字架にかかられるまで、従順でご自身をささげきられた僕の姿であった。

 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、御心にかなう人々に平和があるように。」(ルカ2:14) 罪の束縛に苦しむ人々の耳に聞こえてきたのが、沈黙の夜空を突き破って響き渡る天の讃美の大合唱であった。

 羊飼いたちは言った。「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせくださったその出来事を見てこようではないか」と。そして彼らは、飼葉おけの中の幼な子と出会った。そして、彼らの心には大きな驚きと感動が生まれた。

 神の子が飼葉おけの中でお生まれになった!もし、神の子が神殿の寝台で生まれたのなら、彼らはそれを見ることも、知ることも出来なかっただろう。しかし彼らは、馬小屋の飼葉おけの中で眠る神の子を見たのだった。

 飼葉おけは彼らの日常生活の舞台だった。彼らの生活のただ中に神の子が生まれてくださったのである。飼葉おけは、貧しい人々の象徴である。それは、私たちのもとに、私たちのために、神の子がお生まれになったという、喜びと驚きの感動であった。そして彼らは、神をあがめ、讃美しながら帰った。

 富める人や賢い人たちが、幼な子に泊まる場所を与えるのを拒否した一方、貧しい人々のもとに、最初に神の子の誕生が告げられたのだった。

 クリスマスの夜、ベツレヘムの野原で羊たちは身を寄せ合ってうずくまり、羊飼いたちは寒さで目を伏目がちにしつつ、楽しそうな会話もなく、暗い闇の中で、辛い仕事に耐えていた。そして同じ時刻、同じ村の片隅にあった馬小屋に、長旅で疲れきった貧しく若い夫婦がいた。それはまさに地上の姿そのものだった。

 彼らの旅は、税金徴収のために人口調査をせよという強制命令だった。命じられた人々は住民登録のために自費負担で原籍地の役場まで行かねばならず、それは貧しい人々には過酷なものであった。その夫婦、ヨセフとマリヤは何とかベツレヘムに到着したものの、宿屋にどこも満杯で、神の子の家族がいくら扉をノックしても、どこも彼らを受け入れてくれる宿屋はなかった。

 彼らはそこで冷たい人間の心の闇に直面しなければならなかった。それは救い主の訪れに気が付かない、心の扉を開こうとしない私たち人間の姿である。ようやく彼らはある宿の片隅にあった馬小屋を見付け、そこでマリヤは月満ちて赤ちゃんを産み、布にくるんで飼い葉おけの中に寝かせたのである。

 クリスマスの舞台は、沈黙が支配していた。そしてこの驚くべき出来事を見ることが許された者たちも、やはり沈黙していた。それは人にいちいち説明したり、余計なことをしゃべる必要のない沈黙。本当の喜びに満ちた者にしかできない沈黙である。彼らの口から出て来るのは、ただ讃美と祈り。羊飼いたちは、心を天に向けて神をあがめ、讃美しながら帰って行った。

 やがてその光は、天の扉とともに再び閉ざされた。しかし、再びこの地上を闇の力が支配しようとも、もはや闇の力は打ち破られたのだ。「闇はこれに勝たなかった」(ヨハネ1:5)のである。この事実を知った羊飼いたちは、もはや、かつて闇の中にまどろんでいる存在ではもはやなく、喜び歌い、天の御使いたちの群れに加わる。この羊飼いたちこそ、私たち自身の姿なのである。


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霊の刷新 Ⅰコリント2:10-15 

2007年12月16日 | Celebration
 人間は、何によって成り立っているのでしょうか?人間には、肉や骨、内臓と言った、『体』に属するものと、嬉しい、悲しい、と言った感情や、もの考えたり判断したりする『心』に属するものがあります。その心と身体は一体であり、体が疲れている時は、心も元気がなくなりますし、心が沈むと体が不調を訴えたりすることは、よくあることです。

 また一方、今日までにこの仕事をやらなければならないと思っても、体が思うように動かずに、それを終わらせることができなかったとか、食べ過ぎは、よくないと分かってはいても、ついつい食べ過ぎてしまうなどの経験は、日常生活によくあることです。そのように、私たちは、体と心がうまく一致しない問題によくぶつかります。

 夏目漱石は、『こころ』と言う小説の中で、『自分を立てれば倫理が滅び、倫理を立てれば自分が滅びる。』と言う、人間の生き方の現実を示しています。つまり、主人公は自分の欲求を満たしたいばかりに罪を犯してしまいますが、その罪を償おうとした結果、結局彼は自殺してしまうのです。私たちが深く人生を突き詰めていく時、必ずこのような解決不能な問題にぶつかります。聖書は、この問題に対し、「理性は実を結びません」(Iコリント14:14)と明確に結論付けています。

 この人間の根本的な問題を解決するためには、霊の世界に目を向ける必要があります。最近は、日本でも霊の世界について語られることが多くなりました。『スピリチュアル・カウンセリング』と言う、言葉もよく話題に出てきます。

 しかし、『心』や『霊』といった目に見えないものを説明したり、理解したりすることは、とても難しいものです。また、その目に見えないものを利用して人をだましたりする犯罪も増えいています。それではどのようにしたら、『霊』について正しい理解ができるようになるのでしょうか?今日は、『霊の刷新』というタイトルで、コリント第一手紙2章10-15節から、田中啓介牧師が『霊』について語ってくださいました。

 クリスチャンは体と心以外に、『霊がその人の本性である』と言うことを知っています。なぜなら、聖書には、霊の存在が明確に多くのことが記されているからです。それでは『霊』は、人間にどのような働きをするのでしょうか?最初に人間は、体と心で成り立っていることを書きましたが、心は、物事を感じる『情感』、理解する『知性』、自分の持っている経験(知性や情感)で分析し、それに働きかける『意志』の大きく3つの要素で成り立っています。心は、体の中に浮いている透明な球体のようなもので、常に周囲の環境によって影響されます。

 社会的環境や社会的価値観、自分の生活している場所やその時代の価値観や権威、また、流行などに私たちは自分の人生の標準を合わせたり、またそれに反したりして生活しています。例えば、ある人が、「自分のことは自分でするのが、当然!」と言う社会的価値観に大きく影響されれば、誰かが困っていても助けようと言う気持もなくなりますし、反対にそのような価値観は間違っていると感じて行動する人もいます。

 そこに『霊』が介在するとどういう事が起きるのでしょうか?霊にもいろいろな種類の霊がありますが、今日は、「この天地を創造され、イエス様を私たち救いのために送ってくださった神様の霊」=『聖霊様』についてお話します。神様が送ってくださる聖霊様は、私たちがイエス様を救い主として信じることを働きかけ、助けてくださる霊です(Iコリント12:3)。そして、私たちがイエス様を信じた「瞬間!」に私たちの体と心の中心に入って、私たちと共に住んでくださるのです。

 そして、聖霊様は、天にいらっしゃる神様、イエス様と絶えず、交信をし、神様と私たちの関係をしっかりと結び、つなげてくださいます。ですから、私たちの中に絶えず、神様の価値観が流れ込み、その価値観が私たちの中に定着し、体と心に影響を及ぼします。その影響が強ければ、強いほど、今まで影響されていた周りの環境や価値観から解放され、神様の価値観で生活していくことができます。

 例えば、「背が高くなければ、人から愛されない」と言う、社会的価値観の中で、孤独を感じている人が、イエス様を信じて新たな人生を歩み出した時、「わたしの目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言う、神様の真理を聖霊様によって理解し、孤独から解放されて生きることができます。

 しかし、私たちの心や体が、霊に一致して歩んでいくことに時間がかかる時があります。聖霊様が一瞬で働きかけてくださる部分もありますが、ゆっくりと時間をかけて少しずつ神様の価値観の下で歩むことを教えてくださる部分もあります。あせらず、神様に信頼し、祈り、求めつつ歩んでいきましょう!

 それでは、聖霊様は、神様を信じる人々(クリスチャン)にどのように働いてくださるのか?聖霊様の働きは、たくさんありますが、今日は、そのうちの3つを分かち合いましょう。


交わり情感喜びと平安

 聖霊様は、クリスチャンに神様との交わりを与えてくださいます。聖書を学びたいと言う思いや、神様に祈りたいと言う思いは、聖霊様を通して与えられます。聖霊様を通して与えられる「神様との交わり」は、私たち、クリスチャンの心の情感の部分に働きかけ、何にも代え難い、温もり、平安、喜びが与えられます。

霊感知性御言葉の体現化

 聖霊様は、クリスチャンに人間が持っている以上の感覚を与えてくださいます。それは、一般的に言う、「五感以上のもの」、「第六感」と呼ばれているような感覚です。聖霊様を通して与えられる「霊感」は、私たち、クリスチャンの心の知性の部分に働きかけ、聖書に書かれている御言葉の体現化、聖書に書かれている奇跡の体験が与えられます。

良心意志クリスチャンらしい言動

 聖霊様は、私たちに良心を与えてくださいます。神様の喜ばれること、正しいこと、罪につながる思いを見分ける力が聖霊様を通して与えられます。聖霊様を通して与えられる「良心」は、私たち、クリスチャンの心の意志の部分に働きかけ、神様に喜ばれ、人を愛するクリスチャンとしての行動力が与えられます。


 イエス様を信じて歩んでいるのに、イエス様を知らなかった時とあまり変わらない生活をしているのではないかと感じているクリスチャンの方。心配はありません。神様は、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日にわたしはあなたを助けた」と言っておられ、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(IIコリント6:2)とおっしゃってくださっているからです。

 聖霊様をもっと、もっと、大胆に求めましょう。神様は、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えくださる方です。いささかも疑わず信仰を持って願えば(ヤコブ1:5,6)、必ず、聖霊様が働いてくださいます。今週も恵み深い神様、イエス様の愛、聖霊様の導きの中を歩んで行きましょう!

過越祭の前 ヨハネ 13:1-15

2007年12月09日 | Celebration
ユダヤ教とキリスト教の神様が一緒だと言う事実をご存知の方は多くいらっしゃると思います。ユダヤ教とキリスト教の違いは、いくつかありますが、いちばん大きな違いは、ユダヤ教を信じる人々は、「『メシヤ』と呼ばれる救い主がやって来るのを待っている」ことと、キリスト教を信じる人々は、「『メシヤ』と呼ばれる救い主は、二千年前にやって来て、十字架に架かり人々の罪を償い、復活し、天に帰られた。その名は『イエス・キリスト』である」ことです。ですから、ユダヤ教とキリスト教には、たくさんの共通点があります。復活祭がキリスト教にとって、大切な日であると同じように、過越祭は、ユダヤ教にとって、大切な日です。

 過越祭の由来は、出エジプト記12章1-14節に書いてあります。まさしく、イエス様が十字架に架かられた時は、過越祭の時でした。イエス様は、「神の小羊」と呼ばれ、十字架に架かり、ご自身の血を流されました。初めての過越祭の時、ユダヤ人たちは、屠った子羊の血を家の入り口の柱と鴨居に塗ることによって、主の裁きから守られました。

 現代の私たちも、イエス様が十字架で流された血によって(イエス様を信じることによって)、これから来る主の裁きから守られるのです。その過越祭の前、イエス様は、何をされたのでしょうか?もし、私たちが、「明日、死ぬ」と言うことがわかっていたら、何をし、また何を言葉にするでしょう?人それぞれいろいろなことをするかもしれませんが、それは、自分にとってこの世でいちばん大切なことをしたり、言葉にしたりすると思います。

 それでは、イエス様は?

 それが今日のメッセージ、ヨハネ13:1-15節です。ここには、マタイ、マルコ、ルカの3福音書には、載っていない記事があります。夕食をしている最中にイエス様が立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、弟子たちの足を洗い始めたのです。(13:4,5)弟子たちにとって、師匠のイエス様は、いつも突拍子もないことをされる方でした。「足を洗う」と言う行為は、当時のユダヤ社会では、奴隷のする仕事でした。当然、「先生」と呼ばれていた人たちは、決して、そんなことはしません。イエス様も「先生」と呼ばれていた立場の方でしたから、そんなイエス様が弟子たちの足を洗い始めたのですから、彼らはとても驚いたに違いありません。それでは、「なぜ、イエス様は弟子たちの足を洗ったのでしょうか?」今日は、そのことを通して、「神様と私たちとの関係における7つのポイント」について田中啓介牧師からメッセージをいただきました。


イエス様はこの世に仕えるために来られた

  イエス様がエルサレムに入られた時、群衆は、「ホザナ、ホザナ!」と叫びました。弟子たちは、いよいよイエス様が政治的リーダーとなってローマの圧制からユダヤ人を救ってくださると勘違いしていました。イエス様が、エルサレムに来られたのは、十字架に架かり、私たちの罪を贖うためでした。その状況下の中で、イエス様が弟子たちの足を洗われた行為は、まさに、イエス様が仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たことをイエス様、ご自身が身をもって示されたものです。(13:5)

イエス様はいつも、ご自身の行動をもって私たちに模範を示してくださる

  イエス様は、決して、口先だけで、「愛し合いなさい」「仕え合いなさい」とおっしゃっているわけではありません。イエス様の教えは、いつも、ご自身の行動が伴われています。(13:15)もし、イエス様がただ、愛の実践の模範を示すだけだったら、一人の弟子の足を洗って「こうするんだよ」とおっしゃれば十分だったかもしれません。しかし、イエス様は、弟子、一人一人を愛されているからこそ、12人の弟子、全員の足を洗われたのです。このように、イエス様は、私たち一人、一人を愛してくださり、私たち、一人一人の罪を贖うために十字架に架かられました。
  
イエス様の愛は一方的な恵み

  イエス様は、食事の席でご自分から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。そして、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始められました。(13:4,5)この行為は、弟子たちがイエス様に頼んだわけではありません。イエス様自身がされた行為でした。そして、驚くべきことにイエス様、自らが移動されて、弟子たちの前に行って、弟子たちの足を洗われたのです。(「シモン・ペトロのところに来ると…」13:6)イエス様は、自ら私たちの所にやって来てくださる方です。それは、イエス様が私たちを真に愛してくださる方だからです。

  イエス様の赦しは永遠に続く

  シモン・ペトロは、イエス様に「足だけでなく、手も頭も洗ってください」と願います。それに対し、イエス様は、「すでに体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」とおっしゃられました。(13:9,10)イエス様の時代、ユダヤの人々は、よく身を清めました。しかし、道路が舗装されている時代ではありませんし、履物は、サンダルのようなものを履いていましたから、足は汚れました。そのことを通して、イエス様は、「すでに体を洗った者」を「イエス様を信じ、洗礼を受けた者」と意味されました。しかし、体を洗っても足は汚れます。たとえ、イエス様を信じ、クリスチャンとして歩んでも、罪から全く解放されたわけではありません。私たちは、この世で、肉体がある限り、罪を犯します。「汚れる足」は、私たちが犯してしまう「未来の罪」を意味します。その罪に対しても、イエス様は、「洗ってくださる」つまり、「赦し、清めてくださる」と言うことです。
  
  人間は自分で自分の罪を解決することはできない

  「イエス様は、ご自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、『皆が清いわけではない』と言われたのである」(13:11)イエス様は、イスカリオテのユダがご自分を裏切ることをご存知でした。それは、クリスチャンになっても罪を犯すことと共通しています。しかし、イスカリオテのユダだけがイエス様を裏切ったわけではありません。十字架に架けられようとしているイエス様を弁護しようとした弟子は一人もいませんでした。むしろ、彼らはイエス様が捕らえられた時、逃げ出してしまいました。イエス様を裏切ったと言う意味では、すべての弟子たちは同じ立場でした。しかし、他の弟子たちは、復活されたイエス様に会われ、赦され、新たな歩みを踏み出しました。それに対し、イスカリオテのユダは、自らの罪に苛まれ、自殺をしてしまいます。「罪の報酬は死」であることは明確です。しかし、「死」は、真の解決では決してありません。他の弟子たちは、むしろ、罪から解放され、新たな力を得、素晴らしい主の働きをしました。イエス様だけが罪から私たちを救い出してくださるのです。

  イエス様に従い続ける

  イエス様を「救い主」と受け入れていますか?イエス様を信じていますか?この問いに対して、「はい」と答えられたら、イエス様がおっしゃったことを実行しましょう。イエス様は、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(13:14-15)わたしたち、クリスチャンは、イエス様を信じています。ですから、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合いましょう。弟子たちは、復活されたイエス様が天に昇られた後、イエス様がおっしゃったことを実行しました。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒2:44-47)


 イエス様が、過越祭の前、十字架に架かられる前に弟子たちに伝えたかったこと、それは、現代に生きる私たちにも今も、なお、伝えたいことなのです。もし、あなたがまだ、イエス様を知らなければ、ぜひ、この機会にイエス様があなたにとって、どんな方なのか理解していただきたいのです。

 そして、イエス様を「救い主」と信じ、受け入れて、祝福された人生を歩んでいきませんか?もし、あなたがイエス様を「救い主」として受け入れて歩んでいるならば、更に喜びに溢れた豊かな人生を歩んでいくと共に、そのことをまだイエス様を知らないあなたの周りの方々に、その喜びを分かち合っていきましょう!

残りの民 アモス 9:7-11

2007年12月02日 | Celebration
 レムナントは、創世記から黙示録まで、聖書全66巻に一貫して語られている重要なモチーフ。レムナントとは『残りの民』という意味で、英語では、「remain(=残る、とどまる)」と同義語である。今回は、異色の預言者アモスから、キリスト者が自覚すべき『レムナント・アイデンティティ』を持つことを教えられた。

 アモスは、人から預言者と思われていなかった。彼自身、本業である羊飼い、農民であるままに、神様からの言葉をいただき、預言をしていたのだ。アモスは祭司アマツヤにこう応えた。

わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われたのだ。(7:14-15)

 彼が生きていた時代に蔓延していた不正、民族至上主義による傲慢、浅はかな選民意識を告発したアモス。形式ばかりでその実が全く無い彼らに対する神の嘆きを、アモスは預言した。4章には、4回も神の切ない思いが繰り返される。精神的な荒廃があっても、経済的な苦難があっても、戦という酷い経験を経ても、人にはコントロールできない災いが襲い掛かっても、「お前たちはわたしに帰らなかったと」と、主は言われる。ふるいにかけられた後に残る者、これがレムナントである。その残りの民に対して、アモスは神の言葉をこう取り次ぐ。

お前は自分の神と出会う備えをせよ。(4:12)

わたしを求めよ、そして生きよ。(5:4)

見よ、わたしは命令を下し、イスラエルの家を諸国民の間でふるいにかける。(9:9)

 1949年、中国共産党の一党独裁政治により、当時中国にいた何十万人というクリスチャンが殺された。そして文化大革命から21世紀の現代に至るまで、クリスチャンに対する迫害は続いている。しかし今、中国では毎日数え切れないほどのクリスチャンが誕生しており、その数は実に1億人以上と言う。凄まじい迫害の中で生き残った僅かなレムナントが、今の驚くべき中国リバイバルの核となったのである。

どのような状況にあっても決して希望を捨てない
僅かではあっても必ず群れを成している
情熱に燃えた福音戦士たち

 この3つがレムナントの特徴である。「クリスチャンならば当然!」と思われるだろうか。いや、いつの時代でも神の教えを固く守り通した者たちは、少数だったということを聖書は証言している。レムナントの数は決して多くはない。そしてアモスが活動していた時代は、現代と非常に似ていると田中師は言う。

 来るべき終末の『飢え』は物質的なものではない。聞きたくても聞こえなくなってしまった神の言葉に対する飢え渇きなのだ。この世の地獄とは、神との関係が完全に絶たれしまった状態のことだ。闇が迫る。邪悪で不義な世界が周囲を覆っていく。だからこそ、必死になって神様の声を聞こう!神様に立ち返ろう!求めるものは必ず与えられるのだから