Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

収穫の秘訣 ヨハネ 4:31-38

2009年11月29日 | Celebration
 今月は、「平安」「幸福」「感謝」。そして今回の「収穫」と続いた秘訣シリーズ。第一章「平安の秘訣」では、平安を得るには、(1)力や強さに拠るものではないこと、(2)赦さなければならないこと、そして(3)永遠の命をいただくこと、を聞いた。クリスチャンの専売特許である永遠の命は別にして、(1)も(2)も世間一般に通じている。真の幸せは力に拠らないことも、赦せない苦悩も、赦されない悲哀も。しかし、そういった事実を知ってはいるものの解決には至らない。そこに救いの福音がないからだ。だからこそ、その解決のために、キリスト者がどれだけ福音を日常で表現できるかが、本当に必要とされている。

 そこで最終章の聖書箇所は、有名なサマリアの女の話の中間にある。ヤコブの井戸に人目を避けて水汲みに来たサマリアの女にイエス様が会い、彼女が町の人々へ主の顕在を知らせに行って戻って来る間の話。幕間劇のように見えながら、実はここに、敢えてその場に留まったイエス様が教えた「収穫の秘訣」の本幕がある。


「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」--肉の食物と霊の食物--

 カウンセリングクラスで“ストローク”について話される。人間が生きるには、口から入る食物栄養素も必要だが、それよりもっと必要なのは心の栄養素、ストロークなのだと。子供は、食べ物を与えておけば育つ訳ではない。両親や周囲からの愛情というプラスストロークの方が、健全な成長にずっと必要だ。イエス様がここで仰ったのは、それ以上の「霊のストローク」。

 美味しいものを食べれば嬉しいし、満足を得る。しかし少し経てば、その食べ物が消化されてなくなってしまうように満足も薄れ、三日もすれば何も残らない。また、どんな世界一美味なメニューであっても、それを口にすることを人生の目的にする人はいないだろう。聖書は語る。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。(申命記8:3)」人間には、すぐになくなってしまう肉の食べ物ではなく、減らずに蓄積され、生きる活力となる霊の食べ物の方が大切なのだ


「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」--カイロスとクロノス--

 イスラエルでは一年に二回収穫があり、種を植えてから約4ヶ月で収穫するルーティンだった。しかし人間の時間感覚は、時空を超越する神様には関係ない。パウロが「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。(Ⅰコリント3:6)」と書いているように、成長は神の領域だ。神様はその種が育つことをご存知だ。だからイエス様は、種蒔かれて間もない畑に大いなる収穫をご覧になった。

 同じように、聖化という過程はあるにしろ、救われて、内に聖霊をいただいたキリスト者は、すべて神様の時に召された献身者で、収穫を見て刈り入れる者。キリスト者それぞれが、今立たされている現場は、そこで福音を伝え、一人でも多くの救いを得、神様と共にその業を喜び合うための場所なのだ。クロノス時間に支配されるのではなく、神の時であるカイロスに生きる。それが真の生き方だ。


ユダとサマリア--神の視点と人の視点--

 全米有数のメガチャーチ、ウィロークリーク教会の牧師、ビル・ハイベルズ牧師のお証し。カウンセラーに勧められて趣味のヨットを始めたビル先生は、そこで現世主義の権威のような仲間たちと過ごすことになる。酒好き、女好き、めちゃ下品。全く異質な人々との交流に少なからず悩む時、神様が「わたしから程遠いところにいる人々と仲良くしなさい。回心させようと思うな。わたしのすることを見ていよ。」と語られる。そして7年の月日が経った時、仲間内で神様無縁の最上級のデイブが、教会を訪れる気になり、そのままクリスチャンになってしまう。牧師のビルですら、彼の救いに喜びよりも思わず「NO WAY! (まさか!)」と叫んでしまうほど、人の目には奇しき御業がそこにあった。

 イエス様が語ってくださっているのは、サマリア地方の中心。アッシリアに征服され、民族アイデンティティを失い、エルサレムに行くことも適わず、同族のユダからは敵視されて、もはや救いはないと見なされていたサマリア。人の目では、こんな汚れた、あんな悪行をした、と軽蔑し、無意識の内に神の救いの外に置いてしまう人々がいる。神様を知らない、神様から遠い、それだけで実は毛嫌いして、近づこうとしない人々がいる。ユダがサマリアにした同じような態度が、今の私たちにもあることは否めない。しかし、イエス様はどうされていたか。そのイエス様に癒されたサマリアの女はどうなったか。


誰でもリンゴの中の種を数えることはできるが、種の中のリンゴを数えることができるのは神様だけ

 教会も、セルも、活動の実りは今すぐ目にすることはないかもしれない。しかし、神様の御心を行うことに一切無駄はない。救いのための働きが無視されることは決してない。収穫の前には、地を耕し、種を蒔き、水を注ぎ、肥料を与え、過酷な天候や厳しい条件下で育てる地道な働きもあるけれど、どんな時も、神様の言葉に信頼して収穫を見上げ、忠実に従う時、神様の約束が実現する。必ず、御心は成るのだから。(睦美)


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感謝の秘訣 コロサイ3:15-17

2009年11月22日 | Celebration
 核家族化が当たり前になっているアメリカも、年に一度のこの感謝祭の時だけは、家族一同が集って、共にサンクスギビングディナーの食卓を囲む。その意味で、日本のお正月風景に最もよく似ているのが、感謝祭である。この日が、中世にイギリスから新大陸へと移住して来たピルグリム・ファーザーズたちが最初の収穫を記念した行事であると言うことは、アメリカ人であれば誰もが知っている。しかし、実際には、そのような甘いイメージとはかけ離れた史実があった。

 当時、アメリカ大陸は『新世界』と呼ばれ、イギリスの絶対王政によって身分格差や不平等の社会が広がる中、伝統に凝り固まった世界から自由を得ようとする人々の希望の新天地とされていた。当時のイギリスには宗教改革の波が広がり、英国国教会の弾圧によって苦しめられていたピューリタンたちは、自分たちの信仰の自由を求め、新世界へと渡ることを決意した。

 ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる102人は、メイフラワー号で英国に出発し、66日間の厳しい航海を経て、新世界に到着した。しかし彼らを迎えたのは、凍て付く冬の原野、荒涼とした極寒の土地だった。長い航海で力尽き、寒さと食料不足のため、彼等は春が訪れる前に102人中、何と半数近い47人の仲間を失った。残された者たちは、好意的だった先住民に人々から生きる術と農耕を学び、収穫のために懸命に働いた。彼らにとって、神にすがり、神に助けを求めるしか、生きる道はなかったのである。そして翌年の秋、やっと与えられた恵みの収穫を記念し、助けてくれた先住民を招いて感謝の食卓を共にした。それは、もはや単なる食事会ではなく、神への礼拝であった。

 この彼らの血と汗を絞るような切実な祈りこそ、バプテスト、改革派、クエカーなどのアメリカのプロテスタント諸派の源流となり、荒野から世界に宣教師をおくり続けるクリスチャン国にまで成長した理由であった。感謝祭とは、真の意味におけるアメリカ建国記念の日であり、いにしえのピューリタンたちが抱いた同じ信仰で、収穫を神に感謝する日なのである。

 今日の聖書箇所はコロサイ書から。獄中のパウロが、異端の教えが入り込む危険に曝されていたコロサイの教会に、福音こそが真実であり、それにふさわしい生活をすることを勧めて送った手紙が本書の内容である。今日の聖句、3章15-17の3節すべてに「感謝」という言葉が繰り返されている。つまり、感謝こそ信仰生活の中心となるものである。しかしながら、多くのクリスチャンは、救いの事実は知っていても、心から湧き出るような世と喜びや、満ち溢れる感謝を感じていない。何故、私たちは感謝できないのだろうか。感謝を妨げる3つの要素がある。

人は生きている目的を知らなければ、感謝することができない。
人は信じることができなければ、感謝することができない。
人は苦しみや悲しみを通らなければ、感謝することができない。


 貧しい家庭に生れ育ったラルストン・ヤングさんは、子供の頃から教会に通い、勉強熱心で、大学でも優秀な成績を修め、将来は牧師になりたいと願っていた。しかし、経済的な理由から、神学校へ行くことは出来ず、卒業後は、今迄の勉強の成果を生かした職業を捜し求めていた。書類審査で快い返事をもらって喜び勇んで面接に赴くと、どの担当者も彼を見た途端に態度を変え、慇懃に応対し、入社を認めてくれる会社は一つもなかった。彼が黒人だったからからである。結局、彼がようやく得ることのできた仕事は、ニューヨークのグランドセントラルステーションでのお客の荷物運び。そこで彼は『42番の赤帽』と呼ばれた。

 社会に一歩を踏み出した若きヤングさんは失望した。就いた仕事に、どうしても自分の生き甲斐を見い出すことが出来なかったのである。次第に仕事に対する態度も投げやりになり、苦々しい思いを抱きつつ、幾つかの季節を過ごした。そんなある日、彼は、一つの聖書の御言葉に目を留めた。

あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 (ローマ12:14-15)

 「自分が本当になりたかったのは牧師だった。牧師の仕事は、教会に来ている人たちを励ますことだ。でも自分は・・毎日々たくさんの人たちと会ってるじゃないか。今の生活でも、人を励ますことが出来るじゃないか。それこそ、自分が目指していた仕事じゃなかったのか・・・」そう思ったヤングさんは次の日から、会う人、会う人に励ましの言葉をかけ、心の中で彼らの祝福を祈るようになった。たとえ自分を奴隷のようにしか扱わないようなお客であっても。

 そんなある日、彼の前に一人の車椅子に乗った老婦人が現われた。ふと見ると、彼女は肩を落とし、何だか悲しみに打ちひしがれている様子だった。ヤングさんはいつものように彼女の祝福を心の中で祈り、何とかこの老婦人を励まそうと彼女に話しかけた。

 「今日はまた随分と素晴らしく綺麗なお召し物じゃないですか!とても素敵ですよ。よほど高価なものなのでしょうねぇ。それともどなたからの贈り物ですか。いやいや、美しい!」

 老婦人はいきなり見知らぬ黒人の赤帽に話しかけられ、当惑した様子だったが、彼は明るく声をかけ続け、祝福を祈りながら彼女を見送った。それから一年ほど経った頃、一人の40歳ぐらいのこざっぱりとした身なりの女性が、ニューヨークのセントラルステーションで働いている42番の赤帽さんは誰かと訪ねて来た。

 「あなたが42番の赤帽さんですか?」

 「はい、そうです!」

 「一年ほど前、あなたにご親切にしていただいた車椅子の老婦人のことを覚えていますか?」

 「え~~と、そうそう、あぁ、あの上品な車椅子のご夫人、覚えていますよ!」

 「あの人は私の母なんです。」

 「へぇ!そうだったんですか!?」

 「はい。実は母は先日、天に召されました。母はあの日ニューヨークから帰ってきてから亡くなるまでずっと、ニューヨークの駅で会った42番の赤帽さんに、とても親切にしてもらったことを、自分が会う人、会う人に、繰り返し語っていました。そして母は死ぬ少し前に、もしニューヨークに行くことがあったら、是非、あの赤帽さんにお礼を言っておくれ。と、私に言い残したのです。それで今日、私は母の代わりに、あなたにお礼を申し上げに来ました。母の最後の一年は、あなたのおかげで、とても幸せだったと思います。本当にありがとうございました。」

 ヤングさんは思いもかけぬ彼女からのお礼の言葉に驚き、神様の深い導きと恵みを知って心から感謝した。そして、いつしかこの話は広く人々に知れ渡るようになり、彼は多くの教会でこのセントラルステーションでの出会いを語るようになった。そして今日、時空を越えて、ロサンゼルスにあるこの日本人教会でも、ヤングさんの愛の証しは語られ続けている。愛は決して消えることはないのである。

 人を愛するということは、感情でも、理性でもない。神を愛そう、人を愛することを選び取ろうという意志である。だからこそ、私たちは、自分が生かされている 目的を知り、神と人とを信じ、 互いに愛し合い、感謝することから始めようではないか。感謝こそが、福音の本質であり、人間的な資質を磨き上げていくためのエネルギーの源なのだから。(睦美)




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幸福の秘訣 マタイ 17:14-20

2009年11月15日 | Celebration
 オリンピックと言いますと、世界のトップたちがその種目を競うわけですから、ほんの僅かな差で、金か銀かに分かれてしまうわけですね。その金と銀の差の大きさは、言うまでもありません。では、銀と銅の差についてはどうなのでしょうか? ある調査で、銀メダリストと銅メダリストの満足度を調べたら、何と銅の人のほうが、銀の人よりも、充実感・充足感がずっと高かったという結果が出たのです。何故でしょうか?

 銀の人はあと一歩で金を取れなかった悔しさが残り、銅の人は、メダルを獲得出来たという満足度があるからです。世間的に見たら、銅より銀の方が良いに決まっています。しかし、世間の人がどう思うかと言うことよりも、もっと重要なことがあります。それは、本人の心の状態です。金を取れなかったと、一生後悔する人生を送るのか、メダルが取れたことを感謝して生きるのか。人生には大きく分けて二通りの生き方があります。それは、足し算人生と引き算人生です。

 人間は、自分にとって当たり前のことが当たり前でなくなると怒ります。当たり前でないことに不満に思います。自分が設定した目標から外れ、到達しないと不安になる。これが引き算人生です。片や足し算人生は、「元々私には何もないので、頂くものは全て感謝。神様からの恵みだ!」と思える感謝の人生。テストで75点を取って来た子供に、「75点しか取れなかったの!」と叱るのか、「75点も取れたの!」と励ますか、どちらが子供が伸びるかは、明らかですよね。

 クリスチャン人生は足し算人生です。何故なら、神様を信じる前は、“自分は惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることを知らなかった”(黙示録3:17)自分がどういうわけか、神様に選んでいただき、永遠の命を頂き、新しい人生が始まったのからです。ですから、聞くもの、見るもの、何でも感謝!! 全てのことに感謝出来る足し算人生へと変えられるからです。


イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17:20)

 さて、今日の聖書箇所はとても有名なところですが、それだけに正しく理解されていない箇所でもあります。ここで信仰が「山」と「からし種」とに対照的に喩えられています。山は一番大きなもの、からし種は一番小さなものの象徴です。そして山とは、人生における解決不可能な難問であり、からし種は、その解決不可能な難問に対する解決です。


信仰はクリスチャンだけが持っている

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(ローマ15:13)

 クリスチャンでなくても、世の中には優しい人や、親切な人は沢山います。しかし、人格的に優れ、地位もお金も名誉も才能もある人達が持っていなくて、私たちクリスチャンだけが持っているものが一つだけあります。それは、『信仰』です。そして、この『信仰』こそが、人生における全ての問題を解決に導くのだと聖書は言うのです。


信仰は成長する

天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。(マタイ13:31-32)

 7章20節だけを読むと、「そうか!たとえ少しだけでも、信仰があればいいんだ、それで山が動くんだ」と、読んでしまいがちですが、これはNG、大間違いです。少し前のマタイ13章を開いてください。そこには、からし種の説明が書いてあります。からし種は、どんな種よりも小さいのに、成長すれば、鳥が巣を作るほどの木に成長します。つまり、『信仰というものは成長する』これが2つ目に重要なことです。

 イエス様は17節で、「いつまであなたがたに我慢しなければならないのか!」と、嘆いておられます。ここでイエス様は、誰に、何に対して憤っておられるのでしょうか?ここの「あなたがた」とは、「弟子たち」のことです。イエス様は、弟子達に対し、彼らが能力があるとか、ないとかについて憤っておられるのではなく、自分の共にいて、学ぶ環境にいながら、弟子達が学ぼうとしない、学んだことを用いようとしない姿勢を嘆いておられるのです。サタンは、私たちの怠惰さや、硬くなさを利用して、私たちの信仰が成長しないように、ずっとからし種のままでいるように、ありとあらゆる方法を使って仕向けてきます。


信仰を育む

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(Ⅰコリント3:6-7)

 種は一人で成長することは出来ません。種が成長するためには、土と水と光が必要です。信仰も同じです。土は教会、水は御言葉、光は神様の愛。この三位一体の恵みによって、クリスチャンは成長して行きます。逆に言うと、私たちが自分をこういった環境に置けば、自然に成長することが出来るのです。


一つに決める

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(へブル11:1)

 私たちの人生は、日々の選択の積み重ねによって成り立っています。今ここで礼拝をしていることも、皆さんの選択の結果によるものです。しかし、皆さんの中には、「私の夫の浮気は私の選択の結果などではありません!」「子供の不登校は私が選択したのではありません!」と言われる方もおられるでしょう。

 「では、今あなたはそのことに対して、どのように対応しておられるのですか?」と聞きますと、「確かにその通りかも知れませんけど・・・、聖書にこう書いてあることは知っていますけど・・・勿論、毎日祈っています。ですが・・・、神様が全て御存知だと知っていますが・・・」と、問題を抱えておられる方々は必ずこう言われます。この「だけど」、「ですが」が問題なのです。

 このような発言は、「確かに聖書が嘘でないことは分かっています。ですが、この問題に関しては、私の方が、神様よりも知っているのです」と言っていることと同じです。一つに決めると言うことは、自分が選択するのか、聖書の御言葉に選択を委ねるのか、どちらかに決めるということです。

 夫の浮気、病気、子供の不登校、これらは人生における難問ですよね。ところが、これ等の問題を、信仰というフィルターにかけると、何と問題が益へと変えられて行くと、聖書は言うのです。一つに決めることを確信したら、その後にすることは確認だけです。確認とは、私たちが神様の道を選んだことによって発生する事実が実体化するということです。もし、あなたが聖書の御言葉を選択したら、その御言葉通りに成るように、神様が導いてくださるのです。


ただ信じる

 ある日、ケニアで伝道していたアメリカ人の宣教師のところに、ある未亡人の女性が訪ねて来ました。

「先生、聖書に書いてあることは本当ですか?」

「勿論、本当です」

「では、”信仰が山をも動かす”というのも本当ですか?」

「はい、その通りです」

「じゃ、私が山に向かって動けと祈れば、山は動くんですよね?」

「いえ、それはそういうことではなく、これはイエス様の喩え話しで・・」

「でも、イエス様が、こう言われたんですよね?」

「そうです。」

「イエス様は、絶対嘘は言われないですよね。」

「勿論です!」

 さて、彼女はその日から毎日、「山よ、動け!」と祈り始めました。実は彼女は2ヶ月前に夫を病気で亡くし、遺産として小高い山を分配されたのですが、この山は家畜を飼うことも、畑をつくることもできませんでした。しかし彼女には子供が6人もいて、内職だけでは生活が追いつかないため、せめて山が平らになって、畑がつくれるようにと、熱心に祈り始めたのです。

 一年後、山には何の変化もありません。彼女は祈り続けました。しかし、2年経っても、3年経っても山は動きません。それでも彼女は諦めないで祈り続けました。そして4年経ったある日のこと、2人組の男性が彼女の家を訪ねて来ました。彼等はケニア政府から派遣された役人で、彼女の山を売って欲しいと言うのです。

 「どうしてあんな山が欲しいのですか?」
 
 「実はあの山には、コールタールの原料が大量に含まれているのです。政府発展のために、是非、あの山を売っていただきたいのです。」

 「いったい幾らで買ってくれると言うのですか?」

 「200万ドルでどうでしょう?」

 200万ドルというお金は、彼女にとって全く想像外の大金だったですが、その時は訳が分からないまま、あんなに毎日祈り続けた山を、そう簡単には売れないという思いが出てきて、彼女はこう言いました。

 「とんでもありません!200万ドルなどで売ることは出来ません!」

 彼女は彼らの申し出を突っぱねました。

 「では400万ドルではどうでしょう?」

 それでも頷かない彼女を見て、彼らはこう言いました。

 「分かりました。では、600万ドルで手を打ちましょう」

 こうして彼女の山は、何と600万ドルで売れてしまったのです。それから2ヶ月もしない間に、その山は削られてなくなってしまいました。彼女が祈り続けてから4年後、見事に山は動いたのです。

 世の中には、様々な価値観があります。けれども、神様を第一とする。これが最も難しいことであり、最も大切なことです。では、神様の業を行うためには、私たちは何をすれば良いのでしょう?それは、ただ、信じること。「JUST BELIEVE!」 それが唯一、私たちのすべきことなのです。

 もし、私の体にくるみ大ぐらいのガンが発見され、その時に私の信仰がからし種くらいの大きさしかなければ、おそらく私の信仰は、くるみ大のがん細胞に勝つことは出来ないでしょう。しかし、私の信仰がくるみ大のガンよりも大きくなった時、私の信仰は必ずガンに勝つことが出来るのです。これが信仰に生きると言うことです。信仰に生きるということは、希望に生きると言うことです。いずれにせよ、人間は、「恐れ」に支配されて生きるのか、「信仰」に支配されて生きるのか。この二つに一つしかありません。あなたはどちらを選択なさいますか? (Ako)


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圧倒的な勝利者 松山美穂子師 

2009年11月08日 | Celebration
今日は、信仰の大先輩、松山美穂子先生のお証しメッセージでした。松山先生は、日本で40年以上、牧師夫人として伝道牧会に携わって来られました。先月、介護のために日本に残ることを決めて帰国を延ばされた美鈴先生が座るはずだった席に座られていたのが松山先生でした。主の御業は奇しきかな。暫く戻って来られない美鈴先生の代わりに、神様が、私たちの教会へ遣わしてくださった松山先生のお証しは、まさに『苦しんでいる人すべての励ましとなるメッセージ』でした。

 メッセージは、創世記16章から始まりました。神様はアブラムとサライに子供が授かることを約束されましたが、一向に子供のできないサライは思い余って、自分の女奴隷、ハガルに代わりに子供を産んでもらおうと考えます。が、実際ハガルが身籠ると、そのことを高ぶるハガルに辛く当たるようになります。耐え切れずに逃げ出したハガルは、道すがら神様から語られ、辛い場所へ戻るよう、御言葉をいただきます。私たちが御言葉を求める時、いただく御言葉は、自分の境遇が変えられるよう、また自分が楽になれるよう、願うことがあります。しかし、このハガルから学ぶのは、現実は御言葉で変わるのではなく、御言葉によって苦難の現実に立ち向かう力を得る、ということ。いただいた御言葉に対して、へりくだり、素直に従ってこそ、現実がその力で変えられていく、ということ。

 松山先生は、クリスチャン家庭に生まれましたが、早くにお父様を亡くされ、お母様と二人で、お父様のご実家を頼って戦中戦後の混乱期を四国の久万高原というところで過ごされたそうです。かなりの山奥で、教会はなく、少女時代の先生は教会に通いたい、と願って、教会のある町で礼拝をするために働きに出ました。決死の思いで家を出たのですが、最初の礼拝で、「義人はいない、一人もいない。」という御言葉を聞き、自分の努力が認められないように感じて意欲を失い、教会を離れてしまったそうです。その代わりにお稽古事やお仕事に打ち込み、自力で何とかしようと頑張りますが、何をしても「義人はいない」の御言葉が離れることはありませんでした。これを何とかしよう、としぶしぶ戻った教会で、この「罪」のために十字架があることを知り、救いを得ることになったのです。

 しかし、その後まもなく先生は病気になり、静養するため出てきた家に戻らなければなりませんでした。しかもそこでは、更なる試練が待ち構えていたのです。亡くなられたお父様のご実家で盗難騒ぎが起き、松山先生とお母様に盗みの疑いがをかけられて、警察に連行され取調べを受けました。まだ18歳の娘さんが、朝から夜まで取調室で怒鳴られ、脅かされ、罵倒され続けたのです。

 三度目の呼び出しと取調べの後、心身疲れ果てて、夜半に家路を辿る先生は、凍てつくような冬の夜、真っ暗な山道をとぼとぼと歩きながら、真実が伝わらないなら死ぬしかない、とまで考えたそうです。先生は、トラックが轢いてくれるのを待ちながら霜畳の地に座り込み、最期の祈りをしよう、と空を見上げたその時、降ってくるような星の煌く空の下、真理を知りました。「主はすべてをご存知です」誰も信じてくれなくても、神様は真実をご存知だ。私は盗んでいないことを、神様は間違いなく知っていらっしゃる。それが何よりではないか・・・。この思いが心に広がると共に、これまでの悲しさ苦しさが一切消え去り、平安だけが彼女を包みました。そして、友人が寄せてくれた御言葉が聞こえてきたのです。

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(Ⅱコリント4:8-9)

 先生を取り巻く現実は何も変わっていません。警察は信じてくれず、取調べは続き、疑いが晴れる方法は見つかっていません。ただ御言葉が与えられ、先生は力を得ました。主に信頼し、確信を得たのです。それが主にある勝利です。人の目には状況は何も変わらなくても、問題は依然そこにあるとしても、主の力に信頼する時、主にある勝利を得ます。そしてその時から、人生は上向きに進み始めるのです。「与えられた人生を“主の前に”悔いなく生きてください。」、そんな私たちへの励ましで、感動のお証しを結ばれました。(睦美)



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平安の秘訣 (ヨハネ16:33)

2009年11月01日 | Celebration
NHKの英会話を13年間勤められた東後勝明さんをご存知ですか?実はこの方はクリスチャンです。東後さんが友達に誘われて初めて教会へ行った時、「クリスチャンになったら良いことありますか?」と牧師さんに質問したそうです。そこで牧師先生は「そんなものはないです!」ときっぱり。「東後さん、クリスチャンになったって、不摂生をしていれば病気になるし、リストラされることもあります。第一、クリスチャンになっても、人は死にますよ」東後さんはこの話を聞いて、「よし、信じよう!」と思ったそうです。

 「この私利私欲、マニュアルサービスしか言わない、良いことしか言わない世の中にあって、初対面の人間にこれだけはっきりと言えるのは余程の信念があるに違いない。もし、キリスト教が本物であるならば、真理であるならば、この世の中に対して軋轢を生じるのは当然だろう」と思ったそうです。確かに、キリスト教はご利益宗教ではありません。クリスチャンとて、リストラにも遭えば、最後は必ず死ぬんです。それだったらクリスチャンになる事の意味はあるのか! 実は、クリスチャンになると世界が全く変わってきます。困難に対して乗り越える力が与えられるのです。

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ 16:33) 

 これはイエス様の言葉ですが、イエス様もこの世において苦難があるといわれています。しかし、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている。とも言われました。この“既に世に勝っている”とはどういうことなのか、または“揺るがない幸福”とはどういうことなのでしょうか。わたし達はよく「HAPPY」と言いますが、(HAPPYの語源はHAPPENから来ている)私たちが普段感じる「幸福」とは社会の状況、環境、価値観によって幸福感が左右されるものです。

 一方、聖書の言う「幸福」とはギリシャ語で「マカリオス:気分や感情ではない確固とした幸せ」と言います。それは、決して周りの環境に左右されない幸福です。自分がすべきことをしたら、後は天に任せるのです。天が祝福を与えてくださる。聖書には「恐れるな」という言葉が、365回載っているそうです。私たちは様々な局面に対して恐れを持ってしまいます。「大丈夫かな~」とあらゆる事に不安を持っています。どうして人間は幸福を求めていながら、平安でい続けることができないのでしょうか。平安でいる事の本当の秘訣とはなんでしょう。


トラになろうとしたインドのネズミのお話し

 インドにとても心配性のねずみがいました。あまりに不安ばかりのねずみは猫になったら私は安泰!と魔法使いに猫にしてほしいと願います。ねずみは願いどおり、猫になりました。しかし、猫になると、天敵の犬が怖いのです。元ねずみは犬になりたいと願い犬になりました。今度は鎖につながっている犬は辺りを徘徊するトラが怖くてたまりません。今度はトラになりたいと願い、トラになりました。トラになったら今度は猟銃を持った人間が怖いのです。物語はこれでおしまいですが、ねずみは自分より強くなったら不安は解消されると思いましたが、解消はされませんでした。ねずみからすれば、人間になったらすべては安泰と思ったことでしょう。しかし、人間になったら恐れは取れるでしょうか?人間の私たちこそ、恐れを持って生きていますよね。強くなればなるほど、不安や恐怖は募るのものなのです。


赦されない人と赦せない人の真の解決は?

 映画『ベラ』の主人公はつらい過去を持っていました。有名なプロサッカー選手だった彼は、人気絶頂期に、謝って女の子を車でひいて死なせてしまったのです。彼は刑を受け出所して、NYのレストランでコックとして働いています。彼は4歳の女の子と一緒に暮らしていますが、この子は彼の子供ではなく、仕事の同僚が生んで置き去って行った子でした。勿論彼とは何の関係もないのですが、お金がない、父親もない、産めないという同僚に、「生んでほしい、僕が育てるから」といって子供を育てているのです。と言うお話し。

 この主人公が子供をひいてしまった事も子供を生んだまま去ってしまった母の事も責めようと思えばいくらでも何でも言えます。世間的な考えからすれば、自分の娘が殺されてしまったら、それは許せないこと、死刑だ!と思うでしょう。しかし、犯人が一生刑に服すれば、この問題は解決するのでしょうか?勿論、被害者の遺族の方からすれば、それしか方法がないかもしれませんが、問題の真の解決にはなりません。つまり、許されない方も許せない方も、その加害者の人が死刑になったとしても気持ちが全てクリアーになるかと言うと、ならないということです。そして、人間の心の重荷、最もストレスになることは何かというと『憎しみ、憎悪』=許せないことなのです。それは必ず何かの対象があり、絶対に許せない心、または許されないと言うことが最も人間にとってつらいことなのです。これをどうしたら解決できるのか。


死の問題

 「パラダイス・プリズン」と言う刑務所があったとします。そこでは何でも服役者の好きなことができます。フレンチのフルコースが食べたかったらフレンチのコースで食事をし、好きな映画を見たければ見れる、美女に囲まれたかったら美女があらわれる・・・といった刑務所。ただし、そこからは決して出ることができず、必ずいつか死刑となる。3日後に死刑になる人にとって、パラダイス・プリズンが何になるでしょうか。私は牧師ですので、皆さんに神様(真理)を知っていただきたいと思っています。神様を知らなくても、人生はそれなりに楽しいことがあり、それなりに感動があります。ただし、それは「ある」ことを「ない」と言う前提において通用することで、その「ある」事とは、『人は死ぬ』と言うことです。死を前にしたらどんな快楽もどんなキャリアも全て消えてしまいますから、人は死を見たくありません。“死?縁起でもない・・・”といって、人は一生懸命生きがいを探し、人生を豊かにするために、恐れをなくすために努力をしているのです。

 生きていると知らずのうちに他の人を傷つけてしまったり、傷つけられたりします。嫌な思いがこびりついているのに、多くの場合“あのことはもう許した!”と思っているけれど、許しているのではなく、忘れているだけ過ぎないということがあります。実は、『人を赦す』と言う行為は決断しないと出来ませ。“私はこの人を赦します”という決断をしない限り、人は人を赦すことは出来ないのです。この人を赦せない心が私たちの心を蝕みます。ですから、私たちは赦すことが必要です。どんなに楽しいことがあっても、素晴らしい家族に囲まれていても、いつかは必ず死ぬ事になります。恐れなく、憎悪を持たず、死に対しても平安でい続けるにはどうしたらいいのでしょうか。


最も自分が信頼している存在に実を委ねる

 天地を創造し、私たちを創造してくださった神様により頼むことです。この神様とは・・・

主はとこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。(イザヤ40:28-29)

恐れることはない、私はあなたと共にいる神。たじろぐな、私はあなたの神。勢いを与えあなたを助け、私の救いの右の手であなたを支える。(イザヤ41:10)

私の目にはあなたは価高く、尊く私はあなたを愛している。(イザヤ43:4)

 どんなに状況が悪くても、それは主の御手の中にあり、何が起ころうとも、主が責任を取ってくださる。たとい、親兄弟が見捨てても、神は決して見捨てない。この神様に信頼して身を委ねることが真の平安を得ることへつながるのです。


自分自身のために『赦せないことを赦す』決断をする

 車で人を轢いてしまったこと、子供を生み捨てた母のこと、自分の子供を殺してしまったこと、子供が殺されたことへの赦せない思い。一度してしまったことはなかったことにはできません。取り返しはつかないのです。憎んでいるほうも、憎まれているほうも、どうしたら解放されるのか。この解決はひとつだけ、『赦す』ことしかありません。私はカウンセリングをしている時に「あなたは本当に傷つけられましたね、あなたの思いは当然でしょう、けれども、あなたは赦さなければなりません。何のために赦すのか、それは他の誰でもない、あなたのために赦すのです」と話します。なぜなら、そうしなければ、その人は一生その憎しみ、悲しみを持つ事になり、これはとても苦しいことだからです。

 では、どうしたら赦せるのでしょうか。実は人間の力では無理なのです、赦せません。しかし、赦すことは可能です。何故なら、あの憎むべきどうしようもない人たちの罪でさえ、十字架の上で身代わりになって死んでくださったイエス・キリストという方がおられるからです。そして、どうしても赦せない方に神様が言われます。“復讐は我にあり。私の正義の怒りにかませなさい”この世において、とても赦せる様な相手ではなくても、イエス様が十字架上で赦した相手です。赦してあげなさいとイエス様が言われます。これは、とても辛いことです。しかし、この『赦す』しか人が解放される方法はないのです。

 なぜ赦すのか? イエス様の犠牲の死、身代わりの死の事実。あなたが決して赦せないと思っている人にも、あなたを傷めた人の罪も、あなたが誰かに対して犯した罪も、全て身代わりになってくださり、精算されました。だから、神の前では私達は無実という事になります。無実ならどうなりますか?解放されるのです。「汝の罪赦すされたり!」この宣言を受けた時に、人ははじめて解放されます。それに関して不安を持つことがないのです。この体験をしてください。涙が出てくる体験です。他の誰のためでもない、あなたのために赦す決断が必要です。聖書には、この世の死は新しい世界への入口に過ぎないと言っています。私たちの肉体は朽ちても、私たちの霊は存続し続けます。実は問題は、肉体の世界を終えた後にやってきます。私たちには第六感というものがありますよね。これが霊の部分です。この霊の支配下によって安らぎを持って歩んでいく。これがクリスチャンとしての生き方です。


クリスチャンの2つの特徴

どんな状況においても『私は幸せ』と思っている

 星野富弘さんは有名な詩人であり画家ですが、彼は首から下が動きません。体育の教師だった彼は失望を味わいましたが、口で絵を描き詩を書き沢山の方に感動と励ましを与えておられます。彼は、“私はこの体になって幸せだ”と言いました。人間業ではありえません。神様の霊の支配下におられるからいえることです。三重苦のヘレンケラーも同じです。彼女は“私は幸せだった”と言いました。普通だったら、神も仏もあるものか!という状況下です。彼女はクリスチャンでした。

死を前にしても毅然とした態度を取ることができる

 私の妻の友人が先日乳がんの手術をされたので、お見舞いの電話をしました。私はなんと励ましたらよいかと思っていましたが、相手のお方はとても気丈で元気、私が逆に励まされてしまいました。友人の牧師の奥さんがガンで亡くなりました。彼は気丈にしていますが時に落ち込みます。病床中の奥さんに、「どうして神様のためにがんばっている妻が病気なのか、周りの人は健康そうなのに・・・」と言ったら、「これは神様の御手の中にあることだから、そんなことで怒っちゃだめよ。あなた牧師でしょう」と叱られたそうです。クリスチャンは死を前にして毅然としていられるのです。それは、今日のポイントを知っておられるからです。

 私たち人間は、決して自分の力では強くはなれません。私達はイエス様の許しのゆえに解放されました。死んでこの世は終わりではなく、これからが霊の世界、解放された素晴らしい世界がある。死はその人生の入り口なんだと言うことを知っているからです。これは単なる思い込みではないのですよ。事実なのです。事実とは、人が信じようか信じまいが、知ろうか、知るまいか、認めようが認めまいが、そういうことで変わるものではないのです。東後さんが信じたこの聖書は、『何千年もうそをつき続けてきた大嘘つ』か、『神の言葉』かどちらかしかありません。どうぞこの神様に信頼して本当に平安なる人生をおくろうではありませんか (Ako)


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