Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

教会通信 (3/30/07)

2007年03月30日 | Good News
GNSの目標

 教会の存在目的は、『主の栄光を表すため』。正にこの一言に尽きるのですが、これを教会の標語にすることは、あまり機能的とは言えません。対象が広範囲すぎて、視点がぼやけてしまうからです。従って、私たちの教会には、『主の栄光を表すため』の具体的な目標が必要です。

 教会の存在意味は、『一人でも多くの人々を救いに導くこと』。教会における様々なアクティビティは、全てその目的のためにあります。つまり、人々に福音を伝えるための礼拝であり、奉仕であり、交わりであり、弟子訓練なのです。

 私たちは、教会に集って来られる様々な人達への対応等、日々やらなければならないことに追われるという現実がありますが、使徒言行録を読みますと、初代教会は、いつも以下の3つのことを明確な指針としていたことが分かります。

① 彼らを取り巻く厳しい現実としっかり向かい合っていたこと。
② そのような状況の中でも、主にある希望を見上げていたこと。
③ 教会の全権を全て主に委ねていたこと。

素晴らしいですね! キリスト者としての教会に対する基本姿勢が、ここに凝縮しています。

 1つのことを決定するのに、『100対0』ということであれば、悩まずに済みますが、現実はそうではありません。それどころか多くの場合、『49対51』というような、厳しい選択を迫られることの方が多いのです。しかし、私たちがしっかりと主の御旨に立ち、祈り求める時、主は全てのことを、益と変えてくださるのです。ハレルヤ!!
 
福音は12人の弟子から、世界へと広がっていきました。そこで、私たちの教会は、『12のセル構築』と、『100人礼拝』を当面の目標としたいと思います。以下、現在私たちが具体的に対応していくべき課題ですが、皆さんと意見を交換しつつ、一つ一つ遂行して行きましょう!(田中

未信者伝道・弟子訓練(セル・リーダー育成)のための・・・

 出張礼拝・出張聖書クラス (4月2日・アナハイム)
 LTF 再開 (教会地域内)
 Gospel Night 企画・実行
 伝道集会・セミナー 企画・実行 (7月28日・有賀先生)
 WEB充実 (毎日更新・内容のグレードアップ)
 LTG-BBC-SBSの充実 (毎週月・水・木)

Celebration (3/25/07)

2007年03月25日 | Celebration
神の秘められた計画 エフェソ3:1-13

★「内在する罪」「信仰」に続いて、「教会」についてのメッセージ。クリスチャンライフと教会は、切り離せるものではない。なのに、離れている、あるいは切れ掛かっていることを聞く。とっても悲しいことだ。家族なのに離れてしまうなんて。

 教会は神の家族から成り、天国と地上を繋ぐ唯一のもの。そして教会には、在外公館のような治外法権がある。周囲がどうであれ、一歩入れば、神様の掟、天国の価値観で動く。が、治外法権を忘れて周囲に倣ってしまうと、教会とは名ばかりのこの世的組織と化し、行いが評価されるだけの「Doing教会」になる。天国にある真実の教会は「Being教会」。そこは「あなたがいてくれるだけでHappy& 感謝という最高にステキなところ。

 そんなステキなところに接していても、何故か悩めるキリスト者。だから眉間に皺寄せた「苦悩!」のイメージが払拭できない。キリスト者の悩みは、

① キリスト者としての人生の目的が明確でない。
② 喜ぶ、祈る、感謝などができずに、理想とのギャップに苦しむ。
③ 福音理解の欠如と誤解で、御旨に近づけない。

 真剣に成長したいと思うなら、当然の悩みだろう。しかし、悩みにばかり目を向けていては眉間の皺が消えない。キリスト者はいつも希望を見る。希望の内に見えるのは「パーフェクトな私」であり、それが神様によって約束されているなら、悩みを持ってしまうのは、希望を見ることを妨げる「覆い」のせい。思い出してみよう。神様の愛を知り、ワクワクして御言葉を読み進んだ日を。神様の愛は、その時から微塵も変わっていない。すぐ脇道へ逸れてしまうのは人間の性質だから、日々の悔い改めが必要だ。そんな苦しみの体験から自ら見出したものが、“真理”として内に蓄えられる。これも希望だ。

 「覆い」はキリスト者の教会観にも及ぶ。悪魔の第一目的は、人間に「神様などいない。」と思わせること。であれば、神様を知って信仰を抱くキリスト者に対しての巧妙な罠は、「神の家族や教会など、必要ない。」と思わせることかもしれない。そんな嘘に操られた結果、家族を家族を思えずに離れていってしまう。なんて悲しい、なんて悔しいことだろう。

 人間関係は煩わしいこともある。合わない人もいる。イエス様が仰った『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』は、決して容易ではない。しかし、だからこそ求めたい。私達キリスト者は、自分勝手に作り上げていた虚像の神から離れて、真実の生きた神様に辿り着いたはず。教会も同じだ。100%自分好みの教会は「神様が」望むものだろうか。真実だろうか。人は人と対峙して自分を見る。そうして子供は家族の中で自分の位置を確認して成長する。霊によって新たに生まれたキリスト者は、神の家族の透明な人間関係の中で、自分を見つめ直して、悔い改めを繰り返して成長できる。どちらの家族も神様が定めて下さったもので、私達をひとつにする神様の望みのためだ。「神様の秘められた計画」は、ひとつとなった「教会」を通して知らされ、成就するものだから。

つまり、一つの霊によって、わたしたちは~皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(1コリント12:13)

こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。(エフェソ3:10-11)

 最後に、キリストと教会の関係を問う基礎問題。これが聖書の語る教会だ。

   キリスト と  教会  は (         )  答:ひとつ
   教会   は キリスト の (         )  答:
   キリスト は  教会  の (         )  答:頭(かしら)

   〔答えは隠して書いてあるから、ハイライトして下さい。〕

LTF (3/22/07)

2007年03月23日 | LTF
朝晩の寒さも少なくなり、春の季節になりました!先月の終わりに来てくれたジュリアン君、ジャスミンちゃん、みなみちゃんもすっかり、みんなと親しんで楽しく遊びました。また、今月の初めに無事、出産をされたありさんがあんじろう君と来てくれました。

歌は、オープニングとして定着しつつある「ハローソング」から始まりましたが、私がいまいち音と歌詞を覚えられていません。なおこさんがピアノでフォローしてくださって、本当に助かっていますが、きちんと歌を覚えるようにしす。ご迷惑をおかけしてすみません。

 今回は、「ハローソング」と「頭肩ひざポン」の間に身体の部分を日本語で言って、お母さんとお子さんにその部分を手で触ってもらうゲームをしました。「膝」や「ひじ」など結構、お子さんにはチャレンジ名部分も言いましたが、みんなで楽しくできたと感じましたが、いかがでしたでしょうか?

「がたがたバス」「春が来た」と歌い、「チューリップ」と「おいしいくだもの」の歌は、「ハレルヤ手芸クラブ」のお母さん方が、作ってくださったフェルトのチューリップや果物、お野菜をお子さんたちにボードにつけてもらいながら歌いました。そして、最後に果物やお野菜の名前を子供達に聞きました。みんな、日本語と英語で上手に言えたね。

 絵本は、子供イラスト聖書の創世記の最初、神様が7日間でこの世界を作ったところを読みました。創造の1日が終わるごとに神様がすべてのものを見て「あ~、よかった!」というセリフをみんなと一緒に合唱しました。また、絵本を読んでいる時、なおこさんが絶妙のタイミングでBGMを入れてくださいました。ナオコさんのセンスに脱帽! おかげでお子たちも歌から絵本にスムーズに移行できました。

 クラフトは、先週に続き、紙皿を重ねて一枚目の一部分を切り取り、二枚目に神様の7日間の業を絵や色紙を切り取って貼り付けました。(写真参照:4日目、神様は、昼に太陽と夜に月を創りました。)今回のクラフトは、実は準備ですごく時間がかかってしまったのですが、子どもたちが、一つ一つの作業をお母さんたちと一生懸命してくれて、一つの作業が終わ度に見せてくれて、一生懸命準備して本当に良かったな~!って思いました。(写真をクリックしていただくと、大きくなります!)

 日本では、「進化論」が科学的に真実のように受け入れられていますが、「進化論」は、あくまでも一つの仮定論であって、真実ではありません。最新の生物学、人類学、地質学の論表では、ますます、「進化論」は事実として立証が難しくなっています。すると、何が真実なのか? 私たちがすべてのなぞを解き明かす、またそれを知ることは難しいと感じるかもしれませんが、真理は変わりません。

 聖書は、「私が道であり、真理であり、命である。私を通らなければだれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネによる福音書14章6節)と言っています。世の中の価値観はどんどん変わっていきます。そして、世間のニュースを見てわかるように不幸な出来事が、毎日どんどん起こっています。

 この世の中の価値観に翻弄され、疲れてしまわないように、確かなものに自分を置くことがどれだけ喜びと平安に満たされるか・・・。私たちをこの世に創造してくださった神様、イエス様を受け入れて歩んでいきませんか。そこに大きな幸せがあります。

 ここ数日間、風邪をひいていたにもかかわらず、忙しく、いろいろなことが中途半端になってしまっていました。LTFの準備も滞っていた部分もありますが、マリコさんが歌を決めてくれたり、また、「ハレルヤ手芸クラブ」のお母さんたちが作ってくださった、フェルトのチューリップやお野菜、果物で、お子さんたちもとても楽しんでいたと思います。

 これからもLTFが益々充実しますように!マリコさん、そしてよしやさん、あいかちゃんのご協力、いつも感謝です。次回、4月11日、私は、出席できませんが、また、お会いできることを楽しみにしています!(みみ)

Celebration (3/18/07)

2007年03月18日 | Celebration
目に見えない事実 ヘブル書11:1-6

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること。(11:1)

 ”Hall of Faith(信仰の殿堂)”と呼ばれるヘブライ人への手紙11章は、この信仰定義に始まり、全40節のほとんどに「信仰」が語られている。それはまさに殿堂と呼ばれるにふさわしい。この世の殿堂と呼ばれる場所へは行ったことがないが、「信仰の殿堂」には行って見たい気がする、と不届きなことを考えていたら、6節にガツンとやられた。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。(11:6)

 そう、キリスト者は「神様に喜ばれること」を心に留める。アブラハムであれ、モーセであれ、殿堂入りした偉大な信仰に目を留めているだけでなく、小さいけれども私に与えられた「信仰の賜物」を私の中に育てていくこと、それを用いて仕えていくようになることが大切。神様の目には、いつでもBeingしか映らない。どんな信仰の勇者であっても、他人の信仰をポケっと見ているDoingだけではダメなのだ。
 
 「望んでいる事柄」とは、私達が望む事柄ではない。神様が望んでいらっしゃる事柄、神様の意志であり、御国到来のための神様の計画のこと。それが、すべてのキリスト者の希望なのだ。私達は、ふと気付くと自分を中心にしてしまっている。祈りの中に、希望の中に、神様と共に歩むことの本当の「喜び」を忘れてしまっている。だから「信じる」訓練を受けよう、教会という霊の家族との関係の中で。

 「信じる」ことは「知る」ことに先立つ。世界は、「信じる」ことで成り立っている。その通り、人間関係は「信頼」なしには始まらない。どんなに親しい間柄でも、相手を100%知り尽くすことはできない。「知る」ことに頼っていたら、「知らない」部分が出てきた時、その関係にほころびができてしまう。しかし相手を「信頼」する時に、100%受け入れることができ、それが神様の御手の内にあるならば、「愛と平和と祝福の計画」として必ず成就する! 神様に対しても同じだ。完全に委ねてみよう、心から信頼しよう、私達を創り、私達の幸せを誰よりも願っていてくださるその方を。

Celebration (3/11/07)

2007年03月11日 | Celebration
内なる人への改革 ローマ 7:15-25

★珍しく正統派タイトルの礼拝メッセージ。内村鑑三は、このローマ7章を「私のための章」と言ったそうだ。キリスト者の生涯に大きな意味を持たせることが書かれている、と思うのだが、その奥は実に深い。

 このローマ7章7節から、「わたし」という一人称単数でパウロは語る。ちょうどSBSで迫害者サウロがイエス様と出会い、信仰者となる過程を見てきたばかりなので、より強く、パウロの深い苦悩が心に迫る。同時に、私たち一人一人、キリスト者としての悩み、叫び、魂の葛藤が代弁されていると痛感する。

 神様の御旨を知りたい、でも「自分」の御旨モドキに囚われている。柔和・謙遜を目指す、その矢先に思い切り自己主張してくれる自己中心性がある。イエス様の素晴らしさを知れば知るほど、自らの罪が見え、分かり、そして苦しむ。しかし、それこそが信仰者の歩みだと語られる。

 “霊”に従う新しい生き方で仕える「内なる人」の成長に必要なのは、

(1) 自分の内なる罪を認める
   誰もが病んでいる。「私はダイジョーブ!」と思ったら、要注意。
   病んでいる部分を認めて、癒しを受ける。傷が悪化して、腐ってしまう前に。
   心の傷の回復に必要な「赦し」は時間の問題ではなく、赦そうとする決意!

(2) 本当に悔い改める
   「変わりたい私」と「変わりたくない私」との戦いがある。
   心のガレキには、手放せないもの、持っていて楽なものもたくさんある。
   それらを整頓してスペースを広げ、「内なる人」を強めよう。
   時間をかけて、着実に。

 7章25節で、パウロは突然神への感謝へと飛躍する。それは、「わたしたちの主イエス・キリストによって」神が与えてくださった救いに視線を向き変えたからだ。罪は実に安易に入り込み、人間を絶望と死へ導く恐ろしい病。この存在をはっきりと知ったキリスト者は、こういう方向転換ができる。

 キリストにある救いは罪から解放であり、特に内在する罪が自分の手には負えないものであると知れば知るほど、ただ一人の救い主、イエス様に感謝と讃美へと導かれる。そして、キリストにある新しい命に生きるよう、心と体主導から、霊主導に変えられていく。

 教会は、その霊的成長を助けるためにある。教会に属し、人と交わり、他人の問題中に自分の問題を見て悔い改め、成長する。そして、成長の結果、永遠のいのちに至る悔い改めにより、御霊と霊的賜物と教会が与えられる。キリスト者と教会は、こうして一体となっている。それはまるで、私たちがいずれ招かれる「小羊の婚礼」のモチーフのように感じられた。そして、今日の招詞が聞こえてくる。

そのときには、わたしたちの口に笑いが
舌に喜びの歌が満ちるであろう。
そのときには、国々も言うであろう。
「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。

Celebration (3/04/07)

2007年03月05日 | Celebration
日韓合同礼拝

★今回は、Chief Cornerstone Mission Centerとの日韓合同礼拝。Cho Cahnho(チョウ・チャンホ)長老の証しを伺いました。チョウ長老はサンディエゴ在住で、ホテルを経営し、CHOA(クリスチャン・ホテル・オーナー・アソシエーション)の発足者でもあります。ホテル・ビジネスで大成功し、共に働いて下さった神様の御業についての証しもたくさんおありだそうですが、今回は「証し人」と「リーダー」というキリスト者として、御霊に生まれた者としての資質について、ご自分が得た経験と知識をシェアして下さいました。

 お話は、アロンの杖とサムソンのロバの顎骨から始まりました。アロンの杖は、聖書通読で最近読んだところでしたが、ロバの顎骨はさっぱり。。。韓国の方々は本当に聖書をお勉強しているなあ、とエラそうにも感心してしまいました。杖も顎骨も、それ自体は「ただの」もの。士師記風に「主の霊が激しく降る」と、「ただの」杖が花や実をつけ、「ただの」ロバの顎骨は迫る1000人の敵を打ち倒す武器となります。

 キリスト者も同じように、神様の御言葉を受け、主の霊を注がれ、力強い証し人へと変身できるのです。長老ご自身、それを経験したのは、15年前の一介の(失礼)礼拝集会にて。礼拝こそがヴィジョンをいただく場所であり、キリスト者こそが世界を変える者、と教会の持つ奥深いパワーであることを気付かされました。

 続いて、世界を変えるキリスト者リーダーシップに必要な要素について。教会も12使徒から始まりました。今、私達に任されている場は、思うよりずっと大きいことを告げられます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」この「すべての民」を率いるリーダーに不可欠な資質3点は、

 1:犠牲の精神
  イエス様は私達にその命までくださいました。
  同じように、リーダーは「与える」覚悟のある人。
  子分のために力を尽くす「親分」のイメージが浮かびます。
  
 2:柔和な心
  壮大でユニークな『ミミズ柔和論』を説いていただきました。
  イザヤ41章14節の「虫けら」を「ミミズ」と解釈して、
    ミミズは頭をもたげない、
    ミミズは地を這う、
    ミミズはきれいな水のところに住む、
    ミミズは害を与えない、
    ミミズは誰も食べない土を食べる、などなど。
  柔和な人と言えばモーセを思いますが、同列にミミズがいたとは!!!
  前代未聞の聖書解釈は、一生忘れないかもしれません。

 3:謙遜な姿勢
  イエス様はご自身ですら自らを「善」とすることなく、
  「善」でありえない人を憐れみ、慈しんで下さったことを
  感じさせられました。
  私達はことごとく罪の下にありますが、
  「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」が
  与えられる事を知ること、神を畏れること。
  これがリーダーの最後の資質です。

 ルターは、「明日、世の終わりが来ようとも、今日、私は林檎の木を植える。」と言いました。確かなる希望を持って御国を待ち望み、神様を見上げて仕え続けること。先週のメッセージに関連して、私達の中のリーダーの種から芽が出て、茎が伸びて、花を咲かせ、実を成らすことができるよう、教会全体で祈り求めて行きたいと思います。