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ローマ信徒への手紙

Basic Bible Class 聖書の基本的な学び

11章 神の秘められた計画

2008年03月26日 | Weblog
兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。(25-26節)

秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。 (エフェソ1:9)

 神の義である『全人類救済計画』。この秘められた計画は人間の知恵や努力などでわかることではない。かつて、神様は預言者を通して語られてきた。口語訳には「奥義」という言葉が使われているが、「今や」、それは特別な人、鍛錬を積んで何かをした人にのみ示されるようなものではない。御子イエス・キリストを通して、その死と復活を通して全人類に啓示されていることなのだ。キリストによって、死と罪はその力を失い、私たちは神の義と命の支配の内に移ることができるようになった。そこにユダヤ人、異邦人の区別はない。残された民、イスラエル全てに適用される。そこに至る鍵は、イエス様ただ一人だ。

 パウロ自身、かつては心を頑なにしていた。救いの唯一の鍵であるイエス様に敵対していた。しかし神様に歯向かっていたその時、彼は神様からの憐みを得た。だからこそ、神様がイスラエルの民を愛していてくださっていること、また、真実はイエス・キリストによってのみ現されることを確信できる。「神の賜物と招きとは取り消されない(29節)」。背く者をも愛し、憐みを示すのは、神様の一方的な恵み。神様の憐みを知って救いへ導かれるために、パウロも、ユダヤ人も、罪と不従順の中に閉じ込められていたのだ。キリストを救い主として受け入れるために。すべての人が救いに至るために。

もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。(6節)

 神の義は成った。イエス様の十字架と復活と共に。人間の良い行いや信仰の深さは、救いの達成には何の関わりもない。神様の秘められた計画が全人類に明らかにされたのは、イエス様のみが為し得た業。完全なる神様の計画だ。あの天地創造の7日間のように。神様の憐みからこぼれ落ちるものはいない。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。(36節)」のだから。


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10章 万人の救い

2008年03月12日 | Weblog
 10章はパウロの祈りの言葉で始まる。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」この祈りは、今キリスト者である私たちに引き継がれている。そしてまた私たち自身も、この祈りに支えられて、キリスト者であり得る。

 神の義とは?罪赦されること、救い、完全な正しさ、イエス・キリストを信じる信仰によって得られるもの、とここまでのロマ書各章で学んできた。これらは受容される人間側からの神の義だ。従うべき「神の義」(3節)、神様側の神の義とは、『すべての人間を義とすること』。人は罪を犯し、神様から離れてしまった。このままでいると、滅びしかない。その事実を知り、悔い改めて「神の義」の恵みを受け取り、神様との関係を回復させることで、「神の義」に連なる。永遠の命を得て、人間本来の姿に還る。目の前に差し出されている恵みをただ受け取るだけの簡単なことだが、それを知らない人はあまりに多い。

 「神の義」の達成=全人類救済計画のため、御子イエス様が罪の身代わりとなって十字架上で死なれ、復活してくださった。今も生きておられ、信じ頼る者を救いへと導いてくださっている。全人類のための、イエス様の贖いの業はすでに完了しているのだ。対してサタンは、それだけでほんとうに救われているのかと囁き、私たちを揺れ動かし、善行や努力、自力への道へ誘う。しかしパウロは言う、「とんでもない!人間の力でできようものではない。神の義は、神様の恵みによってのみ!」と。神様御自らの「神の義」のため、人間に与えてくださった救いの方法は唯一つ。「信じて、言い表す。」-----そうしてキリスト者は、神の義に入り、信仰に立って生きる。

では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。(8節)

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。(9節)

実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(10節)

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。(13節)

 「神の愛」であるイエス様を受け入れて信仰を告白する。「神の義」の一端がここに成る。神様自身が備えてくださったこの恵みを得、心で信じた時、「言葉」が命を持つ。信仰告白は、私たちの内に働く最初の神様の言葉。どんな行いも、どんな付け加えも必要ない。受けるべき、知るべきは福音のみ。何物にも勝る神様からの贈り物を受け取るには、まず「聞く」こと。ぼんやりと聞くのでなく、聞き流すのでなく、神様の一言を心に納めるように「聞く」。心に納められた一言が動き始める時、それが神様と歩む人生の始まりとなる。

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(17節)

わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。(Ⅰテサロニケ2:13)


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9章 約束の民

2008年03月05日 | Weblog
 ここまで人間の救いをテーマに語り、8章の終わりで朗々と信仰の凱歌を謳い上げたパウロは、9章から一呼吸置き、トーンを落として次の深遠なテーマに取り掛かる。9章から11章にかけてパウロが説くのは、『神の選びの妥当性』。人はユダヤ人、異邦人の区別なく平等であり、皆が罪人であるとする時、そこから生じる疑問がある。「では、神によって選ばれたユダヤ人、イスラエルとの契約はどうなるのか。神は約束を違えたのか。」

父祖アブラハムと確かに交わされた旧契約、その選びが無効であるとするなら、新契約、キリストにある神の救いの約束もまた、定かさを失う。だからこそ、約束の民、イスラエルの救いは、全人類の救いにおいても福音の核心部分となるのだ。パウロは三章をかけて、神様から、全人類から、そしてユダヤ人から、それぞれの視点で核心に迫る論説を展開する。

 最初に、神の選びの計画が述べられる。「神の言葉は変わらない。イスラエルから出た者が全員、イスラエル人という訳ではない」ことの具体的な例証としてアブラハムの子供であるイシュマエルとイサク、またイサクの双子の子供、エサウとヤコブを取り上げ、『肉の子』と『約束の子』の違いを示す。イシュマエル、エサウは肉によって生まれ、イサク、ヤコブは神の選びの約束によって生まれた。選ばれ、愛されている根拠は、私たちが為したこと、行いの結果ではなく、神様の自由な御心にある。

 それに対し、神様の不義=不公平を問い、また人間の責任外だとする反論がある。パウロは選びにおける神の主権を断言する。また、田中師よりその答えをエフェソ書に教えられる。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。(エフェソ1:3~6)

 ロマ書5章でも学んだ通り、すべては「イエス・キリストによって」。これが神様の基準。最も多くを救うために、神様が定められた絶対の基準だ。救いも、神の民としての身分も、生来のものではない。「イスラエル」は、残された者(レムナント)、真の継承者を意味する。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」(創世記32:29)、とある。「押しのける者」ヤコブが、「神様から離れない者」イスラエルになった。神様に信頼し、義を認められた。背後にあるのは、神様の憐れみ、神様の愛、そしてそれに対する従順さに他ならない。

 熱血愛国主義者のパウロが伝えたいと思った同胞ユダヤ人たちも、現代の私たちも、わかっているつもりでも、しばしば間違ってしまう。救いは、自らの業や努力で得られたものではない。神様からの一方的な恵みだ。律法という形式、正しくない認識に固執する前に、神様が何を望んでおられるか、何を喜ばれるか、に心を留めよう。御言葉ははっきりと語っている。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)



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8章 霊による命

2008年02月27日 | Weblog
 「聖書を指輪に喩えるとすれば、ロマ書はその宝石だ。そして、8章は宝石の輝きのようだ。」と評した人がいる。ちょうど中間にあたるこの部分は、まさにロマ書の中心なのだ。この輝きを一過性でなく、永遠のものとして霊に刻み、体現化できるキリスト者でありたい、と心から願う。

 その輝きを放つのは、私たちではない。他ならない聖霊様。先ずは啓介牧師より8章を5つのパートに分け、それぞれのテーマを掲げられた。

1節~11節:聖霊様の内住
12節~17節:神の子としての聖霊様
18節~25節:聖霊様による希望
26節~30節:聖霊様によるとりなし
31節~39節:聖霊様による愛

テーマからだけでも、聖霊充満、聖霊全開、聖霊中心の福音を知る。前回、イエス様に結ばれて「わたしたち」となることを学んだ。そして、主と仰ぐイエス様が十字架と復活で勝ち得たもの、つまり聖霊様が「わたしたち」の内に宿り、働いてくださるようになった。これが命をもたらす霊の法則。この法則に生きる者は、この世を支配している罪と死との法則から解放されている、と御言葉は語る。そして聖霊様を宿し、霊の法則に生きている者が、キリスト者だと定義付けされる。

神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。(9節)

 信仰生活において、おそらく幾度となく繰り返して聞いてきたことだろうが、幾度でも心に留めたい。救いは神様の一方的な恵みであることを。どれほどの人格者でも、どんな高潔な行いも、人間の力、所業では救いに至らない。神様の恵みとしていただく霊の力無しには有り得ない。救いは、「キリスト・イエスによって」しか為されない。

 輝きが、光が手に取れないものであるように、キリスト者の希望も目に見えるものではない。死者の復活、自然界に生じている歪みの回復、御国到来という壮大で完全な神様の計画は、人間には理解できることではない。それを待ち望むには、多大な忍耐を要する。何故、忍耐できるか。信仰ゆえだ。信仰ゆえに、内に抱いているこの希望は、決して光を失わないからだ。聖霊によって神の愛が注がれ続ける限り。私たちは、その宝を心に、霊に、内に抱いている。御子を十字架につけてでも、私たちを御国の相続人として導きいれてくださった神様の愛に触れる時、全てのキリスト者の心は、栄光が満ち溢れるのを「見る」ことを確信するのだ。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(28節)


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7章 内在する罪

2008年02月20日 | Weblog
 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう!」(24節)
聖書には、吃驚マークは付いてない。しかしここで表されるパウロの叫びを聞くとき、その声はキリスト者の内に突き刺さるほどの衝撃を受ける。

 7節から、「わたし」という一人称単数を用いて語られている。その内容たるや、パウロ自身の体験に基づく魂の深い深い悩みで、切々たる彼の人間論だ。実に20回以上の「わたし」を繰り返し、キリスト者一人一人の悩み、叫び、心の葛藤を代弁する。
「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。」
「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。」
「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」

 罪はじわじわと、また様々な手段を用いて人間の魂を蝕む。自我、欲望、偶像(神様よりも優先してしまうもの)といった形に変えて。その骨頂、自らを神とするに至るまで。神様が与えてくださった律法、聖なる掟によって、その邪悪さが現れる。罪の原語は「ハマルティア」=「的外れ」であり、その真意は神様から離れてしまうことだ。罪の起因となるのは、律法を遵守しないことなどの外的なものではなく、内に働く罪ゆえ、内的で霊的な力ゆえなのだ、とパウロは語る。

 この力に対し、人間に何ができるだろう?人間は完全に無力なのだ。「わたし」に為す術は何ひとつない。それを知るパウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう!」と叫ぶ。内在する罪を解決するのは、福音だけだ。抗えない自我や欲望によって、人間は罪人となった。これは濡れ衣でも、冤罪でもない。完全に有罪の罪だ。この手は、この体は、罪に汚れているのだ。にも関わらず、無罪とされた。最終判決として完全無罪とされた。最早誰も、咎めることはできない。それは、代わりにその罪を担ってくださった方がいらっしゃるから。

 イエス様は、弱く無力な人間を救い、強めて、聖めてくださるためにこの世へ降り、人間としての生を全うされた。その方と出会い、その方に結ばれた時、「わたし」は「わたしたち」になる。イエス様を信頼し、為す術のない自我の呪縛から解放を得た魂は、紛う方ない歓喜の声をあげる。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」、と。まさにこの時、内なる心の律法が、愛によって成就するのだ。


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6章 聖なる生活

2008年02月13日 | Weblog
 前回、5章11節までに神の愛、信仰、希望、義認などの福音のキーワードが連記されていると書いた。そして今回の6章では、そこにはなく、ロマ書全体でもここだけに記されている、福音の核の中の核である語を見つける。『十字架』。6章で、パウロは十字架と復活の奥儀を語る。

自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。(マタイ10:38-39)

 パウロは問う。「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。」決してそうではない。キリストを信じて義と認められた者は、キリストにあって生きる。キリストと結合されたしるしとして洗礼があり、罪に死に、新しい霊の命に生きるように変換される。その後は、結合が同一となるよう、聖化への歩みを進める。結合が解けてしまえば、その命は続かないのだから。聖との一体化に罪が入り得るはずがない。

 新しい命への変換を、パウロは「奴隷」という言葉で表した。人間は、いずれにしろ何かしらに束縛されている。それは「奴隷」同然。当時、奴隷は死ぬまで解放されない状況だった。そして、この世を支配する闇の力に従い続け、差し出されている贖いの手を受け入れない人間も同じことだ。その先には「死」しかない。解放された、と思ったその時は、死であり、完全な滅びなのだ。生半可なものではない。確かに、生きることには束縛が伴う。ならば、何に束縛され、帰属すべきか。自我、欲望、名声、そして死と共にあるか、あるいはそれら全てから解放してくださった方に従うか。誰もが、死が訪れる前にどちらかを選択する。神様の前にどのように生きるかには、罪の奴隷か、あるいは義の奴隷かの二つに一つ、どちらかしかない。

 「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(11節)」イエス様の十字架は、全人類の贖い。全ての人の救いをもたらす、神様と私たち人間との和解のしるし。それを受け取り、キリストに結ばれて、神に対して生きるることを考えよ、とパウロは言う。この「考える」は、会計用語で「勘定する」ことを指すそうだ。イエス様の十字架上の言葉、「完済した」と呼応して、その贖いの歴然たる事実、大いなる真実を感じさせられる。

 ロマ書の真髄、『イエス・キリストの十字架が何故、人類の救いなのか。』がわかってくる気がする。イエス様の十字架によって、キリスト者の人生は一変した。まさに6章の終りにあるとおり。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」今や神の側にあり、「聖」とされる。そして、神様のために「実」を得させてもらっている。この恵みの下で、人は人としての本来神様から与えられた「いのち」を生きることができるのだ。


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5章 イエス・キリストによる和解

2008年02月06日 | Weblog
 ロマ書5章を通して、福音の真理が語られている。

1節「信仰によって」、「わたしたちの主イエス・キリストによって」、
2節「キリストのお陰で」、
5節「わたしたちに与えられた聖霊によって」、
8節「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより」、
9節「キリストの血によって」、「キリストによって」、
10節「御子の命によって」、
11節「主イエス・キリストによって」、「今やこのキリストを通して」、
17節「一人のイエス・キリストを通して」、
18節「一人の正しい行為によって」、
19節「一人の従順によって」、
21節「わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」。

 私たちは救われた。神様の子となり、信仰により義と認められた。しかし、「喉もと過ぎれば。。。」とはよく言ったもので、しばしば最も大切なことを忘れがちになる。何が私たちを義としてくれているのか、誰が神様との和解を取り成してくださったか、その肝心要、救いの中心にあるイエス・キリストの十字架を。

 キリスト者であればイエス様を忘れることはない。祈るときはイエス様の御名によって祈り、日々イエス様に倣うよう歩み、キリストの香りを放つ者を目指している。しかし、いつもイエス・キリストによって神様と和解していること、恵みの内に導き入れられたこと、そして神様の栄光をにあずかる希望を持っていることを、しかと理解していると言えるだろうか。

わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(5:3-5)

 苦難と忍耐を経て、自らの霊にイエス・キリストの十字架の意義を刻み付けていく。それを助けてくれるのが聖霊様であり、注がれる神様の大いなる愛だ。これこそが、キリスト者としての生きる希望だ。それは決して失望に終わることはない。パウロはここまで説いてきた『神の義とは?』『罪とは?』のテーマを11節で一旦結び、その後12節からいよいよロマ書の真髄、『イエス・キリストの十字架が何故、人類の救いなのか。』へと入っていく。

 ひとつの結びとなる5章1節から11節までには福音のキーワードが綿々と連なる。中でも「和解」は、パウロ神学の特徴であり、彼が力を尽くして知らしめようとした十字架の意味であった。しかし、それはユダヤ人には実に理解し難いものであり、私たちもまた、見過ごしてしまう。ただ一人の方のただ一つの業による「神様との和解」を今、心に刻もう。

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。(使徒4:12)


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4章 永遠の約束

2008年01月31日 | Weblog
 人はただ信仰によってのみ救われる、と明言したパウロは、更にアブラハムを例に出し、その信仰について論じる。当時の聖書(旧約聖書)から『信仰義認』を立証するためだ。アブラハムがイスラエルの祖、信仰の父と呼ばれる由縁は、彼の行いの正しさに因るではなく、人間的に見れば希望する術もない絶望の時、望みを持ち得ない時にも、神様を信じたからである。

 人間には不可能がある。限界がある。それ故に年を経るごとに信じられない人、頼れない言葉があることを経験的に知るだろう。何よりも自らの内に、その信じられない思いを膨らます。しかし、全知全能の創造主、神様にできないことは何一つない。神様の言葉は必ず成就する、その約束は確実だ、ここにより頼むことが信仰と言える。アブラハムもまた、神様から受けた途方もない言葉と約束を絶対と信じ、それ故に義と認められた。

「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。(17節)

 信じることは、神様が人間に与えてくださった能力だ。信じないことは、信じることよりずっと容易い。しかし何故、信じるか。それは、神様との関係を正しく戻して始めるため。これが「義と認められる」ことだ。人間は決して「義」になれない。神様の目に認められるだけだ。だからこそ、「すべては信仰による。恵みによる。」のだ。

 アブラハムは義と認められ、「多くの民の父」となった。私たちの、全人類の模範を見せてくれた。つまり、彼の信仰義認は私たちのためであり、理性では信じられないイエス様の十字架を「信じる」時、神様からいただいた「信じる」力に頼る時、信じきれない私たちをも信じるように導いて下さる。その時、アブラハムに下された神様の恩寵が私たちに及び、神様との正しい関係を回復できる。これが、イエス・キリストを私たちにくださって交わされた永遠の約束だ。

わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。~今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。(エレミヤ32:40、42)

3章 信仰の法則

2008年01月24日 | Weblog
実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(ローマ 3:30)

 ローマ書1章18節より「人間にはなぜ、救いが必要か?」という『罪』の問題を律法、裁き、ユダヤ人と異邦人といった視点から説き続け、この3章でひとつの結びに至る。それは「人間はどのようにして救われるのか?」という『信仰』の問題へと繋がっていく。3章20節からこれまでに語ったことを再確認するかのように、パウロが当時の聖書(旧約聖書)から御言葉を集めた聖句が謳われる。「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。」

 すべての人は罪を負っている。この真実は、特にクリスチャンではない人にとっては不愉快にも聞こえるだろう。世間ではしばしば、自分は正しい、自分を信じて生きよう、自分を確立するのだ、といった人生観が一般的だからだ。しかし、果たしてその「自分は正しい」と計る基準は確かだろうか。その前提は揺らぐことがないだろうか。この基準ゆえ、前提ゆえに心が苦しみ、自分自身が痛めつけられていることはないだろうか。

 パウロは、二千年前の当時、神様からいただいた『律法』を尊ぶ余り、その基準に押しつぶされ、その本質を歪めさえしている状況に対し、声を大にして人類史上最大のパラダイムシフトを告げる。「今や!律法とは関係なく、しかし律法によって立証されていた『神の義』が示された!」と。すべての人が裁きを受けざるを得ない存在だという事実を明らかにし、その解決方法、救いの道をはっきりと語る。

すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(ローマ 3:22-26)

 「人は、ただ信仰によってのみ救われる」、これを『信仰義認』と言う。救われるには、どんな条件もどんな功績も要らない。何の差別も偏見もない。ただ神様の恵みにより、イエス・キリストを信じることによってのみ救われる。恵みとは、「受ける資格のないものに与えられる特別な好意」のこと。この恵みを、「イエス・キリストを信じる」誰もが受け取ることができるのだ。「信じる」人間であれば、誰にでもいただけるものなのだ。これこそが、人間の論法に因らず、神様の価値観にある『信仰の法則』。

 間違えてはならない。私たちを義とされるのは「信仰」を行うからではなく、「信仰(信じる)」によってイエス様の恵みの御業を受け取るからだ。時に自分を含む周囲に、信仰確立に努力し、そのために奉仕・献金に精を出し、信仰活動に励もうとする、、、そんな『信仰の法則』に相対する『行いの法則』を見ることがある。これこそが、パウロが嘆いたユダヤ人同胞の姿。律法を行うことに集中し、福音の本質から外れてしまったなれの果て。「今や!」難しいことはなにもない。イエス様の十字架によって、そのイエス様への信仰によって、私たちは『義』とされる。この『法則』を指す言葉は、「律法」を意味することもあるそうだ。つまり、『行いの律法』ではなく、『信仰の律法』によって救いがある。それは、神様の愛による『希望の律法』に他ならないだろう。

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2章 心の割礼

2008年01月17日 | Weblog
 時に聖書には厳しい言葉がある。今回学んだロマ書2章も実に辛辣だ。聖書は一貫して愛を語っているはずだが、この2章には愛がないのだろうか。そうではない。耳障りの良い言葉が愛ではないのだから。今回学んだ鋭い刃のような論説の背後に、神様がパウロを通してどんなに真意を伝えたいと望んでいらっしゃるか、真実をしっかり掴んでほしいと思っていらっしゃるか、その切実な愛を知った。

神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。(ロマ書2:4)

 ロマ書2章には主に4つのことが書かれている。
(1) 罪の自覚
(2) 宗教的不寛容、頑なさ
(3) 神の裁きの基準
(4) ユダヤ人と律法

 イギリスのブラックユーモアを聞いたことがある。某氏が社会的地位のある12名の友人に「すべてが明るみに出てしまった。すぐに飛行機に乗って国外へ出ろ。」という内容で、いたずら文書を送った。その12人は、24時間も経たない内に一人残らず出国したというもの。人間には罪の意識がある。それから逃れることができずに苦しみ、またその事実を認めたがらずに、自分を正しいと思い込もうとしていることが多い。それは心を病んでいないだろうか。キリスト者は、罪から救われた経験を持つ。すべてをご存知で、それでもすべての罪を負ってくださるイエス様に出会った時、自分ではどうしようもない罪を明け渡し、悔い改めることで解放された。

 「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」パウロは同胞ユダヤ人に、律法を盾にしてその上に胡坐をかいている者に問いかける。同時に、これは御言葉を受けたキリスト者にも当てはまり、更に14節で「自分自身が律法」と語られているように、自分の尺度で人を裁くすべての人に当てはまるように思う。神様の基準は絶対的に公平であり、外見や形式、したこと(Doing)に拠るものではない。1章で学んだように、「神の義」は信仰の上にしかあり得ないのだ。

 だからパウロは、心の割礼こそ割礼だと言った。キリスト者は、神の義を心で信じている。心で御言葉を受ける時、神様との契約が成就するのだ。そして、私たちは救われ、神様の子供となった。これは一過点のことではない。キリスト者として生きることは、神の愛と義を全うする人生を送ること。その導きは、形式や文字上の法ではなく、心の法則、霊の法則にしかない。神様がご覧になるのは、心の動機であり、神様が喜ばれるのは、心の礼拝なのだから。

内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。(ロマ書2:29)

すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31:33)


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