Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

コミュニケーションの達人 ネヘミヤ2:16-18

2008年07月27日 | Celebration
 世の中の悩みの多くは、「人間関係」と言っていいでしょう。なぜ、人は、人間関係に悩むのでしょうか?それは、相手とのコミュニケーション(伝達、意思疎通)に問題があるために起こります。上手くいかない人間関係のほとんどは、コミュニケーションが上手く取れないために自分と相手との間に誤解が生じています。では、私たちは、どうしたらコミュニケーションを上手く取ることができるのでしょうか? クリスチャンである私たちは、聖書からコミュニケーションの上手な取り方を学ぶことができます。今日は、旧約聖書の中のネヘミヤさんを例にして、共に人間関係における『コミュニケーション術6つの基本』を分かち合っていきたいと思います。

1)相手とのコミュニケーションの状態を知る

 ある人との間で、コミュニケーションが上手くいっていないと感じた場合、まず、相手とのコミュニケーションの状態を知ることが大切です。よく、「あの人と私は、コミュニケーションが無いから」と言う言葉を聞きますが、それは、コミュニケーションが無いのではなく、「コミュニケーションを断絶している」コミュニケーションの状態であると言えます。

2)そのコミュニケーションの状態をどうしたいのか考える

 相手とのコミュニケーションとの状態を知った上で、その状態をどうしたいのか?どう変えていきたいのかを考えることが大切です。この世の中には、いろいろな秩序が存在します。それらは、「~の法則」と言う言葉によって表されていますが、「エントロピー増大の法則」もその一つです。エントロピーとは、物体の熱学的状態を表す変数のことで、このエントロピーの量が増大する(つまり、物体がエネルギーを供出する)と、その物体は、減っていく、最後には、無くなっていく、言う法則です。私たちの身体もまさに「エントロピー増大の法則」の上で成り立っています。何もしなくてもお腹が空きます。生きていることによって、私たちは、エネルギーを使っているからです。

 前置きが長くなりましたが、この法則にコミュニケーションを当てはめると、人間関係の良くない人とのコミュニケーションが放って置いたら、良くなったということは、決して起こりません。(相手が、良いコミュニケーションを取ろうと努力してくれたら、良くなりますが…)相手も自分も何もしないでいれば、むしろ、悪くなるばかりです。もし、相手とのコミュニケーションを良くしたいと、願うならば、私たちは、その気持ちを明確にする必要があります。

3)コミュニケーションの2大要素を知る

 コミュニケーションには、大きく分けて2つの要素があります。一つは、言語によるコミュニケーション、もう一つは、非言語によるコミュニケーションです。言語によるコミュニケーションから、人間が得る情報は、7%だそうです。(「たったの7%?」と、思われる方も多いかもしれません)もう一つの非言語によるコミュニケーションは、目から得る情報と耳から得る情報と大別され、目から得る情報は55%、耳から得る情報が38%だそうです。この統計から見ると、人間は、言語によるコミュニケーションから得る情報(7%)より、非言語によるコミュニケーションから得る情報(93%)の方が、圧倒的に多いのです。

 例を挙げますと、子供が親から「静かにしなさい」と言われたとします。子供が、言語によるコミュニケーションから得る情報=「静かにしなさいここ」と言う言葉から、約7%の割合で理解します。後は、子供が、非言語によるコミュニケーションから得る情報、つまり、親の顔の表情(怒っている?笑っている?穏やか?悲しそう?など)や様子、親の発した声のトーン(怖い?陽気?静か?大きい?小さい?低い?高い?など)その他、雰囲気などから約93%の割合で理解します。その理解が子供にある感情を与え、その感情に沿って、子供に行動を起こさせます。非言語によるコミュニケーションがどれほど影響力を持っているか、私たちは、人と良いコミュニケーションを持つ上で理解する必要があります。

 ネヘミヤ記2章1節にも、ネヘミヤは、暗い表情をしているつもりは、全くなかったのですが、王様からは、ネヘミヤが暗い表情をしているのがはっきりとわかり、「どうしたのか?」と尋ねられます。私たちの言葉と行動が一致しているでしょうか?私たちは、自分のしているコミュニケーションの方法を改めて理解する必要があるかもしれません。

4)相手との理解の一致を探す

 コミュニケーションを持つ上で相手との接点を探しましょう。相手との接点が見つからなければ、いくらコミュニケーションを持ったとしても平行線のままです。前にも話したとおり、その人の物事に対する理解が感情を生み、その感情がその人に行動を起こさせます。相手と自分との間に、価値観も方法論も違ったとしても、何らかの接点は必ずあります。ネヘミヤは、自分たちの生活もままならないユダヤ人に、神殿の城壁を再建することを説得するための接点として、ユダヤ人としてのアイデンティティーに訴えかけました。(ネヘミヤ記2:17)

5)相手とのギャップを埋める

 人間関係が上手くいかない相手に対し、私たちは、「性格が合わない」と、決め付けてしまいがちですが、私たちは、完全に「性格の合う」人とは、出会うことはできません。なぜなら、持って生まれた性格、育った環境、今までに経験したこと、それに対する受け取り方は、一人一人、違います。コミュニケーションを取る上で、最初から私たちは、コミュニケーション・ギャップがあることを理解する必要があります。そして、そのコミュニケーション・ギャップを最小限にしていく努力が必要です。

6)切り札!「イエス様だったらどうする?」

 それでも、上手くいかない人間関係、「もう、あの人とは話したくもない!」と言った場合どうしたらいいでしょう?私たちは、イエス様の仲介によって、父なる神様との関係を和解することができました。イエス様には、私たちと父なる神様との関係を仲介する義務はありませんでした。ただ、イエス様は、私たちが、父なる神様との関係を修復させ、祝福されることを望むが故、私たちを愛するがゆえに、十字架上でご自分の命を犠牲にしてまで、父なる神様と私たちとの仲介者になってくださいました。

 そのイエス様の愛を受けて、新しく生まれ変わった私たち、クリスチャンは、イエス様をお手本とし、イエス様に頼って、受けるよりも与える者に、愛されるよりも愛する者へと変えられていきましょう。神様に不可能なことはありません。私たちが、「もう、話したくない!」と感じている相手も、神様は、私たちと同様に愛しておられます。ですから、その相手を愛すること、良き関係を築いていくことは、神様の御心に適っています。神様の御心に適うことは、必ず成就します。そのことを覚えつつ、今週も互いに愛し合い、歩んでいきましょう!


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イスラム宣教レポート (7/20/08)

2008年07月20日 | Celebration
 今日のGood News Station の礼拝は、あるイスラム教圏でイエス様を伝道されている、宣教師の方をお招きして、イスラム教国での生活と、その宣教報告を伺いました。世界には、キリスト教を認めていない、また、多大な制限をしている国が未だたくさん存在しています。自分の身を危険に曝してでも、神様の召しに応え、未だイエス様のことを聞いたことがない人々に救いを伝えるために働かれている宣教師の方々と、そのご家族を覚え、祈り、支えることができますように、そして、イエス様のご栄光がどこででも現されますように願いつつ、報告させていただきます。(インターネット上では、個人名は伏せなければなりませんので、どうぞご了承ください)

 「A」宣教師は、アメリカのある宣教組織を通して、イスラム緒国会議機構に加盟している「B」国で、イエス様を伝えておられます。B国は、国で定められた厳しい統制下におけるキリスト教は認めていますが、その統制は近年どんどん厳しくなっています。ですからA宣教師は、B国に宣教師として入国することは出来ません。

 「イスラム教」と聞くと、みなさんは、どのようなイメージを持っておられますか?「アラー」の神様、創始者「モハメット」、「コーラン」、一日5回お祈りしている、女性はベールで顔を隠している、断食する、お酒は飲まない等々・・ しかし、今回、A宣教師のお話を伺って、今まで私たちが持っていたイスラム教のイメージと現実は、随分違うということを知ることができました。

 イスラム教は、AD.610年、サウジアラビアのメッカでモハメットが瞑想中に啓示を受けたのが始まりです。私たちはイスラム教=アラブ人というイメージがありますが、実際は、アラブ系のイスラム教徒は全体からすると少数で、インドネシア、トルコ、パキスタン、アフガニスタンなどの東南アジア、また、西アジア、中央アジアに住んでいる人々が大多数を占めています。B国もその地域に属している国の一つです。

 B国は多民族国家で、公用語の他にいくつかの現地語がありますが、アラブ語は、ほとんど使われていません。ですから、B国のイスラム教徒で、コーランを読める人はごく僅かです。イスラム教の経典であるコーランは、アラブ語以外に訳すことも、読むことも禁止されていますので、アラブ語の読めないB国のようなイスラム教徒は、「フォーク・イスラム」と呼ばれる、イスラム教に現地の先祖崇拝や自然崇拝などが混ざり合った宗教なのです。

 A宣教師は、神学校に在学中、ある教授の勧めで外国に短期の宣教旅行に行かれました。2度の宣教旅行と、日々の祈りを通して、神様がご自分に宣教師の使命を与えてくださった確信が与えられ、宣教団体を探すなどの準備を経て、8年前に宣教師としてのお働きが始まりました。B国での最初の数年のお働きを通して、A宣教師に3つのビジョンが与えられました。

 1)都市ではなく、地方での宣教活動
 2)現地語を学んで、現地の人々との交流、現地語での伝道
 3)イエス様を信じた人々が家族や友人に伝道できるよう、彼らの信仰を励ます。

 A宣教師は、このようなビジョンと共に2度目の宣教活動をB国でされますが、宣教を共にする同労者とのビジョンが異なり、最初より短い期間でアメリカにお戻りになられました。B国のような地域での宣教活動は、チームを組み、同労者との協力体制が不可欠です。(もちろん、教会の働きも霊の一致が重要です。)それでも、A宣教師は、このような困難にも耐え、むしろ、神様の試練を喜ばれ、神様からいただいたビジョン達成のために新たに共に働く同労者を祈り求め、いろいろな機関に連絡を取られました。そして、地方で宣教活動をされている同労者とコンタクトを取り、彼らと共に宣教活動を始められるために準備中です。

 B国の都市と地方との間には、随分生活水準の開きがあります。都市の家には、水道と排水設備がありますが、昔の家々には未だに水道はなく、共同井戸を使っています。また、A宣教師が伝道されている女性の多くは、子供ができるとご主人がいなくなってしまったり、アルコール依存症で暴力を振るわれる等々、数々の問題を抱えています。それでも、イエス様に出会った喜びで希望を持って生活する一方、周囲の人々のキリスト教に対する迫害の中で信仰を持ち続けおられます。

 地方で生活されている人々は、主に現地語を話していますが、都市で生活している人々は、現地語よりも公用語を話す人が多く、現地語の聖書は未だ、完訳されていないそうです。このような状況下で、B国には、イスラム教を衰退させないように、多くのイスラム教徒が入って来て新しいモスクを立て、B国を更にイスラム化させようする働きが方々で見られるそうです。また、政治的にもイスラム教以外の宗教を規制する法律が次々と出来て、更に弾圧が高まって来ています。

 主から与えられた使命に従い、B国の一人でも多くの人たちに神様の愛を伝えようと、A宣教師は今年中にまたB国に戻りたいという希望を持っておられます。自分の家族や友人が救われるために祈り、伝道することも、勿論大切ですが、今回のA宣教師のお話しを伺い、イエス様の福音を聞く機会の少ない国々の人たちの救いのために祈り、「一個人として、何ができるのか?」と、神様から問いかけられました。主のために全てを献げられ、言葉も、生活も、価値観も違う国々へ、イエス様の御言葉を伝えるために遣わされている宣教師の方々とそのご家族のことを思います。

天は主の正しさを告げ知らせ、すべての民は、その栄光を仰ぎ見る。(詩篇97:6)

 主の栄光が全地に満ち溢れますように、アーメン。

〔写真:当日の礼拝に、特別賛美で参加してくださったNCM2の皆さん〕

3つアンテナ ガラテヤ2:19-21

2008年07月13日 | Celebration
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

経済評論家の大前研一氏が、経営コンサルタントの仕事をしている時に、「どのようにしたら車の販売業績が上がるか?」と言う依頼をある自動車販売会社から受けたそうです。 彼は、その依頼を受けて、日本全国の自動車のセールスマンと話をしました。そこで、大前氏が気付いたことは、販売業績のトップセールスマンに共通する点とそうでないセールスマンに共通する点があることです。トップセールスマンに共通する点とは、「自分の売る車の長所をよく知っている」ことです。そうでないセールスマンに共通する点とは、「自分の売る車の欠点をよく知っている」ことです。

 私たちの人間関係においても同じことが言えるのではないでしょうか?人の欠点に目がいく人は、そう言った人たちが集まり、人の噂話をします。人の長所に目がいく人は、そう言った人たちが集まり、励まし合い、人間関係も前向き、肯定的なものを感じます。また、人間関係に限らず、人生に対する視点も同じです。前向き、肯定的な視点で物事を見れば、すべては、良い方向に向かいます。批判的、否定的な視点で物事を見れば、気持ちは、消極的になり、物事はなかなか良い方向に進んでいきません。これは、あくまでも視点です。環境は、変わらないのです。

 私たちの周りには、良い出来事、良くない出来事の両方が存在しています。しかし、私たちが良い出来事や、良い情報を捉えるアンテナを持っていれば、私たちの中に良いものが入ってきて、良い影響を与えます。反対に、私たちが良くない出来事や、良くない情報を捉えるアンテナを持っていたら、私たちの中に良くないものが入ってきて、良くない影響を与えます。私たちは、環境を変えることはなかなか大変ですが、その環境の中から、わたしたちに悪いものではなく、良いものを得ることができます。

 信仰に対しても同じことが言えます。神様は、存在します。しかし、私たちは、実際の目で神様を見たり、触れたりすることは、ほとんどできません。(稀にそう言った、体験をする方もいらっしゃいますが…)ですが、「見たり、触れたりすることができないから神様はいない」と言うことは決してできません。「神様は、いるんだろうか?もし神様がいるんだったら、私に語りかけてくれるんだろうか?神様の存在を教えてくれるんだろうか?」と言う思いを持って人生を送る時、その人は、神様の存在をキャッチするアンテナが建っていますから、電波のように、この世界に存在している神様を捉えることができます。

 それでは、クリスチャンにとって大切なアンテナは何でしょう?今日は、ガラテヤ信徒への手紙2章19-21節からパウロさんが持っていた3つのアンテナ、クリスチャンにとって大切な3つの人生観をみなさんと共に分かち合いましょう!

アンテナ① (ガラテヤ2:19)
 イエス様は主です。この世界は、すべて、イエス様によって創られ、神様(イエス様)によって支配されていると言う確信。そのイエス様を信じ、受け入れた私たちは、永遠の命をいただき、神の国で生きることができるようになりました。それは、私たちがどんな状況であっても変わらない事実です。

アンテナ② (ガラテヤ2:20)
 イエス様は愛です。この世界は、良いこともありますが、悪いこともあります。戦争で関係のない多くの人々が亡くなったり、無差別殺人の被害者になることもあります。地震や台風などの災害で家族や財産を失う人々もいます。「神様がいるなら、なぜ、こんなひどいことが起こるの?」「自分にこんな災難が降りかかるのは、神様が私を愛していないせい?」と疑問に思う出来事もたくさんあります。しかし、イエス様は、愛のゆえに私たちの罪を贖うために十字架に架かり、自分の命を代償として献げ、私たちに永遠の命を与えてくださいました。今ある、この世界は、いつか無くなってしまいます。それは、来るべき、完全な神の国が現われるためです。そこで、私たちが永遠の命を与えられ、生きるために私たちの今の人生があるのです。愛の神様は、決して、私たちを見捨てることがありません。

アンテナ③ (ガラテヤ2;21)
 イエス様と共に歩む。主であり、愛であるイエス様は、私たちの応答を期待されています。それは、「神様と共に歩む=神様の働きを共にする、伝道する」と言うことです。パウロさんは、ローマ信徒への手紙1章13、14節で「果たすべき責任」と説明しています。私たちを愛するがため、私たちの命を救うため、イエス様は、ご自身の命を十字架上で贖いとして献げてくださいました。そのような愛を知った、私たちがイエス様に従う、イエス様と共に歩むことは、「させられること」ではなく、「そうせずにはおれない」と言う、愛に促された自発的行為となるのです。

 みなさんはこの3つのアンテナが確信によってしっかりと立っていますか?これらのアンテナを益々、強固に、高くして、神様の愛をたくさん受けて、神様の御旨をしっかりと受けて、今週一週間も、神様を必要な人たちに発信していきましょう!


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3つのパンの祈り ルカ11:1-10

2008年07月06日 | Celebration

イエスはこう言われた。あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを3つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば、与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

最近の情勢を見ると、ガソリンをはじめ、物価は高騰し、天災は、あちこちで起こっています。クリスチャンと言えども、この世の中で生活していると、不安を感じずにはいられませんが、クリスチャンは、不安を希望に変えていくことができます。それが、クリスチャンに与えられている特権です。不安を希望に変えていく原動力は、信仰にあります。信仰が成長することにより、希望が不安に変えられていきます。それでは、その信仰を成長させるにはどうしたらいいでしょう。

信仰は、祈りによって育まれます。祈りは、クリスチャンの特長と言えるでしょう。なぜなら、祈りは、人格的交わりを求める神様との対話だからです。仏教は、お経を唱えますが、お経は既に出来ているものを覚えて唱えています。イスラム教は、一日に5回、アッラーの神に向かって拝んでいます。しかし、この2つの宗教には、クリスチャンの祈りのような神様と人間との個人的な対話・交流はでありません。

 キリスト教(と説明するのは、個人的に抵抗があります。なぜなら、キリスト教は、宗教ではなく、全人類がイエス様を通して、全ての被造物を創られた天のお父様と親子関係を修復することを神様が望んでおられる事実だからです。)における、神様と人との関係は、この世の中では、親子関係のようなものです。親は、子供のできないこと、子供の望むことをしてくれます。たとえば、子供の頃、お父さんにだっこやおんぶ、肩車をせがんで、してもらったこと、お母さんと買い物に一緒に行って、お菓子をねだって、買ってもらったこと、このような関係が神様と私たちにもあるのが、キリスト教の特長です。私たちは、神様に個人的にせがんだり、ねだったりすることが祈りを通してできるのです。
今日のメッセージ箇所である、ルカによる福音書11章1-10節には、祈りに関する事柄が3つ書かれています。一つ目は、どのように祈ったらいいか?と言うことです。イエス様がお祈りをしておられると、弟子たちがやって来て、「私たちにも祈りを教えてください」と言いました。(ルカ11:1)イエス様が弟子に教えた祈り、それが、「主の祈り」です。主の祈りは、クリスチャンの基本の祈りです。多くの教会では、礼拝の中で、この主の祈りを唱和します。暗誦されていらっしゃる方も多いでしょう。しかし、ここで注意しなければならないことは、覚えているからと言って、ただ、漠然と口にするのでは、祈りにはならないと言うことです。イエス様がなぜ、この主の祈りを教えてくださったか、一つ、一つの言葉の意味を深く理解しつつ、神様にこの祈りを献げましょう。
二つ目は、どのような姿勢で祈ったらいいか?と言うことです。私たちは、人に物を頼む時、遠慮がちに頼むことがありませんか?「もし、よかったら…」、「できれば…」と言ったように。しかし、神様に祈る時の姿勢は、そうでなくていいのです。イエス様は、むしろ、積極的に祈ることを教えてくださっています。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ11:9-10)神様は、私たちが主体的に祈ることを望んでおられます。そして、そのような祈りをする者は、誰でも必ず応えられるとおっしゃってくださっています。
三つ目は、今日のメッセージタイトルにある、三つのパンの祈りです。このたとえ話は、ある人が、真夜中に友人の家にパンを借りに行くという設定ですが、イエス様はこの話を通して、私たちに、祈りの6つの基本要素を教えてくださっています。イエス様が教えてくださった通りに祈る、「主の祈り」(ルカ11:1-4)と、祈りに対する姿勢(ルカ11:9-10)の間にイエス様が語られたことは、私たち自身が主に祈る時、「どのようなことに重点をおいて祈るか」と言う、基本中の基本要素です。


祈りの6つの要素

1)彼の家にはパンが一つもなかった。

 彼の家に友人が突然訪問して来ました。昔の旅ですから、多くの不測不可能な事態が起こり、その友人はやむ得なく、彼の家に立ち寄ったのでしょう。友人は食事をすることが出来ず、お腹をすかせていました。ところが彼の家には、何処をどう探してもパンは一つもありませんでした。彼はどうしても自分には出来ないことを祈りました。神様は、私たちには出来ないことを助けてくださいます。それが祈りの第一の基本要素です。

2)彼は自分でパンのある所まで行った

 彼は、「神様私たちにパンをください!」と、ただ部屋の片隅で祈っていたのではなく、パンを貸してくれる友人の家まで真夜中なのに訪ねて行きました。つまり、彼は自分に出来る精一杯のことをしたのです。神様は、私たちに出来る範囲のことは私たちに任せられておられます。ですから、自分のできないことは神様に祈りをもって頼り、自分で出来ることには最善を尽くさなければなりません。

3)彼は友人がパンを持っていることを知っていた。

 彼には、何人か友人がいたでしょう。しかし、彼が訪ねた友人は、真夜中でも、パンを貸してくれそうな友人だったと思います。私たちは、人に頼み事をする時、その頼み事をいちばん利いてくれる人を選びます。神様は、この世界の全てを創られた全知全能のお方です。ですから、私たちの祈りに神様は、必ず、応えてくださると言う確信を持って祈りましょう。

4)彼は自分の願いを友人が聞いていることを知っていた

 彼が訪ねた友人は、真夜中に彼が訪ねて来た理由を聞き、それに対して返事をしています。彼は友人が自分の願いを聞いていることを分かっていました。だから最後まで食い下がることが出来たのです。同じように神様も私たちのどんな祈りでも、必ず聴いてくださっています。ですから、どんな祈りでも、神様は必ず、いつも耳を傾けてくださっていると言う確信を持って祈りましょう。

5)彼は必要に合わせて具体的に願った

 彼は、自分の必要を具体的に友人に伝えています。夜中に到着してお腹をすかせている旅行中の友人のために「パンを3つ貸してください」と。神様は、何でもできるお方ですから、私たちの祈りにも忠実に応えてくださいます。ですから、なるだけ具体的に祈りましょう。

6)彼は自分のためではなく、友人のために願った。(ルカ11:6)

 彼は、自分のためではなく、友人のためにパンを借りに行きました。パンを求めた人は、パンを必要とする人とパンを与えてくれる人との仲介者でした。それは、イエス様が私たちの救いのために私たちと神様との仲介者になってくださった姿と重なります。そして、救われ、神様の子供となった私たち、クリスチャンは、自分の必要のためだけでなく、周りの人のために神様に祈ることができるのです!

今週一週間も、私たちの祈りを聴き、応えてくださるイエス様に希望をおいて日々の生活を歩んで行きましょう!


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