Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

洞窟の人々 Ⅰサムエル22:1-4

2008年05月25日 | Celebration
 旧約聖書には、「人間」の本性が赤裸々に描かれている。そしてまた、聖書は全巻通して「イエス・キリスト」を語り、旧約聖書は「イエス・キリストの準備・予兆」として、私たちに「神様」を現してくださるものでもある。旧約聖書中でもよく知られるダビデ王は、歴史的観点からはイスラエルを統一し、エルサレムを首都とした。しかし今見るべきは、人間と神様との関係における神様の臨在を明らかにした彼の霊的な業績だ。

 神の人、神の使い、神の友とまで呼ばれたダビデの生涯にも、数々の人間くさい所行や失敗がある。だからこそ、その都度悔い改め、信仰によって立ち上がり、歩みを続けるダビデの生き方が、キリスト者にとって大きな意味を持つ。聖書は、ダビデやその他の偉大な預言者の生涯をただ記した第三者の記録物ではない。忘れてはならない。聖書は、「私の(あなたの)」ために書かれているということ、そしてダビデが神の子であるなら、「私も(あなたも)」神の子であるということを。

 今日の聖書箇所は、ダビデが王となる前の逃避行中の出来事。ダビデは神様から王となる召しを受けるものの、初代のサウル王は優秀なダビデを妬み、その命を付け狙う。ダビデは追っ手を逃れて、洞窟に隠れる。この時のダビデのように、自ら解決することができない問題に追い詰められ、暗い洞穴の中にいるように思う時が誰の人生にもある。神様は、用いられるすべての人に「洞窟の時」を与えられるからだ。その時に、私たちはどうするか。キリスト者はどうするか。

わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにしてあなたに賛美の歌をうたいます。 (詩篇57:8)
声をあげ、主に向かって叫び 声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。(詩篇142:2)

 ダビデは、こんなマイナスにしか見えない状況下で、神様に感謝すること、神様にすがること、神様を賛美することを学んでいく。苦難の中にあることが、神様の祝福を外れたことではないと “霊”で知っていく。彼を狙うサウルもまた、神様が選んで王となった人間だった。しかし時と共に神様の道を外れ、人目を気にするようになる。ダビデは、ただただ神様の目を心に留め続けた。これが二人の決定的な違い。そして、キリスト者が学ぶべき姿。

 キリスト者は、神様によって生かされていることを知っている。人生の目的が、神様の計画の内にあることを知っている。いかなる苦難の中においても、神様が共にいてくださることを感じ、自分の思いを神様の思いに一致させることができるよう祈る時、感謝し、賛美が生まれる。そして、洞窟から出ることができるのだ。救い出されたから賛美するのではない。信仰ゆえに賛美する。必ず救い出されると確信する先取りの信仰だ。その主への忠実な信頼が喜びになる。従順が力になる。

 数多の詩篇の祈りからわかるように、神様といつも繋がっていたダビデさえ、選択を間違えることがあった。キリスト者も、しばしば間違いを犯す。神様はそれをとりなし、益と変えてくださる。ただし、傷は癒されても、自ら刈り取るべき報いとして傷跡は残る。だからこそ、聖霊様の導きに従うことが大切。決して神様の目をごまかすことはできない。我を通すと痛い目に遭う。ダビデのように、いつもありのままの自分を神様に差し出し、主の御旨を第一に聞き従うよう、常に祈ろう。その時、人間の目には「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者」にしか映らない洞窟の人々が、神様の愛する「教会」として、共に洞窟から歩み出す仲間として変えられて行くのを見るはずだ。


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真理に属する人 ヨハネ18:28-38

2008年05月18日 | Celebration
 「真理とは何か?」私たちはこの問いに明確に答えることが出来るだろうか。

 「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」このイエスの言葉によって、ピラトは「真理とは何か?」と考えた。当時のギリシア哲学世界では、真理は自らが信じることと認知されていた。現代の一般社会では、普遍的・絶対の事実や法則のことと意味されている。そして聖書では、「真理」について実に意表を突いたことが書かれている。ヨハネ14章6節、「わたしは道であり、真理であり、命である」。イエス・キリストその人こそが真理だと語っているのだ。

 C.S.ルイスはこう記している。『単なる人間で、イエスが語ったようなことを語る人は、偉大な道徳的教師ではないだろう。そのような人は(自分が本当に半熟卵であると信じて公言する人と同じくらいの)気違い、又は地獄の悪魔かのどちらかだろう。あなたは選択をしなければならない。イエスが過去においても現在においても神の子であるか、それとも狂人あるいはそれよりも悪い者であるかのどちらか。イエスを愚か者として無視するか、又はイエスを神として彼の足もとにひれ伏すか。しかし、彼を偉大な教師と捉えるような馬鹿げたことをするのはよそう。彼は我々にその余地を与えなかった。』 (C.S.ルイス / キリスト教の精髄)

 確かに、もし私たちの目の前に「私は真理だ。」と言う人物がいたら、「私は半熟卵だ。」と言う人同様にアブナイと見なすだろう。しかし聖書は真実であり、私たちがどう思おうとこれ以外に真理はないのだ。田中牧師はしばしば仰る。「人生は真理の積み重ねだ。」と。自らの経験から、また知識から得た「真理」をどれだけ活かすことができるか、それが豊かな人生を構築する。そしてキリスト者は、イエス様が『キリスト=我が救い主』というこの真理を、受け入れ、信じ、従って行けるかで、その命(=生)を豊かに潤すことができるのだ。

 真理を求めると言っていても、遥か彼方にある手に届くかどうかわからない「もの」を求めて力を尽くすのではない。今も生きていらっしゃるイエス様ご自身が真理であるということは、イエス様から人格的な関係に招かれている、実はすでに私たちが真理であるイエス様から求められている、ということだ。この事実に気付く時、途方もない神様の恵みを「真理として」体得することができる。

 ピラトは真理である御方を前にして、皮肉にも「真理とは何か」と問うた。イエス様はそれに答えることなく、ただ前に立っていて下った。ここに、一見裁いている側のピラトが、唯一なる裁き主の前に立たされている逆転の構図を見る。そしてピラトの立場は、私たちの立場でもあるのだ。ピラトはその場で真理を知ることはできなかったが、人智では計り知れない神様の御心は、次にイエスを前にした時、図らずも「真理」を口にさせた。「見よ、この人だ。」と。(ヨハネ19:5)

 「見よ、この人だ!」---「真理」は頭で知るものではない。知識として持っているだけでは、「真理」を得ることはできない。それは知らないも同然だ。ただ、イエス様に会い、救い主として受け入れて従っていく時、「真理」が私たちの内に構築される。そして、「真理」に属することができるのである。


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