旧約聖書には、「人間」の本性が赤裸々に描かれている。そしてまた、聖書は全巻通して「イエス・キリスト」を語り、旧約聖書は「イエス・キリストの準備・予兆」として、私たちに「神様」を現してくださるものでもある。旧約聖書中でもよく知られるダビデ王は、歴史的観点からはイスラエルを統一し、エルサレムを首都とした。しかし今見るべきは、人間と神様との関係における神様の臨在を明らかにした彼の霊的な業績だ。
神の人、神の使い、神の友とまで呼ばれたダビデの生涯にも、数々の人間くさい所行や失敗がある。だからこそ、その都度悔い改め、信仰によって立ち上がり、歩みを続けるダビデの生き方が、キリスト者にとって大きな意味を持つ。聖書は、ダビデやその他の偉大な預言者の生涯をただ記した第三者の記録物ではない。忘れてはならない。聖書は、「私の(あなたの)」ために書かれているということ、そしてダビデが神の子であるなら、「私も(あなたも)」神の子であるということを。
今日の聖書箇所は、ダビデが王となる前の逃避行中の出来事。ダビデは神様から王となる召しを受けるものの、初代のサウル王は優秀なダビデを妬み、その命を付け狙う。ダビデは追っ手を逃れて、洞窟に隠れる。この時のダビデのように、自ら解決することができない問題に追い詰められ、暗い洞穴の中にいるように思う時が誰の人生にもある。神様は、用いられるすべての人に「洞窟の時」を与えられるからだ。その時に、私たちはどうするか。キリスト者はどうするか。
わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにしてあなたに賛美の歌をうたいます。 (詩篇57:8)
声をあげ、主に向かって叫び 声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。(詩篇142:2)
ダビデは、こんなマイナスにしか見えない状況下で、神様に感謝すること、神様にすがること、神様を賛美することを学んでいく。苦難の中にあることが、神様の祝福を外れたことではないと “霊”で知っていく。彼を狙うサウルもまた、神様が選んで王となった人間だった。しかし時と共に神様の道を外れ、人目を気にするようになる。ダビデは、ただただ神様の目を心に留め続けた。これが二人の決定的な違い。そして、キリスト者が学ぶべき姿。
キリスト者は、神様によって生かされていることを知っている。人生の目的が、神様の計画の内にあることを知っている。いかなる苦難の中においても、神様が共にいてくださることを感じ、自分の思いを神様の思いに一致させることができるよう祈る時、感謝し、賛美が生まれる。そして、洞窟から出ることができるのだ。救い出されたから賛美するのではない。信仰ゆえに賛美する。必ず救い出されると確信する先取りの信仰だ。その主への忠実な信頼が喜びになる。従順が力になる。
数多の詩篇の祈りからわかるように、神様といつも繋がっていたダビデさえ、選択を間違えることがあった。キリスト者も、しばしば間違いを犯す。神様はそれをとりなし、益と変えてくださる。ただし、傷は癒されても、自ら刈り取るべき報いとして傷跡は残る。だからこそ、聖霊様の導きに従うことが大切。決して神様の目をごまかすことはできない。我を通すと痛い目に遭う。ダビデのように、いつもありのままの自分を神様に差し出し、主の御旨を第一に聞き従うよう、常に祈ろう。その時、人間の目には「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者」にしか映らない洞窟の人々が、神様の愛する「教会」として、共に洞窟から歩み出す仲間として変えられて行くのを見るはずだ。
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神の人、神の使い、神の友とまで呼ばれたダビデの生涯にも、数々の人間くさい所行や失敗がある。だからこそ、その都度悔い改め、信仰によって立ち上がり、歩みを続けるダビデの生き方が、キリスト者にとって大きな意味を持つ。聖書は、ダビデやその他の偉大な預言者の生涯をただ記した第三者の記録物ではない。忘れてはならない。聖書は、「私の(あなたの)」ために書かれているということ、そしてダビデが神の子であるなら、「私も(あなたも)」神の子であるということを。
今日の聖書箇所は、ダビデが王となる前の逃避行中の出来事。ダビデは神様から王となる召しを受けるものの、初代のサウル王は優秀なダビデを妬み、その命を付け狙う。ダビデは追っ手を逃れて、洞窟に隠れる。この時のダビデのように、自ら解決することができない問題に追い詰められ、暗い洞穴の中にいるように思う時が誰の人生にもある。神様は、用いられるすべての人に「洞窟の時」を与えられるからだ。その時に、私たちはどうするか。キリスト者はどうするか。
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ダビデは、こんなマイナスにしか見えない状況下で、神様に感謝すること、神様にすがること、神様を賛美することを学んでいく。苦難の中にあることが、神様の祝福を外れたことではないと “霊”で知っていく。彼を狙うサウルもまた、神様が選んで王となった人間だった。しかし時と共に神様の道を外れ、人目を気にするようになる。ダビデは、ただただ神様の目を心に留め続けた。これが二人の決定的な違い。そして、キリスト者が学ぶべき姿。
キリスト者は、神様によって生かされていることを知っている。人生の目的が、神様の計画の内にあることを知っている。いかなる苦難の中においても、神様が共にいてくださることを感じ、自分の思いを神様の思いに一致させることができるよう祈る時、感謝し、賛美が生まれる。そして、洞窟から出ることができるのだ。救い出されたから賛美するのではない。信仰ゆえに賛美する。必ず救い出されると確信する先取りの信仰だ。その主への忠実な信頼が喜びになる。従順が力になる。
数多の詩篇の祈りからわかるように、神様といつも繋がっていたダビデさえ、選択を間違えることがあった。キリスト者も、しばしば間違いを犯す。神様はそれをとりなし、益と変えてくださる。ただし、傷は癒されても、自ら刈り取るべき報いとして傷跡は残る。だからこそ、聖霊様の導きに従うことが大切。決して神様の目をごまかすことはできない。我を通すと痛い目に遭う。ダビデのように、いつもありのままの自分を神様に差し出し、主の御旨を第一に聞き従うよう、常に祈ろう。その時、人間の目には「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者」にしか映らない洞窟の人々が、神様の愛する「教会」として、共に洞窟から歩み出す仲間として変えられて行くのを見るはずだ。
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