Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

怒り対処法 (ヤコブ 1:19)

2015年03月22日 | Celebration

聖書は少年法について何と言っているのか、子供は罪を犯しても許されるのか、今の世相を反映した質問が牧師に投げかけられる。少年犯罪の相次ぐ昨今、日本では少年法改定、選挙権年齢の引き下げの動きがあり、巷では喧々諤々と議論が交わされている。

18歳未満を「児童」と定義し、その権利を包括的に定めた国際条約によって、児童に死刑は適用されていない。この国際条約に批准している多くの国で、18歳未満は死刑にはならない。現在の日本では、性別を問わず満20歳以上の者が「成年者」とされており、それ以下の「少年=未成年者」には、原則的に刑事処分ではなく保護更生のための処置、量刑の緩和などの配慮が規定され、「少年法」で定められている。が、成人に達する年齢は、世界的にメジャーなのが18~21歳で、統計によると18歳が圧倒的に多い。同時に刑法でも18歳以上に死刑が適用されることになる。

昨今の議論の中、その筋の専門家の意見として、少年犯罪抑制のための3つの力が挙げられていた。が、日本を代表するような犯罪学権威のご高察に対抗し、一民間牧師えんぢぇるのシニカルな反論がある。

羞恥心:他人の目を気にして止めておこうという意識によって抑制される。
「恥」の意識と「罪」の意識は異なる。罪意識は、人を悔い改めに導く入口になり、改善への姿勢を生む。しかし、知られたくないことを知られてしまった故の恥意識は、まず隠そうとする意識から自分の内側に向けられ、多くは自己防衛から引きこもり、あるいは最悪自殺に発展する可能性が強い。また、恥意識として外側に矛先が向いた場合、家族や社会に対して犯罪に走ることになる。

罰に対する恐れ:処罰の厳格化によって抑制可能。実際に飲酒運転は、厳罰によって半減した。
受刑者に対し、その人が犯した犯罪によって被害者家族や周囲の人、社会の痛みをしっかりと示してわからせる、というプログラムを試したところ、逆に再犯率が高まる結果となった。このプログラムによって、「人をこんなに不幸にした自分が幸せになる価値などない」という意識が最も強く植え付けられたからだ。セルフイメージの否定&破壊は、そのまま否定的破壊的行動に繋がる。劣等感は決して人を立て上げることはない。

絆:家族、友人との絆があれば、犯罪抑制に効果がある。
正論すぎるほどの正論。しかし、正論は役に立たないことが多い。絆とは、家族のように、何が起ころうと決して崩れない関係のことだ。しかし、震災ですべてを一気に失った人と、第三者的な意識しかない人との間に絆が成り立つはずもない。人として、生きるために絆は必要だ。しかし、だから持て、と言われて簡単にできることではない。

少年法は、未成年者の人格の可塑性に着目するが故に作られている。また一つ一つの事件で、本来見るべき点は、年齢や何をしたかではない。少年であれ、成年者であれ、その動機においてそれが人間成長における未熟さ故なのか、人格的欠陥の故なのか。対処はそれによって変わるはず。そしてクリスチャンであれば、知っている。誰もが、同じ状況にいつ何時立つかわからないことを。犯罪も日常生活の小さく見える事件も、その要因は「怒り」という誰もが持つ感情から起こる。今や世界中に怒りが渦巻いている。そしてその渦は、平凡な生活を送っているはずの私たちをも巻き込む。わかっていても制御が困難な「怒り」は私たちが常に対処しなければならない切実な問題なのだ。

怒りの以下の4つに起因している。Hungry(飢餓感)、Anger(怒り)、Tired、(疲れ)、Stress(ストレス)。それぞれの頭文字をとってHATSと覚えられる。必要が満たされない時、大切にされていないと感じた時、疲れ果てた時、過大なストレスに、これらマイナスエネルギーが蓄積され、何かの拍子にその導火線に火が付き、爆発する。怒りと悲しみは表裏一体の関係にある。しかし、悲しみ要因は誰も大差ないのに対し、怒りは人によって非常に様々で複雑だ。あの人は何故あんなことで起こっているのか?と感じることは少なくないだろう。というのは、怒りと言うのは二次的感情であり、潜在意識の中に蓄積されたある感情によって二次的に起こるものだからだ。爆発の凄まじさに、しばしば火のついた導火線にばかり注意が注がれるが、実は爆発するのは導火線ではなく、その先のダイナマイトだ。それこそが、怒りの原因である第一次感情である。

例えば、夜遅く帰宅した娘に父親が怒る。「何故、こんなに遅くなったんだ!」この怒りを表した言葉の奥には、娘を心配する心、愛情がある故だ。しかし厳しい言葉で耳に届いたばかりに、娘は反撃。更に言い返して怒りの爆撃応酬となる。こうなると手が付けられない。夫婦でも、友人でも、類似の経験は一度はお持ちだろう。、世の家庭内戦、社会戦争、そして教会内紛争然り、これで怒りを繰り返している。

人生、寂しい、哀しい、辛い、期待はずれ、何で分かってくれないの!?の連続である。だが、それでいちいち爆発していたのでは、いくら体があっても持たない。そういった感情を制御出来るようになるのが、「大人」になると言うこと。何が自分をそうさせるのか?その自分の一次感情を、一度自分に問いかけ、そこを辿ってみると大抵はそこには何か深い根っこがある。その人が何に対して怒るのか?という所に、その人が本来解決すべき問題が潜んでいるのである。

安全な人生を送るための指南書とも言える箴言には、多くの怒りに対しての警鐘となる御言葉がある。

短気な者は愚かなことをする。(箴言14:17)
忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる。(箴言14:29)
穏やかな心は肉体を生かし 激情は骨を腐らせる。 (箴言14:30)
激しやすい人はいさかいを引き起こし 忍耐深い人は争いを鎮める。(箴言15:18)
激しく憤る者は罰を受ける。救おうとしても、あおるだけだ。(箴言19:19)
愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。(箴言29:11)
怒りやすい人はいさかいを引き起こし 激しやすい人は多く罪を犯す。 (箴言29:22)

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(ヤコブ1:19-20)

聖書は怒り自体を罪とはしていない。イエス様も怒られた記述もある。しかし、問題は怒りをどう表すかにによっては、そこに罪が生じることがあるということだ。ということで、怒りに対する7つの対処法伝授!

7秒耐えて祈る!
瞬間的怒りの持続時間は6秒だそうだ。怒りがこみあげたら深呼吸して、心を落ち着かせて7秒祈る。

その場を離れる。
怒りの対象を目の前にしたままでは、収まるものも収まらない。怒り爆発の寸前、真っ先にすべきはひとまずその場を離れること。衝動的な行動を起こさずに済む。

怒りはその日のうちにおさめ、翌日に持ち越さない
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェソ4:26)

怒っている時に重要な判断をしてはならない。
怒りの最中は正常な精神状態ではない。一旦口にした言葉は、簡単に取り消すことができない。

怒ると叱るは違う。
親が子に対し、叱ってもよいが、怒ってはダメ。叱るは教育だが、怒るは感情。怒ると叱るがこんがらがっていては子供に伝わらない。

怒りの代償は高くつく。
人前で起こるのは、感情制御できない子供と同じだ。その代償は高い。

私の怒りは正しいのか?再チェック。
怒っている人の頭の上には、「私は正しい」の錦の旗が堂々とはためいている。が、それは正しいことか?感情に支配される前に、なぜ憤っているのか?をチェックするのは賢明だ。

言うは易し、行うは難し。怒りのコントロールは難しい。しかし難しいことだからこそ、そこに神様の救いを求めることができる。誰もが怒りから解放される必要がある。過ちを犯した時、「お前はもうダメだ。生きていられないよ。」と囁くのは悪魔。私たちの主、イエス様は、こう仰る。「確かにお前は間違いを犯した。でも、お前の罪はすべてわたしが肩代わりしたんだよ。さあ、安心して行きなさい。」怒りは必ず制御することができると確信を持つこと。そうすれば、あなたは命を得るのだ。あなたのすべての過ち、怒り、涙の理由は、すでにイエス様が代わりに背負ってくださった。このことに信頼し、解放の人生へ今、歩み出そう!




メッセージ(音声)はこのバナーをクリック! 



GNSのメインページはこちら!

最新の画像もっと見る

コメントを投稿