Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

柔和な人 マタイ 5:1-12

2007年11月25日 | Celebration
「柔和な人」ってどういう人?

 三省堂の新明解国語辞典で調べてみると、「柔和」とは、「優しくて穏やかな様子」とあります。周りを見回すと、この忙しい世の中、また「師走」と言われる、12月が近づく今日この頃、「柔和な人」は、なかなか見あたりません。(自分がいちばん柔和からかけ離れているせい?)今日のメッセージは、マタイ5章1-12節の箇所からイエス様がおっしゃる「柔和な人」について共に分かち合いたいと思います。

 このマタイ5章1-12節は、教会の礼拝や聖書の学びの会などで、「山上の垂訓」と呼ばれている有名な箇所です。簡単に言えば、「イエス様がお山の上でお話されたこと」です。「山上の垂訓」なんて難しい言葉を使われていますが、イエス様がお話されていることはとても簡単です。なぜなら、イエス様のお弟子さんたちは、ガリラヤ湖で漁師をされていた人たちがほとんどでしたし、イエス様のお話を聞きに来た多くの人たちは、ほとんど字の読めない、教育をきちんと受けたことのない人たちだったからです。

 そう言う人たちにイエス様はわかりやすく、真理とは何かと言うことを語られました。では、現代の日本人の私たちにわかりにくいのはなぜ? それは、イエス様の生きていたユダヤ社会と私たちが生きている社会での慣習、文化、生活様式、風土、気候などが、違うからです。ですから、私たちは、あまり難しく考えすぎないように、ただ、イエス様の生きていた時代のことを理解しつつ、イエス様のおっしゃったことを考えてみましょう。

 マタイ5章1-12節は、イエス様がガリラヤでいちばん最初に弟子たちに教えられたことでした。(5:1&2)イエス様が最初に教えられたこと、それは、戒めでもなく、命令でもなく、「幸せ」についてでした。イエス様が教えられた「幸せ」は、神様から来ているものです。ですから、人間の社会的価値観とは違います。

 もし、私たちが「お金をたくさん持っていたら幸せ」「周りの人たちに認められる地位を持っていたら幸せ」「自分の好きなことが自由にできたら幸せ」と言う価値観を持っていたら、マタイ5章3-12節に書かれていることを理解することは、少しむずかしいかもしれません。

 今、「私たちが持っている、幸せの価値観」の他に「もっと幸せになれる価値観」が「神様の幸せの価値観」であることに目を留めることがこの聖書箇所の真意を理解するポイントです。そして、もちろん、神様が現代の私たちに送ってくださった聖霊様の助けにもよります。

 マタイ5章3節:「心の貧しい人々」とありますが、「心の弱い人々」と言い換えることができると思います。「なんで、自分は、こんなことができないんだろう(これを持っていないんだろう)?」と、弱さを覚えると同時に、自分の心の貧しさを感じることがあります。人間の社会的価値観に戻りますが、私たちには、囚われている既成概念(ステレオタイプ)があります。

 たとえば、「貧乏よりもお金持ちの方がいい」、「弱いよりも強い方がいい」そして、現実の自分を見ると、「もうちょっと、お金があれば・・・」、「もうちょっと、意志が強ければ・・・」、「もうちょっと、積極的だったら・・・」と思っていませんか? それは、神様が創ってくださった今の自分に感謝せずに生活している状況です。そして、そんな自分を不満に思ったり、否定してしまったりしますが、周りの人たちには、そんな風に思われたくないため、弱さを取り繕ったり、本当のことを言えなかったり、うそをついてしまったり。こう言った日常の出来事は、私たち本人が気づいていないことが多くあります。

 もし、そんな自分に気づいたら、落ち込まず、むしろ、私たちをよいことのために創造し、祝福してくださる神様に自分の弱さ、問題をお任せしましょう。人は、みな、どこか弱い部分を持っています。それは、その弱さゆえに神様を知ることができるからです。自分の弱さ(心の貧しさ)を知り、それを克服したいと願っても、自分の力ではどうすることもできないと気づいた人は、神様を求めます。そのことをイエス様は、マタイ5章3節で、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はそのひとたちのものである」とおっしゃったのです。


「悲しんでいる人」ってどう言う人?

 マタイ5章4節に「悲しむ人々」とありますが、悩み、悲しんでいる人々に対して、クリスチャンがよくしてしまう2つの間違いがあります。

①「どうして、こうしなかったの?」と言う。(本人はアドバイスのつもり)
②「ああ、大変ね。私にできることがあったら、何でも言ってね」と言って、悲しむ人の問題を肩代わりしようとする。(結局、本人も問題を追いきれず、投げ出してしまう)

 私たちは、自分の弱さ、特に犯してしまった罪に対して、受身であったり、他人任せであったりしては真の解決を見出すことは不可能です。聖書は弱さを自分で正そうとするのでもなく、他人に任せるのでもなく、弱さのためにキリストの力が発揮されると言っています。(Ⅱコリント12:9)自分の弱さ、悲しみに気づき、真正面から見据えた時、傲慢さや虚栄心は入り込む余地がなくなります。そして、私たちは、はじめて、神様の真理(御心に沿った悲しみ)を理解し、その悲しみのゆえに他の人の悲しみを理解することができる(2つの間違いを犯すことがなくなる)のです。

 マタイ5章5節:「柔和な人」は、前の3節、4節を経験し、神様の憐れみと恵みを真に願い求める人のことです。口先だけでもやさしい言葉を誰かにかけることができるかもしれません。ある時、誰かを助けることができるかもしれません。でも、それは、いつでも、誰にでもできるわけではありません。見せかけの優しさ、親切は、自分の状況次第で絶えず変わってしまいます。

 「いつも、優しく、穏やかな様子」でいるには、真意に基づいている必要があります。それでは、「真意」とは、何でしょう?優しさや穏やかさは、何が動機となって表れるのでしょうか?自分の名誉や地位、もしくは、他の人から良く思われたいと言う動機が優先していれば、真意は、「自分のためにしている」ことになります。

 でも、「自分の周りの人々を愛する」ことが動機であれば、真意は、「神様の御心に沿うもの」となります。真の「柔和さ」は、神様の御心に沿うものに基づいています。神様の御心、それは、やさしさであり、強さです。「愛と義」と言い換えることができます。ですから、真の柔和さ、「柔和な人」とは、神様の御心に沿った心を持ち、神様の御心に沿った行動をする人たちのことです。

 イエス様を救い主と信じ、そのような素晴らしい人生を歩んでみませんか?また、日々の信仰生活の中で葛藤を覚えているクリスチャンの方々、神様の恵みは、私たちが謙虚にそして具体的な願いを神様に祈り求める時に必ず与えられます。また、共に祈り、励まし合う、霊の家族もいます。益々、イエス様にあって豊かな人生を歩んでいきましょう!

神の思いと人の思い ヨブ 38:1-11

2007年11月18日 | Celebration
 「何故、人には苦しみがあるのか?」 そのテーマに対して、よく使われる聖書箇所が、今日のメッセージの「ヨブ記」です。「神様を信じていても、苦しみがあるのは、なぜ?」その不条理にも感じる質問に今日は、神様から明確な愛のお答えがあります!最初に田中啓介牧師は、「ヨブ記」の内容を簡単に説明してくださいました。

1、2章:「神とサタンとの会話」と「ヨブに降りかかった災難」
3-31章:「ヨブと友人の議論」
32-37章:「若者エリフの言葉」
38-41章:「神様の語りかけ」
42章:「結末」

 ヨブ記が書かれたのは、いつの時代か、その著者も不明です。そして、ヨブが生きていた時代もはっきりと特定できていません。しかし、ヨブは、ウツと言う地に住み、正しい人で、神様を畏れ、悪を避けて生きていました。そして、たくさんの財産を持ち、10人の子供がいました。神様は、そのヨブを「私の僕」とまで呼んでいました。(ヨブ1:1-4、8)そのヨブに突如、災難が降りかかります。ヨブの知らないところで、主とサタンの話し合いが行われています。(1:8-12)

神様:「お前は、ヨブに気づいたか?地上に彼ほど、正しく、神を畏れて生きている。」

サタン:「ヨブが利益もないのに、神様、あなたを敬うはずがありませんよ。神様、あなたが、彼の財産を守っているからです。彼の財産を取り上げてみなさい。彼は、面と向かってあなたを呪うに決まっています。」

神様:「それじゃあ、ヨブのものを一切、お前のいいようにしてみるがいい。」

 サタンは出て行って、ヨブの財産と10人の子供たちを取り上げます。しかし、ヨブは、このような時にも、神様を非難せず、罪を犯しませんでした。それを見て、神様とサタンは、再び会話をします。

神様:「私を唆そうとしても無駄だよ。ごらん、ヨブは無垢だ。」

サタン:「人間は、命のためだったら全財産を差し出すから、今度は、彼の健康を取り上げてみなさい。彼は、面と向かってあなたを呪うに決まっています。」

神様:「それじゃあ、お前のいいようにしてみるがいい。しかし、ヨブの命を奪ってはいけない。」

 サタンは、出て行って、ヨブの全身をひどい皮膚病にかからせます。ヨブの奥さんは、思い余って、こんなひどい目に遭っているのなら、神を呪って死んだ方がましだと彼に言います。それでも、ヨブは、悪口を言うような罪さえも侵しませんでした。そんな彼の災難を聞き、3人の友が見舞いに来ますが、ヨブのあまりにもひどい状況に声すらかけることができませんでした。そんな中、ヨブが嘆きの言葉を口にします。

 ヨブは、何に嘆いているのでしょうか?「何故、こんなひどいことが、自分の身に起こるのか?」と言うことでしょうか? 答えは、「No」です。ヨブの嘆きは、このような状況の中で、神様が自分に応えてくださらないことです。この世の地獄とは、「神との関係が断たれていること」なのです。

 第二次世界大戦中、強制収容所に収監されたユダヤ人たちの中で死の恐怖におびえながらも生き残った人たちは、神様に望みをおいて、毎日を送っていたと言う人々がほとんどだったそうです。それに対し、ヨブの三人の友人たちは、彼に「何か神に罪を犯したのか?」と言及します。この言及は、因果応報に基づいています。ヨブの時代にも、健康で、お金持ちで、子供がたくさんいることは、「神に祝福されている」と考えられており、逆に、病気で、貧乏で、子供がいないことは、「神に呪われている」と考えられてたからです。

 「何か悪いことが降りかかるのは、悪いことをしたから」この考え方は、どこの国の人々にも共通しています。しかし、これは、神様のお考えではなく、サタンの考えです。実際、ヨブの身の上に起きた出来事は、神様ではなく、サタンが引き起こしたことです。神様は、いつも私たちの弁護者です。それに反して、サタンは、いつも私たちの罪を言及し、私たちを罪悪感に陥れようとします。なぜなら、サタンは、私たちが神様から創られたものでありながら、神様から離れてしまったアダムとエバが犯してしまった罪(原罪)を持っていることをよく知っているからです。

 そんなヨブや私たちに神様は、なんとおっしゃっているでしょう?ヨブが語り尽くした(31:40)後、エリフと言う若者が登場します。神様は、ヨブが語り尽くすまで、最後までじっとヨブの言葉に耳を傾けておられました。そして、神様がヨブに語りかける前にエリフと言う若者をヨブに送られたのです。エリフのことは、ブズ出身でラム族のバラクエルの子と言う以外、詳しいことは書かれていませんが、「エリフ」とは、ヘブル語で「彼は神」と言う意味があります。「エリフ」は、ヨブが嘆きの中で欲していた「神様と自分との間に立ってくれる仲介人」(16:19)の象徴であり、それは、私たちのために与えられたイエス・キリストご自身です。ヨブの時代にもイエス様の存在がはっきりと表されているのです。

 そして、神様は、ヨブに語られます。「あなたは、正しい、しかし、その正しさは、神の前では、限りあるものである」と。ヨブは、決して罪を犯しませんでした。しかし、だからと言って、「ヨブが神様より正しい」と言うことにはなりません。そのことに対し、神様は、ヨブに問いかけます。(38:1-40:2)その問いかけにヨブは、自分の間違いに気づき、すぐに悔い改めます。(40:3-5)

 私たち、クリスチャンは、自分自身にいいことがあると、「神様の御心だ!」「神様、感謝します!」「ハレルヤ!」と、簡単に言うことができますが、自分自身に嫌なことがあると、神様に対して、怒りを感じたり、絶望したりします。物事を自己中心にしか見ることができないのは、ある意味、人間の限界です。しかし、神様との関係がより正しく、深いものに築かれていくと、私たちは、いつも神様にある平安の中で人生を歩んでいくことができます。

神様との関係を正しく、深く築くために必要な3つの点をヨブ記の神様の御言葉から見てみましょう。

1)ヨブ38:4:天地創造の際、人間は、塵から創られました。ヨブも言った様に私たちは、裸で生まれ、裸でこの世を去ります。この世で私たちが得ているものは、すべて神様からいただいたものです。私たちは、神様が支配されている中で生かされている存在です。

2)ヨブ38:5:人間には、それぞれ違う価値観を持っています。そして、その価値観で自分や人を計りますが、その計りは、人によって異なります。しかし、この世界は、神様の価値観で動いています。神様の価値観は完璧ですから、その価値観を知ることは私たちにとってとても必要であり大切なことです。

3)ヨブ38:6:私たちは、完璧ではありません。その私たちが自分を正しく保つこと(自己義認すること)は、不可能です。それゆえに神様は、私たちを愛するが故にイエス・キリスト様を私たちのために送ってくださり、イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかられ、死んでくださり、復活してくださいました。現在は、天に帰られたイエス様の代わりに、イエス様を信じる者たちに聖霊様を送ってくださり、私たちを守り、助け、祝福してくださっています。

この3つの点を生活の中で日々、実感して歩んでいきましょう!

今や、恵みの時、今こそ、救いの日 Ⅱコリント 6:1-10

2007年11月11日 | Celebration
 悩みの時、人は誰に相談するだろうか。私たちキリスト者には、日頃心を分かち合い、何でも相談できる霊の家族がいる。しかし、そういう人がいない時は?

 日本のマスメディアが、『相談したい有名人』というアンケート調査を行なった。俳優やスポーツ選手などの名前が挙がる中、堂々のトップ3に輝いたのはこの人々。第三位:細木和子さん、第二位:江原啓之さん、そして第一位:美輪明宏さん。彼らは日本の“スピリチュアル・リーダー”と呼ばれているのだ。人間にはスピリット『霊』があり、その導きが必要であることが認められている。それはクリスチャン人口1%以下の日本には喜ばしいことだろう。が、聖書はこう語る。

イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。(Ⅰヨハネ4:3)

 日本には『本音と建前』が横行する。それは教会内にすら、入り込んでいることがあるらしい。すると、心を分かち合うはずの霊の家族に本音を言えないと言う、悲しく愚かな結果となる。社会に於いてはもっと悲惨だ。外側から見ると、どのファシリティも快適さを追求し、100%どころか200%以上のサービスが『建前』を飾っている。

 しかし、その裏側で、汚職、殺人、傷害、自殺があふれ、人は周りに気ばかり遣って『本音』を出すことが出来ず、心をすり減らしている。しかし、日本人は自らが病んでいることをわかっていない。それはまさに黙示録にあるラオデキアの様子そのまま。裕福で、何一つ不足のなかったラオデキアの教会は、神様に何と言われたか。

あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。(黙示録3:17)

田中師は、日本人は自分は豊かだと思っていながら、絶えず7つのことに怯えていると言及する。それは・・・

①貧乏になること
②病気になること
③老いること
④立場を失うこと
⑤注目(愛)されなくなること
⑥批判されること
⑦死ぬこと。

 世界的標準から言えばはずっと裕福で、物が溢れている国に生きていようが、いつもこのような『恐れ』に縛られている人が豊かであろうはずがない。そんな人生こそ、建前人生以外の何ものでもない。それでは、本当に『豊か』であるとは、どういうことなのだろう?

 イエス様は山上の垂訓で開口一番こう仰った、「幸いなるかな、貧しき者よ!」。この意味を霊で知った時、私たちはイエス様と会うことができる。自分ではどうしようもない貧しさ、自力では満たすことの出来ない欠乏感、喪失感、心の穴を認めたその時、イエス様はその人の前に立ってくださるのだ。

 聖書に登場する貧しい人たち、サマリアの女、姦淫の女、長血の女など、誰にも助けてもらえず、相談もできず、苦しみ続けていた彼らは、イエス様と出会って無条件の愛を得、信仰、そして希望を手にした。苦しみの源であった罪を赦され、社会的、全人格的な癒しを受け、人生が根本から変えられたのだ。

 外観とは裏腹に貧しく、惨めで、哀れなラオデキアの教会に、神様は3つのものを得るように語られている。信仰を意味する『金』、愛によって結ばれる御霊の実を指す『白い衣』、そして希望である『目薬』だ。本当に豊かな人生に必要なものは、『信仰』と『希望』そして『愛』なのだ!

 神様が創られた霊的存在の人間が、苦しみを解決するに必要なものはこの3つだけ。これを説明できるのが、真のスピリチュアル・リーダーだ。そして、キリスト者はそれぞれがこの役目に任ぜられ、神様の前に生きていることを確信しよう。神様の前に生きるとは、一貫して本音で生きること。その時、神様の言葉も私たちの本音が受け取り、一元に生きる大切な姿勢を伝えることができるはずだ。

神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

一つの希望 エフェソ4:1-6

2007年11月04日 | Celebration
 「クリスチャンらしい」とは、何だろう。世間一般では、聖書を読み、祈り、礼拝に熱心に通い、嘘や悪口などは言わない、お酒も煙草も嗜まない、真面目で勤勉、すべての人を愛し、柔和で、やさしく。。。こんな品行方正、歩く道徳のように考えられているようだ。そして、そのように期待もされている。しかし、私たちを含む教会の中で、胸を張って「はい、わたしはそうです。」と答えられる人がいるだろうか。クリスチャンに限らず、この類のギャップを埋めようとする人は、「らしく」あろうと「ふり」をすることに頑張る。そしてその結果、どんどんと本来の「らしさ」から離れていく。「らしい」とは、「ふり」をすることではない。そんな鍍金(めっき)はすぐ剥がれる。キリスト者は100%純金なのだ。

 本日の聖書箇所に「らしく」するとは?の答えが第一節にある。何者であっても、その本分、そのものに本来備わっている性質になること、それにふさわしく歩むこと、この変わり具合こそが、「らしくある」ということだ。では、クリスチャンの本質は何か。力強く語られた。

『神様に愛され、共に永遠の命に生きる喜びの集団

 本質の核にある「喜ぶ」ことは、しようと思ってできることではない。では、どうするか。続く2節3節にこうある。一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。そこに見るのは、やはり自らつけようと思ってつけられるものではない御霊の実。クリスチャンにHow toはない。こうあるべきという心構えがあるわけでもない。ただすべきは、キリストに属するものとして愛による霊の一致を保つことである。

イエス・キリストが主であることを知る。
主の御心を知る福音理解力。
殉教をも恐れない宣教力。
主の愛に生きる一致の力。

 この4つの聖霊様による働きの中で、イエス様が私たちのために十字架にかかってくださってから今に至る二千年間にわたる教会(聖霊)時代において、教会が何によって失敗して来たかと言うと、実は愛による一致の力においてであった。私たちにとって最も困難であり、人間には不可能なほど難しい愛による一致。だから、イエス様が私たちに最後まで示し、命じられ、そして祈られた。そのために助け手として私たちに聖霊様を送ってくださった。だから、キリスト者にだけはそれが可能となった。神様から選ばれ、助け手である聖霊様が内住し、神様が愛してくれているキリスト者だけには。

からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。(エフェソ4:4-6 口語訳)

 ここに7つの“一つ”がある。完全なる“一つ”だ。私たちが一つの希望にあずかるようにと招かれていること、愛の一致を含めて完全になる。その一つの希望こそが、イエス・キリストにある喜び、永遠の命に生きている喜びだ。神様と一つになる至上の喜びだ。世の中には4つのパターンの人がいる。

① イエス・キリストを知らないが、真理を求めている人。
② イエス・キリストを知らず、真理も求めない人。
③ イエス・キリストを知っているが、愛していない、愛せない人。
④ イエス・キリストを知り、愛している人。

 愛が満ち満ちる天国は、④であるキリスト者のためにある。その本質にふさわしく歩むキリスト者のために。それには、自分の力、頑張り、努力に拠るのではない。ただ、どれだけ聖霊様に心を明け渡すか、喜びに向かって解放させるか、それだけなのだ。