「柔和な人」ってどういう人?
三省堂の新明解国語辞典で調べてみると、「柔和」とは、「優しくて穏やかな様子」とあります。周りを見回すと、この忙しい世の中、また「師走」と言われる、12月が近づく今日この頃、「柔和な人」は、なかなか見あたりません。(自分がいちばん柔和からかけ離れているせい?)今日のメッセージは、マタイ5章1-12節の箇所からイエス様がおっしゃる「柔和な人」について共に分かち合いたいと思います。
このマタイ5章1-12節は、教会の礼拝や聖書の学びの会などで、「山上の垂訓」と呼ばれている有名な箇所です。簡単に言えば、「イエス様がお山の上でお話されたこと」です。「山上の垂訓」なんて難しい言葉を使われていますが、イエス様がお話されていることはとても簡単です。なぜなら、イエス様のお弟子さんたちは、ガリラヤ湖で漁師をされていた人たちがほとんどでしたし、イエス様のお話を聞きに来た多くの人たちは、ほとんど字の読めない、教育をきちんと受けたことのない人たちだったからです。
そう言う人たちにイエス様はわかりやすく、真理とは何かと言うことを語られました。では、現代の日本人の私たちにわかりにくいのはなぜ? それは、イエス様の生きていたユダヤ社会と私たちが生きている社会での慣習、文化、生活様式、風土、気候などが、違うからです。ですから、私たちは、あまり難しく考えすぎないように、ただ、イエス様の生きていた時代のことを理解しつつ、イエス様のおっしゃったことを考えてみましょう。
マタイ5章1-12節は、イエス様がガリラヤでいちばん最初に弟子たちに教えられたことでした。(5:1&2)イエス様が最初に教えられたこと、それは、戒めでもなく、命令でもなく、「幸せ」についてでした。イエス様が教えられた「幸せ」は、神様から来ているものです。ですから、人間の社会的価値観とは違います。
もし、私たちが「お金をたくさん持っていたら幸せ」「周りの人たちに認められる地位を持っていたら幸せ」「自分の好きなことが自由にできたら幸せ」と言う価値観を持っていたら、マタイ5章3-12節に書かれていることを理解することは、少しむずかしいかもしれません。
今、「私たちが持っている、幸せの価値観」の他に「もっと幸せになれる価値観」が「神様の幸せの価値観」であることに目を留めることがこの聖書箇所の真意を理解するポイントです。そして、もちろん、神様が現代の私たちに送ってくださった聖霊様の助けにもよります。
マタイ5章3節:「心の貧しい人々」とありますが、「心の弱い人々」と言い換えることができると思います。「なんで、自分は、こんなことができないんだろう(これを持っていないんだろう)?」と、弱さを覚えると同時に、自分の心の貧しさを感じることがあります。人間の社会的価値観に戻りますが、私たちには、囚われている既成概念(ステレオタイプ)があります。
たとえば、「貧乏よりもお金持ちの方がいい」、「弱いよりも強い方がいい」そして、現実の自分を見ると、「もうちょっと、お金があれば・・・」、「もうちょっと、意志が強ければ・・・」、「もうちょっと、積極的だったら・・・」と思っていませんか? それは、神様が創ってくださった今の自分に感謝せずに生活している状況です。そして、そんな自分を不満に思ったり、否定してしまったりしますが、周りの人たちには、そんな風に思われたくないため、弱さを取り繕ったり、本当のことを言えなかったり、うそをついてしまったり。こう言った日常の出来事は、私たち本人が気づいていないことが多くあります。
もし、そんな自分に気づいたら、落ち込まず、むしろ、私たちをよいことのために創造し、祝福してくださる神様に自分の弱さ、問題をお任せしましょう。人は、みな、どこか弱い部分を持っています。それは、その弱さゆえに神様を知ることができるからです。自分の弱さ(心の貧しさ)を知り、それを克服したいと願っても、自分の力ではどうすることもできないと気づいた人は、神様を求めます。そのことをイエス様は、マタイ5章3節で、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はそのひとたちのものである」とおっしゃったのです。
「悲しんでいる人」ってどう言う人?
マタイ5章4節に「悲しむ人々」とありますが、悩み、悲しんでいる人々に対して、クリスチャンがよくしてしまう2つの間違いがあります。
①「どうして、こうしなかったの?」と言う。(本人はアドバイスのつもり)
②「ああ、大変ね。私にできることがあったら、何でも言ってね」と言って、悲しむ人の問題を肩代わりしようとする。(結局、本人も問題を追いきれず、投げ出してしまう)
私たちは、自分の弱さ、特に犯してしまった罪に対して、受身であったり、他人任せであったりしては真の解決を見出すことは不可能です。聖書は弱さを自分で正そうとするのでもなく、他人に任せるのでもなく、弱さのためにキリストの力が発揮されると言っています。(Ⅱコリント12:9)自分の弱さ、悲しみに気づき、真正面から見据えた時、傲慢さや虚栄心は入り込む余地がなくなります。そして、私たちは、はじめて、神様の真理(御心に沿った悲しみ)を理解し、その悲しみのゆえに他の人の悲しみを理解することができる(2つの間違いを犯すことがなくなる)のです。
マタイ5章5節:「柔和な人」は、前の3節、4節を経験し、神様の憐れみと恵みを真に願い求める人のことです。口先だけでもやさしい言葉を誰かにかけることができるかもしれません。ある時、誰かを助けることができるかもしれません。でも、それは、いつでも、誰にでもできるわけではありません。見せかけの優しさ、親切は、自分の状況次第で絶えず変わってしまいます。
「いつも、優しく、穏やかな様子」でいるには、真意に基づいている必要があります。それでは、「真意」とは、何でしょう?優しさや穏やかさは、何が動機となって表れるのでしょうか?自分の名誉や地位、もしくは、他の人から良く思われたいと言う動機が優先していれば、真意は、「自分のためにしている」ことになります。
でも、「自分の周りの人々を愛する」ことが動機であれば、真意は、「神様の御心に沿うもの」となります。真の「柔和さ」は、神様の御心に沿うものに基づいています。神様の御心、それは、やさしさであり、強さです。「愛と義」と言い換えることができます。ですから、真の柔和さ、「柔和な人」とは、神様の御心に沿った心を持ち、神様の御心に沿った行動をする人たちのことです。
イエス様を救い主と信じ、そのような素晴らしい人生を歩んでみませんか?また、日々の信仰生活の中で葛藤を覚えているクリスチャンの方々、神様の恵みは、私たちが謙虚にそして具体的な願いを神様に祈り求める時に必ず与えられます。また、共に祈り、励まし合う、霊の家族もいます。益々、イエス様にあって豊かな人生を歩んでいきましょう!
三省堂の新明解国語辞典で調べてみると、「柔和」とは、「優しくて穏やかな様子」とあります。周りを見回すと、この忙しい世の中、また「師走」と言われる、12月が近づく今日この頃、「柔和な人」は、なかなか見あたりません。(自分がいちばん柔和からかけ離れているせい?)今日のメッセージは、マタイ5章1-12節の箇所からイエス様がおっしゃる「柔和な人」について共に分かち合いたいと思います。
このマタイ5章1-12節は、教会の礼拝や聖書の学びの会などで、「山上の垂訓」と呼ばれている有名な箇所です。簡単に言えば、「イエス様がお山の上でお話されたこと」です。「山上の垂訓」なんて難しい言葉を使われていますが、イエス様がお話されていることはとても簡単です。なぜなら、イエス様のお弟子さんたちは、ガリラヤ湖で漁師をされていた人たちがほとんどでしたし、イエス様のお話を聞きに来た多くの人たちは、ほとんど字の読めない、教育をきちんと受けたことのない人たちだったからです。
そう言う人たちにイエス様はわかりやすく、真理とは何かと言うことを語られました。では、現代の日本人の私たちにわかりにくいのはなぜ? それは、イエス様の生きていたユダヤ社会と私たちが生きている社会での慣習、文化、生活様式、風土、気候などが、違うからです。ですから、私たちは、あまり難しく考えすぎないように、ただ、イエス様の生きていた時代のことを理解しつつ、イエス様のおっしゃったことを考えてみましょう。
マタイ5章1-12節は、イエス様がガリラヤでいちばん最初に弟子たちに教えられたことでした。(5:1&2)イエス様が最初に教えられたこと、それは、戒めでもなく、命令でもなく、「幸せ」についてでした。イエス様が教えられた「幸せ」は、神様から来ているものです。ですから、人間の社会的価値観とは違います。
もし、私たちが「お金をたくさん持っていたら幸せ」「周りの人たちに認められる地位を持っていたら幸せ」「自分の好きなことが自由にできたら幸せ」と言う価値観を持っていたら、マタイ5章3-12節に書かれていることを理解することは、少しむずかしいかもしれません。
今、「私たちが持っている、幸せの価値観」の他に「もっと幸せになれる価値観」が「神様の幸せの価値観」であることに目を留めることがこの聖書箇所の真意を理解するポイントです。そして、もちろん、神様が現代の私たちに送ってくださった聖霊様の助けにもよります。
マタイ5章3節:「心の貧しい人々」とありますが、「心の弱い人々」と言い換えることができると思います。「なんで、自分は、こんなことができないんだろう(これを持っていないんだろう)?」と、弱さを覚えると同時に、自分の心の貧しさを感じることがあります。人間の社会的価値観に戻りますが、私たちには、囚われている既成概念(ステレオタイプ)があります。
たとえば、「貧乏よりもお金持ちの方がいい」、「弱いよりも強い方がいい」そして、現実の自分を見ると、「もうちょっと、お金があれば・・・」、「もうちょっと、意志が強ければ・・・」、「もうちょっと、積極的だったら・・・」と思っていませんか? それは、神様が創ってくださった今の自分に感謝せずに生活している状況です。そして、そんな自分を不満に思ったり、否定してしまったりしますが、周りの人たちには、そんな風に思われたくないため、弱さを取り繕ったり、本当のことを言えなかったり、うそをついてしまったり。こう言った日常の出来事は、私たち本人が気づいていないことが多くあります。
もし、そんな自分に気づいたら、落ち込まず、むしろ、私たちをよいことのために創造し、祝福してくださる神様に自分の弱さ、問題をお任せしましょう。人は、みな、どこか弱い部分を持っています。それは、その弱さゆえに神様を知ることができるからです。自分の弱さ(心の貧しさ)を知り、それを克服したいと願っても、自分の力ではどうすることもできないと気づいた人は、神様を求めます。そのことをイエス様は、マタイ5章3節で、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はそのひとたちのものである」とおっしゃったのです。
「悲しんでいる人」ってどう言う人?
マタイ5章4節に「悲しむ人々」とありますが、悩み、悲しんでいる人々に対して、クリスチャンがよくしてしまう2つの間違いがあります。
①「どうして、こうしなかったの?」と言う。(本人はアドバイスのつもり)
②「ああ、大変ね。私にできることがあったら、何でも言ってね」と言って、悲しむ人の問題を肩代わりしようとする。(結局、本人も問題を追いきれず、投げ出してしまう)
私たちは、自分の弱さ、特に犯してしまった罪に対して、受身であったり、他人任せであったりしては真の解決を見出すことは不可能です。聖書は弱さを自分で正そうとするのでもなく、他人に任せるのでもなく、弱さのためにキリストの力が発揮されると言っています。(Ⅱコリント12:9)自分の弱さ、悲しみに気づき、真正面から見据えた時、傲慢さや虚栄心は入り込む余地がなくなります。そして、私たちは、はじめて、神様の真理(御心に沿った悲しみ)を理解し、その悲しみのゆえに他の人の悲しみを理解することができる(2つの間違いを犯すことがなくなる)のです。
マタイ5章5節:「柔和な人」は、前の3節、4節を経験し、神様の憐れみと恵みを真に願い求める人のことです。口先だけでもやさしい言葉を誰かにかけることができるかもしれません。ある時、誰かを助けることができるかもしれません。でも、それは、いつでも、誰にでもできるわけではありません。見せかけの優しさ、親切は、自分の状況次第で絶えず変わってしまいます。
「いつも、優しく、穏やかな様子」でいるには、真意に基づいている必要があります。それでは、「真意」とは、何でしょう?優しさや穏やかさは、何が動機となって表れるのでしょうか?自分の名誉や地位、もしくは、他の人から良く思われたいと言う動機が優先していれば、真意は、「自分のためにしている」ことになります。
でも、「自分の周りの人々を愛する」ことが動機であれば、真意は、「神様の御心に沿うもの」となります。真の「柔和さ」は、神様の御心に沿うものに基づいています。神様の御心、それは、やさしさであり、強さです。「愛と義」と言い換えることができます。ですから、真の柔和さ、「柔和な人」とは、神様の御心に沿った心を持ち、神様の御心に沿った行動をする人たちのことです。
イエス様を救い主と信じ、そのような素晴らしい人生を歩んでみませんか?また、日々の信仰生活の中で葛藤を覚えているクリスチャンの方々、神様の恵みは、私たちが謙虚にそして具体的な願いを神様に祈り求める時に必ず与えられます。また、共に祈り、励まし合う、霊の家族もいます。益々、イエス様にあって豊かな人生を歩んでいきましょう!