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人生で一番大切なものは「命」ではなく、「使命」である。「命」はその「使命」を果たすために与えられた時間のこと。
「幸福」とは、その使命に殉じて生きている時に自然と湧き上がる充足感のことであり、「幸福」そのものが人生の目的ではない。
従って、求めるべきものは、人生の「幸福」ではなく、人生の「使命」。
人生に必要な「4つの<し>」を合わせれば,必然的に「しあわせ(幸せ)」は生まれる!
エンジェル師によるクリスチャン人生指南の真骨頂!
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日本人の祈りは、家内安全、無病息災、商売繁盛に要約される。つまり災いに遭わず、健康で、お金に困らないこと、それが日本人の考える「幸せ」だ。では例えば、最近流行のAKB48の親衛隊活動に夢中になっているお父さん。顔の色艶良く、追っかけできるほど金銭的時間的余裕がある。好きなことに熱中して、災いなど感じない。しかし、そこに人生を賭ける自分の父親をほんとうに「幸せ」と言えるだろうか。本人が満足ならよい?それは他人だから言えることであって、身内に対しては言えるはずなどない。では「幸せ」とは何か。
聖書が語る「幸せ」は聞いてびっくり、愕然とするものだ。イエス様は開口一番こう仰った。「幸いなるかな、貧しき者よ!悲しむ者よ!」初めて聞く人には、時には何度聞いても理解できないだろう。なぜお金がなくて幸いなのか。なぜ災いなどに苦しみ悲しんで幸いなのか。日本人の祈りの真逆と言って良い内容だ。それは、日本人の祈りが表面的な現象を整えるものに過ぎないからだ。人生には絶えず問題がある。大なり小なり、健康、金銭、人間関係諸々について問題がある。その問題と思っていることは、実は問題の基にある原因によって発する現象の数々なのだ。原因を見ることなく、現象にのみ囚われてあたふたし、基を断つことなく、続く表層現象に追われて対応している。ここに根本的な解決への途はなく、現象がなくなることもない。そして真の解決に至らなければ、最終的にはすべての人に定められた「死」によってすべての現象は終わる。聖書は語る。
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「死」について尋ねると、およそ次の4つの反応が返ってくる。①縁起が悪いから考えない
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幸せに導かれるクリスチャンの使命には、何が必要か、を4つの「し」として語られた。
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真理とは、揺らぐことのない物事の根本原理のこと。真実とは、真理によって実際に起こされる事実のこと。嘘でない人生を築くには、確固たる真理が先ず必要である。真理とは、御言葉通りイエス・キリストに他ならない。イエス様を自分の人生の内に受け入れる時、幸せへの一歩を進み出す。
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弟子とは、御言葉を正しく理解し、御言葉を実生活に応用させて生き、そこに実際的な解放が起きていることを見る人。イエス様を信じるとは、知識として知るとか、感情で慕うことではない。人生の主(キュリオス)とすること。主とは、生活のすべてを完全に抑えている人であり、初代教会時代にはローマ皇帝を指していた。大衆が皇帝に平伏す中で「わが主はイエス様のみ!」と叫び、その通り従い続けたのがクリスチャン。クリスチャンは、イエス様を自分の人生の主権者としている人。その時、イエス様の弟子として、主の御業が始まるのだ。
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信仰とは、本来勉強するものではない。信仰とは、聖書の言葉をただ信じること。「聖書はこう書いてあるけど、、、でもねぇ。」とよく言ってしまう。それは、「この件については聖書より私の考えが正しい。」という自己主張だ。まず、聖書の言葉を信じる信仰に戻る。そして信仰が確立していくのだ。「幸いなるかな、貧しき者よ!悲しむ者よ!」間違えてはならない。イエス様は、貧しさや悲しさを幸いと仰ったのではない。神様からは悪いものは何も出ない。悪い局面にある時、それらに対する信仰的決断と能動的対応を求められる。その決断と対応が幸いなのだ。信仰とはしがみつくことではなく、信頼すること。母猿のお腹にしがみつく子ザルのようではなく、母ネコにくわえられて運ばれる子猫のような「ネコ型信仰」。決して落とさない父なる神様に信頼し、御言葉に従って生きることこそ、幸いへと導かれていく。
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ヘブル語で平和を意味する「シャローム」には、心の安らぎ以上に、幸せな良い実際の暮らしというような、生活に根ざした安らぎを意味する。つまり、神様と共に生きることによって生まれる心の平安が、個人のみならず、家庭、教会、社会、世界に実質的に生み出す現実的な働き、真理による真実が、シャロームなのだ。また、ギリシャ語の平和は、「エイレーネー」という言葉だが、これは当時の社会背景も重なり、戦争と戦争の間で戦いがない状態を指す。
聖書では、この「シャローム」と「エイレーネー」が合わさって、人と人、人と神との間に敵対関係がないことによって生まれる心の状態と平和な生活という意味を含んでいる。精神的状態ばかりでなく、実質的な生活においても平穏である状態。イデオロギーや方法論では、真の平和は生まれない。だからクリスチャン一人一人は、出て行って福音を伝え、弟子を作り、真の平和の王であるイエス・キリストの証をし続け、「シャローム」を広げていく。方法はそれぞれ違えども、これを社会に対して示すことがクリスチャンの使命だ。
4つの「し」=「しあわせ」の歩みは小さく、目標達成に程遠いように見える。しかし、リバイバルは想定外の出来事だ。あの地震と津波が、人間の予想を超えたものであったように。アブラハムへの約束は常識を遥かに超えていたものであったように。しかしそれは必ず来る、と聖書は語る。極小に見える「シャローム」の営みが、神様の偉大な全人類救済計画に加わえられ、一人一人が用いられる。ハドソン・テーラーは、「枝になりきることが本望。伝道生活の実現はこれだ。」と言った。枝には枝にしかできない使命がある。
真理であるイエス様を人生の主とし、真実の御言葉に信頼し、「シャローム」を実現させる。それが迫り来るリバイバルに対する実際的な準備、神様の道を備えることなのだ。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
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