Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

黙示録講解説教 Vol-3 2:1-7

2009年12月27日 | Celebration
 黙示録講解説教、「恵みの書簡」、「呼びかける声」に続く第三弾、「祈り、改め、燃える!!」2009年最後の礼拝は、黙示録第二章、七つの教会へ宛てた手紙に入って行きます。7つの教会に宛てられた手紙の中の最初の書簡、「エフェソ教会」に宛てられた手紙から神の御言葉を聞きます。

 先ず、七つの教会への書簡全体について、少しお話します。黙示録の7つの教会への手紙は、7つの教会すべてが観覧するように宛てられた公同書簡です。黙示録を構成する「7」という数字は、完全数を意味しており、7つの教会とは、地上の存在する全ての教会を指しています。

 エフェソ、スミルナ、ペルガモ、ティアティラ、サルデス、フィラデルフィア、そしてラオデキアの教会は、当時ヨハネがこの手紙を書いたAD90年頃に、西アジア地方に実際に存在していた教会であり、二千年に亘る教会時代の各時代の教会の象徴であり、そして、今現在存する全ての教会のプロトタイプでもあります。

 つまり、Good News Stationもこの7つの教会のいずれかに当てはまるわけです。私たちはこの黙示録を、神様からGood News Stationに宛てられた手紙として、真摯に受け取り、そのメッセージに耳をすませなければなりません。

さて、この7つの書簡は、以下の7つの内容で構成されています。

受信者
 7つの書簡は全て、「~の教会にある天使にこう書き送れ。」という文頭で始まっています。各教会には、神の使信を伝える「天使」が存在していることが分かります。

送信者
 これらの手紙の差出人であるイエス・キリストの権威の表明です。

霊的状態
 イエスは、「わたしは知っている」と、全ての教会の霊的状態を明らかにされます。

賞賛と叱責
 イエスは、各教会の霊的状態に対して、賞賛し、叱責されます。7つの教会の内、スミルナとフィラデルフィアは賞賛され、エフェソ、ペルガモ、ティアティラ、サルデスの4つは賞賛と叱責の両方があり、ラオデキアは叱責のみで、一つも誉められていません。このラオデキアの教会が、現代を象徴している教会です。

再臨の勧告
 イエスは「わたしは来る」という約束通り、もう一度、この地上に戻って来られます。

“霊”が告げることへの勧告
 「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」この言葉は、7つの教会への手紙の最後に全て記されています。「耳ある者」とは、神の御旨を求め、聞き従う者のことです。教会にけるクリスチャンの言動・活動は、各自の自由意志に任されているのです。

勝利者への約束
 神の御声に聞き従った者(勝利者)への報酬の約束が、最後に記されています。


 当時のエフェソは、シリアのアンティオケ、エジプトのアレキサンドリアと並ぶ、地中海地域の三大都市の一つでした。パウロが三年間滞在して造り上げたエフェソ教会は、当時の西アジア地方(現在のトルコ)に点在していた諸教会のヘッドであり、最も成熟した大人の教会であるエフェソ教会に、主はこう語られました。

 祈り
 イエスは、それぞれの教会の業を全て知っておられ、「耳のある者は聞きなさい」と、勧告しておられます。教会はイエス・キリストの身体であり、私たちはその肢体です。しかし、神は私たちをロボットではなく、自由意志を持った存在としてお創りになられました。私たちの行動は全て、私たちの自由意志に任されているのです。では、どうしたら私たちは神の意志を知り、それに従うことが出来るのでしょうか?それは、「祈り」しかありません。私たちは日々の祈りによって、神との交信を深めて行く必要があります。

 改め
 人間的に見れば非の打ちどころのないエフェソ教会に対し、イエスは、「初めの愛に立ち返りなさい」と叱責されています。イエスは、スミルナとフィラデルフィア以外の教会に全て、「悔い改め」を求められています。何故なら、愛のない教会、つまり、神の臨在のない教会は、もはや教会ではないからです。私たちもいつか、神の裁きの座に立たされ、「あなたは今までの人生で、どれだけ私の愛を学びましたか?」と、問われる時が来るのです。

 燃える
 現在の教会と、エフェソ教会に象徴される初代教会との最も大きな違いは何でしょう? それは、「主の再臨を待ち望む熱い心」です。私たちは、イエスと会えるのは死後だと考えていますが、初代教会の人たちは、この地上でイエスと再会することを、燃えるような希望を持って切望していました。常に主イエスと向かい合って生きているアリティ溢れる再臨願望。そんな生き生きとした信仰を、日々の生活において体現化すること。それが、私たちが黙示録を学ぶ目的なのです。(睦美)


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Realistic Nativity ルカ 2:1-20

2009年12月20日 | Celebration
Merry X’mas! この“X”はどんな意味があるのかご存知ですか? この文字は、ギリシャ語のX(キィ)と言います。“ΙΧΘΥΣ”という文字に見覚えありませんか?この文字を魚の形で囲めばお分かりになられるかも知れませんね。これはギリシャ語でイクトゥス「さかな」と言う意味で、このイクトゥスの頭文字がそれぞれ、『イエス、キリスト、神の、子、救い主』と言う意味になるので、2000年前、激しい迫害の中にあったクリスチャンたちの暗号だったのです。つまり、“X”とは、キリストの頭文字のことなのです。ところで、聖書は決して、伝説でも御伽噺でもなく、聖書に登場する人物は、全て歴史上に実在した人物であり、書いてあることは全て歴史上の事実です。今日は、イエス・キリスト誕生秘話に迫ります。


キリストが生れた時代背景

 今から約2000年前、ローマの初代皇帝アウグストゥス(オクタビアヌス)の時代にイエスは生まれました。旧約聖書の最後の書であるマラキから既に400年が経過しており、当時のユダヤ社会は、強力なリーダー不在、相変わらず他国の侵略を受け続けていました。ユダヤ社会は、パリサイ派(律法至上主義)、サドカイ派(新ローマ)、ゼロータイ派(反ローマ)、エッセネ派(反社会)の大きく4つに分かれていましたが、一般の人々にとって、この4つの派閥はどれも彼らの心の支えにはならず、彼らはもっぱらオカルト、星占い、魔術といったものに支配されていました。そのような混沌とした時代にイエス・キリストはお生まれになりました。

 預言されていたキリストの出生地

 ヨセフとマリアは、ガリラヤ地方にあるナザレと言う町の住人でしたが、ローマ皇帝の命令で、人口登録をするために、ヨセッフの出身地であるベツレヘムまで行かなければなりませんでした。当時はローマの独裁政治下で、命令に従わなけ即牢獄、殺されても文句は言えませんでした。大きなお腹を抱えたマリアとヨセフは、仕方なくベツレヘムへと向いました。これは、救い主がベツレヘムで生まれると言う預言が成就されるためでした。(ミカ書5:1、イザヤ9:1-6)

キリストが生れた状況

 イエスは旅の途中で、当時家畜を飼うために掘られた洞窟の中で生まれました。初めての出産が、何の準備もない洞窟とはどれほど大変なことだったでしょうか。しかし、聖書には、その出産がどれほど大変だったかと言うようなヒューマニズム的なことは一切書かれていません。イエス・キリストは、生まれた赤ちゃんが死なないぎりぎりの状態で生まれました。おそらく洞窟に置いてあった死体を包む亜麻布にくるまれ、石の飼い葉桶(石棺)に寝かされていたイエスは、正に私たちのために死ぬために、この世に来られのです。

この世の救世主がなぜ洞窟に?

 神の子であるイエスは洞窟の中で生まれました。それは、誰もがイエスに会えるためでした。もし、イエスが王宮とか神殿で誕生していたとしたら、限られた人としか会うことが出来なかったでしょう。しかし、洞窟のイエスに会いにくい人もいますよね。それは、地位とか名誉のある人たち。そんな寒くて汚くて、狭い場所には、身を低くして謙遜にならなければ、入ることは出来ません。人間にとっての極限状況の辛さを知っておられるイエスは、どのような人をも慰め、励ますことがお出来になる方です。誰からも理解してもらえない辛さ、助けてもらえない辛さ、人間の弱さ、痛み、悲しみを分かち合うために、自ら最低の状況の中で生れてくださったのです。

天使は羊飼いに現われた

 天使たちは何故、メシア来臨を持ち望んでいたはずの、ユダヤ人の律法学者たちにではなく、無学で貧しい羊飼いたちの前に現れたのでしょうか?当時、羊飼いは最低の仕事であり、裁判の証人としての資格もありませんでした。彼らは、年中無休で神を安息日を守れないため、救いの対象外とされていました。その羊飼いたちの前に天使が現れたのです。つまり、キリストは、当時、救いの圏外と言われていた人たちをも救うために来られた救世主です。イエス・キリストの救いは、全人類のものなのです。

救い主は信じる必要がある

 天使は羊飼いに現れ、マリアのところには現れませんでした。もし、マリヤの出産の周囲に、光り輝く天使たちが囲んでいれば、誰だってイエスが神の子だと分かるでしょう。ですが、そうなると、人々は信じる必要がなくなってしまいます。羊飼いたちの話を聞いて、人々は不思議に思い、マリアはこれらの出来事を心に納めました。イエス・キリストがメシアであることは、信じる必要があるのです。


イエスはもう一度この地上に来られます。その時、この地上は、イエスを救い主と信じる人と、信じない人との二つに分割されます。クリスチャンの方は、どうぞこの羊飼いから学んで下さい。羊飼いたちは、“行って”、“探し当て”、“事実を見て”それを“人々に知らせました”。これがキリストを必要としている人の行動パターンです。この羊飼いたちは、私たちクリスチャンのモデルなのです。

 本当は、キリストを必要としていない人などこの世には一人もいません。彼らは、キリストが必要であるということに気付いていないだけなのです。どうぞ身を低くして、何故、こんな最低限の状況の中でイエスがお生れになったのか?ということを考えて見てください。それはあなたのためだったのです。どうぞ謙虚になって、このイエスの愛をお受け取りになってください。心からお勧めします。(明子)


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羊と羊飼い 田畑彰師

2009年12月13日 | Celebration
 主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ
 主はわれをみどりの野にふさせ 憩いの汀に伴いたもう
 主はわが魂を活かし 御名のゆえもて、われを正しき道に導きたもう
 たといわれ死の陰の谷をあゆむとも 禍を恐れじ
 汝我と共にいませばなり 汝の笞、汝の杖、われをなぐさむ
 汝、わが仇のまえに わがために宴をもうけ わが頭に油を注ぎたもう
 わが酒杯はあふるるばかりなり
 わが世にあらんかぎりは、かならず恵みと哀れみと我にそいきたらん
 われはとこしえに主の宮に住まん (詩編23章・文語訳)


 数ある詩編の中でも、最も多くの人々に愛唱されている詩の一つです。私がこの詩を知ったのは、ずっと昔に通っていたYWCAでのこと。それから長い時が経ち、聖書を読むようになり、クリスチャンになって何年かが過ぎ、そして今日始めて、この詩編23篇からのメッセージを聞きました。

 「もし羊が人間に出会っていなかったら、羊は疾うの昔にこの地上から姿を消していただろう」『羊飼いが見た詩篇23篇』を著したフィリップ・ケラー氏は、羊の特性をまとめて評した言葉だそうです。今日は田畑牧師が22項目に亘って、羊の致命的特性と、それを護る良き羊飼いの特性を対比してリストにしてくださいました。

 聖書では、神様と人間との関係が、羊飼いと羊に喩えられています。招詞だったヨハネ10章でイエス様はその関係を丁寧に語ってくださいましたが、旧約時代であっても、あまりにも有名な詩篇23以外にも、探せばあちらこちらにその関係が記されています。

あなたはモーセとアロンの手をとおして羊の群れのように御自分の民を導かれました。(詩編77:21)

神は御自分の民を羊のように導き出し 荒れ野で家畜の群れのように導かれた。(詩編78:52)

わたしたちはあなたの民 あなたに養われる羊の群れ。とこしえに、あなたに感謝をささげ 代々に、あなたの栄誉を語り伝えます。(詩編79:13)

イスラエルを養う方 ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ 御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください。(詩編80:2)

主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。(詩編95:7)

知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。(詩編100:3)

 これら以外にも、詩篇を謳ったダビデが登場するⅠサムエル17章、そして羊を飼う者への警告であるエゼキエル34章。イスラエルという遊牧民族の背景を100%知ることはできなくても、今日教えていただいた羊と良き羊飼いの特性を知ることで、ますます神様との愛すべき関係が顕著に表われていることがわかりました。

 更に、先生がご専門のユダヤ的見地からの聖書の御言葉解釈をすると、この詩篇23篇のすべての言葉に守り、満足、休息、平安、慰め、修練、回復、喜び、愛などの聖書的キーワードが散りばめられているそうです。そして良き羊飼いは、従う羊たちを黙示録の以下の預言に導いていくのです。

玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく ぬぐわれるからである。(黙示録7:17)

 最後に、この2節にある羊が究極的に「休む(伏す)」ための4つのポイントを話されました。

(1) 恐怖心がない。
(2) 他の羊と和合している。
(3) ハエや寄生虫などがいなく、健康である。
(4) 満腹である。

 どれも永遠の休息のために大切だ、とわかります。しかし実際には、恐怖の原因となる問題を手放すことができず、自己中心を振り回して和合に至らず、敢えて汚いところへ居座り続け、命の糧である御言葉を得ようとしていない自分がいます。まず、自分が抱えているもの、自分の心に満ちているものを空にすることが必要です。心が古く不要なもので溢れていれば、新しくほんとうに必要なものが注がれる余地がありません。

 今の自分で十分だから「われ乏しきことあらじ」なのではなく、この23篇を切々と歌い上げたダビデのように、何もかも失い、悲哀と孤独の極みの中でなお神様の導きと助けに依り頼んで、その希望を持って「われ乏しきことあらじ」を歌うのです。いつでも羊を見つめ、羊よりも羊を知り、羊の満足を喜ぶ良き羊飼いの手を確かに感じることができるのは、倒れてしまった時、再び立ち上がるようにしてもらうその時なのですから。(睦美)



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心の一新 ローマ 12:1-2

2009年12月08日 | Celebration
 今年もあと一ヶ月を切りました。日本の旧暦で12月を『師走』と言います。「牧師(本当はお坊さん)が走る」と書いて「師走」と読みますが、読んで字の如く、この月は、仕事上の決済とか、会社上の付き合いだとか、家の大掃除とか、クリスマスカードとかプレゼントなどなど・・・、とにかく何かと慌しい月ですね。

 では、子供たちにとって12月はどんな月でしょうか? 子供たちには、仕事や付き合い、日常の雑事など関係ありません。12月は、クリスマス・プレゼントがもらえ、ケーキやご馳走をたくさん食べることが出来るとても楽しい月です。私たち大人にとっては「慌しい月」。子供たちにとっては「楽しい月」。それは、私たちが12月に対して持っているイメージの違いから来ています。

 実は、私たち人間の行動は、環境によって変わるのではなく、自分たちが持っている物事に対する理解によって変わるのです。たとえば、今皆さんとこうして教会で礼拝をしているわけですが、教会の礼拝を、皆さんがどのように理解しておられるかによって、礼拝に対する皆さんの行動は変わって来ます。

 「礼拝は、神様が私に生きた御言葉を語って下さる貴重な時」 という理解の人は、多少の障害があっても、教会に来ることを第一優先にするでしょう。「礼拝は、田中牧師の面白い話し」 という理解の人は、来られる時は来ますが、何か他に用事がある時は来ません。「礼拝は、堅苦しい宗教の話し」 という理解の人は、最初から教会などには来ませんよね。もし、今日の朝10時に、Good News Station にイエス・キリストが来られて、メッセージを語られる としたら、皆さんはどうされますか? 万難を排してでも、教会に来られますね。遅刻する人など絶対にいないはずです。

 お分かりでしょうか? そのように、礼拝に対する皆さんの「理解」が、皆さんの礼拝に対する「言動」を決めているのです。ですから、私たちの人生において、物事に対する正しくバランスの取れた理解がどれほど重要なのかということです。私たちの物事に対する理解が前向きになれば、私たちの言動は、前向きになり、私たちの言動が前向きになれば、私たちの人生が前向きになって行きます。それではここで、人間の「心の仕組み」について少しお話しておきましょう。

気質:もって生まれたもの、変えられないし、変える必要のないもの。
 気質の違いは、犬を見れば良く分かります。スピッツとセントバーナードは、基本的な気質が違いますよね。スピッツから見ると、セントバーナードは何を考えているのか分からないし、セントバーナードから見ると、スピッツは煩くて仕方ありません。でも、セントバーナードがスピッツになる必要は全くないのです。世の中は、外交的な人、内向的な人、色々な人たちがいてバランスが取れているのです。


性格:経験や環境の中で刻み込まれて行く価値観で、成長していくもの。
 性格は後天的につくられて行くものですから、変えられます。人は、肉体的成長に伴い、人格的成長も成されて行く必要があるのです。


Driver:強烈な体験によって、自分の中に取り込んでしまった心的障害。
 おうおうにして物事は、一瞬にして壊すことが出来ますが、それを修正するのには、相当な時間とエネルギーを要します、人間の心の問題も同様です。人は誰でも多かれ少なかれ、このDriverを持っていますが、神様関係、人間関係に支障を及ぼすDriverは、私たちは長い時間をかけて治して行く必要があります。


さて、人が物事に対する正しい理解を持つに至るまで成長していない場合、その人はその物事に対する好き嫌いによって行動を決めて行くことになります。実際、人は人生における重要な選択の局面において、単に自分の感情だけで判断しているという現実があります。例えば、教会に対する正しい理解のない人は、場所が近いとか、駐車が便利だとか、聖歌隊がカッコいいとか等々「自分にとってカンフタブルな教会」という観点で教会を決めようとします。しかし、聖書には、そのようなことは何処にも書いてありません。では、私たちが正しくバランスの取れた理解を持つためには、どうすれば良いのでしょうか?


 神様理解:ローマ12章2節に、「心の一新によって自分を変えなさい(新改訳」とあります。自分の感情や価値観を行動の基準にするのではなく、聖書の御言葉を基準にするのです。いつも祈り、神様の御旨に聴き従うこと。これが私たちの言動をポジティブに変える第一のポイントです。


自分理解:前回、銅メダルの人の方が、銀メダルの人よりも心の充足感がずっと高いというお話をしましたが、大切なことは、世間の評価ではなく、自分の心の状態です。成功したから幸せなのでなく、幸せだから成功なのです。いい家に住み、いい車に乗っていても、毎日ガツガツとお金儲けのことしか考えていない人は、どんなにお金を持っていても貧乏人です。逆に、たとえお金持ちではなくても、日々感謝し、人に分け与えることが出来る人は、裕福な人なのです。


他者理解:教会の目的は、「神を愛し、自分を愛し、他人を愛す」ことですね。ここで、皆さんの人生に大きな影響を与えた3人の方の名前をあげてみてください、おそらく、その人たちは必ずしも有名人ではないでしょう。誰かの人生で、自分が感謝の対象になっているとは、何と素晴らしいことでしょうか!! それこそ、私たちが理想とする人生ですよね。つまり、真の自己実現とは、必ずしも新聞記事の一面を飾る必要などないのです。


室町時代に、明恵上人というお坊さんがおりました。当時は、度重なる戦乱や飢饉などで、人々の心は荒廃し、皆が人生の意味を見失っていました。「人間はいったい何のためにいきているのか?真の幸せはどこのあるのか?」を捜しに、彼は天竺(仏教の聖地)を目指して旅に出ました。ある夜、大雨が降りしきる中、彼はやっと村外れにある山小屋を見つけて、その晩はぐっすりと眠ることができました。ところが、翌朝周りを見てみると、その小屋は何と、人骨だらけのお墓の真ん中だったのです。しかし、大雨はやみません。仕方なく、もう一晩その小屋に泊まることになったのですが、その夜はどうしても眠ることができません。次の朝、明恵上人は考えました。最初の晩は、あんなにぐっすり眠れたのに、次の晩は恐ろしくて一睡もすることができなかった。だけども、最初の晩も二日目の晩も、周囲の状況は何も変わっていないではないか・・・。そこで彼は、人間の幸福も不幸も、周囲の環境によるのではなく、全ては自分の心の中に鍵があるのだということを悟りました。そして、修行をすることの限界を知り、天竺行きをやめたのでした。

 人生において大切なことは、生き方の誠実さ、人に対する思いやり、優しさ、そして愛です。そのように生きるためのエネルギーは、いったいどこから来るのでしょうか。それは、人間の努力や修行では絶対に無理です。人は、人に何かしてあげても、褒められたいとか、お返しを期待してしまうのが、私たちの現実だからです。しかし、報酬を求めない、人に喜んでもらうことが自分の喜び!この思いは、聖霊様からいただくことが出来るのです。人を助けたくてしょうがない、人を愛したくてしょうがない。このような聖霊様の働きが、私たちを通して人々へと現れるのです。そのようなクリスチャンの生き方を、聖書はこのように記しています。


悲しんでいるようで常に喜び、物乞いのようで多くの人を富ませ、無一物のようですべてのものを所有しています。(Ⅱコリント6:10)


 最後にもう一度繰り返します。先ず、人生において何かを選択する時に、それが自分の考えなのか、聖書が言っていることなのかをよく考えてみてください、何をするにしても、聖書を自分の行動判断の基準にすることが大切です。第二に、外観的価値基準からの脱却です、成功したから幸せではなく、幸せだから成功したのです、いい学校に入ったから幸せではなく、その子が幸せだから幸せなのです。第三に、皆さんに影響を与えた3人の方のような人間になることを心掛けてください。世のため、人のため、神様のために生きることが、クリスチャンの人生なのです。

 私たちの理解が聖書的に変われば、私たちの行動も自然に聖書的な方向へと変えられて行きます。そして、私たちの人生そのものが、聖書的なものへと変えられて行くのです。私たちの理解を一新にしましょう!今日の御言葉にあるように、自分の生活を、礼拝を中心にした生活に変えて行くのです。心を尽くし、力を尽くし、知性をつくして神様に自分を奉げ、神様から人生に必要な御言葉を頂く。真に幸いな人生を生きるためのエネルギーは、こうやって培われます。私たちの生活の中心は、神様の生きた体である教会にあります。これからが出発点です!(暢夫)


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