Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

喜び・祈り・感謝の人生 Ⅰテサロニケ 5:16-24

2008年11月23日 | Celebration



わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。(イザヤ43:4)

リタイアを楽しむアメリカ人老夫婦がスイスへ旅行した時の話。旅行ハイライトのひとつ、アルプスの景観を楽しむ登山列車に乗っていた時のこと。反対側に座っていた地元スイス人と思える、ちょうど同じような年配の夫婦が近寄って来て、何やら言っている。言葉は全然通じないが、どうやら席を代わってくれ、と言っているようだ。しかし、反対側は西日が射し込んで風景も山肌ばかり。「一生に一度の夫婦旅行で、せっかく確保した良い席を移るなんてとんでもない!!」と身振り手振りで断るものの、そのスイス人の夫婦は、半ば強引に荷物を移動させ、勝手に席替えを完了させてしまった。しかたなく反対側に座ったものの、おもしろくない。

 ところが、何とそのスイス人夫婦は、次の駅でさっさと降りてしまったではないか!? 唖然としている内に人が乗り込んできて、元の席に戻ろうにも戻れない。「いったいさっきの夫婦な何なんだ!」と、怒りを抑えることもできずにいると、暫くして、前方の席から何やらざわめきが聞こえてきた。すると、目の前に西日にきらきらと輝く湖とアルプスの絶景が現れた。思わず感嘆の声が出るほどの美しい景色に「あぁ、来て良かった!!」と夫婦共々感動覚めやらぬ頃、やっと彼らは気が付いた。「そうか、あの夫婦は、私たちにこの景色を観せるために、わざわざ強引にしてまで席を変えさせたのだ!」と。

 なぜ私たちは神様に感謝できないか、神様を信じることができないか、神様の言葉に従うことができないのか。その答えがこの話の中にある。アメリカ人はスイス人を単なるわがままな人と思い込んだ。彼らの好意など考えもしなかった。そして私たちも同じように、神様の恵みを信じず、その愛を疑ってしまうために、感謝すること、従うことができないのだ。 現在、急増しつつある少年犯罪。犯罪心理学のプロは、子供たちに「愛されている」実感がないことが、彼らを犯罪へ走らせる原因のひとつだと言う。つまり、セルフ・アイデンティティの欠如である。セルフ・アイデンティティとは、一朝一夕で構築できるものではなく、長い人生の積み重ねの結果によって築かれるもの。神様にあるセルフ・アイデンティティは、子供の成長過程と同じような段階を経て得られていく。

信頼
児童心理学者のエリクソンは、「赤ちゃんは親の背中や腕の中で『自分がここにいていいんだ』という居場所の確認と、無条件な親の愛によって『愛されていること』を学んでいる。」と語った。つまり第一に学ぶことは、信頼。

自立(自分で選ぶこと)
立てない赤ちゃんから動けるようになると、子供は自立を学ぶ。選択肢を与えられ、そこから選び取ることから自主性が身につく。そして、第二ステップの自立を学ぶ。

主体性
親から言われたことをそのまましているポイントから成長すると、言われなくてもすべきことを率先してするようになる。そして、第三ステップとして主体性を得る。

個性
次のステップとして、個性が育つ。親子と言えども異なるそれぞれの考え方、それぞれの人格を認め、長所を伸ばしていくことで、その人ならではの個性が際立ってくる。

自己アイデンティティ
この4つのステップを踏まえて初めて、自己同一性、自己受容ができる。神様は私を愛してくれているのだ、と実感できる。そして、神様にあるセルフ・アイデンティティが確立される。

 人間は不完全なものだ。人間の親も同じくパーフェクトな子育てはできない。取り巻く社会もまた、完全でない。だから、人間には親替えが必要なのだ。人間の親から、完全で全能の創造主、神様を親とする時、不完全なまま育てられてしまった部分が、完全な形に直されていく。神様の「御言葉」というフィルターを通して、人生の良いことだけでなく、悪く見えることもすべてが「善い」ものへ変えられる。だから喜び、祈り、感謝の人生へと導かれるのだ。(睦美)

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(エレミア 29:11)

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真理の導き手 ヨハネ16:12-15

2008年11月16日 | Celebration
 感動すること。各種の芸術や歴史的な偉業は、どの人にも感銘を与える。業がクリスチャンによるものか、ノンクリスチャンによるものか、そこに差はない。つまり、真理は神学上における神様の啓示だけではなく、神様から来るすべて良いもの、人を幸せへ導き、感動を与えるものなのだ。

 「自分に実力があれば、この世から見捨てられることはないと思う。だけど、たとえ私はこの世から見捨てられたとしても、私にはより頼むところがあるから、私の人生は平安だ。私は、私が受けた恩恵に対して、自分の命を捧げるつもりでいる」この言葉を残したクリスチャン、野口英世が研究していた黄熱病のワクチンは、世のため人のため神のために身を削って研究し続ける彼の姿に神の力、聖霊様の助けが降って、細菌学上の発見という形で真理が現されたものだ。その真理によって、多くの人の命が救われ、黄熱病による死亡率は激減した。

 この世の真理は、人間が作ったものではなく、すべて神様から来ているものだ。その真理は人を幸せと解放へ導き、感動を与える。真理を追究するへりくだった魂に聖霊様が働き、その人の手を通して啓示されるのだ。いかなる仕事でも芸術作品でも、作る人間の自我から離れてその人を超えた時、客観的な価値を持つ。ゴッホの絵画も、ヘンデルの音楽も、時代を超えて感動を与える仕事、作品はすべて、作り手の自我が消えたその時、普遍的な価値を持つようになる。

 クリスチャンの上にも、ノンクリスチャンの上にも同じように雨が降り、日の光が射すように、へりくだった者の手を通して真理が働くこともまた、神様の一般恩寵だ。クリスチャンが成長と共に求める御霊の実、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制もまた、へりくだり無しには得られない。「私は親切な人間だ」と自分で思っている間は、その人に親切の実は生っていない。自我が消えたその時にはじめてその人の内に実が生り、周りの人たちに親切という感動を与えることができるのである。

 クリスチャンだけが聖霊様の働きをはっきりと知ることができる。どうしたら聖霊様が働いて真理を得ることができるのか。人間側の働きとして問われているのは、唯一つ、へりくだりだけ。自分の努力ではない。不遜な思い、高慢を捨て、ただへりくだること。その時、聖霊様の導きが得られるのだ。以下、聖霊様に満たされるための4ポイントである。

イエス様を信じ、従う。(使徒5:32)
自分の思いを注ぎ出す。(ゼカリヤ4:6)
聖霊を求める。(ルカ11:9 & 13)
聖霊の満たしを渇望する。(ヨハネ7:37-38)

 一枚一枚の紙は薄くて軽くても、それが積み重なれば、しっかりとした重さを持つようになる。信仰生活で得る一つ一つの真理の積み重ねが、私たちの人生を豊かで重厚なものへと変えて行く。実に真理は、私たちを自由と解放と幸せに導いてくれるのである。


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霊の所在 黙示録21:22-27

2008年11月09日 | Celebration


 
 金融恐慌、相次ぐ犯罪と災害、拭い切れない社会不安の渦巻く混沌とした現代、人は「霊」に導きを求める。絶対的に信頼できるもの、人生の指針とするものがわからないからだ。かくして、どこのどんな霊なのか分からないものに頼ってしまう得体の知れない「スピリチュアルブーム」等が蔓延する結果となる。しかし実際のところ、真の「霊」について語るところ、それを知ることができるのは、教会しかない。

 何を「霊的」と認めるか。霊的体験は、幽体離脱や未来予知などではない。真に信頼できる唯一の「霊」、神様の御業はすべて霊的だ。もちろん、被造物である自然現象や動物や人間の生態も含まれる。特に、神様の息吹(霊)を吹き込まれて命を得た人間の能力は、未だ未だ知られないものの方が多い。脳神経学、脳生理学などは良い例で、脳のどの部分がどう作用するかはわかっても、それが機能する仕組みについては、全く未知の世界というのが現状だ。最近発見されたこととして、脳神経の中の「顔を識別する能力」がある。人類67億人、似た人はいたとしても“同じ"顔を持つ人はいない。人間はその67億通りの「顔」を識別できるのだ。そして、人には67億通りの顔を描くことはできないが、創造主によって創られたこの世界で唯一のこの顔を持つこと、これは十分に霊的なことのはずだ。

 そんなごく身近な周囲にある「霊的現象」が分からないのは、霊の目が失われるから。生まれたばかりの赤ちゃんは、ある意味で非常に霊的な存在と言える。親に100%信頼し、自分がいる場所も、行く場所も知らなくても、ニコニコと笑っていられる。イエス様が「幼子のようになりなさい」と仰った言葉の意味を実際に見るようだ。しかし、人間は成長する内に、自我意識や生活や雑事の煩いなどで周りを覆われ、霊的知覚能力がどんどん淘汰されていってしまう。そして「霊」に対する誤解と無知が、遂には別の霊に指針を求めてしまうという行動に出てしまうのだ。

 聖書で語られる「裁き」という言葉は、現代一般に使われているものと異なり、「分割する」という意味の語に発している。つまり、真に信頼できる「正しい」霊にあるものと、そうでないものとを分ける、というのが聖書の「裁き」が意味する。神の国とされる天国では、殺人事件も警察もなく、また大泥棒もこそ泥もいるはずない。すべての悪を切り離して分ける「裁き」がなければ、天国もあり得ない。だから聖書は「裁き」を語る。それは、いざ「裁き」の場に立った時になって後悔して涙にくれることのないよう、切に願う神様の「愛」ゆえだ。

■聖書が裁きを強調する3つの理由

(1)「裁き」があることは事実だから。
 イエス・キリストが2000年前にイスラエルの地に存在し、十字架に架けられたのは事実。そして、復活されて天に昇り、再臨を約束されたことも事実。その再臨=「裁き」の時と聖書は事実を語っている。

(2)警告しなければわからない人がいるから。
 聖書は全人類に警告している。「裁き」があることについての警告と同時に、それを既に知るクリスチャンに対しても、日常生活に埋没して“霊”から離れることのないように警告する。裁きの時が来てから、神様側にいなかったことに気付くのでは、遅すぎるからだ。

(3)裁きの問題は既に解決済みだから。
 この裁きの問題は、すでにイエス・キリストの十字架によって解決されている。イエス様を信じることで、裁かれることはない。イエス様が代わりに贖ってくださったからだ。私たちが直面する問題は、最早裁きではなく、イエス・キリストに対する態度をどうするか、しかない。

 すべてのことは霊的だ。神様から受け取る恵みはすべて霊的で、私たちが神様の息吹(霊)によって創られたことをはっきりと知らせる。そんな霊的体験をするには、ただ神様に信頼し、霊の心をを開くだけなのだ。霊は、私たちの内にあるのだから。(睦美)