Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

視力を失ったクリスチャン Ⅱペテロ1:3-15

2007年10月28日 | Celebration
20世紀が「考える時代」であったとすると、21世紀は「見る時代」と言われている。生活環境におけるヴィジュアル化が加速し、見た目重視の表層情報ばかりが跋扈し、「手軽さ」と「便利さ」を追求した社会に染まり、人は深く考えるということをしなくなった。どのような能力も使わなければ、錆び付いていく。今、日本人の「考える力」は徐々に、そして着実に失われつつある。

 神が人間に与えてくれた「考える力」を衰えさせ、退化させていく現代は正に「情欲に染まったこの世の退廃」の時代である。そして、この書簡が記された当時も、キリスト者の歩みを阻む悪の力があった。それに抗い、尊い信仰(聖霊の力)を得たキリスト者が成すべき7つの鍛錬ステップを、殉教を目前にしたペテロは私たちにこう残してくれた。

(1)
  キリスト者としての徳、つまり聖化の道を歩むこと。自分の救いに安住してはならない。
(2) 知識
  御言葉、聖書を読む。
(3) 自制
  聖書知識と信仰は比例しない。むしろ知識は人を高ぶらせるので、自制を働かせる。
(4) 忍耐
  キリスト者にも苦難は訪れる。だからこそ、信仰を持ち続ける。
(5) 信心(敬虔)
  御心を体得するには、へりくだって従うこと。神を畏れる信仰が必要。
(6) 兄弟愛
  霊の家族(教会の仲間)を大切にする。親切とは自我を捨て、人のために尽くすこと。
(7)
  愛はその全てを内包する。

 この7つのステップを力を尽くし、あらゆる努力をして継続させる。そうすることで、私たちはイエス・キリストを本当の意味で知り、その結果、御霊の実を豊かに実らせることが出来る。逆に、クリスチャンがその努力を怠るならば、視力を失い、目先のものしか見ることが出来なくなり、自分の罪が赦されたこと、救われたことさえ忘れてしまう。

 ペテロは、私たちが決してそのような状態にならないために、そのことを「思い出しなさい」と語る。「そんなことはもう知っている、聞いたことがある」と、つい言ってしまう私たちに、この基本中の基本をいつも「思い出し続けなさい」と繰り返し語る。御霊の実を付けるために悩む必要はない。私たちはただ、この7つのステップを繰り返せば良いのである。

これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。

証しメッセージ ローマ5:1-2

2007年10月21日 | Celebration
<詩篇116編より>
主は憐れみ深く、正義を行われる。
わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は
弱り果てたわたしを救ってくださる。
わたしの魂よ、再び安らうがよい
主はお前に報いてくださる。
あなたはわたしの魂を死から
わたしの目を涙から
わたしの足を突き落とそうとする者から
助け出してくださった。
命あるものの地にある限り
わたしは主の御前に歩み続けよう。

わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。
あなたに感謝のいけにえをささげよう
主の御名を呼び 主に満願の献げ物をささげよう
主の民すべての見守る前で
主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。

吃驚仰天 マルコ14:32-34

2007年10月14日 | Celebration
 本日の聖書箇所は、あのゲッセマネの祈りのシーン。十字架に架けられる前夜、イエス様が苦渋の思いで祈られる感動の場だ。中村透師を通して語られたAmazing Graceは、まさに吃驚仰天のメッセージ。

 メッセージ前に「強くあれ雄々しくあれ」を讃美した。ヨシュア記にある御言葉であり、また聖書全体に幾度も繰り返されている神様の励ましだ。新約聖書には何と365回の「恐れるな」を意味する言葉があるそうだ。365回、つまり一日一個の「恐れるな」。毎日何かしらの恐れを抱いて生きている人間に、神様は「恐れるな」と仰る。神様は根拠もなく、また私たちに無理強いを仰る方ではない。その根拠は何だろう?

 ゲッセマネの園で、イエス様も「ひどく恐れて」と書かれている。人間の感情のひとつとして「恐れ」があるのは確かで、イエス様は人として「恐れ」を抱かれた。この「恐れ」の原語の意味を辿ると、ひどく驚く、肝をつぶす、あまりの驚愕に恐れおののく、とあり、そして“吃驚仰天”ともある。また続く「もだえる」の意味は、半狂乱になることだ。イエス様は、翌日には自分が十字架に架けられることをご存知だった。天の父なる神様の御旨が成ることを祈り、そして吃驚仰天された。半狂乱になった。何に?罪のないイエス様が立ち向かう『人間の罪』の恐ろしさ、想像を絶する『神様のいない闇の世界』にだ。

 十字架刑だけがイエス様の戦いではない。公生涯に入られて以来、いや、その前からイエス様は私たちのためにずっと戦っていらっしゃっる。ゲッセマネの祈りから、イエス様の戦いはいよいよ本格化した。悪魔を退かせ、悪霊を追い出し、自然すら治めるイエス様が、戦いの最中に見た倒すべき敵=『罪』のおぞましさ、嫌らしさ、その呪いの引力は、吃驚仰天し、そして半狂乱になるほどのものだった。人間は、そんな罪を解決できないまま抱え込み、滅びへと歩みを進めている事実を目の当たりにした。

 忠臣蔵や特攻隊に思いを寄せる日本人は「美しく死ぬこと」「散際の美学」を滔々と語る。そしてこのシーンのイエス様を見て、神の子なのになんと弱い姿と言うかもしれない。そんな私たちは、「死」の恐ろしさを軽んじてはいないだろうか。永遠の滅びとしての死を。神様から完全に離されてしまう死を。私たちが持ち続けてしまう『罪』の結果である死を。死は決して美しいものではない。ルターは、イエス様を「このお方こそ死を恐れた人だ」と語った。イエス様の苦しみの源である『罪』の恐ろしさ、その結果にある『死』の重さを感じられない私たちは、「死」のもたらすほんとうの意味をわかっていない。

 おののくイエス様に対して、神様は父としての痛みを沈黙を通して示された。そして、イエス様はその沈黙に従順であることで唯一の正しき方を示し、全人類に代わって天の父より呪われ、怒りの裁きを受けられた。十字架上で神様と断絶したイエス様は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫びながら、私たち人間の『罪』を負ってくださった。そして「死」も「恐れ」も滅ぼしてくださった。だから神様は仰るのだ、「恐れるな」と。イエス様が全身全霊全力を懸けて成し遂げられた御業なのだから、もはや「恐れ」はない。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(Ⅱテモテ1:7)

 「死」の意味とその対極にある「永遠の命」のことを霊が受け入れた時、救いが与えられる。解放される。もはや恐れはなく、神様からの「I love you」が聞こえる。わかるのだ、イエス様がこんなに凄まじい悲しみと苦しみと呪いと孤独を越えて為された御業は、ただこの「私はあなたを愛している。」というメッセージを伝えるためだけだということが。次は私たちが吃驚仰天する番だ、神様の驚くべき恵みに。

 だから今、「ここを離れず、目を覚ましていなさい。」というイエス様の求めに応じよう。主の真実の祈りによって罪の購いは完成され、今、私たちは共に祈る幸いを与えられている。共に祈ること、共に戦うこと、そして福音を伝えること。これらもまた、まぎれない恵みなのだから。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

逆説的弟子育成論 ルカ10:25-37

2007年10月07日 | Celebration
 日本のTVドキュメンタリー番組の調べでは、あのクリスチャン1%以下の日本であっても、大半の人がイエス・キリストにポジティブなイメージを持っているそうだ。しかしイエス様に従っているはずのクリスチャンに対しては、大半の人がネガティブなイメージを持っている。世間に根付く教会版3K: “カタイ”、“クライ”、“キビシイ”、おまけに“クルシイ”も加わって四重苦に縛られた日本のクリスチャン事情をそこにを見る。

もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。(ヨハネ8:36)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(フィリピ4:4)

 教会はこれら御言葉の実践により、自由と感謝と喜びに満ち溢れるところのはずだ。しかし何故自由がない?解放されていない?喜んでいないのだろう?「善きサマリア人」のたとえ話のあるルカ10章から、『キリスト者のベース』について3点を語られた。

 「わたしの隣人とはだれですか?」-サマリア人の喩えの前、律法の専門家が尋ねたこの質問にフォーカスして考えると、隣人愛の実施に結論づいてしまう。しかし、本質はここにはない。彼がその前に問うたのは、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」=「どうしたら天国へ行けますか?」ということだ。以前のメッセージに『弟子になり損ねた人々』があるが、それは前章に書かれており、当然今回の話の伏線となる。

 ルカ9章の弟子志望の人にも、また10章前半にある遣わした72人にも、イエス様が仰ったことを厳しすぎると受け取りがちだ。そうではない。イエス様は、「福音を伝えるには身軽でなければならない。」と語れているのだ。神様を最優先するには、今ある環境下で囚われているものから解放されるべきだと。

 次にたとえ話の直前、当の律法専門家が怒ったイエス様の祈り、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」ここにある「幼子」の理解がベースの2番目。

 イエス様は何度か「幼子」「子供」の心を取り上げられているが、これはただ素直、従順の意味ではない。イエス様がこの世にいらっしゃった二千年前の認識を知って読むこと、これは聖書理解に欠かすことはできない。当時「幼子」は「取るに足らない者」「使えない者」「未熟者」を意味した。それではどうなるか。「自分は取るに足らないものと認めて、神様の愛を受け取ること」イエス様の弟子達も、社会の底辺にいたようなゴロツキのような人々だった。そんな彼らが主の栄光を現していったのだ。これが神様の御業であり、大いなる恵みだ。

 そして、とうとう「善きサマリア人」に至る。難所と呼ばれたエリコへの道で、強盗に襲われた行き倒れのユダヤ人を助けたサマリア人。その前に通りかかった祭司もレビ人も、十分に神様の教えを知っていたはずにも拘らず助けることはせず、敵であるサマリア人が介抱し、自分のロバに乗せて運び、宿賃などを払ってやって助けてあげたというたとえ話。ここでイエス様は何を語られたかったことを、キリスト者はしっかりと受け取らなければならない。

 強烈な対照がある。強盗は奪い、サマリア人は惜しみなく与えた。強盗が傷つけ、サマリア人は介抱した。祭司やレビ人が行き過ぎたが、サマリア人は近寄った。サマリア人が行ったのは、人間には到底不可能な徹底的な隣人愛。私たちはサマリア人になれない。なり得ない。だから?だからイエス様が来てくださった。なし得ない十字架の苦しみを代わりに受け、私たちを癒すために。助けるために。イエス様は、神様に逆らい、離れ去り、その結果罪にまみれて倒れている私たちを見捨てることはなさらない。決して通り過ぎることはないのだ。

彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 答えは正しい。しかし答えを知っても、命を得るためにそれを実行することができない。だから命を得るために、イエス様に従おう。続くマリアとマルタの説話を通して、イエス様が語られる。これがもう一つの答え、「まず御言葉を聞くこと。」

主はお答えになった。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」