Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

黙示録講解説教Ⅳ 2:8-29

2010年04月25日 | Celebration
今日、私はあの世とこの世との接点のお話しをします。あの世とは天国のこと、目に見えない永遠の世界のことです。私たちクリスチャンは、こういった話しを真剣にしているのですが、一般の人たちからすると、「彼らは一体何を言っているのだろう??」と理解しかねるだろうと思います。しかし、私が単なるデタラメを言っているのか、それとも本当のことを言っているのか、答えは二つに一つで、その真相は死ねば分かるのですが、死んでから、「あぁそうだったのか!!」では、遅いのです。

 今日、イエス様は、私たち僕(しもべ)の命のためにわざわざ語ってくださり、その話しを聞ける機会が、他の人々にも与えられています。この黙示録を朗読する人とこれを聞いて守る人は、幸いであると、イエス様は言っておられます。しかし、多くの人たちは聞く耳を持ちません。日々の生活に追われ、本当に大切なことを見失っているのです。とても残念なことです。

 私の知り合いに、石井さんという日系人のおじいさんがいました。彼は50年程前に、大統領から表彰され、天皇陛下からも勲章を授与されたことがある人です。ある日、彼がりんごの木に登って庭仕事をしていた時、突然落雷がりんごの木を直撃し、石井さんは吹き飛ばされて、意識不明の状態で病院に運ばれました。ところが、その時石井さんは、「これがこの世の見納めかぁ、りんごの木も焼けちゃったなぁ・・」と、自分には意識があったと言うのです。

 病院に運ばれたものの、彼の身体は全身打撲で骨はズタズタ、あと数時間の命と医師から診断されました。すると、石井さんは自分の体がすぅーと、宙に浮き上がるのを感じました。そして上を見上げると、神々しい眩いばかりの光が見え、その光の中からイエス様が彼にこう語ったそうです。「お前がここに来るのは未だ早い、戻りなさい」。そう言われて、彼は仕方なく元の自分の体に戻ったのですが、自分で身体を動かすことが出来ません。

 「イエス様、おおせの通り、戻りましたけど体が全く動かせません。責任を取ってください」と言ったら、石井さんの枕元に白い石のようなものがあり、それ右の肩に当てなさいとイエス様が言われたので、そうしてみました。すると、右の体がすーっと癒され、次に左の肩につけると、左の体がまたすーっと癒され、彼は完全に癒されてしまったのです。

 そうしてベッドから起き上がり、祈っている石井さんの姿を回りの人たちが見てビックリ仰天!また、起き上がれるはずのない彼を医師があわてて再検診してまたもやビックリ仰天!何とレントゲンを撮ってみると、ボロボロだったはずの彼の骨が全てつながっていたのです!!

 その後、退院した彼は、イエス様に生かされたことを悟り、何か社会に恩返したいと思い、アメリカの各地に桜の木を植えることにしました。それから暫くして、当時、アメリカを綺麗にする運動を推進していたジョンソン大統領夫人が、この話しを聞いて、彼の町にわざわざやって来て彼を表彰しました。そしてこの話を領事館が聞きつけて、天皇陛下からの勲章となったわけです。

 彼は、大統領の時も天皇陛下の時も、作業着にジーンズに荒縄のベルトという格好だったそうです。彼の姿に驚いた領事館の人は、慌てて彼に礼服を進呈したそうですが、石井さんはこう言ったそうです。「私はイエス様とこの姿でお会いしていますから、天皇陛下ともこの姿でお会いします。」と。このように素直で、真っ直ぐな人をイエス様は喜ばれています。石井さんは、いつも教会のクリスチャンの青年たちに、「心の底から信じれば、奇跡は必ず起こる」と話されていたそうです。この言葉は、私がとても好きな言葉の一つです。

 この石井さんの体験は、一般的に臨死体験と言われているものです。聖書の中に、このようなことは書いてあるのかなぁと、思って読んでみますと、あるんですね。Ⅱコリント12章をご覧ください。2節にこうあります。「私は、キリストに結ばれた一人の人を知っていますが、その人は、14年前、第三の天にまで引き上げられました。体のままか、体を離れてか知りません。神がご存知です。」とあります。

 第三の天があるということは、第二の天と第一の天もあるわけです。第三の天とは、神様がおられる所です。ここは究極の美と平安に包まれた神の国です。第二の天は、天使とサタンが入り混じり、霊的バトルが行なわれている場所です。そして、第一の天が、今私たちが生きているこの世界のことです。石井さんは、この第一と第三の天の接点を体験されたわけなのですが、このようなことは、決して私たちと無関係なことではありません。

 聖霊を授けるということは、第三の天の力を第一の天において受けることを意味しています。聖書が霊の賜物を求めなさいと言っているのは、第三の天の力を第一の天に応用しなさいということなのです。それをクリスチャンは出来ると聖書は言っているのです。第三の天の視点で第一の天を見る。それが預言です。私たちにとって、これ以上の知恵はありません。その第三の天から第一の天に送られてきた手紙がこの黙示録です。この黙示録には、これから現実に起こることが記されています。


今日の黙示録講義は、4回目です。3回目は、エフェソ教会までお話しを致しました。この7つの教会に宛てられた手紙は、地上に存在する全ての教会に宛てられた手紙です。エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの7つの教会は、ヨハネがこの手紙を書いた当時、西アジア地方に現存した教会であり、各教会時代を象徴した教会でもあり、そして、いつの時代にも存在している教会でもあります。大切なことは、7つの教会への手紙全てに、「耳あるものは、聞きなさい」と、イエス様が言われていること。イエス様は、全ての教会の霊的状態を全てご存知の上で、この手紙のメッセージを聞き逃してはならないとおっしゃっておられるのです。


スミルナ教会に宛てた手紙

 スミルナという言葉は没薬を意味し、没薬は殉教を表しています。スミルナ教会は殉教者の教会です。この教会に対して、イエス様のお叱りの言葉は一つもなく、また、長く話す必要はありませんでした。ただイエス様はこの教会に対し、「死に至るまで忠実でありなさい」と書き送られました。真のクリスチャンは、これからの時代に迫害に遭うから、その苦難を耐え忍びなさいと言っておられるのです。

 ここに、10日の間とありますが、何故10日なのでしょうか?それは、確かにクリスチャンには試練の時があるが、その期間は定められており、長くは続かないということなのです。ダニエル1章12節に、「どうか私たちを10日間試してください」とあります。また、復活したイエス様が昇天された後、弟子たちはエルサレムに留まり、聖霊のバプテスマが降るまで、彼らは10日間一心に祈り続けました。彼らにとって、その試練の時が必要だったからです。

 スミルナの教会には、ヨハネの弟子で、ポリュカルポスという教会の監督だった人の殉教の話しが残されています。彼は、ユダヤ人たちに告訴され、ローマに対する反逆罪で火刑に処せられました。当時90歳だったポリュカルポスに、ローマ兵はこう言いました。「我々はあなたのような老人を殺したくはない。イエスを知らないとさえ言えば、それで放免してやるから、そう言え」と。

 しかし、ポリュカルポスはこう言いました。「私は80年間近く、イエス様にお仕えして来ましたが、イエス様は私を一度として拒むことはなさいませんでした。そのイエス様を、どうして私が拒むことが出来ましょうか!」と言い、自ら殉教の死を選んだのです。イエス様はこのような殉教者の教会に対して多くを語ることなく、ただ10日間の間、死に至るまで従順でありなさいと言われたのです。


ペルガモ教会に宛てた手紙

 ペルガモは、「塔」と「結婚」という意味があり、政治と宗教が一体となった教会という意味です。時代区分から言うと、キリスト教がローマの国教化となったローマの監督時代の教会。つまり、ローマ帝国と結婚した教会です。この教会には、「バラムの教え」と、「ニコライ派の教え」という大きな問題がありました。それに対してイエス様は、「悔改めよ」と警告しています。この「悔い改めよ」という言葉は、スミルナとフィラデルフィアの教会以外には、全て登場します。

 バラムの教えのバラムは、民数記22-24章に登場する偽預言者です。バラムは、イスラエルの敵国だったモアブの王からイスラエルを呪わせるために雇われました。しかし、神の加護により、イスラエルを呪うことが出来ないことが分かったバラムは、イスラエルの兵舎にモアブの女性を送るようモアブの王に提言し、さらに偶像まで浸透させて、イスラエルを破滅に追い込んだ人物です。つまり、バラムの教えとは、教会を破滅に導くサタンの画策・知恵のことです。

 ニコライ派の教えとは、この世と迎合した世俗的に堕落した信仰、宣教もしない、弟子訓練もしない、水で薄めたような骨抜きの信仰のことです。エペソの教会は、このニコライ派の教えを退けていましたが、ペルガモの教会は、これと妥協してしまいました。しかし、そのような堕落した中にあっても、イエス様は、信仰を守り通し、勝利を得るものは、白い小石を与えようと言っておられます。この白い小石とは、当時の裁判に使われていた無罪の証明であり、キリストの十字架における無罪の宣言です。バラムとニコライ派の教えが人々を惑わしている。これに十分注意しなさいと、イエス様は言っておられるのです。


ティアティラ教会に宛てた手紙

 ティアティラとは、「女性の冠」という意味で、使徒に出てくる紫商人・ルディアが住んでいた街です。この街は布産業などの商業が盛んで、この街で仕事をするためには、街で開催される諸々の行事、儀式、祭りに等に参加することが義務付けられていました。

 この教会には、「愛、信仰、奉仕、忍耐」がありました。ところが、その反面、恐ろしい偶像礼拝と宗教的姦淫が行なわれていたのです。この愛と姦淫の信じ難いギャップが、このティアティラ教会の特徴です。このことは、ローマカトリックのことを思うとよく分かります。この信じがたいギャップは、ローマカトリックの現状そのままなのです。

 マザー・テレサや、井深八重さんなどの、カトリックの人たちの愛と奉仕に嘘はありません。表に出て行って神の愛を人々に示しなさい、貧しいものを助けなさい、これは、神の御心に叶う実に素晴らしい行為です。けれどもその反面、ローマ法王という単なる人間を神の代理としたり、聖母マリアを崇拝したり、7つの奇跡をつくったり等々、完全に間違った教理を捏造しています。

 もっと言うと、カソリックが中世の暗黒時代において行って来た宗教裁判や魔女狩りほどサタン的な光景は、この地上にはありませんでした。彼らが聖書を独占し、自分たちの権力のために利用し、また間違った解釈によって、いったいどれだけ人間を殺し、迫害して来たことか、このような行為は、サタンの仕業以外の何ものでもありません。

 ところが、イエス様は24節でこう言われました。「このような人たちの中にいて、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなた方に言う。私は、あなた方に別の重荷を負わせない」と。確かに彼らは、教理的に間違ってはいるのですが、一部のカトリック教徒たちの愛と奉仕の行いは本物であり、神に対する純粋な信仰、人々に対する愛を保っているのであれば、私は、あなたに罪の重荷は負わせないとおっしゃっているのです。

 かく言うプロテスタントも様々な教派に分かれており、それぞれが自分たちが一番正しいと主張しています。中には自分たちの教理や伝統を、聖書よりも上に置いているような教団も少なくありません。そういった人間の自己流解釈は、決してカトリックだけのものではありません。神はいつも私たちの信仰の純粋さ、動機を見ておられます。そのことをこの手紙から学んでください。

 サタンの奥深さとは、逆に聖書を用いて人々を迷わすことです。御言葉を使って人を裁く、間違った教理で人を不安と滅亡に陥れるのです。この教会は、時代区分から言うと、中世の暗黒時代の教会にあたります。しかし、そのような闇の時代の中にあっても、神への純粋な愛を失わなかった人たちがいたのです。

 霊の目を開き、イエス様が私たちのために送ってくださった黙示録をよく霊の目で読んで見てください。そうすると、今までよく分からなかったこと、よく見ることが出来なかったことが、少しずつ見えて来るようになります。イエス様が、第三の天から送ってくださったこの手紙を、自分に宛てられた手紙として謙虚に受け止め、悔い改め、また、キリストの僕であることに誇りを持ちましょう!! (執筆担当 暢夫)


〔写真:スミルナはエペソの北、約56キロにある美しい港町。商業都市として栄え、ローマの女神の神殿があった〕

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からし種とエフライムの菓子 ルカ17:5-6

2010年04月18日 | Celebration
 先週のNEWSWEEK誌に、10年前までは誰も知らなかったけれども、今では生活必需品となったBEST-10!と言うリストが掲載されていました。それは・・・

10位:エアーチケットのオンラインチェックイン
9位:インターネットのクレジット決済
8位:Red Bull (エナジードリンク)
7位:TMZ  (芸能情報専門のWebサイト)
6位:Chipotle  (メキシカンレストラン)
5位:Gardasil (子宮ガン予防ワクチン)
4位:Digital Video Recorder
3位:i-Tune
2位:You Tube
1位:Wikipedia

 さて、このリストの中で皆さんにとって生活必需品はいくつありましたか? 私は一つもありませんでした。私がいかにアナログ人間であり、時代に逆流して生きているのかを思いますが、同時に私たちクリスチャンの価値観と一般の人々の価値観の根本的な違いを感じさせられます。

 日本のテレビ番組などを見ていますと、ドラマにせよ、バラエティーにせよ、政治討論番組にせよ、「根本的な解決になっていない、真理ではない、薄っぺらいヒューマニズム」で溢れています。何故、こんなことに一生懸命なのか、何故こんなことにこだわっているのか、何故こんなことに感動出来るのか、私にはサッパリ分からないのです。と言うことは、一般の方たちから見れば、私たちクリスチャンは「この人たちはいったい何者なんだろう?」と思われているわけです。

 ノンクリスチャンの人たちからすると、何故クリスチャンの家族は、日曜日にピクニックではなくて礼拝に行くのか? 何故クリスチャンが映画に行くよりも、お祈り会や聖書クラスの方が好きなのか?彼らは全く理解出来ないと思います。これは知的理解の問題ではないからです。ちなみに聖書によると、この世の中には3種類の人間がいることが分かります。

1).霊の人:(Ⅰコリント2:15) 私たちクリスチャンのこと。
2).自然の人:(Ⅰコリント2:13)ノンクリスチャンのこと。
3).肉の人:(Ⅰコリント3:2-3) 中途半端なクリスチャンのこと。

 クリスチャンであれば、もっと自分の信仰を強くしたいと誰もが願います。イエス様の弟子たちもそうでした。それで彼らはイエス様にこう聞きました。「わたしたちの信仰を増してください!(ルカ17:5)」と。さあ、そこでイエス様は何と答えられたでしょうか?「そうだな、毎朝4時に起きて3時間祈り、聖書通読を3年間続けたなら、あなたの信仰は増すだろう」とは言われませんでした。そうではなく、「もし、あなたにからし種一粒の信仰があれば大丈夫だよ」と言われたのです。イエス様のお話しには、チョット聞いただけでは意味が分からない箇所が沢山ありますよね。こう感じた所が、福音の“ミソ”です。

 『からし種の信仰』とはどういうことでしょうか? 何故、イエス様は最も小さいものの象徴であるからし種を信仰に喩えられたのでしょう? では、他に聖書でからし種は何か他のものに喩えられているだろうかと考えて見ると、そう、イエス様は天国のことも“からし種”に喩えられています。(マタイ13:31,マルコ4:31,ルカ13:19)

 また、イエス様は天国を“幼子のような場所”(マタイ18:1-5,マルコ10:13-16,ルカ18:16-17)と喩えられていますよね。何故、天国が子供なのでしょう?子供というのは小さく、弱く、時に何が出来るというわけではありません。ここで、子供とからし種との共通点が見えてきます。イエス様は、「この世では、一番小さく順番で言えば一番最後の者が、天国では、一番大きく一番最初になる」と言われたのです。

信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。(マタイ17:20)

 「この解決不可能な(山を動かす)問題に対して、いったいどうしたらいいのだろう?」マタイ17章にある弟子たち質問は、そのまま私たちの質問でもあります。それに対するイエス様の答えが、「からし種の信仰」です。ここでもう一度、同じ問題を取り上げている別の箇所におけるイエス様の御言葉を見てみましょう。

はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。(マタイ21:21-22)

はっきり言っておく。誰でもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる。(マルコ11:23)

 マタイ17章の「からし種の信仰」に関する答えが、このマタイ21章と、マルコ11章の御言葉にあります。「からし種」に相当する言葉は、マタイでは“疑わないならば”、マルコでは“少しも疑わず”です。つまり、からし種の信仰というのは、『少しも疑わないで信じ切る信仰』と言う意味なのです。信仰とは、その人の努力や才能の問題ではありません。何故なら、イエス様は信仰を子供に喩えられているからです。つまり、信仰において最も大切なことは、自分の親のことを全く疑わない幼子のように純粋で素直に信じることなのです。

 この頭の信仰から、素直に信じる霊の信仰へガラリと180度変わった人たちがいます。それが弟子たちです。彼らの信仰は、福音書と使徒行伝とでは全く違います。福音書の時代の弟子たちは、いつもイエス様に「信仰が薄い!」と怒られていました。ところが、その弟子たちが、使徒行伝の時代になると、「イエス・キリストの名によって宣言する!立ち上がりなさい!」と言いました。これはすごい信仰です。皆さんは病人の方に、「立ち上がりなさい!」と言えますか? 目に見えて治っていたならともかく・・・ところが、ペテロは何も臆することなく、癒しを力強く宣言しています。

 何が彼らを変えたのでしょう?それは、復活したイエス様に出会い、恐れるものが何もなくなってしまったから。そしてもう一つは、彼らは聖霊を受けたからです。聖霊を受けることが何よりも大切です。私たちクリスチャンのパワーの源は、実に聖霊の力によるからです。何故、私たちに聖霊の力が必要なのでしょうか?

聖霊の力がなくては、罪に打ち勝てない!
 私たちの内には、自分の意志ではしたくないのに、それでもしてしまう罪があります。この罪の誘惑に打ち勝つためには、聖霊の力が必要です、私たちの努力では無理なのです。

聖霊の力がなくては、キリストを強く証し出来ない!
 もし、伝道を自分たちの器量や才能や努力でやろうとすると、残念ながら、途中で挫折することになります。伝道とは、聖霊の働きに私たちが参加させていただくことなのです。

霊の力無くしては、霊の賜物を受けることが出来ない!
 預言、癒し、異言などの霊の賜物は、私たちがいくら勉強しても、修行をしても、人間の知識で努力で受けることは出来ません。

 では、どうしたら聖霊を受けることが出来るのでしょうか? それには先ず、二つの前提があります。一つは、クリスチャンであること。主は自分の従う者に聖霊を与えるとはっきりおっしゃっています。(使徒5:32)そしてもう一つは渇望すること。主はたとえ、私たちがダメクリであっても、切に求めれば主は聖霊をくださるとおっしゃってくださいました。(ルカ11:9-13)ところが、私たちの内に、聖霊の働を自ら阻んでいるものがあるのです。それが、今日のメッセージ・タイトルである『エフライムの菓子』です。

 エフライムはヨセフの次男、ヤコブの孫でしたが、イスラエルの12部族と同じ権限を与えられた部族です。そしてエフライムは、北イスラエル10部族中、最も有力な部族となりました。しかし、神様はこのエフライムの力を、それは信仰から来たものではない。エフライムの信仰は、片方しか焼いていないパンケーキのようなものだ。と、言われたのです。実は、私たちの信仰も多くの場合、このエフライムの菓子のような、片焼き信仰なのです。

 例えば、「今度の伝道集会は、私がリーダーを務めます。でも、ビラ配りは、他の人にお願いします」とか、「神様、私を伝道者としてお遣わしください!でも暑いところだけは除いて・・」彼らは、片方に関しては一生懸命やっています。ところが神様の視点から見ると、それは「片焼き」なのです。片焼き信仰の最大の問題点は、本人は自分が片焼きだと、全く気付いていないという点です。本人としては十分自分は献身していると思っているのです。ところが、それは自分の得意なこと、自分がやりたいことであって、自分の苦手なことや、好きじゃないことについては放っている。これを片焼き信仰、エフライムの菓子と言います。

 片方しか焼けてないおせんべいを皆さんは食べられますか? 片方しか焼けてないパンケーキを皆さんは食べられますか?確かに片方だけ見れば、美味しそうです。だけど、口に入れた途端に、吐き出してしまうでしょうね。神様も同じことです。片焼き信仰のままでは神様の前においては、意味がありません。片焼き信仰では、神様は私たちを用いたくても、用いられないのです。

エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ、エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。(ホセア7:8)

イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。(ホセア7:10)

 片焼き信仰になる原因は、“高慢”です。多くのクリスチャンが、“これで良い”“これで十分”と思い、自分の力で頑張っています。つまり、自己満足。聖霊は私たちの上に降りたいと思っておられるのに、それを私たちの自己満足が拒んでしまっているのです。これではいくら口先で祈ってたところで、聖霊が下られるわけがありません。

 全てのクリスチャンは、「聖霊の油注ぎがなければ、何も始まらない!」と自覚する必要があります。私たちには聖霊の力が必要なのです。神様は最善しか成されないということ。そして、神様の御旨は必ず成就するのだということ。このことを、子供のような疑う余地のない全き信仰で受け取りましょう。全き信頼こそ、クリスチャンライフの核となります。ですから皆さん、どうぞ皆さんの信仰の両面を焼いてください。そして全き信頼を持って、神様に従って参りましょう!(執筆担当 Ako)


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イエス復活!!Ⅲ ヨハネ20:19-20

2010年04月11日 | Celebration



毎年イースターで語られる、GNS恒例「イエス復活!」日本から帰米されたばかりの田中牧師が、日本を覆う霊的圧迫の開放と、キリスト者本来のパワーを取り戻すべく、復活の喜びを力強く語られた。

死に支配され、希望を失っている
 人口の4人に1人はお年寄りという、日本は超高齢化社会。しかし彼らには希望がない。毎日テレビから流れているのは、介護保険、健康食品、リフォームのコマーシャルばかり。病院は老人たちの社交場と化し、元気なご老人は、ボランティアや海外旅行に精を出しているが、そんな彼らの唯一の希望は、"ピンピンコロリ”。死の直前まで元気で動き、“あっ!”という間に死ぬこと。これのいったい何処に希望があるのだろうか?結局、彼らは死を見て見ないフリをして、ただあえいでいるだけなのだ。

偶像に支配され、自由を失っている
 日本のテレビには、神社や仏閣関連のニュースや宣伝が多いことに驚かされる。仏壇のコマーシャルは勿論、水子供養までおおっぴらに宣伝されているのは、世界広しと言えど、日本だけではなかろうか?町のいたるところに寺社や仏閣が並び、道には地蔵や祠が置かれ、誰もがお守りや御札を携帯している。人は真の神様を知らなければ、必ず何かしらの偶像を立てて生きている。地位、財産、世間体、そして異性。それらの偶像にしがみつき、「命」に対して何の力もない無機物や、あてにならない人間関係に依存し、それらに束縛されて生きている。

世間体に支配され、真理を失っている
 日本各地で行われている「お祭り」は、アニミズムと悪霊礼拝をルーツとし、地域のコミュニティーに深く根付いている。それは信仰に覆いをかけ、真理に敵対する。更にそのお祭り行事を隠れ蓑として、利得追求を図る企業は、人々の日常生活すべてに無言の圧迫を及ぼす。こういった土壌で信仰を保ち続けることは、実に至難の業である。

真の神様を知る人々にとって、キリスト者は、尊敬され、愛される人々である。しかし、真の神様を知らたい人々にとって、キリスト者は、誤解され、迫害される。彼らは、何故キリスト者が日曜日にピクニックではなく、礼拝にいくのか、何故映画より、聖書クラスの方が楽しいのか、全く理解出来ない。しかし、それでもキリスト者から彼らに歩み寄る努力をしなければ、福音は伝わらないのである。

 しかしながら、そのような過酷な環境下で生きている日本のクリスチャンたちの多くは、生き延びるのに必死で、福音を伝えるまで至っていないように思える。彼らにとって教会とは、休息場であり、世間から隔離されたアシュラムのようなものである。従って、教会に来る人たちは慰められるかも知れないが、社会に対する影響力までは有していない。これは、まさにこの聖書箇所にある弟子たちの姿である。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。(ヨハネ20:19)

 日本のクリスチャン人口が、全体の0.2%という現状から、更に減少し続けている第一の理由は、日本には、聖書的に生きているクリスチャンが少ないからである。ところが、部屋に皆で閉じこもってガタガタ震えていた弟子たちが、何と殉教をも厭わない勇者へと劇的に変えられてしまった。それは、彼らは復活したイエスと出会ってしまったからである。イエスを信じるということと、イエスと出会うということは違うのだ。

 十字架と復活は裏と表。どちらか片面だけでは意味がない。教会における多くの説教や証しは、十字架の片面だけで終わっていることが実に多い。それでは半分なのだ。大切なことは、救われた後、どうなったのか?イエスの復活が、自分の人生をどう変えたのかまで語らなければ、人々に福音を伝えたことにはならない。弟子たちは、復活のイエスと会って「喜んだ!」実はこの喜びこそ、福音伝道のパワーとなるのである。


彼らは「死」が滅んだことを知り、恐れるものがなくなった

 「死」は人間にとって最大の苦難であり、躓きである。人は有史以来、あらゆる手を講じて「死」の克服を試みた。哲学、宗教、文学、科学、その究極の目的は、「死」の克服にある。ところが、この問題は、人の努力や才能で克服できるものではない。では、どうしたら良いのだろうか?

 自然界には、「共生」という生き方がある。例えば、サメとコバンザメの関係。コバンザメは、サメにピッタリとくっついて生きている。自分の敵である大きな魚から身を守るため、敵の敵となるサメと共生することによって、自分の身を守っている。

 私たちにとって最大の敵は「死」である。私たちは、死の最大の敵であるイエスと共生することによってのみ、自分の身を「死」から守ることが出来る。死に完全に勝利されたイエスと共生すれば、死は恐れるに足らないのだ。


彼らはイエスの傷を見て、自分が赦されたことを知った

 私たちにとって、忘れられない傷がある。復活されたイエスは、十字架で付けられた傷の跡を弟子たちにお見せになった。そして、彼らはそれを見て喜んだ。私たちはその深い意味を霊で知ることができるだろうか?

あるゴスペルシンガーのお証し。彼には一つだけ欲しいものがあった。それは、ハンドメイドのギターだった。しかしかなり高価で、家庭の経済状況では不相応と知りながらも、一生ものとしてどうしても手に入れたかった。奥さんは、そんな彼の思いを知って、トラの子の貯金をはたいてプレゼントしてくれた。ところがその翌朝、奥さんが真っ青な顔をして彼の前に来て言った。「あなたに謝らなければいけないことがある。」そして指差した先には、表面がくぼんで傷付いたギターが..。彼女は誤ってCDケースを落とし、その角がギターを直撃してしまったのだ。奥さんは涙ながらに何度も何度も謝った。彼は内心穏やかではなかったが、赦すしかなかった。しかし今、その傷は彼にとって、かけがえのないものへと変えられた。何故か?その奥さんがそれから半年後に病気で亡くなってしまったからである。彼はそのギターの傷を見る度に、最愛の妻が必死になって謝っていた姿と、自分のために大きな犠牲を払ってくれた彼女の愛を思い出す。「よくぞ、傷を付けてくれた!」と、彼は彼女が付けた傷に本当に感謝している。弟子たちにとって、イエスの傷はそれと同じであった。


彼らは天国の存在を知った

 弟子たちは、復活したイエスと出会い、天国は確かに存在する。イエスが待っていてくださる場所がある!それは、どこよりも麗しく、素晴らしく、心の奥底から感動できる究極の美と平安の世界である。弟子たちはこの確信を得て喜んだのである。

信仰の力とは、イエスを信頼する力である。イエスを10%しか信頼していなければ、10%の信仰しかない。50%信頼していれば、50%の信仰。信仰は自分たちの努力や才能で培われるものではないのである。自分の知識や経験に頼った信仰は、力どころか、不安と迷いしか生み出さない。復活の主に出会った弟子たちの喜びこそが、キリスト者のパワーの源、福音を伝える核となる。「喜びなさい。大いに喜びなさい!天には大きな報いがある。」この御言葉通り、復活のイエス様と出会い、死を打ち負かし、天の国を見上げて喜ぼう!それこそ、キリスト者の人生なのだから。(執筆担当: 睦美)


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