今日、私はあの世とこの世との接点のお話しをします。あの世とは天国のこと、目に見えない永遠の世界のことです。私たちクリスチャンは、こういった話しを真剣にしているのですが、一般の人たちからすると、「彼らは一体何を言っているのだろう??」と理解しかねるだろうと思います。しかし、私が単なるデタラメを言っているのか、それとも本当のことを言っているのか、答えは二つに一つで、その真相は死ねば分かるのですが、死んでから、「あぁそうだったのか!!」では、遅いのです。
今日、イエス様は、私たち僕(しもべ)の命のためにわざわざ語ってくださり、その話しを聞ける機会が、他の人々にも与えられています。この黙示録を朗読する人とこれを聞いて守る人は、幸いであると、イエス様は言っておられます。しかし、多くの人たちは聞く耳を持ちません。日々の生活に追われ、本当に大切なことを見失っているのです。とても残念なことです。
私の知り合いに、石井さんという日系人のおじいさんがいました。彼は50年程前に、大統領から表彰され、天皇陛下からも勲章を授与されたことがある人です。ある日、彼がりんごの木に登って庭仕事をしていた時、突然落雷がりんごの木を直撃し、石井さんは吹き飛ばされて、意識不明の状態で病院に運ばれました。ところが、その時石井さんは、「これがこの世の見納めかぁ、りんごの木も焼けちゃったなぁ・・」と、自分には意識があったと言うのです。
病院に運ばれたものの、彼の身体は全身打撲で骨はズタズタ、あと数時間の命と医師から診断されました。すると、石井さんは自分の体がすぅーと、宙に浮き上がるのを感じました。そして上を見上げると、神々しい眩いばかりの光が見え、その光の中からイエス様が彼にこう語ったそうです。「お前がここに来るのは未だ早い、戻りなさい」。そう言われて、彼は仕方なく元の自分の体に戻ったのですが、自分で身体を動かすことが出来ません。
「イエス様、おおせの通り、戻りましたけど体が全く動かせません。責任を取ってください」と言ったら、石井さんの枕元に白い石のようなものがあり、それ右の肩に当てなさいとイエス様が言われたので、そうしてみました。すると、右の体がすーっと癒され、次に左の肩につけると、左の体がまたすーっと癒され、彼は完全に癒されてしまったのです。
そうしてベッドから起き上がり、祈っている石井さんの姿を回りの人たちが見てビックリ仰天!また、起き上がれるはずのない彼を医師があわてて再検診してまたもやビックリ仰天!何とレントゲンを撮ってみると、ボロボロだったはずの彼の骨が全てつながっていたのです!!
その後、退院した彼は、イエス様に生かされたことを悟り、何か社会に恩返したいと思い、アメリカの各地に桜の木を植えることにしました。それから暫くして、当時、アメリカを綺麗にする運動を推進していたジョンソン大統領夫人が、この話しを聞いて、彼の町にわざわざやって来て彼を表彰しました。そしてこの話を領事館が聞きつけて、天皇陛下からの勲章となったわけです。
彼は、大統領の時も天皇陛下の時も、作業着にジーンズに荒縄のベルトという格好だったそうです。彼の姿に驚いた領事館の人は、慌てて彼に礼服を進呈したそうですが、石井さんはこう言ったそうです。「私はイエス様とこの姿でお会いしていますから、天皇陛下ともこの姿でお会いします。」と。このように素直で、真っ直ぐな人をイエス様は喜ばれています。石井さんは、いつも教会のクリスチャンの青年たちに、「心の底から信じれば、奇跡は必ず起こる」と話されていたそうです。この言葉は、私がとても好きな言葉の一つです。
この石井さんの体験は、一般的に臨死体験と言われているものです。聖書の中に、このようなことは書いてあるのかなぁと、思って読んでみますと、あるんですね。Ⅱコリント12章をご覧ください。2節にこうあります。「私は、キリストに結ばれた一人の人を知っていますが、その人は、14年前、第三の天にまで引き上げられました。体のままか、体を離れてか知りません。神がご存知です。」とあります。
第三の天があるということは、第二の天と第一の天もあるわけです。第三の天とは、神様がおられる所です。ここは究極の美と平安に包まれた神の国です。第二の天は、天使とサタンが入り混じり、霊的バトルが行なわれている場所です。そして、第一の天が、今私たちが生きているこの世界のことです。石井さんは、この第一と第三の天の接点を体験されたわけなのですが、このようなことは、決して私たちと無関係なことではありません。
聖霊を授けるということは、第三の天の力を第一の天において受けることを意味しています。聖書が霊の賜物を求めなさいと言っているのは、第三の天の力を第一の天に応用しなさいということなのです。それをクリスチャンは出来ると聖書は言っているのです。第三の天の視点で第一の天を見る。それが預言です。私たちにとって、これ以上の知恵はありません。その第三の天から第一の天に送られてきた手紙がこの黙示録です。この黙示録には、これから現実に起こることが記されています。
今日の黙示録講義は、4回目です。3回目は、エフェソ教会までお話しを致しました。この7つの教会に宛てられた手紙は、地上に存在する全ての教会に宛てられた手紙です。エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの7つの教会は、ヨハネがこの手紙を書いた当時、西アジア地方に現存した教会であり、各教会時代を象徴した教会でもあり、そして、いつの時代にも存在している教会でもあります。大切なことは、7つの教会への手紙全てに、「耳あるものは、聞きなさい」と、イエス様が言われていること。イエス様は、全ての教会の霊的状態を全てご存知の上で、この手紙のメッセージを聞き逃してはならないとおっしゃっておられるのです。
スミルナ教会に宛てた手紙
スミルナという言葉は没薬を意味し、没薬は殉教を表しています。スミルナ教会は殉教者の教会です。この教会に対して、イエス様のお叱りの言葉は一つもなく、また、長く話す必要はありませんでした。ただイエス様はこの教会に対し、「死に至るまで忠実でありなさい」と書き送られました。真のクリスチャンは、これからの時代に迫害に遭うから、その苦難を耐え忍びなさいと言っておられるのです。
ここに、10日の間とありますが、何故10日なのでしょうか?それは、確かにクリスチャンには試練の時があるが、その期間は定められており、長くは続かないということなのです。ダニエル1章12節に、「どうか私たちを10日間試してください」とあります。また、復活したイエス様が昇天された後、弟子たちはエルサレムに留まり、聖霊のバプテスマが降るまで、彼らは10日間一心に祈り続けました。彼らにとって、その試練の時が必要だったからです。
スミルナの教会には、ヨハネの弟子で、ポリュカルポスという教会の監督だった人の殉教の話しが残されています。彼は、ユダヤ人たちに告訴され、ローマに対する反逆罪で火刑に処せられました。当時90歳だったポリュカルポスに、ローマ兵はこう言いました。「我々はあなたのような老人を殺したくはない。イエスを知らないとさえ言えば、それで放免してやるから、そう言え」と。
しかし、ポリュカルポスはこう言いました。「私は80年間近く、イエス様にお仕えして来ましたが、イエス様は私を一度として拒むことはなさいませんでした。そのイエス様を、どうして私が拒むことが出来ましょうか!」と言い、自ら殉教の死を選んだのです。イエス様はこのような殉教者の教会に対して多くを語ることなく、ただ10日間の間、死に至るまで従順でありなさいと言われたのです。
ペルガモ教会に宛てた手紙
ペルガモは、「塔」と「結婚」という意味があり、政治と宗教が一体となった教会という意味です。時代区分から言うと、キリスト教がローマの国教化となったローマの監督時代の教会。つまり、ローマ帝国と結婚した教会です。この教会には、「バラムの教え」と、「ニコライ派の教え」という大きな問題がありました。それに対してイエス様は、「悔改めよ」と警告しています。この「悔い改めよ」という言葉は、スミルナとフィラデルフィアの教会以外には、全て登場します。
バラムの教えのバラムは、民数記22-24章に登場する偽預言者です。バラムは、イスラエルの敵国だったモアブの王からイスラエルを呪わせるために雇われました。しかし、神の加護により、イスラエルを呪うことが出来ないことが分かったバラムは、イスラエルの兵舎にモアブの女性を送るようモアブの王に提言し、さらに偶像まで浸透させて、イスラエルを破滅に追い込んだ人物です。つまり、バラムの教えとは、教会を破滅に導くサタンの画策・知恵のことです。
ニコライ派の教えとは、この世と迎合した世俗的に堕落した信仰、宣教もしない、弟子訓練もしない、水で薄めたような骨抜きの信仰のことです。エペソの教会は、このニコライ派の教えを退けていましたが、ペルガモの教会は、これと妥協してしまいました。しかし、そのような堕落した中にあっても、イエス様は、信仰を守り通し、勝利を得るものは、白い小石を与えようと言っておられます。この白い小石とは、当時の裁判に使われていた無罪の証明であり、キリストの十字架における無罪の宣言です。バラムとニコライ派の教えが人々を惑わしている。これに十分注意しなさいと、イエス様は言っておられるのです。
ティアティラ教会に宛てた手紙
ティアティラとは、「女性の冠」という意味で、使徒に出てくる紫商人・ルディアが住んでいた街です。この街は布産業などの商業が盛んで、この街で仕事をするためには、街で開催される諸々の行事、儀式、祭りに等に参加することが義務付けられていました。
この教会には、「愛、信仰、奉仕、忍耐」がありました。ところが、その反面、恐ろしい偶像礼拝と宗教的姦淫が行なわれていたのです。この愛と姦淫の信じ難いギャップが、このティアティラ教会の特徴です。このことは、ローマカトリックのことを思うとよく分かります。この信じがたいギャップは、ローマカトリックの現状そのままなのです。
マザー・テレサや、井深八重さんなどの、カトリックの人たちの愛と奉仕に嘘はありません。表に出て行って神の愛を人々に示しなさい、貧しいものを助けなさい、これは、神の御心に叶う実に素晴らしい行為です。けれどもその反面、ローマ法王という単なる人間を神の代理としたり、聖母マリアを崇拝したり、7つの奇跡をつくったり等々、完全に間違った教理を捏造しています。
もっと言うと、カソリックが中世の暗黒時代において行って来た宗教裁判や魔女狩りほどサタン的な光景は、この地上にはありませんでした。彼らが聖書を独占し、自分たちの権力のために利用し、また間違った解釈によって、いったいどれだけ人間を殺し、迫害して来たことか、このような行為は、サタンの仕業以外の何ものでもありません。
ところが、イエス様は24節でこう言われました。「このような人たちの中にいて、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなた方に言う。私は、あなた方に別の重荷を負わせない」と。確かに彼らは、教理的に間違ってはいるのですが、一部のカトリック教徒たちの愛と奉仕の行いは本物であり、神に対する純粋な信仰、人々に対する愛を保っているのであれば、私は、あなたに罪の重荷は負わせないとおっしゃっているのです。
かく言うプロテスタントも様々な教派に分かれており、それぞれが自分たちが一番正しいと主張しています。中には自分たちの教理や伝統を、聖書よりも上に置いているような教団も少なくありません。そういった人間の自己流解釈は、決してカトリックだけのものではありません。神はいつも私たちの信仰の純粋さ、動機を見ておられます。そのことをこの手紙から学んでください。
サタンの奥深さとは、逆に聖書を用いて人々を迷わすことです。御言葉を使って人を裁く、間違った教理で人を不安と滅亡に陥れるのです。この教会は、時代区分から言うと、中世の暗黒時代の教会にあたります。しかし、そのような闇の時代の中にあっても、神への純粋な愛を失わなかった人たちがいたのです。
霊の目を開き、イエス様が私たちのために送ってくださった黙示録をよく霊の目で読んで見てください。そうすると、今までよく分からなかったこと、よく見ることが出来なかったことが、少しずつ見えて来るようになります。イエス様が、第三の天から送ってくださったこの手紙を、自分に宛てられた手紙として謙虚に受け止め、悔い改め、また、キリストの僕であることに誇りを持ちましょう!! (執筆担当 暢夫)
〔写真:スミルナはエペソの北、約56キロにある美しい港町。商業都市として栄え、ローマの女神の神殿があった〕
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今日、イエス様は、私たち僕(しもべ)の命のためにわざわざ語ってくださり、その話しを聞ける機会が、他の人々にも与えられています。この黙示録を朗読する人とこれを聞いて守る人は、幸いであると、イエス様は言っておられます。しかし、多くの人たちは聞く耳を持ちません。日々の生活に追われ、本当に大切なことを見失っているのです。とても残念なことです。
私の知り合いに、石井さんという日系人のおじいさんがいました。彼は50年程前に、大統領から表彰され、天皇陛下からも勲章を授与されたことがある人です。ある日、彼がりんごの木に登って庭仕事をしていた時、突然落雷がりんごの木を直撃し、石井さんは吹き飛ばされて、意識不明の状態で病院に運ばれました。ところが、その時石井さんは、「これがこの世の見納めかぁ、りんごの木も焼けちゃったなぁ・・」と、自分には意識があったと言うのです。
病院に運ばれたものの、彼の身体は全身打撲で骨はズタズタ、あと数時間の命と医師から診断されました。すると、石井さんは自分の体がすぅーと、宙に浮き上がるのを感じました。そして上を見上げると、神々しい眩いばかりの光が見え、その光の中からイエス様が彼にこう語ったそうです。「お前がここに来るのは未だ早い、戻りなさい」。そう言われて、彼は仕方なく元の自分の体に戻ったのですが、自分で身体を動かすことが出来ません。
「イエス様、おおせの通り、戻りましたけど体が全く動かせません。責任を取ってください」と言ったら、石井さんの枕元に白い石のようなものがあり、それ右の肩に当てなさいとイエス様が言われたので、そうしてみました。すると、右の体がすーっと癒され、次に左の肩につけると、左の体がまたすーっと癒され、彼は完全に癒されてしまったのです。
そうしてベッドから起き上がり、祈っている石井さんの姿を回りの人たちが見てビックリ仰天!また、起き上がれるはずのない彼を医師があわてて再検診してまたもやビックリ仰天!何とレントゲンを撮ってみると、ボロボロだったはずの彼の骨が全てつながっていたのです!!
その後、退院した彼は、イエス様に生かされたことを悟り、何か社会に恩返したいと思い、アメリカの各地に桜の木を植えることにしました。それから暫くして、当時、アメリカを綺麗にする運動を推進していたジョンソン大統領夫人が、この話しを聞いて、彼の町にわざわざやって来て彼を表彰しました。そしてこの話を領事館が聞きつけて、天皇陛下からの勲章となったわけです。
彼は、大統領の時も天皇陛下の時も、作業着にジーンズに荒縄のベルトという格好だったそうです。彼の姿に驚いた領事館の人は、慌てて彼に礼服を進呈したそうですが、石井さんはこう言ったそうです。「私はイエス様とこの姿でお会いしていますから、天皇陛下ともこの姿でお会いします。」と。このように素直で、真っ直ぐな人をイエス様は喜ばれています。石井さんは、いつも教会のクリスチャンの青年たちに、「心の底から信じれば、奇跡は必ず起こる」と話されていたそうです。この言葉は、私がとても好きな言葉の一つです。
この石井さんの体験は、一般的に臨死体験と言われているものです。聖書の中に、このようなことは書いてあるのかなぁと、思って読んでみますと、あるんですね。Ⅱコリント12章をご覧ください。2節にこうあります。「私は、キリストに結ばれた一人の人を知っていますが、その人は、14年前、第三の天にまで引き上げられました。体のままか、体を離れてか知りません。神がご存知です。」とあります。
第三の天があるということは、第二の天と第一の天もあるわけです。第三の天とは、神様がおられる所です。ここは究極の美と平安に包まれた神の国です。第二の天は、天使とサタンが入り混じり、霊的バトルが行なわれている場所です。そして、第一の天が、今私たちが生きているこの世界のことです。石井さんは、この第一と第三の天の接点を体験されたわけなのですが、このようなことは、決して私たちと無関係なことではありません。
聖霊を授けるということは、第三の天の力を第一の天において受けることを意味しています。聖書が霊の賜物を求めなさいと言っているのは、第三の天の力を第一の天に応用しなさいということなのです。それをクリスチャンは出来ると聖書は言っているのです。第三の天の視点で第一の天を見る。それが預言です。私たちにとって、これ以上の知恵はありません。その第三の天から第一の天に送られてきた手紙がこの黙示録です。この黙示録には、これから現実に起こることが記されています。
今日の黙示録講義は、4回目です。3回目は、エフェソ教会までお話しを致しました。この7つの教会に宛てられた手紙は、地上に存在する全ての教会に宛てられた手紙です。エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの7つの教会は、ヨハネがこの手紙を書いた当時、西アジア地方に現存した教会であり、各教会時代を象徴した教会でもあり、そして、いつの時代にも存在している教会でもあります。大切なことは、7つの教会への手紙全てに、「耳あるものは、聞きなさい」と、イエス様が言われていること。イエス様は、全ての教会の霊的状態を全てご存知の上で、この手紙のメッセージを聞き逃してはならないとおっしゃっておられるのです。
スミルナ教会に宛てた手紙
スミルナという言葉は没薬を意味し、没薬は殉教を表しています。スミルナ教会は殉教者の教会です。この教会に対して、イエス様のお叱りの言葉は一つもなく、また、長く話す必要はありませんでした。ただイエス様はこの教会に対し、「死に至るまで忠実でありなさい」と書き送られました。真のクリスチャンは、これからの時代に迫害に遭うから、その苦難を耐え忍びなさいと言っておられるのです。
ここに、10日の間とありますが、何故10日なのでしょうか?それは、確かにクリスチャンには試練の時があるが、その期間は定められており、長くは続かないということなのです。ダニエル1章12節に、「どうか私たちを10日間試してください」とあります。また、復活したイエス様が昇天された後、弟子たちはエルサレムに留まり、聖霊のバプテスマが降るまで、彼らは10日間一心に祈り続けました。彼らにとって、その試練の時が必要だったからです。
スミルナの教会には、ヨハネの弟子で、ポリュカルポスという教会の監督だった人の殉教の話しが残されています。彼は、ユダヤ人たちに告訴され、ローマに対する反逆罪で火刑に処せられました。当時90歳だったポリュカルポスに、ローマ兵はこう言いました。「我々はあなたのような老人を殺したくはない。イエスを知らないとさえ言えば、それで放免してやるから、そう言え」と。
しかし、ポリュカルポスはこう言いました。「私は80年間近く、イエス様にお仕えして来ましたが、イエス様は私を一度として拒むことはなさいませんでした。そのイエス様を、どうして私が拒むことが出来ましょうか!」と言い、自ら殉教の死を選んだのです。イエス様はこのような殉教者の教会に対して多くを語ることなく、ただ10日間の間、死に至るまで従順でありなさいと言われたのです。
ペルガモ教会に宛てた手紙
ペルガモは、「塔」と「結婚」という意味があり、政治と宗教が一体となった教会という意味です。時代区分から言うと、キリスト教がローマの国教化となったローマの監督時代の教会。つまり、ローマ帝国と結婚した教会です。この教会には、「バラムの教え」と、「ニコライ派の教え」という大きな問題がありました。それに対してイエス様は、「悔改めよ」と警告しています。この「悔い改めよ」という言葉は、スミルナとフィラデルフィアの教会以外には、全て登場します。
バラムの教えのバラムは、民数記22-24章に登場する偽預言者です。バラムは、イスラエルの敵国だったモアブの王からイスラエルを呪わせるために雇われました。しかし、神の加護により、イスラエルを呪うことが出来ないことが分かったバラムは、イスラエルの兵舎にモアブの女性を送るようモアブの王に提言し、さらに偶像まで浸透させて、イスラエルを破滅に追い込んだ人物です。つまり、バラムの教えとは、教会を破滅に導くサタンの画策・知恵のことです。
ニコライ派の教えとは、この世と迎合した世俗的に堕落した信仰、宣教もしない、弟子訓練もしない、水で薄めたような骨抜きの信仰のことです。エペソの教会は、このニコライ派の教えを退けていましたが、ペルガモの教会は、これと妥協してしまいました。しかし、そのような堕落した中にあっても、イエス様は、信仰を守り通し、勝利を得るものは、白い小石を与えようと言っておられます。この白い小石とは、当時の裁判に使われていた無罪の証明であり、キリストの十字架における無罪の宣言です。バラムとニコライ派の教えが人々を惑わしている。これに十分注意しなさいと、イエス様は言っておられるのです。
ティアティラ教会に宛てた手紙
ティアティラとは、「女性の冠」という意味で、使徒に出てくる紫商人・ルディアが住んでいた街です。この街は布産業などの商業が盛んで、この街で仕事をするためには、街で開催される諸々の行事、儀式、祭りに等に参加することが義務付けられていました。
この教会には、「愛、信仰、奉仕、忍耐」がありました。ところが、その反面、恐ろしい偶像礼拝と宗教的姦淫が行なわれていたのです。この愛と姦淫の信じ難いギャップが、このティアティラ教会の特徴です。このことは、ローマカトリックのことを思うとよく分かります。この信じがたいギャップは、ローマカトリックの現状そのままなのです。
マザー・テレサや、井深八重さんなどの、カトリックの人たちの愛と奉仕に嘘はありません。表に出て行って神の愛を人々に示しなさい、貧しいものを助けなさい、これは、神の御心に叶う実に素晴らしい行為です。けれどもその反面、ローマ法王という単なる人間を神の代理としたり、聖母マリアを崇拝したり、7つの奇跡をつくったり等々、完全に間違った教理を捏造しています。
もっと言うと、カソリックが中世の暗黒時代において行って来た宗教裁判や魔女狩りほどサタン的な光景は、この地上にはありませんでした。彼らが聖書を独占し、自分たちの権力のために利用し、また間違った解釈によって、いったいどれだけ人間を殺し、迫害して来たことか、このような行為は、サタンの仕業以外の何ものでもありません。
ところが、イエス様は24節でこう言われました。「このような人たちの中にいて、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなた方に言う。私は、あなた方に別の重荷を負わせない」と。確かに彼らは、教理的に間違ってはいるのですが、一部のカトリック教徒たちの愛と奉仕の行いは本物であり、神に対する純粋な信仰、人々に対する愛を保っているのであれば、私は、あなたに罪の重荷は負わせないとおっしゃっているのです。
かく言うプロテスタントも様々な教派に分かれており、それぞれが自分たちが一番正しいと主張しています。中には自分たちの教理や伝統を、聖書よりも上に置いているような教団も少なくありません。そういった人間の自己流解釈は、決してカトリックだけのものではありません。神はいつも私たちの信仰の純粋さ、動機を見ておられます。そのことをこの手紙から学んでください。
サタンの奥深さとは、逆に聖書を用いて人々を迷わすことです。御言葉を使って人を裁く、間違った教理で人を不安と滅亡に陥れるのです。この教会は、時代区分から言うと、中世の暗黒時代の教会にあたります。しかし、そのような闇の時代の中にあっても、神への純粋な愛を失わなかった人たちがいたのです。
霊の目を開き、イエス様が私たちのために送ってくださった黙示録をよく霊の目で読んで見てください。そうすると、今までよく分からなかったこと、よく見ることが出来なかったことが、少しずつ見えて来るようになります。イエス様が、第三の天から送ってくださったこの手紙を、自分に宛てられた手紙として謙虚に受け止め、悔い改め、また、キリストの僕であることに誇りを持ちましょう!! (執筆担当 暢夫)
〔写真:スミルナはエペソの北、約56キロにある美しい港町。商業都市として栄え、ローマの女神の神殿があった〕
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