Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

イエスの目的  ヨハネ 3:16-21

2009年04月26日 | Celebration
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

 今日の聖書箇所は、“小さな聖書”と言われるほど有名で、聖書全体の意味がこの言葉に集約されていると言われています。In-n-Outバーガーのコーラのカップや、ポテトのお皿の裏に「John 3-16」と書かかれてあるのを御存知ですか?若い女性の洋服屋さんFOREVER21と言うお店の袋を良く見ると「John 3-16」と書いてあります。野球の試合をテレビで見ていますと、スタンドで応援している人の中に、大きなボードに「John 3-16」と書いて掲げている人がよくいます。彼らはイエス様を人々に知って欲しいと言う願いで伝道しているわけですね。今日はその神の独り子、イエス様がこの世に来られた目的を三つお話しします。

 ある日本人の牧師が、月に一度韓国へ行っていると言うので理由を尋ねたところ、教会ではなくて刑務所を訪問しているということでした。何故かと言うと、ある日本人の若者たちが麻薬の密輸容疑で逮捕され、今韓国の刑務所に収監されていたからです。韓国の刑務所では週に一度牧師が面会に来てくれるそうなのですが、彼らは韓国語が話せないので牧師が何を言っているのかさっぱり分りません。そこで、日本人の牧師がわざわざ飛行機で面会に行っていたのです。

 今彼らは自由に人と連絡を取ることができません。罪を犯してしまったからです。彼らが出来ることは、誰かが自分のために会いに来てくれるのをただ待つことだけです。実は、私たち人間も彼らと同じ状況にいます。私たちは罪を犯してしまったが故に自分の方から神と会うことができないのです。多くの人は、自分が罪人であることを分からないままでいるのですが、その分からない私たちのために、イエス様の方から会いに来てくださったのです。イエス様がこの世に来られた第一の目的、それは私たちと会うためです。何のために・・・私たちを罪から解放するためです。

 もう一人の私の友人の話しです。彼は天体マニアで、『週刊天体模型』と言う1780円もする週刊誌を毎週楽しみに買っています。それには特別付録が付いていて、一年間、52週分の付録を集めると、立派な太陽系の天体模型が出来るのです。彼はショウコちゃんと言う娘さんと一緒に、その模型を楽しみに作っていました。ところがあるとき、ショウコちゃんがお父さんの留守中に模型を見て触っている時、「ポキッ!」と模型の一部が壊れてしまったのです。あれほど、お父さんが楽しみにして作っている模型。どうしよう・・怒られる。今まで楽しかったお父さんとの関係は一気に吹っ飛んでしまい、ショウコちゃんはお父さんに合わす顔がなくなってしまいました。次の日も、そしてその次の日も、ショウコちゃんは、自分の部屋に閉じこもって、お父さんと顔を合わせずに過ごしました。

 お父さんは、ショウコちゃんが模型を壊してしまったことを知っていましたが、ショウコちゃんを怒ることはせず、彼女が謝りに来るのをずっと待っていました。そしてその間に、夜遅くまでかかって壊れた模型を直していたのです。イエス様がこの世に来られた二つ目の目的は、壊れてしまった神様と人間との関係を修復させるためでした。ショウコちゃんが自分で模型を直すことは無理なように、私たち人間にはそれを修復することは出来ないのです。

 さて、土曜日の朝が来ました。お父さんは家にいます。どうしよう・・・ショウコちゃんは遂にお父さんお部屋に行って、うつむきながらこう言いました。「お父さん、ごめんなさい。お父さんの大切な宝物を壊しちゃった・・」それを聞いたお父さんはこう言いました。「違うんだよ。私の宝物は模型じゃなくてショウコ、お前なんだよ。私はこの模型をショウコにプレゼントするつもりで作ってたんだよ」怒られるとばかり思っていたのに、お父さんの一言も責めない愛の言葉に逆にショックを受けたショウコちゃんは、泣きながらお父さんに抱き付きました。

 お父さんが大好きなのに、顔を合わすことが出来なくなっていたショウコちゃんは、お父さんの無条件の愛(赦し)によって、ごめんなさいと本当に心から言うことが出来たのです。イエス様がこの世に来られた第三の目的は、私たちが罪を告白し、真の悔い改めに導くためです。神様と私たちの壊れてしまった関係を修復し、私たちを罪から解放するためにイエス様は十字架に架かり、三日後に復活してくださいました。このイエス様から私たちに差し伸べられた救いの御手を、どうぞしっかりと握ってください!(Ako)

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聖書的リーダーシップ Ⅰペテロ5:2-7

2009年04月19日 | Celebration




 聖書の出エジプト記には、虐げられていたイスラエルの民がエジプトを脱出し、神様が与えてくれた約束の地へ向かうことが記されている。総勢約300万人近いイスラエル民族を率いるカリスマ・リーダー、モーセは一般的にもよく知られており、多くの映画や小説のテーマにもなっている。今日はその優れたモーセのリーダーシップの資質を見みる。

 出エジプト記18章。舅エトロがモーセを訪れ、300万人対一人で問題対応に追われていたモーセに組織統制の方法をアドバイスする。現在も「エトロ構造」と名付けられているこの責任分担の定理は、ユダヤ国家が形成される前にイスラエル民族としてのアイデンティティを構築するために必要なプロセスであった。この人間組織を構成するためのシステムは、セルチャーチの原型になっている。教会は勿論のこと、あらゆる人間関係に於いて、プロジェクト前進させるリーダーに求められる条件を、幾つかの面から教えられた。

聖書的リーダーシップの条件
(1) 神を畏れる人
(2) 有能で、訓練された人
(3) 誠実な人
(4) 謙虚な人

リーダーに必要な要素
☆ VISION
構想、展望、洞察は不可欠。但しVISIONは、目的とは違う。目的は自分の力を自分で図って設定するものであり、神様の意志による幻、VISIONは、己のキャパシティを遥かに超えたものになる。神様の栄光を現し、そして人の助けとなっているもの。これらを満たしているものが、聖霊様に導かれるVISIONである。

☆ PASSION
熱意は、神様の御心を知ることで生まれ出る。VISIONの内に神様の意志を知った時、福音を正しく理解して神様に一歩近づいた時、熱い情熱が内から迸り、自分と周囲を動かしていく。

☆ DECITION
人生を懸けて成し遂げなければならないことを成すには、切り捨てるべきものがある。何かを得るためには、何かを手放すことになる。文字通り、「決断」すること無しに達成はあり得ない。

☆ ACTION
知っていても行わないなら、知らないも同じこと。実行無しには、すべてが無意味になる。展望を持ち、熱心に、決断したことを行うことが、人生を作り上げていく。

時間の管理者
Ⅰ 重要で緊急なこと
Ⅱ 重要で緊急でないこと
Ⅲ 重要でなく緊急なこと
Ⅳ 重要でなく緊急でないこと

Ⅰに追われた人生は、木を見て森を見ていない。Ⅱを優先し、Ⅳをカットすることで、重要なことに備える時間を多く取ることができる。神様が万人に平等に与えた「時間」を如何に制すか。これこそ、神様の前に第一に問われる管理者、リーダーとしての資質だ。

リーダーシップ発揮のための特質
A 価値認識力
  相手の良いところ、長所を把握することができる。
B 価値伝達力
  相手にその人の長所、優れた点を教えてあげることができる。
C 価値実践力
  相手が長所を生かす環境を整えてあげられる。

リーダーたる条件 by 現代経営学の父 ピーター・トラッカー
 自分の長所・特長を知っている。
 人のため、社会のために貢献したいという思いがある。

 この出エジプト18章は、神様が十戒を啓示される直前に、人間が守るべき基本的な原則として教えてくださっている箇所であることは注目に値する。つまり、神様は普遍の真理を知らせる前の環境条件として、小グループ(セル)に支えられた確固たる組織結成と、各役割分担に責任を担うリーダーの存在を望まれた。続く19章には、「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」とある。これこそセルチャーチ、神様の言葉に従うために必要なエクレシア(教会)の姿。真価を問われる21世紀、迫り来る不安に翻弄される人々のために、今こそ聖書の語る力強いリーダーシップが求められているのだ!(睦美)

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クリスチャン復活! Ⅰ コリント 15:3-8

2009年04月12日 | Celebration
HAPPY RESURRECTION

 クリスチャンのシンボルと言えば『十字架』ですが、十字架と復活は、福音の表と裏、2つで1つです。ところが、多くの教会が十字架の「死」について8割、復活の「命」については2割も語りません。何故でしょうか?死者の復活は、教理や理屈を遥かに超え、私たちの類推を完全に超越した出来事だからです。一般の人にとってキリスト教は、仏教やイスラム教など数ある宗教の内の1つに過ぎないでしょう。しかし、パウロが「復活がなければ、あなた方の信仰も宣教も無駄です」(Ⅰコリント15:14)と、実に明確に語っているように、この「復活」こそが、福音が他の宗教とは全く異なる点であり、2千年前の弟子たちは、イエス様の復活の出来事を人々に伝えていたのです。

 ルカの福音書に『エマオの途上』という話しが登場します。これはちょうど復活の日に、二人の弟子がイエス様に関する一連の出来事を話し合いながら歩いている時に、イエス様が彼らに近付いて話しかけられたにも関わらず、最初この弟子達は、その人がイエス様だと分らなかったという話しです。(24:13-35)また、復活されたイエス様が、一番最初に会った人はマグダラのマリヤでした。何故、イエス様はマリヤに最初にお会いになられたのでしょうか? それは、マリヤが一番イエス様と会いたがっていた人だったからです。いや、マリヤはイエス様以外に自分の居場所がなかった人でした。だから、誰よりも早くイエス様のお墓に来て一人で泣いていたのです。イエス様は復活されて、大勢の人たちと会われましたが、その時にイエス様と会わなかった人もいました。言い方を変えると、それがイエス様だと分かった人と、分からなかった人がいたのです。しかし、イエス様に会いたいと願っている人には、必ずイエス様の方から会いに来てくださいます。

 ヨハネの20章を見ますと、「見る」と言う言葉が、マリヤ、ペテロ、ヨハネの行動それぞれに出てきます。日本語では「見る」と言う同じ言葉が使われていますが、原語では、この3つの「見る」の意味はそれぞれ異なります。
マリヤが墓石が取りのけてあるのを見た。単に見たという意味。(20:1)
ペテロが亜麻布が置いてあるのを見た。注意して見たという意味。(20:6)
ヨハネが入って来て、見て、信じた。見て理解したという意味。(20:8)

 確かに死人がよみがえるなどと言うことは、今でも2千年前でもあり得ないことです。しかし、聖書にはこのあり得ない復活の出来事が、実に淡々と書かれています。聖書と自分の考えとどちらに信頼を置くべきなのか。どちらに信憑性があるのか。よく考えてみてください。私たちは、この復活の出来事を「よく見て、よく考え、そして信じる」ことが大切です。

 弟子たちはイエス様がローマ軍に囚われると震え上がって逃げだし、部屋に鍵をかけて隠れていました。ところが、この弟子達が殉教をも恐れない勇者に変えられてしまいました。いったい何が彼らを変えたのでしょうか? 彼らは自分が180度変えられる事件に遭遇してしまったのです。その事件こそイエス様の復活です。イエス様は十字架に架かられ、死んで3日後によみがえられ、天に昇り、神の右の座に着かれ、神の栄光が現われたその時、聖霊様が私たち一人一人の上に降ってくださいました。イエス様を信じることとイエス様と出会うということは違います。今の私たちにとって、イエス様と出会うということは、聖霊のバプテスマを受けることを意味しています。

 昨年のイースターは『イエス復活!』と言うタイトルでした。実は今日のメッセージはその続きなのです。まだこの後に実に大切なことが残されています。イエス様はクリスチャン復活の初穂となられました。(Ⅰコリント15:20)イエス様の復活によって、私たちが復活することが証明されたのです。このクリスチャンの復活を、日本語では携挙(Rapture)と言います。その時期については、私たちは知ることが出来ませんが、クリスチャンはその時期を悟り、準備しておくように通達されています。(マタイ24:32-33)

 実際にAD70年、エルサレムがローマ軍によって包囲された時、イエス様の言葉を知っていたクリスチャンたちは、オリーブ山に逃げて壊滅から免れることが出来ました。(マタイ24:15-16) このマタイ24章は、イエス様が終末の預言をされておられる箇所ですが、それは、偽預言者の登場→戦争や民族紛争→世界的飢饉と地震→不法の蔓延と愛の欠如→世界的福音宣教→天地異変→再臨。この順序で起こることが分ります。そして、再臨の印として最も注目すべき点の一つは、31節に記されている『ラッパ』です。

大きなラッパ (マタイ24:31)
最後のラッパ (Ⅰコリント15:22)
神のラッパ (Ⅰテサロニケ4:16)
第七のラッパ (黙示録11:15)

 このラッパの音を合図にイエス様は再臨なさいます。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方(黙示録1:4,4:8)」から、「今おられ、かつておられた方(黙示録11:17)」へ、つまり、この段階で、やがて来られる方が遂に来られるのです。黙示録には7つの封印、7つのラッパ、7つの鉢が登場しますが、再臨(携挙)は、第7の封印が開けられ、6つ目のラッパの後に起こります。このことは、実に多くの教会が理解出来ずにいることですが、私たちはしっかりと聖書を読んで、人の意見でもなく、自分の感情でもなく、聖書が何と言っているのかを、聖霊によってしっかりと把握しなければなりません。終わりの時が近付いています。イエス様が再臨される時、私たちクリスチャンもイエス様と共に天に挙げられます。信じられないことかも知れませんが、このことは必ず起こります。どうぞ信じてください。マナラタ、主よ来たりませ!! (Ako)


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思い悩むな! (マタイ 4:6-10)

2009年04月05日 | Celebration
 21世紀は、「本物の時代」と言われています。何故なら、本物しか生き残れない時代だからです。それと共に21世紀は「不安の時代」とも言われています。「苦労して学校を卒業しても、ちゃんと就職できるだろうか?」、「仕事でいつ、リストラの対象になるだろうか?」、「結婚しても、離婚しないだろうか?」「子供が元気に成長していても、ひきこもりになったりしないだろうか?」将来のことを考えると、漠然とした不安に襲われている人々が沢山います。

 それでは、「不安」とは一体何でしょうか?不安の定義は、「将来の出来事を予測して、その下準備をしている時に起こる興奮状態」を指します。ところが、自分の将来を考えて、前向きに善処すべきなのに、現実はまだ、何も起こっていないのに、悪いことばかり考えてしまい、不安を先取りしている人々が沢山います。反対に人生を前向きに生きている人々は、不安がないのでしょうか?理想を高く持っている人の方が、その現実と理想との間で付随する失敗や恐れを理解している分だけ、不安が大きいと言う調査結果があります。言い換えれば、理想の高い人ほど不安も大きいと言えます。それでは、不安を解消するにはどうしたらいいのでしょう?ある地方都市の精神専門医院が患者さんに、「あなたの不安解消法を教えてください」と調査をしました。その主旨は、同じような問題を抱えている方々の助けのためとのことでした。

編み物などの目的を持たない単純作業をする。
古いお墓ウォッチング(墓石にある年齢を見て、自分でもここまでよく生きてこられたと慰められる)
携帯用ウィスキーを常備し、不安になったら、クイッとあおる。
アンビエント(文責者、意味不明)な音楽を聴く。
カーナビ・ウォッチングで、自分の位置を常に確認する。
柑橘系とハーブ系の香りで部屋を充して、自分の好きな歌手の歌を大声で歌いながら踊る。
化粧を念入りにして、喫茶店に行く。
中島みゆきの『うらみ節』を聞いて、どん底の自分に酔う。
 などなど…。(文責者コメント:これらのことをして、本当に不安は解決されるでしょうか?一時の気休めでも不安から解消されたいと願う人々の苦肉の策だと思う反面、多くの人々が「藁をもつかむ思い」で生活されていることを教えられます。)

 今日の聖書箇所、マタイによる福音書6章25-34節にある御言葉が、イエス様によって語られた背景も「不安」でした。イエス様は沢山の弟子を連れてイスラエル中を伝道の旅をしていました。しかも、お金を持っていないイエス様は、その日、宿泊する所も決まっていない旅でした。イエス様は、自ら、「狐には、穴があり、空の鳥には、巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20) と言われているように、当時、イエス様の弟子になるには、今までの自分の生活全てを捨てて、弟子になる覚悟が必要でした。たとえ、自分の生活を全て捨てて、弟子になったとしても、お腹は空きますし、夜には、雨風が凌げる所で休みたいとも思います。弟子たちに不安がなかったわけではないでしょう。

 そんな中、イエス様は、弟子たちに対し、この御言葉を語っておられます。「思い悩むな。-心配するな(新改訳聖書)」(マタイ6:31)しかし、イエス様は、何の根拠も無しに「思い悩むな(心配するな)」と言った訳ではありません。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)と、イエス様は私たちに約束してくださっています。不安は誰の人生にも必ずあります。しかし、私たちは、それぞれの不安に囚われてしまい、悩み、真に歩むべき人生から離れてしまっています。私たちは、人生において、真に向かい合い、そのために、時には、悩み、真剣に考えなければならないことが3つあります。

「生きる意味」と向かい合う
 人は、自分のやっていることに意味を見い出そうとする生き物です。もし、自分の仕事や勉強などに意味を見い出せなければ、不安を覚えたり、悩んだり、そして、続けようとする気がなくなります。人生も同じです。人生に生きる意味が見い出せない人々は、生きることが苦しみになるのです。

「自分の罪」と向かい合う
人は、時として、自分の意図している事と反対のことをしてしまいます。人に親切にしたいと思っても、実際、困っている人がいると、見て、見ぬ振りをしてしまったり、悪口や噂話は良くないと思っていても、会話の中で、ついつい、他の人のことを悪く言ってしまったりします。私たちは、善を行いたい、社会に役立つことをしたい、悪いことをしたくない、と言う思いはありますが、現実は、良いことができず、かえって、したくないことをしてしまうことが多くあります。聖書では、それを「罪」と言います。聖書の中の偉大な人物であるパウロさんでさえ、「やりたくないけれど、やってしまう」罪に苦しみました。(ローマ7-18-25)しかし、私たちは、その現実に向き合う必要があります。

「死」と向かい合う
 人間の最大の不安は何でしょうか?それは、自分が、また、自分の愛する人がこの世の中からいなくなることです。人間は、誰一人、例外なく必ず死にます。そして、その死は、私たちには予測ができません。「死」は、私たち、人間の力ではどうすることもできません。しかし、「死」はそこに存在します。私たちは、どのように「死」と向かい合えばいいのでしょうか?人生において、この3つは、全ての人間に課せられた重要な課題です。この3つの課題に対し、答えを見い出せなければ、人生は不安でいっぱいになり、真の人生の意味を見い出すことはできません。

 不安の反対語は何でしょう?不安の反対語は、「安心」、「平安」と言えます。しかし、これらの言葉は、「受け身」です。もっと積極的な行動を伴う言葉を求めるならば、「信頼」と言えます。私たちが人生において真に「信頼」できるもの、それが決して私たちを裏切らず、私たちを最初から最後まで、安心、平安にしてくれるものであれば、私たちは、不安から解放されます。聖書の神様、イエス・キリスト様は、信頼でき、全ての不安の解決です。そして、人生最大の3つの課題にも答えを出してくださるのも、イエス様だけです。

 世界の社会福祉の基礎を築いたのはクリスチャンです。日本も例外でなく、社会福祉、福祉施設、社会保障、保険などと言う言葉も存在しない明治の時代にクリスチャンである、石井十次さんは約3000人の孤児を育てました。今でこそ、クリスチャンに対する偏見はありませんが、彼の時代は、クリスチャンは「ヤソ」と呼ばれ、差別もありました。たくさんの困難の中でも、石井さんは生涯を通じて孤児たちを育てました。なぜ、彼にそのような力があったのでしょうか?

 ある日、石井さんが、孤児院を存続させていくことが困難になった時、神様に祈りました。すると、神様は「お前が孤児を背負っているのではなく、私が孤児を背負っているのだ。」とおっしゃいました。それ以来、石井さんは、どんな困難にも立ち向かっていくことができたとおっしゃっています。石井さんと同じように私たち、クリスチャンも神様の子であり、神様の僕です。僕は、主人の言ったことに従っていれば、従うことによる、困難や責任は、全て主人が負います。ですから、私たちが神様に従っていく時に起こった問題は、神様が全て責任を取ってくださり、解決してくださいます。ですから、クリスチャンとして、「神様に従っていく」ことを明確にしていきましょう。神様に従っている人には、「神様の権威」と人間には考えられない「勇気」がその人を通して現われます。それが、石井十次さんが、人間の努力では到底、成し得ないとされることを実現できた理由です。

 石井十次さんは、こうもおっしゃっています。「この世の問題は、親のいない孤児ではなく、神様を知らない心と精神の孤児がいることである。」今の時代も同じです。多くの人たちは、自分の人生のあらゆる問題を解決し、真に頼れる、心の拠りどころを失っています。イエス様は、そんな私たちのためにこの世に来てくださり、私たち、全人類の罪を赦し、私たちの父である神様との関係を回復してくださるために、十字架に架かり、そして、復活されたのです。私たちも罪ある古い自分をイエス様の十字架につけ、新しい命に復活する新しい人生、イエス様と共に歩む人生を送っていきましょう。私たちがイエス様と共に歩む時、私たちが囚われていた問題から真に解放されるのです!(美鈴)


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