Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

招き入れられた人 Ⅰコリント 1:4-9

2009年07月26日 | Celebration
作り手の意図無しに、モノを作り上げることは何一つ出来ない。今、ロサンゼルス・ダウンタウンに建築中のガラス張り超高層ビルも、その機能に基づいて描かれた設計図に添って作られている。ビルが其処に建ちたいから建っているわけではない。作り手の確かな意図がある。人間も同じだ。人体と言うものを設計された方がいて、その設計に従って遺伝子構造から成るように創られ、その設計図が示すままに、私たち人間は話し、動き、考え、生きている。何故私がここにいるのか、何のために生きているのか、その答えは創造主に問うことでしか得られない。

 「創造主」と言うと、どうして神様は人間を創られたの?と質問返しに遭うことがある。これは世の中の親御さんに「どうして子供を作ったの?」と問うこととほぼ同じだ。親は、「完全コントロールできる子供が欲しかった。」とか、「働かせて、稼がせるため。」とか、答えるだろうか。人間創造の目的は、人が神を賛美し(詩篇102:19)、神が人を賛美する(ゼファニヤ3:17)こと、と聖書は語る。賛美は、愛情表現の最上級の形。創造という形で人間を賛美してくださっている神様に賛美を返し、互いに愛を表すこと。罪によって離れ去っている人間が神様に還り、関係が回復すること。神様はそれだけを求め、私たち一人一人を招いてくださっている。どのようにして人は招きいれられたか。三つのタイプの方の証しを聞いた。

体験型:露の五郎兵衛
 落語家師匠である露の五郎兵衛さんは、いくつかの体験を経て神様に出会った。戦争中、すぐ隣にいた少年が撃たれて死んでしまったが、彼は無事だったこと。また脳卒中の病から、奇跡的に治ったこと。また、舞台から落下する事故に遭ったが、足の骨折だけで済んだこと。そして、娘さんが牧師と結婚したこと。人生には、自分の力ではどうしようもないことがある。彼は戦争、病、事故から九死に一生を得た実体験から、『誰かに生かされている』と感じた。福音にある生きる力を体験的知ったのだ。神様は一つ一つの体験を通して、導き、招き入れてくださる。

知性型:C.S.ルイス
 ナルニア物語シリーズの作者として有名なC.S.ルイスは、幼少時はキリスト教信仰を持っていたが、少年期から大学時代まで無神論に陥った。大学時代、指輪物語の作者、J・R・R・トールキンと大学の文学サークルで知り合って親友となり、彼に伝道されて信仰に立ち返った。その後、多くの神学書や自叙伝、そして物語文学を著し、キリスト教を弁証している。神様は個人の知識を通して「知恵」を現し、招き入れてくださる。

救済型:井深八重
 日本には、日本人は知らない世界的には有名な素晴らしいクリスチャンがいる。日本のマザーテレサと呼ばれる井深八重さんは、名門良家に生まれ、容姿にも教養にも恵まれ、大正時代初期に英語教師となる華やかな人生を歩んでいた。しかし22歳の時、ハンセン氏病と診断され、家名のため戸籍を抜かれ、一人で富士山麓の病院に送られる。当時、不治の病と恐れられ、薬もなく、感染を避けて隔離病棟に閉じ込められた彼女は、「一生流す涙を半年で流しつくした」と後年述懐している。

 その絶望のどん底で、彼女はキリストに出会った。同じ病気で入院している患者を世話するためにフランスから来た宣教師の献身的な様子に、心を動かされる。そして、何物にも代えられない「キリストの愛と永遠の命」を知った。一年後に病が誤診とわかって病院を出ることができるようになっても、以前の空虚な人生に戻ることはできなかった。彼女の人生は全く変えられ、その後の人生をハンセン氏病の看護婦として一生を献げた。神様は真の愛の姿を通して、招き入れてくださる。

 パスカルは、「人間にとっての最高の理性とは、人間の理性では及ばないことがあると知ること」と言った。彼らは、自分の限界を知った時に、無条件に神様の愛と救いを受け入れざるを得なかった。確かに人生には、自分の力や思惑ではどうにも出来ないことがある。それを真摯に受け止め、謙虚に受け入れる時、神様を見ることが出来るのである。(睦美)


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うれしいな! 鈴木ケン師

2009年07月19日 | Celebration


本日は、田中先生の教会にてメッセージをさせていただける恵を感謝いたします。今日のメッセージは「嬉しいな!」というお話です。「嬉しいな!」とは、クリスチャンとしてどのように生活して行くことなのでしょうか。

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(ピリピ4:4)

 パウロは「いつも喜んでいなさい!」と断言しています。ここで大事なのは、主にあって、喜んでいなさい!と言っている事です。主にあって喜ぶとは、イエス様に従って喜ぶと言うことです。一般の人々の喜びとはなんでしょうか?自分さえよければ、家族さえよければ幸せ。自分に、家族にお金があったら、おいしいものを食べたら幸せ!自分中心の一時的な幸せ、喜びです。しかし、これらは本当の喜びとは言えません。今日本では学生対象に5人集めると5万円で韓国旅行へ行ける!と言うツアーがあったり、一般の方には3泊4日の9800円韓国旅行パックがあるそうです。旅行を安くいけるのはとても嬉しいことです、またそこでの観光の思いでも、美味しいお料理も楽しい思い出となることでしょう。しかし、それらの思い出もやはり、一時的な喜び、楽しみなのです。

 さて、クリスチャンにとっての喜びとは何ですか?勿論!クリスチャンも旅行が楽しいですし、美味しいものを食べるのも喜びです。しかし、最も嬉しい喜びは、イエス様を伝える伝道、神様からの大宣教命令を守ることです。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ28:19)

 伝道は牧師だけのものではありません。皆さんそれぞれに神様が語られていることです。教会の外を一歩でたら、伝道が始まるのです。福音を語ることだけが伝道ではありません。その人の態度、笑顔がキリストの香りを漂わせるのです。様々なサークル活動などでも伝道のチャンスはあります!クリスチャンの喜びは、伝道する喜びです。伝道する喜びと言うけれど、日本人はほとんどがノンクリスチャンですね。ある靴の会社があるところで靴のビジネスをしようと思いました。二人のセールスマンが視察に行ってみると、一人は、「あそこでのビジネスは難しいですよ。誰も靴を履いていません。」と言うと、もう一人は言いました。「あそこはすごいビジネスになります!誰も靴を履いていません」と言ったのです。後者の積極的なセールスマンは、靴を誰も履いていないので、チャンスがいくらでもある!と思ったのです。

 クリスチャンがとても少ない日本。私たちが一歩外に出れば、ノンクリスチャンに会うのです。伝道のチャンスがいくらでもあるのです。靴のビジネスにしても、日本人伝道にしても、前向き肯定的になることですが、何も思い煩わず、前向き肯定的になるには、「今、自分が何を見ているのか」と言うことが大切になってきます。今から一時間先、明日のこと、一年先、5年先、10年先…。実は私たちが見なくてはならないのは、死んだ後の事なのです。死んだ後のことが私たちの人生において一番のポイントなのです。

 私はクリスチャンになる前まで、誰にも言えない苦しみがありました。それは、死に対する恐怖です。8歳のときに読んだ図鑑に、45億年後に地球はなくなると書いてありました。それからというもの、地球がなくなる、いなくなるという死に対する恐怖がずっと続きました。月に一度、ふっと目が覚めては恐怖に襲われ、布団から出て家中を歩き回ります。結婚してからもその恐怖は続きました。誰でも新婚の頃は楽しいものですよね。起きているときはとても幸せなのに、ふと目が覚めると恐れが来ます。自分でこの問題の解決方法を探し、“年をとったらボケるんだから、そうしたら怖くないんだ!このことはまだ先のことだ、今考えるのはやめよう”などと自分なりの解決策を考えてしのぎました。こんな生活が8歳から48歳、教会へ通うようになるまでの40年間続いたのです。ある時、雑誌に日本語で礼拝があるという記事を読み、私は教会へ行くようになりました。何度か通っていると、その日のメッセージに、こんな聖書の御言葉があったのです。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

 この御言葉を聴いた瞬間「僕が探していたものはこれなんだ!これしかない!これにすがるしかない!」と思いました。イエス様を信じて、自分が一番だと思って生きてきた私の罪を悔い改め、私を造ってくださった神様に従っていこうと決意しました。今まで死に対する恐怖を持っていてそれを訳の分からない自己流の解決でごまかしていた生活が終わったのです。そうしたら、「嬉しいなぁ~」が沸いてきました。死は通過点です。死んだ後の世界があり、天国は素晴らしいところなのです。その天国が死後に待っているとなったら「嬉しいな~」ではありませんか?子供たちは遠足の前日は嬉しくて、嬉しくて眠れませんね。それは、自分たちがそこへ行ったら楽しいと分かっているからです。天国へいける!死んだら終わりでなく、その先に素晴らしいところがある!これはものすごい喜びなのです。この喜びが神様の証です。

 人生いろいろな困難があります。クリスチャンになっても問題はあるのです。しかし、問題はあっても神様にある希望があるのがクリスチャンです。6月にリビングライフ(QTガイドブック)に「心配の終わりは、信仰の始まり。心配の始まりは、信仰の終わりだ」とありました。私たちがいくら心配をしても自分ではどうにもならないけれど、私たちを造られた神様が解決してくださると信じれば、心配しなくていいのです。私達はイエス様を主としました。家族の問題、子供の問題、友達との問題、すべての問題を神様が解決してくださいます。子供は親と一緒にいると安心しますね。子供はお母さんがお財布にお金があるから安心しているわけではありません。主なる神様も私たちと一緒にいてくださいます。だから、何の心配も要らないのです。主なる神様が言われます。「いつも喜んでいなさい!」 私達は「はい!」と言って、喜ぶのです。聖書にはこうあります。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。(使徒16:31)

 日本人はクリスチャンが確かに少ないけれど、家族がイエス様を信じたらどんどん増えますよね。家族の救いはとても大切ですよ。私の家族、妻、息子2人、それぞれの伴侶、すべてクリスチャンです。2人の孫もクリスチャンになると信じています。家族へ伝道するには自分がどうしてクリスチャンになったのかをきちんと話せることが大切です。妻の母がクリスチャンになったときは、“聖書的脅し”で救われました。妻は母に言いました。「お母さん、死んだらお母さんと私は違うところへ行くのよ。私は天国行きの切符をもう持っているけれど、お母さんはまだ持っていないでしょう。」とお母さんをイエス様を信じる信仰によって天国へいけることを伝え、義母は信じたのです。

また、私の両親は私が日本へ行くたびに「イエス様の話をいつもするんだから!」といつも敬遠していたのですが、あるとき、私の話を待っていたかのように二人とも信仰告白をしクリスチャンになりました。聖書の御言葉をそのまま信じることによって、希望と喜びがやってきます。私たちの終わりのときは、天国の入り口です。イエス様が私たちの罪のために十字架にかかられて死んでくださり、三日目に復活されました。これを信じることで、私達は天国へいけるのです。これは素晴らしいことなのですから、私たちの生活の中から、否定的な言葉をなくしましょう。それは大変だ!はそれはやりがいがありますね!と変えるのです。どんな状況におかれても、前向き肯定的に生きて行く!これがクリスチャンです。

 私の父は90歳です。富士通で最初のコンピューター(プロジェクトX)を作ったスタッフの一人でした。富士通の同窓会では一番高齢のひとが乾杯の音頭を頼まれるそうですが、その日は父が頼まれました。父は言いました。「皆さん!イエスキリストを信じると天国へ行けます。皆さんもイエスキリストを信じて天国へ行きましょう!」父は、イエス様を信じてとても前向き肯定的な人生に変えられました。皆さんも是非、イエス様を信じて、信頼して、前向き肯定的な人生を歩んでください


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楽しい人生アルバムのつくり方 箴言2:1-8

2009年07月12日 | Celebration
思い出アルバムをつくる時、自分が怒っている時、泣いている時の写真を貼ることはありません。焦点がボケた写真も、構図がずれている写真も貼りません。喧嘩別れした人の写真は剥がしてしまうし、嫌なことは忘れようとするのが普通。しかし、心の中にある記憶アルバムには、いつまでも思い出したくないシーン、憎んでいる人、泣かされた人がいつまでも貼り続けられていることがあります。ひょっとしたら、喜んでいるシーンよりそんな嫌なことの方が多いかもしれません。そんなアルバムがあなたの人生の総記録だとしたら、それは美しい人生だと言えるでしょうか。あなたのたった一冊のアルバムにそんな嫌な写真ばかり残しておいて楽しいでしょうか。

 幸せとは、それぞれに与えられた使命と共に歩む時に自然に湧き出でる充実感のこと。だから、幸せそのものが人生の目的にはなりません。ましてや移り変わる富、地位、名声、異性、これらが一生涯をかける目的には到底なり得ません。欲望にはきりがなく、求めても求めても満ち足りることはないからです。幸せが使命によって得られるように、優れた人格を形成し、豊かな人生を作り上げるためには、神様がそれぞれに与えてくださっている「試練」によって磨かれることが必要なのです。淀川長治さんが、「苦労よ、来い!」と仰ったように、試練に前向きに向かい合ってこそ、人生の彩りがあります。人生アルバムを整頓し、楽しく人生アルバムを作っていくための五つの知恵を教えていただきました。 


ポイント① 経験よりも、知恵から学べ!
いかに幸いなことか 知恵に到達した人、英知を獲得した人は。(箴言3:13)

 人生には二人の教師がいます。一人は「結果」といい、私たちもこれまでの人生で、この「結果」から教えられたことは数多くあります。ここから学んだことは確実で有効ですが、ここから真理を得るためには、あまりに多くの時間と犠牲が必要になります。神様は、ダビデの血を吐くような悔い改めを喜んで受け取ってくださいましたが、私たち全員に同じように不倫や人殺しという過ちを経て神様に近づくことを求めていらっしゃるのではありません。だから、学ぶべき人間の失敗の歴史を残されているのです。それが、もう一人の教師、「知恵」から学ぶということです。聖書には、決して「聖い人が書いた聖いこと」が書いてあるのではありません。人間のありのままの姿を記し、失敗を記録し、自分に都合よい道ではなく、正しい道を選ぶように神様が教えてくれているものなのです。


ポイント② 常に前向き肯定的スタンスで物事の両面を見る。
未熟な者は何事も信じこむ。熟慮ある人は行く道を見分けようとする。 (箴言14:15)

 この世はすべて両極から成り立っています。光と闇、男と女、プラスとマイナス、表と裏、十字架と復活。つまり苦難というマイナスがあれば、それに相応するプラスが確かにあると物事を捉えることができます。神様はいないと思って見れば、いない証拠しか得られませんが、神様はいるとした時、神の臨在を知ることができます。人の悪いところを探せば、限りなく悪い人になり得ますが、良いところを探そうとすれば、その人のためにも十字架に架かられたイエス様の愛を知ることができるのです。かのレーニンは、子供の時に「キリストは十字架で苦しまれたから、私たちも苦しまなければなりません。苦しむことはいい事です!」と聞かされ、偏見を抱いてしまったために、キリスト教を完全拒否してしまったそうです。彼が神様の真の愛の広さ、深さ、大きさを知っていたら、人類の歴史は変わっていたに違いありません。物事には表裏があります。だから、良い方を見る姿勢が大切です。


ポイント③ ディテールに拘りすぎて、本当に大切なものを見失わない。
牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが 豊作をもたらすのは牛の力。(箴言14:4) 

 とは言え、日常生活にはストレスになることが溢れています。好きになれない人は必ずいますし、煩わしい人間関係に誰もが悩んでいます。そんなあなたの抱える人間関係の悩みを一挙解決する!という聖句が、上記箴言14:4。問題を完全に取り除くなら、手元には何も残らない、という悲惨な状況。今ある問題をポジティブに考えることによって、それは何かを生み出す力になります。だから、枝葉を取り去るような細々した問題に対処する作業に費しているばかりでは、事の本質に向かい合うことを忘れてしまうのです。木を見て森を見ないことがあっては、ほんとうに大切なものを見極めることができません。


ポイント④ 基礎が大切。そして、良い環境が大切。
理解力のある人にはそれがすべて正しいと分かる。知識に到達した人にはそれがすべてまっすぐであると分かる。(箴言8:9)

 ハワイにあるニューホープチャーチのW.コデイロ先生は、学生時代にラケットボールで活躍されました。トーナメント戦でもよい成績を収めましたが、ある時、伸び悩みに遭います。コーチに相談すると、フォームを変えるように薦められました。しかし、慣れないフォームのせいでますます状況は悪くなり、思い余って再度別のコーチに相談すると、同じことを言われ、フォームの基本を徹底的に直されることになったのです。ラケットボールに限らず、どんなことでもある程度までは自己流でも通用します。しかし上を目指していく時、基本を正しく守ることが欠かせません。キリスト者の基本は、祈ること、聖書を読むこと、ディボーション、交わり、学び、そして礼拝すること。この基本に忠実である時、成長しないはずがないのです。そして基本から外れてしまわないように、共にいる良い仲間、教えてくれる良い教師、良い環境に身を置くことが、人生にとっての重要なキーなのです。


ポイント⑤ NEVER GIVE UP!
神に従う人は七度倒れても起き上がる。(箴言24:16)

 ローズボウルで全米一を決する試合中、ヴァージニア工科大学の選手ロンは誤って敵側にゴールして、前半戦を負け越してしまいます。後半戦を前に意気消沈するロンを、コーチはメンバからはずすことなく、力強く励まします。その言葉に彼は立ち上がってコートに出て、見事な活躍を見せました。決してあきらめないこと。人間関係において、人生の苦境において、諦めてしまいたくなる状況であっても、あきらめてはいけません。神様は、私たちを愛することを絶対にあきらめられません。希望を捨てることはありません。キリスト者はノックダウンされても、ノックアウトされることはないのです。


さて、これら5つの知恵を教えていただきましたが、知恵は行いに移していなければ知っていることになりません。人生を前向きに、楽しくする実践ポイントのおまけ付き!

自分が感謝する人二人に手紙を書く。人に感謝を表すことが、巡りめぐって自分にも届きます。
一日最低6回笑いましょう。笑いは免疫力をも上げるのです。
自分を愛しむ時間を持つこと。自分を大切にすることなく、他人を大切にできません。
新しい友達をつくること。人生の幅を広げ、世界を広げるために!


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実りある人生 ヨハネ 15:1-7

2009年07月06日 | Celebration

人生はよく木に喩えられる。聖書でも、その人の本質は「実」によって知られる、とある。「実」とは何だろう。財産?地位?名誉?家族?教養? これらを持つ人が良い実の生る良い木で、持たなければ悪い木なのだろうか? 「実」とは、その人の人生が何に根差しているか、何を指針としているかが分るもの。同じように見える木々の中で、実を見ればリンゴの木とわかり、実を味わえば良いリンゴの木と認められるように、その木の善し悪しが分る。聖書は、人生と言う木が結ぶべき「実」は、ガラテア5章にある「御霊の実」である、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制だと言う。これらの実の状態は、本人に分らない。実を取って食べるのは、他の人だからだ。

今日の聖書箇所は、有名な「ぶどうの木の喩え」。福音者に喩え話は多々あるものの、ヨハネにはたった二つ、このぶどうの木の喩えと、羊と羊飼いの喩えしか記されていない。羊がキリスト者を指すように、ぶどうも神の民、「イスラエル」を表している。イエス様は最後の晩餐で、ぶどう酒を飲んで弟子達との約束のしるしとされた。ノアは洪水の後、農夫となってぶどうの木を植えた。そして詩篇80章には、神様がぶどうの木をエジプトから移して植えられ、木はこの地に広がった、とある。ぶどうの特質は実にキリスト者のモチーフなのだ。

ぶどうは、厳しい環境下でも育つことが出来るそうだ。実際に、砂漠がほとんどのイスラエルで、ぶどうは今もその経済を支えている。深く深く伸ばした根から、地中奥深くを流れる地下水を吸い上げて成長する。苦難の内に命の水を求めて生きるキリスト者の姿のようだ。また、ぶどうは幹と枝の区別が付き難い。イエス様は、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝」と仰ったが、それは信じた時にイエス様に繋がって一体化した様子そのまま。そして、神様がその木を育ててくれるのだ。また、ぶどうの木は、実を結ぶ以外は何の役にも立たない。薪にするには燃え難く、木工細工にも使えない。ぶどうの木の唯一の使命は、美味しい実をつけることだけなのだ。

イエス様は、十字架に架かる直前にこの喩えを弟子達に話された。「人生の実をつけなさい。」はイエス様の遺言だ。人はその人生に、全く実をつけていないか、少しだけ実のあるか、豊かに実を結んでいるか、この三種類に分けられる。そしてそれらすべての人に対して、聖書には「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」とある。実を結ばない枝は「取り除かれ」、実を結ぶ枝は「手入れをされる」。

 前者の「取り除く」は、厳しく聞こえることもあるだろう。が、これは原語ギリシャ語動詞では、「アイロー」と言い、「持ち上げる」という意味もある。つまり、地面に倒れてしまって実をつけられない枝を、神様が「持ち上げて」くださるのだ。実を結ばない状態から変えられること、これが前者「アイロー」状態の人。そして後者の「手入れをされる」のは、別訳では「刈り込みされる」とある。結実準備OKだから、より多くの実を結ぶために、神様が余計な葉を刈り取って「手入れをされる」状態の人だ。

どちらも状態が大きく変わることになる。今まで地面に寝そべっていたのに、いきなり持ち上げられてしまう、あるいはふさふさと葉を茂らせてナルシズムに浸っていたのに、いきなり丸坊主に近くなる。思いがけない変化と共に痛みや不安が生じる。しかし、これは結実のためのステップなのだ。どちらの状態の人も驚き怪しむことなく、試練に対処してこそ、人生に実りを得る。

STEP① 「痛み」から気付くべきこと
アイロー状態の人:自分の内にある「
刈り込み状態の人:神との関係における「平安

STEP② 気付いた後、手放すべきこと
アイロー状態の人:「」と決別する
刈り込み状態の人:「自我」から離れる

STEP③ 神に対して応答すべきこと
アイロー状態の人:「悔い改め
刈り込み状態の人:「信頼

このステップを経ながら、枝はますます実を豊かに結んでいく。枝が木から離れては、決して実を付けることはないのだ。イエス様は、ぶどうの木の喩えを語りながら、9回も「わたしにつながっていなさい」と繰り返された。この「つながる」という動詞には、「泊まる、滞在する」という意味がある。私たちとイエス様の関係は、コンセントのように簡単に切ったり繋げたりするものではなく、イエス様の内に留まり続けて一体化すること。詩篇80章の、「わたしたちはあなたを離れません」は、「わたしにつながっていなさい」と言われたイエス様への応答である。実りある人生の秘訣。それはただ、イエス様としっかりとつながっていることだけなのだ。(睦美)


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