Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

慰めの人 Ⅱコリント1:4-7

2010年09月19日 | Celebration
 私たちは、クリスチャンとして福音を語る時、最も難しいと思うことの一つは、最愛の人を亡くして悲しみのただ中にいる人を、どうやって慰めたら良いのか?ということである。

 滝元明師の9人目の子供は、生後1ヶ月で亡くなった。「大勢いるから一人くらいは…」と考えるのは子どもを持ったことのない人。滝元ご夫妻は深い悲しみの中にあった。その時、ある教会の夫人が一言も言わないで、二人をただ、ぎゅっと抱きしめて一緒に泣いてくれたそうである。おそらく彼女も同じ経験があったのではないか。

 こういった時に、精神学的、神学的にどうのと言ったところで、何の効果もない。「主よ、なぜこのようなことが起きたのですか?」という回答不可能な問いに対して、「何故?」ではなく、「何のために?」と問うならば、「それは自分と同じ苦しみの中にある人を慰めるため」という一つの答えを見出すことが出来る。

 気落ちした病人も、偏屈な老人も、やけ酒を飲むオジさんも、道を踏み外した若者も、殻に閉じこもった子供も、自信喪失の人も、自信過剰な人も、彼らに共通しているのは「自己中心」ということともう一つ。それは、彼らは「慰め」を必要としているのである。


人生最大の悲しみ

 半年前、私の友人の牧師が、奥さんを癌で亡くされた。彼は人前ではびくともしない非常に精力的な男で、本人も、自分はタフガイだという認識を持っていた。ところがその彼が、奥さんの死亡診断書等の重要書類を紛失してしまった。確かに受け取ったことは憶えているのだが、その後まるで記憶が飛んでしまったと言う。彼は奥さんを亡くした悲しみの余り動揺し、その時に何をどう行動したのか、全く分からずにいたのだ。

 悲しみとは喪失感情。それは何か大事なものをなくした時に生まれる気持ちである。事実、人生最大の悲しみは、最愛の人を亡くした時である。愛する人を失うことほど切なく、辛いことはない。その肉体にまでダメージを与える悲しみの大きさに人は圧倒されてしまうのである。

神からいただく慰めによって、私たちも、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる。キリストの苦しみが満ち溢れて、私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めも、キリストによって満ちあふれているからです。 

 この手紙の3-7節の中には、「慰め」という言葉が実に9回も出てくる。どうしたら人は慰められるのだろうか?慰めとはどういうことなのか?聖書はそれをどう語っているのだろうか?


真の慰め

 私たちの人生には様々な問題が発生する。それは教会とて例外ではない。しかし、その問題で、「弱い者や病人が多くなり、死んだ者も大勢いる」としたら、それは相当深刻である。コリントの教会は、そのような異端や不品行等の深刻な問題を抱えていた。(Ⅰコリント11:30)パウロはそれに心を痛め、コリント教会に向けて何度も手紙を書き、エペソから海を渡って訪問し、かなり厳しい方法で問題解決を試みた。

 ところが、そのパウロの解決方法は、コリント教会の人々にとっては逆効果となり、パウロ自身も深く傷付いた。パウロはその痛みの中から、「涙の手紙(2:4)」を書いた。その後、テトスからコリント教会の人たちが悔い改めたという知らせを受けたパウロが、「罪を悔い改めた人々を神は慰めてくださる。この神というお方がおられなかったら、私たちは生きて行くことはできない!」という喜びを綴ったのがこの手紙である。

 この3-7節の中に実に9回も登場する「慰め」は、「側に呼ぶ、呼び寄せる」と言う意味の「パラクレオー」から発生した「パラクレートス」=「助け手」、「通訳する者」、「元気付ける人」、「励ます人」、「慰める人」。と言う言葉で、ヨハネ(14:16,26/15:28/16:7)と、ヨハネの手紙(Ⅰ2:1)では、『弁護者』と訳されている。この弁護者とは『聖霊』のことである。

 聖霊がいつも私たちの傍らにいてくださって、助け、弁護してくれているように、『慰める』とは、『悲しんでいる人々の側にいる』ということである。一般的に旧約聖書の神は、厳しい裁き主というイメージがあるが、パウロにとっての神は、「慈愛に満ちて慰めを豊かにくださる」優しい聖霊なる神であった。

 聖書には、二人の慰めの人が登場する。慰めの人と言われたバルナバと、慰めという名前を持つノアである。ノアはどういう意味において、慰めの人だったのか?彼が優しい性格だったという意味合いだけでないことは確かである。

 彼は新世界に着いて、先ず最初に家族で神に礼拝を奉げたということが、彼が慰めの人となり得たことの所以である。神はノアの礼拝を受けて、人類に対して再創造の契約をされ、その契約の印として虹をおかれた。(G9:1-17) つまり、ノアは礼拝を通して、他者を慰める人となり、新世界の最初に立つ人とされた。聖書における慰めとは、単に悲しんでいる人を励ますということではなく、神から慰めを受けた者は、その神からの慰めによって、人を慰め、互いに慰め合うことが出来るということなのである。


心理と真理

 精神医学の権威で自殺心理の専門家・大原健士朗氏は、「孤独」が、自殺、鬱病、引きこもりの大きな要因となっていると分析した。著書「孤独の心理学」には、妻に先立たれた氏の悲しみが、切々と記されている。彼は最愛の妻を亡くしたという現実を前にして、心理学・精神分析学によって、徹底的に自分の内にある心理を見つめ直そうとした。彼はこの本の中で、「永遠の命を信じることが出来る人は幸せだ」と言い、実際に孤独に負けることなく、すがすがしく生きた一人のクリスチャン女性(奥さんの友人)の生き方を記している。

 本書の要点は、「人は周囲の人々に支えられながら生きていくもので、一人では決して生きて行けない」そして、「人生目標を設定して、計画的・建設的に人生を生きること」という二であった。確かにそれは事実だが、そこに提示されているのは『厳しい人生における死の現実』であって、そこからの『救い』ではない。

 何故なら、孤独、悲しみというものは、決して心理学や精神分析学では癒すことが出来ないからである。ちなみに聖書には、『孤独』と言う言葉は、詩編に二箇所あるだけで、新約聖書には一度も登場しない。聖書は、人間の孤独という心の状態を語るのではなく、その状態に対する「答え」に重きを置いている。その答えとは「慰め」である。


真の「慰め」は自分のことではなく、相手のことを思うこと

 私の友人の牧師は、その時の体験をこう語った。「私は妻の死という事実と正面に対座し、聖書の御言葉を求め、自分のことを考えるのを止めた時に、悲しみの嵐が少しずつ去って行くのを感じ、希望の光が見えた」と。

 つまり、彼は妻に先発たれた夫という自分の立場から、死んだ妻のことを中心に考えてみた。すると、客観的事実が違った角度から見え始めと言う。それはもし、自分が彼女の立場で、彼女が自分の立場だったら、今頃彼女はどうしていただろう?それを考えた時に、「そうか、妻はこんなに辛い思いをしないで済んだ」という安堵感だった。

 私は天国に行くから良いけれども、残された妻は3人の子供を抱え、女手一つで必死になって生きて行かなければならない。そんなことを想像すると、この辛さを妻が背負う代わりに、自分が担っているのだと思うと、これで良かったのだ。という思いに至った。その時、彼は悲しみのただ中で、神からの深い慰めを受けたと言う。感情に流され自己憐憫に陥ることなく、悲しみの根本を見つめ、本当に慰めを必要としているのは、誰なのか?ということを、知ることである。


天国(永遠の世界)への安堵感こそ真の慰め

 今年の三月、私の父が他界した。その時も、周りの人たちから多くの慰めをいただいた。その時私は、死というものを真剣に考えざるを得なかった。死がやってくると、私たちはこの地上からいなくなる。どんなに有名な人でも、どんなに社会的に影響力がある人でも、死んだ瞬間から過去の人になる。私たちはここに不安を感じる。それは自分という存在がなくなってしまうことに対する不安である。

 そして死は、誰一人例外なく、私たちの立場とか都合とかを全く関係なく降りかかってくる。この事実に対して、人間はどうすることも出来ない。私たちがどういう時に不安を感じるのか?それは、自分にはコントロール出来ないものに自分の運命が支配されている時。だから人は死が怖いのである。

 キリスト教と他の宗教の違いは、この三次空間とは別に、四次元(多次元)空間、つまり霊世界の存在を明確に信じているという点にある。しかも、三次空間において与えられた時間は、たかだか百年、しかし、天国においては時空を超えた永遠の時。つまりクリスチャンとは、悔い改めることなく、天国に行けなかった大統領より、悔い改めて天国に行った泥棒の方が、幸せなんだという価値観で生きている人のことである。

 では、天国は実在すると、何故そう言えるのか? それは、キリストが十字架の死後、三日目に復活された方が、本当に天国も地獄もあるのだということを証言しておられるからである。天国は、哲学でも宗教でもなく、目撃者による証言なのだ。つまり、最愛の人は死んでいなくなってしまったのではなく、今も天国で生きている。しかも、そこは悲しみも、涙も、分れも、病も、罪も悪もない美しく、平安な世界なのだ。


ケネスのこと

 キャサリン・マーシャルというクリスチャン作家が、ケネスという不治の病を患っている12才の少年の話しを書いている。彼は自分の体がどんどん衰弱していく内に自分は死ぬんじゃないかと考えるようになる。ところが、死とは何なのか。死ぬということは、どういうことなのか、教えてくれる人は誰もいなかった。

 ある日、ケネスはとうとうお母さんにこう質問した。「お母さん、死ぬってどんな感じなの?死ぬって痛いの、死ぬってどういうことなの?」不意を突かれた母親は絶句し、こらえきれずに一旦部屋の外へ出た。そして、神に祈り、心を落ち着けながら、ケネスの所に戻ってこう説明した。

 「ケネス、あなたはよく、表でへとへとになるまで遊んで家に帰って来て、疲れて着替えることもしないで、よくソファやお母さんのベッドで寝てしまっていたでしょう。でも、朝目が覚めたらどうなってた?あなたはパジャマを着て自分のベッドで寝ていたでしょう。それは、お父さんがあなたをちゃんと抱きかかえて部屋まで運んで、パジャマに着替えさせてくれたからでしょ。死ぬって言うことは、そういうことよ。

 あなたが目が覚めたらイエス様が、あなたのために用意してくれていた部屋にいることに気付くの。イエス様はあなたのことが大好きで愛してくださっているから、あなたをしっかりと抱きかかえて、天国というあなたの部屋に連れて行って、光輝く栄光という光のパジャマを着替えさせて、輝かしい朝を迎えさせて下さるのよ。」

神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(黙示録21:3-7)


悲しみは人を真の救いへと導く扉

 「死への不安」の反対に位置する言葉は何か?「死への平安」は間違いではないが、もっと具体的・積極的な言葉がある。それは「信頼」である。人間は絶対的に信頼出来る存在と繋がっている時に、不安から解放される。何があっても、自分を助けてくれる存在を信頼している時、人は不安を生じることはないのである

 人は、失った存在が自分にとって大きければ大きいほど、その悲しみは大きくなる。しかしその一方、悲しければ悲しいほど、辛ければ辛いほど、神の究極の愛が私たち心に迫ってくる。何故なら神もまた、最愛の一人子イエスを十字架の上で亡くされたから。しかも最も惨い方法で。こんなに辛く、苦しく、悲しい思いをしてまでも、神は私たち人間が死後、永遠の地獄に行かないために、その身代わりにイエスを裁かれた。

 人生の目的は、悲しみをなくすことではなく、悲しみを実りあるものにすることである。事実、私たちの最も重要な働きは、私たち自身が最も苦しんだ体験から生まれてくると言っても過言ではない。それが、私たち人間が持つ真の優しさとなり、真に人を慰められる力となる。自分の力を誇るよりも、自分の弱さの中に現われてくださった神の恵みと慰めを分かち合った方がどれだけ聞く人の励みになるだろうか!?

 人は悲しみによって、キリストに近づき、祈り、考えることが出来るようになる。深い悲しみには、虚栄や傲慢が入り込む隙間がないからである。そういった究極の場所に立たされた時、どんな話や、どんな心理学の本よりも、イエス・キリストの愛によって、心と霊が慰められる体験が、必ず出来るはずである。

 「幸いなる哉、悲しむ人々よ!彼らは慰めを受ける!」と、イエスが山上(5:4)で叫ばれたように、私たちは、ただ悲しみを体験しただけではなく、その悲しみの上に更なる神の慰めを受けた。その慰めを受けた者同志は互いに慰め合うことが出来る。この救いの福音には、人間を罪と死から解放し、あらゆる苦難と悲しみを慰める力が備えられているのだ。

 私たちの周りには、悲しみ、傷つき、人間不信に陥り、孤独で、正体が分からない不安に怯えている人たちで溢れている。そんな彼らの孤独な魂に、真の慰めであるイエスの愛を伝えよう


 




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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
感謝 感謝 感謝 (AKO)
2010-09-22 15:41:03
どんな痛みも慰めて下さる神様の御名を心から賛美いたします。私の父が礼拝に出席し、イエス様の慰めを受けました。
そして、イエス様を主と受け入れ、受洗し、クリスチャンとなりました。ハレルヤ。 私たちの人生にはどうしてもイエス様の慰めが必要です。自力ではダメ。
死への不安の解消のためには、主なる神への信頼しかありません。礼拝後、クリスチャンの真髄の感動体験をし続けております。感謝で言葉になりません。
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慰めアプリケーション! (睦美)
2010-09-23 04:54:19
AKOちゃん、よかったね!ほんとうによかった。これしか言葉が出てきません。千次さん、WELCOME TO GOD'S FAMILY! ハレルヤ。

このお証を伺って、また礼拝メッセージから、ここに「答え」がある!ことを深く感じました。今この世で味わてちる悲しみ、さみしさ、苦しさ、辛さ、そんなことが何故あるのかではなく、何のためにあるのかに目を向ける。それらの先にイエス様が待っていてくれるのを見るためだ。

私もまた、家族のために、友人のために、祈って行こうと励まされました。主に感謝。
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感想 (ノブオ)
2010-09-25 06:10:54
 悲しく、つらく、大変な体験は、多かれ少なかれ誰でも体験したものであると思うが、これらの体験を客観的に評価したら、それこそ大小様々であろう。でもその悲しみの中にいる人は、その状況に拘わらず、とかく自分を中心に自己評価して嘆いているのが現実ではなかろうか。
 ここで大切なのは、イエスキリストを中心に視点を置いているかどうかである。本当にイエスキリストの十字架の親類救済の神様のメカニズムを理解できたのなら、愛とは何であるのか、我々クリスチャンの何を使命とすべきなのか、相手/隣人を思う/愛することが真の慰みとなることを理解/体得すべきである。

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