Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

我が友イエス ヨハネ15:13-17

2010年02月07日 | Celebration
 あなたにとって「親友」の定義は何でしょうか?友人は、人生においてかけがえのない財産です。でも、今までの人生で「親友」と呼べる友は決して多くはないはず。友達とは、親子とも、夫婦とも、恋人とも違う、互いの自由意志に基づいた関係です。長年会っていなくても親友であり得るし、利害関係も束縛や強制のない全く自由な関係です。しかし、私たちはその自由さを履き違えて、時にその貴重な友を自分主体に取り扱ってしまうことがあります。世間的に「良い友達」の条件として挙げられているは、楽しい人、明るい人、気の合う人、ベタベタしない人、同じ趣味の人、空気が読める人、話しやすい人など、どれも自分にとって都合の良い人ばかり。自分の人生を楽しくしてくれる人、果たしてそれが真の友と呼べるのでしょうか? 聖書が「友」について語っているところ、となると、まず本日の聖書箇所が思い浮かびます。

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:13)

 この御言葉は福音の核であり、イエス様の愛を明確に語っている箇所です。しかし、この御言葉を、ヒューマニズムと混同してはなりません。ここで読み取るべきイエス様の思いは、天地万物を創り、時空を超越して宇宙を統べる神様が、私たちを「友」と呼んでくれていることです。世の中に宗教と呼ばれるものは山ほどありますが、信徒を「友」と呼ぶような宗教は、何処にもありません。どれも教祖を高みに置き、そこまでの長い道のりを修行して登ることを求める上下関係です。ただこの福音だけが、神様と被造物である人間を同等としてくれているのです。それは、神様が私達との間に、聖書という愛の契約を立てられたからです。

 契約とは、同等の関係でなければ成り立ちません。国家という権力と一市民の間にあるのは、契約ではなく、命令です。力関係の差があるため、反対は認めらず、有無を言わせず服従を強いられるのです。ですから、イエス様は敢えてここで友達関係を取上げ、力で押さえつける命令ではなく、自由意志の愛による十字架の力を語られたのです。イエス・キリストの十字架の愛ほど大きな愛はない、無条件に私たちを愛し、自らの意志で十字架に進まれたこの愛に勝るものはない、と教えてくださっているのです。そこから「真の友」を深く知り、その関係を愛することができるのです。そこで、聖書が語る「好ましい友」「好ましくない友」を7つずつ取上げてみましょう。

不品行な人。不節制な人。

わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。(Ⅰコリント5:11)

愚かな人。思慮のない人。

知恵ある者と共に歩けば知恵を得 愚か者と交われば災いに遭う。(箴言13:20)

怒りっぽい人。感情的な人。

怒りやすい者の友になるな。激しやすい者と交わるな。(箴言22:24)

移り気な人。精神的不安定な人。

わが子よ、主を、そして王を、畏れよ。変化を求める者らと関係を持つな。(箴言24:21)

傲慢な人。

いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。 (詩篇1:1-2)

いつも批判している人。

神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。(詩篇1:5)

信仰のない人。根本的な価値観が異なる人。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。(Ⅱコリント6:14)


友達を大切にする人。友達はかけがえのない財産という意識のある人。

どのようなときにも、友を愛すれば 苦難のときの兄弟が生まれる。(箴言17:17)

真心で接している人。誠意を持って傍にいてくれる人。

友の振りをする友もあり 兄弟よりも愛し、親密になる人もある。(箴言18:24)

妥協することなく悪を悪としっかりはっきりと、しかし愛を持って言ってくれる人。

愛する人の与える傷は忠実さのしるし 憎む人は数多くの接吻を与える。(箴言27:6)

優しく、穏やかで、バランスの取れた人。状況を客観的に見てアドバイスくれる人。

香油も香りも心を楽しませる。友人の優しさは自分の考えにまさる。(箴言27:9)

互いに成長できる人。

鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。(箴言27:17)

困った時に助けてくれる人。

倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。(コヘレト4:10)

神を畏れ、神に従っている人。

あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人 わたしはこのような人の友となります。(詩篇119:63)


ルネッサンス期の画家、デューラーとその親友のお話。デューラーもその親友も絵かきになるのが夢でした。二人共、イタリアに行って絵の修業をしたいと思っていた時、有名な画家に弟子入りすることができました。しかし二人にはお金がなく、画材どころかその日のパンすら事欠く有様。炭鉱堀の仕事を得ましたが、朝から晩までの重労働に困憊して満足に絵を描くことができない日が続きました。ある日、友は思い余って言ったのです。「このままでは二人とも画家になれない。どうだろう、まず一人が働き、もう一人がそのお金で絵を描くんだ。4年経ったら交代しよう。まず、デューラー、君が絵を描くんだ!」それから4年間、友は必死に働き、デューラーは彼に支えられて、絵の勉強に没頭しました。そして4年後、ようやく認められ始めて絵が売れたデューラーは、喜んで友に報告しました。「やったよ!絵が売れたんだ。今度は君の番だよ。さあ、絵を描いてくれ!」

 しかし返ってきたのは、思いも拠らない言葉でした。「おめでとう。それを聞いてほんとうに嬉しいよ。でも僕はもう筆を握ることができないんだ。炭坑での仕事で指が曲がってしまったよ。手も震えるし、もう絵を描くことはできないよ。でも、君が成功してほんとうによかった。」デューラーはたいへんなショックを受け、一旦は帰宅するものの、どうしても気になって、もう一度彼を訪れました。ドアを叩きましたが、誰も出ません。少し戸を開けてみると、部屋の中から小さな声が聞こえてきました。隙間から覗き込むデューラーが見たのは、友の懸命に祈る姿。彼は、歪んでしまった手を合わせ、一心に祈っています。それは、「デューラーは私のことで傷つき、苦しんでいます。自分を責めています。神様、どうかデューラーがこれ以上苦しむことがありませんように。私が果たせなかった夢の分まで、彼に祝福をお与えください。」

 デューラーは感謝と感動で震え、彼にその手を描かせてほしいと頼みました。そして描き上げたのが「祈りの手」、彼らの友情の証です。互いの内に働いたキリストの愛によって、時代を超えて私たちに感動を伝える傑作が出来上がりました。良き友であることで人生を豊かにし、良き友を持つことが人生を素晴らしいものとします。私たちも「真の友」であるイエス様の愛を体現し、感動を起こさせる作品を作り出すことができるはずです。それが真の友情なのです。(執筆担当: 睦美)


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4 コメント

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親友=真友 (睦美)
2010-02-08 13:59:22
出だしに礼拝に来て得することが挙げられましたが、私にとってクリスチャンになって得することは、何よりも人間関係が広がったこと。元々人付き合いが得意でなく、どちらかと言えば、一人引きこもってしまうタイプだった私ですが、「クリ友」にはとても恵まれ、今更ながら友達の大切さを感じています。

一方で、これまでの希薄だった人間関係が悲しくなることもありました。が、今日のメッセージでは、私こそが「良い友達」であろうと努めていなかったことを知り、今すぐ、数は少ないですが大切な親友たちに誠意を尽くそうと、早速メールを送っています。愛する真友に、何よりも大切な「永遠の命」のメッセージを贈ってあげられるよう、神様と共働きして行きます。2月の目標、4人以上の友達を礼拝かセルに誘います。神様の栄光が現れるよう、お祈りください。
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これ以上ない大きな愛 (美鈴)
2010-02-13 04:15:23
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)
私のために命を捨ててくださった友、それはイエス様です。私の友であるイエス様は、一番大きな愛を私にくださいました。私の友人の多くは、その事実を知っています。そして、私には、その事実を知らない多くの友人もいます。その友人を愛しているために、私は、一番大きな愛を伝えたいと思い、伝える一週間をすごそう!と励まされました!
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友達 (Ako)
2010-02-13 04:16:07
友達とはどんなに尊いものかと思いました。なぜなら、嫌なら友達になる必要はないからです。そう思うと、私と友達関係でいてくれる方々に、お礼を言わなくちゃ!と言う思いです。私には大切なお友達がいます。クリスチャンのお友達、ノンクリスチャンのお友達と、今までお友達にどれほど励まされ、慰められ、支えられてきたことかを思います。私が彼らにとって、良い友達になれるように、イエス様に倣っていきます。また悪い友達にならないように祈っていこう、これは毎日朝の祈りに加えています。
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感想 (暢夫)
2010-02-21 04:45:02
私の若い頃の友達関係を思い出しますと、ここで言われた関係とは程遠い、いわゆる悪友の関係でした。でもその時を思い起こすと、それを一つのステータスとしていた観がありました。聖書を知った時、そのようなことを当たり前とか、他人がそうしているとかといったことが如何に自分の悪い行いであったか初めて自覚したことを覚えています。私の経験・観点からして、一般的にはあるいは聖書を知らない世界での友人関係はややもすると罪を罪とも思わず、時流に流され、それに乗ることがいい友人関係の構築でありましょう。故に、真の友人関係の構築は、イエス・キリストなしには、なかなかなし得ないものと考えます。私には、過去に真の友人はいませんでしたが、今は真の友人を作る素養を十分与えられています。
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