Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

奇跡の人 (マルコ10:46-52)

2009年02月22日 | Celebration
GNSは南部バプテスト連盟という宣教組織に所属している教会です。この組織は、フィラデルフィアにある小さな5つの教会が集まって、互いに祈り合い、励まし合って行ったところから始まり、今ではアメリカ最大の宣教組織に成長しました。ビリー・グラハム師や、サドルバック教会のリック・ウォーレン師も私たちと同じ仲間です。大きな団体の良いところは、全米にどれくらいの日本人が住んでいて、日本語の教会がどの地域にどれくらいあるのか等のリサーチがしっかりと成されているところです。日本人が住んでいるのに、教会が一つもない地域の状況を見ながら、他教会からの祈りと資金的なサポートを受けながら、少しずつ教会開拓の働きが成されて行くのです。

先日、田中牧師夫妻がオレゴン州とワシントン州の境にある小さな町へご奉仕に行かれました。その町に住んでおられる日本人の方々が14人ほど集まってくださり、その集会では、皆さん、御言葉に飢え乾いて居られ、メッセージを待ちわびておられました。このように、牧師のメッセージを聞きたい!教会が欲しい、創ってほしい!と祈っておられる方が実は全米には大勢居られるのです。多くの教会は、皆自分の教会だけで手一杯の状況です。でも、自分たちの教会だけがアーメン!ハレルヤ!で良いのかというと、それは間違いです。私たちは、教会があって、当たり前。牧師がいて当たり前と思っていますが、私たちは初心に戻って、御言葉を熱心に求める者とならなければなりません。

さて、今日のメッセージは、御言葉に非常に飢えていた人のお話です。バルティマイという盲人だった人が、イエス様によって癒されるお話です。イエス様は、様々な人を癒し、解放し、救いの働きをされました。皆さんはイエス様が癒された人々の中で、誰が印象的ですか? 実はこの聖書箇所(マルコ10:46-52)では、他にないユニークな点がいくつかあります。一つは、イエス様はがこれからエルサレムで十字架につかれる前の最後に行われた奇跡だということ。そして、イエス様に癒された沢山の人の中で、名前が出てくるのは、何故かこのバルティマイだけです。

 奇跡と言うと、私たちは“まさにミラクル!”考えられないようなすごい事が起こる事で、まず現実的には“ない”と思いがちです。しかし、私たちクリスチャンは、奇跡は必ずあると信じています。奇跡を決して夢物語のように考えてはいけません、奇跡は必ず起こり、それは自分のものとなるのです では、バルティマイはなぜ、癒されたのでしょうか? 奇跡が起こるにはちゃんと理由があります。何もないところから決して奇跡は起きないのです。

心の所在を明確に持つ
 イエス様は、奇跡を行うときに、必ず、「あなたは何をしてほしいのか」と、聞かれています。イエス様は、全知全能の主ですから、バルティマイの心を全てご存知でしたし、何を求めていたかも知っていました。それなのに、「あなたは治りたいのか?」と、彼の気持ちを再確認されておられるのです。自分が一番何をしたいのか、どのように行きたいのか、案外と私たちは自分のやりたいことが分からないでいるのではないでしょうか。でも、バルティマイは知っていました。彼は、心から今の自分の現状から変わりたいと願っていたのです。

最後まで諦めない
 バルティマイはイエス様の癒しを求めたけれども、多くの人が彼を阻みました。(10:48) しかし、彼は最後まで食い下がり、断られてもイエス様に叫び続けたのです。彼はあきらめなかったので、奇跡が起こりました。彼は盲目でしたので、自分からは何も出来なかったでしょう。だけれども、イエス様が自分のところへ必ず来てくださることを信じて、忍耐を持って待っていたのです。私たちには忍耐が必要です。諦めないで、忍耐を持って、チャンスがきたら直ぐに行動を起こさなければなりません。

直ぐに行動する
 福音書を読むと、イエス様の行動はとても敏速だったことが分かります。イエス様は奇跡を行われた後も、休まれることなく、またすぐに他の場所へ移動されて行きました。救いを必要としていた人たちが大勢いたからです。人生には後悔がつき物とも言いますが、どうしてあんなことをしてしまったのか、と言う後悔と、どうしてあの時しなかったのか、と言う後悔とがあります。あなたはどちらが後悔としては大きいと思われますか? 聖書には、イエス様が、何かをしなくて保留にしていた人のことを誉められたと言う記事は一つもありません。ですから、私たちは、行動するべきです。失敗はつき物です。私たちには罪があります、欲があります。どんなに良いと思っていても、間違ってしまうことがあるのです。しかし、神様は、あなたがイエス様に立ち帰るなら、今まで犯したどんな失敗をも私は益に変えると言う強力な方です。バルティマイはイエス様が来られると、直ぐに行動しました。

二心のない信仰
 バルティマイはイエスさまの元へ上着を脱ぎ捨てて、躍り上がって行きました。(10:50)私たちにはぴんと来ないかもしれませんが、この「うわぎ」は彼にとっては、唯一の財産。当時は、「うわぎ」をブランケット代わりにしており、なんと質屋に入れても夜には返してくれると言うほどの、「うわぎ」は財産と見られていたのです。(申命記24:13参照) バルティマイは、上着を脱ぎ捨てて、イエス様のところへ行きました。イエス様に従うために、全財産を捨ててしまったのです。なぜでしょうか。彼には二心がなかったのです。イエス様を愛します!アーメン!ハレルヤ~。と口で言うのは簡単です。しかし、私たちは、時に、自分の持ち物、生活、家族を失いたくありませんし、全部持った上で、神様に仕えたいと思うのです。しかし、2つは選べません。どちらか1つを選ばなければならないのです。勿論、神様に仕えるときに、すべての必要は与えられ満たされるのですが、私たちの気持ちが神様を第一とするのか、この世を第一とするのか、はっきりしなければなりません。バルティマイは、神様を第一としました。私たちの心も、二心があってはなりません。

イエス様に従う
 イエス様がバルティマイを癒されると、彼はイエスに従っていきました。癒されたら神様に従うのは、当たり前の事だと思う人が大半と思いますが、実は、癒された後に、イエス様に従わない人が沢山います。例えば、ヨハネ福音書5章に出てくる38年間病気で苦しんでいた人が、イエス様によって癒されましたが、その日が安息日であったために、癒された人は、パリサイ人に床を担いで出たことを責められます。すると、彼は、イエス様のせいにしてしまいました。イエス様にせっかく癒していただいても、その後、イエスに従う人と従わなかった人がいるのです。なぜ、バルティマイの名前が聖書に載っているのでしょうか? それは、彼はイエス様のの証し人となったからです。彼の人生は、イエス様によって、すべて新しくなったのです。

人生のチャンスは、誰にでも公平にめぐってきます。そのチャンスを掴み取るためには、絶えず自分のビジョンを明確に持っていなければなりません。でなければ、せっかくチャンスが来ても、それに気付かずに目の前を通り過ぎて行ってしまうからです。そして、自分のビジョンを成し遂げるための努力を続けて行くことが大切です。でなければ、チャンスに気が付いても、力不足でそれを摘み取ることが出来ません。何ともったいないことでしょうか!!

 私たちは、生きていると難しいこと、痛いところを通ることもあります。神様の御心だと思っても、疑いたくなるような大変なことも起こりますし、逃げたくなるときがあります。しかし、考えてみてください。宇宙万物を造られた神様のご計画が、私たちの頭で理解できると考える事の方がおかしいのです。神様が私たち一人一人に置かれているご計画は壮大です。どうぞ、自分のビジョンを明確に持ち、諦めないで忍耐を持って、しっかりとチャンスを受け取って、神様に従って歩む者となりましょう (Ako)


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STAND エフェソ 6:10-18

2009年02月08日 | Celebration
お立ちください。あなたにはなすべきことがあります。協力いたしますから、断固として行動してください。(エズラ10:4)

 二人の女性のお話があった。二人は、自分の身にそんなことが起こるとは夢にも思わなかった悲劇(性的被害)に遭った人たちだった。事件の結果、彼女たちは否が応にも現実に目を開かされ、それぞれがその後の人生における選択をした。一人は、聖書の御言葉によって。もう一人は、自分の努力によって、夢を抱き続けるというポリシーによって。

 アメリカ在住のフォトジャーナリスト、大藪順子さん。彼女は、『聖なる部分が侵されることに対する痛みがどれほどのものか、あの夜、身をもって知らされた。』と、自らの著書に書いている。この一文だけからでも、胸が塞がる思いがする。今、そのことを公にすることができると言っても、それは彼女が特別に強かった訳ではない。クリスチャンであったとは言え、トラウマに襲われ、鬱になり、部屋に閉じこもり、外に出ることが出来ない日々が続いた。クリスチャンであったが故に、一層不条理に対する苦しみ、怒り、哀しみもあっただろう。

 しかし、彼女は今、『性的虐待を乗り越えてきた人たち』というプロジェクトを起し、サバイバーと呼ぶ被害者をサポートする働きに身を費やす彼女からは、間違いなく強さを感じる。それは彼女の言葉にすると、『人生における究極的な試練に直面してきた女性、男性の内なる強さ』であり、『与えられた逆境を乗り切ろうとする決意』に表されるものに違いない。

 語られたもう一人は、アメリカ犯罪史上、稀有な女性連続殺人犯、アイリーン・ウォーノス。幼い頃から性的虐待を受け続け、14歳で家族と社会からドロップアウトし、街の片隅で売春婦として生き、実に7名の男性を殺したとされている。彼女は「私は社会に殺される!」と叫び、事件の真相に曖昧な部分を残したまま、死刑となった。その壮絶な人生は『モンスター』という映画の他、多くのマスメディアで取り上げられている。しかし、神の目からこの事件を見た時、アイリーンだけが特別な「モンスター」なのだろうか? 幼い彼女を傷つけた者、保身のためにアイリーンを裏切った彼女のパートナー、この事件を利用した政治家やマスメディア、更にはそんなゴシップを一時の娯楽とする傍観者たち・・・。果たして彼らは、アイリーンとは全く異なる存在なのだろうか。

 再度大藪さんの文章を引用する。『サバイバーにとって、その暴力行為を完全に忘れ去る事はできないのかもしれません。しかし時は待っていてはくれません。私達は前へ進まなければならないのです。』酷い事件が降りかかると、人は絶望する。人はそれだけ弱い存在なのだ。しかし、それでも前へ進まなければならないと決めた時、人は強くなれる。思わぬ苦難に襲われたヨブから、人生における苦難・不条理に対する基本的な4つの態度を語られた。

苦難とその人の価値とは関係がない。価値がないから苦難に遭ったのでもない。
どんな苦難にあっても、それで神がいないわけでも、神から見放されたわけでもない。
この世で起こる様々な事件の背後には、霊的な要因が広がっている。
苦難に遭った後の展開は、依然当事者の手に委ねられている。

 どう生きるか、これを作り上げていくのは、その環境を与えた神様とその環境を活かす私たち人間との共同作業なのだ。生きることは選ぶこと。何を基準に選ぶべきか。それこそが聖書の御言葉、神様から私たちに語られる言葉なのだ。(睦美)

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老舗五百年の秘訣 使徒 20:31-35

2009年02月01日 | Celebration
新しく設立された会社が1年後に存続している確立は、約60%だそうです。3年後は40%、5年後は15%、10年後だと5%、つまり、10年間続く会社は、20社中1社という確立です。更に、100年間続く会社は何と0.03%。もし、500年存続した会社があったとしたら、これはもう奇跡ですよね。ところが、日本には、500年間続いている会社があるのです。500年前と言うと、室町時代までさかのぼります。私たちの生活とは、全く違った時代、コンピューターどころか車も電気もない、生活様式や社会通念等々が全く違う500年前から存続している会社。皆さんもよくご存知の和菓子の老舗、『虎屋』さんです。虎屋さんの社長は、500年間続けられた秘訣をこう言われました。「変えるべきものと変えてはならないものをはっきりと区別してきたことです」と。

 虎屋さんの“変えるべきもの”と“変えてはいけないもの”とは何だったのでしょうか? 私たちは、“変えてはいけないもの”と言えば、“伝統の味”と、直ぐに思いますが、実は、「味」というものは、時代やライフスタイルによって変化するもので、それは“変えなければいけないもの”なのだそうです。(今、私たちが食べている虎屋の羊羹と500年前の羊羹とは、味が違うのですね。)では、“変えてはならないもの”とは何なのでしょう? それは、お客様に対する“感謝の心”なのです。虎屋さんにとってお客様は、まさに生命線です。確かにどんなに美味しい和菓子を作っても、どんなに大きなお店をつくっても、お客様が買ってくれなれば、500年も続けていくことは不可能です。

 このように、「感謝」する心は、クリスチャン以外の人たちも大切だと考えています。では、聖書における「感謝」とは、どう言うことでしょうか?今日は、使徒言行録20章31-35節より分かち合っていきたいと思います。この聖書箇所は、パウロさんが3回目の伝道旅行を終えて、エルサレムに戻る途中のミレトスと言う港町で、今回訪れることができなかったエフェソの教会の責任者(長老)たちを呼び寄せて、話をした箇所です。(使徒20:15-28)パウロさんは、今度、エルサレムに着いたら、迫害によって命を落とすかもしれないと考えていました。また、パウロさんの弟子も、周りの人々も同じように考えていました。ですから、エフェソの教会の長老たちを呼び寄せ、話をした時、パウロさんにとっては、遺言を彼らに伝える思いだったのでしょう。そのパウロの遺言とも言える話(決別説教)は、20章18-35節にわたっています。今日の聖書箇所は、その最後の箇所、「最重要事項」と言っても過言ではありません。

あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるより与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。(使徒20:35)

 実は、ここでパウロさんが言った、『受けるより与える方が幸いである』というイエス様の言葉は、聖書の中の何処を探しても見つかりません。しかし、福音書に記されているイエス様の生涯は、まさにこの『受けるより与える方が幸いである』と言う言葉に要約されているのです。イエス様は愛することの大切さをご自身の行動を通し、最後には、ご自身の命を私たちの罪のために十字架に捧げられ、表されました。これこそが究極の愛であり、『受けるより与える方が幸いである』の御言葉の究極の実践です。その十字架の贖いを信じることによって、私たちは、神の子、「クリスチャン」となりました。私たちは、イエス様に習う者です。『受けるより与える方が幸いである』この御言葉は、クリスチャンとしての感謝の「特長」です。それでは、こういった感謝に至るには、どうしたらよいでしょうか?今日は、4つのポイントを分かち合います。

1)作用・反作用の法則
 作用・反作用の法則とは、力が相互作用によって生じるものであり、一方が受ける力と他方が受ける力は向きが反対で大きさが等しいことを表しています。つまり、私たちが何かに対して「怒る」と、その「怒り」のエネルギーは、相互作用によって自分に返って来てしまい、私たちが何かに「感謝」をすると、その「感謝」は私たちに返って来るのです。松下幸之助氏は『感謝と幸福は正比例する』と言う名言を残されていますが、それは、この作用・反作用の法則のことです。私たちは、マイナスのエネルギーより、プラスのエネルギーを出す方が、周りにも自分にもプラスになるのです。

2)与えたものは残る
 マサチューセッツに住むあるクリスチャン女性は、キルト作りの名人です。彼女は自分が作ったキルト作品を次々と人にあげてしまい、特に出来の良い物は率先してあげてしまうそうです。周りの人々は、彼女の気前の好さに驚くほどです。ある日、その女性の家の隣が火事になり、彼女の家も全焼してしまいました。その火事のせいで美しいキルトもすべて失ってしまった彼女に対し、周りの人々は、「残念だ」、「もったいない」と言いましたが、彼女は、笑顔で「大丈夫、特に良く出来たキルトは、人にあげたおかげで今も残っています。」と言いました。全てのものは、いつか、なくなってしまいます。しかし、この女性のように与えることは、物と共に何かを、受けた人に残すことができるのです。

 3)素直に受けることは与えること
オクラホマに住むあるクリスチャン男性は、ボランティアが生きがいです。彼は、あらゆるボランティア活動をし、地域の人々から大変喜ばれていました。しかし、長年、ボランティア活動をしていたその男性もだんだん年老いて、今度は、彼自身がボランティアの手が必要となってきました。彼は、ボランティアをする立場は好きですが、ボランティアをされる立場になるのは、とても抵抗があり、地域の人々が差し伸べるボランティアを断り続けました。ある日、教会の牧師さんが彼を訪ね、こう言いました。「ボランティアをする人たちの気持ちを奪ってはいけないと思うのですが…。」牧師さんのその言葉を聞いた男性は、「受けることが与えることになる」と言う真理を知りました。

 4)「すみません」と「ありがとう」の違い
 「すみません」と言う言葉には、「してもらって申し訳ない」、「こんなにしてもらっても私にはお返しできません」、「本当は私がしなければならないことなのに」と言った利害関係を感じさせるニュアンスがあります。実際、私たちは「ありがとう」より、「すみません」を使う方が多いような気がします。でも、子供が何かをしてもらった時に言う言葉は、「ありがとう」です。子供には、何かをしてもらった相手に対する報酬能力をほとんど持ち合わせていません。でも、子供は「すみません」とは言わないですよね。なぜ? その前に「ありがとう」と言う言葉には、どのような思いが含まれているかを考えてみましょう。「ありがとう」には、してもらった行為に対しての感謝と喜びが含まれています。してもらった行為に対して見返りをしようとか、どう言うお返しをしようとか、と言う考えの余地はありません。子供が「すみません」と言わないのは、してもらった行為に対する利害関係を考えないからなのです。

 神様と私たちの関係も同じです。神様は、私たちに見返りを期待しているわけではありません。ただ、私たちを愛するゆえにイエス・キリスト様をこの世に送ってくださり、全人類を罪から解放するために十字架に架かって死んでくださったのです。その事実をただ信じ、「イエス様、ありがとう!」と言って受け取るだけでいいのです。それは、事実であり、真理です。それは、クリスチャンであろうと、なかろうと、全人類に共通しています。

「受けるより与える方が幸いである」この聖書における「感謝」の真理を日々の生活の中で実践していきましょう。(美鈴) 〔写真:緞帳のような「とらや」の暖簾はギネスブック級!〕

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