Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

神様のバケット・リスト ユダ:17-21節

2008年06月29日 | Celebration
 最近、「Bucket List(バケットリスト)」と言う、映画を観ました。ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが演じる二人の男性が余命6ヶ月、長くて1年と言う宣告を受け、死ぬ前にやりたいことをリストにし、実行していくと言う内容です。この「Bucket」とは、英語でバケツのこと。「Kick the Bucket」と言うと、スラングで「死ぬ」と言う意味だそうです。「死ぬまでにしておきたいことリスト」それが「Bucket List(バケットリスト)」です。もし、私たちの余命があと1年だったとしたら、私たちは何を「Bucket List」に書くでしょうか?

 それでは、神様はどうでしょう? 神様のバケットリストは、「ユダの手紙」に書かれています。なぜ、ユダの手紙が神様のバケットリストなのか?それは、「ヨハネの黙示録」の前にあるからです。「ヨハネの黙示録」は、今ある世界が終わり、神様の国が到来することを伝えています。「今ある世界の終わりの前に神様が私たちに望んでいることリスト」が、「神様のバケットリスト」。それが「ユダの手紙」です。

 「ユダの手紙」は、イエス様の地上の兄弟、つまり、母、マリアから生まれたユダが書いたと言われています。書かれた時代は、イエス様が十字架にかかり、天国に上られ、弟子たちがイエス様のお働きを伝えて、しばらく経ってからだった(17節)と推測できます。そしてこの手紙が書かれた目的は、「信仰を守るために悪と戦う」(3節)ことです。この手紙の対象は、全てのクリスチャンに対してです。ユダは、最初にイエス様を通して救われたクリスチャンに警告をしています。

あなたがたは万事心得ていますが、思い出してほしい。主は民を一度エジプトの地から救い出し、その後、信じなかった者たちを滅ぼされたのです。(5節)

 そしてユダは続いて、福音信仰から遠ざかってしまった者たちを「カインの道」、「バラムの迷い」、「コラの反逆」と表現し、このような者たちが、教会でクリスチャンの交わりを邪魔しようとしていることに対して警告しています。(11-13節)何が、私たちを福音信仰から遠ざけようとするのでしょうか?以下にユダの3つの表現を簡単に説明します。

1) 「カインの道」とは、嫉妬と憎悪に駆られている人のことです。(創世記4:1-16)

2) 「バラムの迷い」とは、この世の欲(お金、権力、名誉)に流されている人のことです。(民数記22-25章)

3) 「コラの反逆」とは、不従順な人のことです。(民数記16章)

 これらは全て、自己中心から来て、神様への畏れを知りません。ユダの手紙が書かれた頃は、このような思いを持った人々は、「グノーシス派」と呼ばれ、教会の中に広がり、クリスチャンを信仰から離れた者としていました。また、ユダは、エノクの預言を例に出し、どの時代にもそのように不信心な者がいること、それに対し、神様は裁きを行なうことを明言しています。(14-16節)エノクの預言は、ノアの時代の洪水を指しています。この洪水で生き残ったのは、ノアの家族だけでした。

 この時代の人々は、常に悪いことばかりし、神様は心を痛められていましたが、ノアだけが神様に従う無垢な人であり、神様と共に歩んでいました。ノアの時代の洪水は、神様の裁きです。そして、現代は、神様の裁き(=イエス様の再臨)の前なのです。サタンは、一人でも人間を神様の元に戻さないように、また、神様の元に戻ったクリスチャンを神様から引き離そうと必死になっています。

 私たち、クリスチャンは、イエス様によって救われました。救いは恵みです。恵みは、価無しです。そのせいか、私たちは時として、その恵みが当たり前になってしまうことがあります。神様への感謝がなくなり、神様に対する人格的な交わりがなくなり…、これが「霊的盲目」です。このような状況へ陥らないために、どのように私たちは、信仰を守ることができるでしょうか?それが、今日の聖書箇所である「神様のバケットリスト」(ユダの手紙17-21節)なのです。「神様のバケットリスト」は、4つあります。

1) あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。(20節)
 日々の生活の中で自分自身の信仰を建て上げること、信仰を土台として生活していくことです。

2) 聖霊の導きの下に祈りなさい。(20節)
 神様との日々の交わりは、祈りによってなされます。神様は、私たちの願いや問いかけにいつも耳を傾けてくださっています。神様の御心にかなった祈りは、必ず聞かれます。(ヨハネ14:14)

3) 神の愛によって自分を守る。(21節)
 私たちは誰でも、弱い部分があります。その弱さにサタンは、つけ入り、神様から私たちを引き離そうとします。ですから、私たちはその弱さを知り、誘惑を受けるような状況には、近づかないことです。例えば、お酒の問題を持っている人は、お酒の出る場所には、行かないことです。そして、先にある、自分自身の信仰を建て上げることに前向き、肯定的なクリスチャンの仲間と時間をすごすことです。私たちは、周りに影響されやすいですから、私たちにとって神の臨在を意識できる場所に自分を置くことはとても大切なことです。

4) 永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。(21節)
 私たちクリスチャンの国籍は、天にあります。この世の人生は、僅か70-80年です。しかし、神様と共に過ごす時間は永遠です。その天の国での生活に希望を持って、この世の人生を歩んでいきましょう!

〔写真:今日の愛餐会・ホットドックの前でピ-ス!!}

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天国民の自己同一性 ヨハネ4:16-26

2008年06月22日 | Celebration
 今年は、イスラエル建国60周年です。一般の日本人にとって、イスラエルと言う国は、どう言う印象があるのでしょうか?いつも、パレスチナと戦争ばかりしている国と言うイメージが強いかもしれません。クリスチャンにとっては、イエス様が人として生活された所でもありますから、少し身近に感じるかもしれませんね。

 イスラエルの歴史は、私たち人類にとって、大きな意味を持っています。とても大げさに聞こえるかもしれませんが、イスラエル建国は、聖書の中で預言されており、イエス様の再臨には、イスラエルの国の存在が不可欠なのです。ですから、そのイスラエルが建国60周年を迎えたことは、イエス様の再臨が近づいていることにつながります。現在、存在しているイスラエルと言う国は、実は、再建された国です。紀元70年、イスラエルと言う国は、ローマ帝国に滅ぼされます。そして、約2000年の時を経て同じ場所に再建されました。その間、イスラエルの人々、ユダヤ人は、外国で、ユダヤ人としての民族アイデンティティーを失うことなく、自己同一性を持って生活していました。これは、まさに驚くべきことです!

 アメリカで生活している私たちには、よく理解できることですが、外国で生活している日本人が、同じ日本人と結婚して、子供ができても、その子供たちは、生活している外国の文化や環境に適して生きていきます。そのため、日本語はもちろん、日本の文化や習慣を取得できなかったり、取得しても、忘れてしまったりします。日系アメリカ人の方の中には、日本語を話せない方々もいらっしゃることは顕著です。

 外国で暮らすと言うことは、そう言った現象が簡単に起こるものです。しかし、2000年もの間、外国で暮らしていたイスラエルの人々が、その民族アイデンティティーを失うことなく、60年前、イスラエルと言う、国を再建させたと言う事実は、奇跡なのです。しかし、クリスチャンの私たちは、その奇跡が神様のご計画であることが聖書を通して知ることができます。エゼキエル37章には、枯れた骨の復活に関する記事が記されています。この記事は、イスラエル国家再建の預言です。37章11-12節で主がはっきりとおっしゃっています。

「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神は、こう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。」

 第二次世界大戦中、ナチスの政策により、多くのユダヤ人が犠牲となりました。しかし、主は、まさに墓場の中にいるような状態のユダヤ人たちを引き上げて、イスラエルの地に連れて行き、国を再建されたのです。ヨハネ福音書4章22節では、イエス様がはっきりとおっしゃっています。

「救いはユダヤ人から来るからだ。」

 現在、「ワン・ワールド思想」と言う考えがあります。「世界は一つ、人間も一つ、キリスト教も、イスラム教も、ユダヤ教も一つになって平和な世界を作りましょう。」と言う考え方です。聞こえは、とても良いものです。しかし、その陰には、「民族アイデンティティーの強いユダヤ人を迫害、排斥する=イエス様の再臨、神の国到来を阻止する」サタンの策略であることを心に留めておく必要があります。「宗教なんて何でもいい」と言う考え方は、人を自己中心的な思いに走らせ、神様との関係がなくなることを意味します。ですが、そのただ中にあって、神様のご計画は変わらず、そして、一人でも多くの人を神様との正しい関係(救い)に至らせようと神様は、一人、一人を導いておられます。

 今日の聖書箇所は、その迫害を受け、民族アイデンティティーを失ってしまったサマリアの女性とイエス様との会話です。サマリアは、もともとイスラエルの国の一部でしたが、アッシリア帝国の侵略を受け、そこに住んでいたイスラエル人は、捕囚としてアッシリアに強制移住をさせられます。また、アッシリア帝国の王様は、五つの異民族をサマリアに移住させ、イスラエル人と結婚させ、民族アイデンティティーの低下を図ります。それを知った、イスラエル人の一民族であるユダヤ人は、彼らを批判し、イエス様の時代にまでその決裂は続きます。(ヨハネ4:18でイエス様がサマリアの女性に向かって言った、「あなたには5人の夫がいた」と言う言葉は、歴史の比喩に当たります。聖書って興味深いですね。)しかし、イエス様は、サマリアの女性にこうおっしゃいます。

「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理を持って父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」(ヨハネ4:23)

 ですから、イエス様を受け入れた私たちは、民族主義に縛られるのではなく、天国民としてのアイデンティティー、自己同一性を持って歩もうではありませんか!それでは、天国民としてのアイデンティティーとは何でしょうか?宗教改革で有名なルターによると天国民のとしてのアイデンティティーは、「神様の栄光を現すこと」だそうです。「神様の栄光を現す」・・・クリスチャンや教会の中でよく耳にする言葉ですが、具体的には、どう言うことでしょうか?今日は、天国民のアイデンティティーのポイントを5つ、わかりやすく田中啓介牧師が語ってくださいました。

 1)主に喜ばれること
なぜ、神様が人間を創られたのか?それは、神様が、私たち人間を愛しておられるからです。「主に喜ばれること」とは、私たち人間が、神様のために何かすることではありません。神様に愛されていることを実感し、神様に愛されることを素直に受け取ることです。それが、主に喜ばれることなのです。

 2)神の家族をつくること
人間は、神様に愛されて初めて、他の人を愛することができます。神様が私たちを愛してくださるように私たちの周りの人を愛すること、それが、「天国民のアイデンティティー」=「神様の栄光を現すこと」なのです。

 3)イエス様のように変えられること
すなわち、これは、霊的成長のことです。クリスチャンになられて、「これがいちばん難しい!」感じていらっしゃる方もおられるかもしれません。なぜでしょう?Ⅱコリントの信徒への手紙3章15-18節にあるように、私たちは、イエス様によって救われても多くの覆いが心に掛かっている場合があります。しかし、主の霊の働きによって、覆いが除かれて、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。ですから、素直に、そして、謙遜に三位一体の神様に従っていきましょう。

 4)主に仕えること
それは、神様に与えられているものを周りの人たちに与えていくことです。   「受けるより与える方が幸いである」と聖書は言っています。私たちが、誰かに与えることにより、その人が幸せになり、その人の幸せが私たちの幸せになり、それをご覧になっていらっしゃる神様の幸せになります。

 5)神様の御用をすること
神様が私たち一人、一人に与えてくださっている特別な働きをすること、神様と共に働くこと、それは、伝道すると言うことです。神様は、一人でも多くの人が、イエス様を信じ、罪を悔い改め、神様との関係を修復し、永遠の命を得ることを望んでいらっしゃいます。そのために神様は、日々、働かれておられます。その働きを私たち、クリスチャンは担うことができます。しかし、自分一人でする必要は、全くありません。イエス様が主体となって働いてくださいます。多くの仲間もいます。その中で、私たち一人、一人の役割が示されています。イエス様を信じて歩み続けましょう!

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恵み エペソ2:8-10

2008年06月08日 | Celebration
今回、「恵み」と題して、お証しさせていただけることを本当に感謝します。アメリカに戻って来て、ディボーション(一人で聖書を読んだり、お祈りしたり、瞑想する時間のことですが、)の時を通して、神様が、「恵み」について分かち合いなさいと語ってくださいました。

 はじめに、皆さんは、子供の頃、自分が違う名前だったら良かったと、思ったことはありませんか?私は、「めぐみ」ちゃんと言う名前になりたいと思っていました。中学生になった時、同級生に「千恵」ちゃんと言う子がいました。千恵ちゃんは、頭も良く、私の憧れでした。ある日、千恵ちゃんが、自分の名前の由来を話してくれた時、彼女の両親は、千の恵みがあるようにと言う意味で彼女に千恵ちゃんとつけたそうです。その話に私は、ふかーく感動しました。それ以来、千恵ちゃんではなく、「恵み」と言う名前の言葉の響きが好きになりました。しかし、「恵み」と言う意味が、どれほど深い意味があるかを知ったのは、クリスチャンになって、かなり経ってからでした。

 よく、私たち、特にクリスチャンは、「恵みでした」「恵まれました」とか、「神の恵み」と言ったり、耳にしたりしますが、「恵み」と言う言葉にどんな意味が含まれているか、考えたことはありますか?また、ノンクリスチャンの方から「『恵み』ってどういう意味ですか?」と聞かれたことはないでしょうか?意外と、いつも何気なく言っている言葉の意味を深く理解して使っていることが、私たちは、少ないのではないでしょうか?

 私の証に、いつも登場する「新明解国語辞典」を引いてみますと、「恵み」と言う言葉は、「恵む」の名詞形に当たるという印が入っているだけで、説明はありません。「恵む」と言う言葉には、情けをかける、あわれむ、かわいそうに思って金や物を与える。と言う意味があります。その前に「恵まれる」と言う言葉の意味が記載されています。「恵まれる」と言う言葉には、必要なものが十分にあって不平、不満を感じない状態にある、幸いにめぐり合わせる、(良い状態をあたえられる)とあります。そして、例として、機会(=健康、幸運、好条件、好天、天候、資源、時、豊作)に恵まれる、とありました。なんとなく、「運がいい」、「ラッキー」と言う意味合いが「恵まれる」と言う言葉には、含まれている気がしますが、クリスチャン、キリスト教で使われる「恵み」と言う言葉とは、かけ離れています。

 それでは、クリスチャンは、どんな時に「恵み」を感じ、どんな状態を言い表すために「恵み」と言う言葉を使うのでしょうか?同じく、私の証しに、いつも登場する新教出版社の聖書辞典には、「聖書における恵みとは、神が人間との間に築かれた人格的関係を示す表現」であると記されています。ここでのポイントは、主語が「神」であることです。恵みとは、「神様が一方的に、私たちに与えてくださる人格的関係」なのです。また、人間関係でなく、人格関係と言うところがポイントですね。もちろん、人格的な関係ですから強制はされません。神様とラブラブな人もいれば、「神様?なにそれ?」と言う人もいます。それは、人間である私たち一人一人から見た神様との関係です。しかし、神様は、私たち一人、一人と人格的関係を持とうとされています。

 それは、この地球が出来る前からです。詩篇139編13-18節にその事柄が記されています。神様の計らいは、私たちにとって「恵み」なのです。その恵みは、詩篇139編17-18節に書かれている通り、とても尊く、とても沢山で、数えることができません。私たちが「幸せ」だと感じる状況や出来事はもちろん、つらい、苦しい経験も神様の計画によって成されたことでしたら、決して無駄に終わることがありません。それは、むしろ益になること、良いことになるのです。

 では、神様が私たちに与えてくださっている恵みの中でいちばん素晴らしいものは何でしょうか?それは、イエス・キリスト様です。イエス様は、神様としてこの地上に来ました。なぜ、神様がこの世に来られたのでしょう?私たち一人、一人と人格的関係を築くためです。神様は、私たち一人、一人を愛してくださっています。だからこそ、人格的関係を築きたいと神様自身が望まれ、この世に来られました。ヨハネ福音書の3章16節には、イエス様がこの世に来た目的がはっきりと書かれています。

 それでは、私たちの側から神様と人格的関係を持ちたいと願った場合はどうしたらよいのでしょうか?私たちは、神様をこの目で見ることはできません。なぜなら、私たちは、一度、神様との約束を破ってしまった存在だからです。神様との約束を破ったことにより、人間の心には、罪が生まれました。この罪は、自己中心な思いを持ち、神様の存在を否定し、人の悪口を言ったり、悪い思いを心に持ち、また、物を取ったり、人を殺したりとあらゆる犯罪をも引き起こします。その根源は、神様との約束を破り、神様と共に生活しない人間の自己中心の思いから来ています。この私たちの持っている罪は、自分で治すことは決してできません。神様にしか治せないのです。しかし、私たちは、神様を一度、裏切った存在なのです。

 世の中の人々は、貧しさ、病、災いから逃れられるように、神社やお寺にお参りに行きます。そして、それらから逃れられるように努力をします。しかし、私たちがどんなに一生懸命、働いたり、病気にならないように節制したり、悪いことが起こらないように(罰が当たらないように?)、真面目に生きていたとしても、貧しさ、病、災いから完全に逃れることはできません。なぜなら、それは、人生における現象であって、その現象の元となっているのは、私たちが神様から離れてしまっている「罪」が原因だからです。その罪に目を向けない限り、貧しさや病、災いなどの現象に対応することで振り回されてしまいます。

 普通だったら、病気や怪我を治してくれるお医者さんが、自分から病院を退院してしまった患者さんをわざわざ追いかけてきてくださり、治してくださるということは、ほとんどないでしょう。しかし、イエス様は、追いかけてきてくださるのです。しかし、イエス様は、決して、私たちの襟首を後ろから掴んで病院に引き戻すことはしません。ずっと、ずっと、後を追いかけて、病院に戻ろうと説得してくださっているのです。病院に戻る意志は、患者さん次第です。

 イエス様は、罪と言う病気を持っている私たちを治してくださるお医者さんのようなものです。それも、全ての罪の専門医です。生きている間、何度か病気になります。それと同じように、私たちは、日々、神様を忘れたり、いろいろな失敗により罪を犯します。ですから、イエス様と共に生活するということは、常時、かかりつけのお医者さんにチェックしてもらうようなものです。それも無料で!

 私たち側には、神様から助けてもらったり、してもらったりする価値はないのです。そして、神様がしてくださることに支払う能力もお金もないのです。しかし、神様は、私たちの罪を赦し、神様の子供として、天国を継ぐことができるのです。私たちは、何の犠牲も払う必要はありません。しかし、神様、イエス様は、私たちのために大きな犠牲を払いました。それは、ご自身の命です。イエス様は、私たちが神様から離れ、自己中心によって生きてきた結果、払わなければならない代償、命を、十字架にかかることによって、御自分の命を捧げました。

 もし、私が不倫をして啓介先生を裏切り、啓介先生のそばから逃げ出したとします。その後、私が重い心臓病になって心臓移植をしなければ死んでしまうことになります。啓介先生が私のところにやって来て、「僕の心臓をあげるし、不倫も赦してあげる、そして、元気になったら僕の妻として、僕の財産を使って残りの人生を送って欲しい」と言ってくれるとしたら、どうでしょう?こんなことありえないと思うし、不倫をしてしまったことに対して、多少でも、罪悪感があったら、そんなことされる価値はないと思いませんか?しかし、イエス様が私たち一人、一人にしてくださったことは、まさにこのようなことなのです。

 私は、13歳の時に不登校をして、その年のクリスマスに教会に行きました。私が、自分で行きたいと思っていったというよりも、神様の不思議な導きだった、神様の恵みだったと今は、感じます。そして、16歳の夏に、神様が自分にとってどんな存在なのか、今まで、どんなことをしてくださったのか、そして、これから、どんなことをしてくださるのか、なんとなく、本当に、ぼんやりと分かった気がして、17歳の時にクリスチャンになる洗礼を受けました。その時、私を洗礼に導いてくださった神様の御言葉が、冒頭にお読みしました、エフェソ2章8節から10節の御言葉です。

 17歳の私は、こんなに長く、イエス様を信じ続けるとも、神様のために働く牧師さんと結婚するとも、そんなこと心にも思い浮かびませんでした。しかし、神様がいつも、「美鈴、愛しているよ。大好きだよ」と言ってくださり、多くの祝福をくださっていることを日々、実感しています。もちろん、つらいこと、人間的に嫌なことも、日々、たくさんあります。しかし、それがすべて、私のために神様が用意してくださる祝福に変わることを神様はいつも私に教えてくださいます。

 そして、先日、アメリカから帰って来た時、長年の夢だった母をアメリカに連れて来ることができたことを神様に感謝し祈りました。「神様、こんなにたくさんの祝福をくださるとは、本当に感謝です。」と、すると、神様は、「これは、祝福じゃない、恵みなんだよ。」とおっしゃいました。それは、今までになかった気づきでした。そうだ、「恵み」=自分が値しないのにイエス様がご自分の命を差し出してくださり、私は、神様との人格的関係を結ぶことができた、その神様の計画の中の出来事なのだと、深く理解することができました。ちなみに「新明解国語辞典」には、「めぐむ」と言う漢字は、心を表す「しめすへん」に血液の「血」とかいて「恤む」とも書くとありました。心と、命である血、私たちを愛してくれるが故に命を捧げてくださったイエス様の恵みを表されている漢字があることに驚くと共に納得しました。

 そして、そのことを伝えるようにと神様は、私に言いました。そして、時がかなって、今日、皆さんの前でそのことを伝えることができたこと、これもまた恵みです。そして、母がアメリカに滞在し、礼拝に出席してくれる中で、私の信仰について伝えることができたことも恵みです。イエス様を受け入れた、16歳の時にいただいたエフェソ2章8-10節の御言葉は、私のクリスチャンとしての歩みも、クリスチャンになる前の人生も、そして、今も、これからも、イエス様の恵みの中で、その恵みによってなされているものなのだと実感させてくれます。神様に本当に感謝です。

 最後にもう一つ、「恵み」に関するお話をさせていただき私の証しを閉じさせていただきたいと思います。私が最も好きな映画の一つに「leap of faith」と言う映画があります。残念ながら日本では、上映されていないようですが、あえて、日本語に訳すとしたら、「信仰の躍動」、もしくは、「信仰の爆発!」と言った方が内容には、合っているかもしれません。詳しくは、goodnewsstation.comのDVD紹介欄を御覧ください。この映画の主人公は、ベニー・ヒン伝道師のような癒しの賜物を持ったカリスマ大衆伝道師なのですが、彼は、実はイカサマなのです。

 アメリカの町から町を移動し、キリスト教の集会を持ち、そこで、車椅子の人が車椅子を使わずに歩けるようになったかのように、集会に参加した人に見せかけ、たくさんの献金、仏教的に言えば、お布施を巻き上げると言った事をしていました。ある日、車の故障で、やむを得ず、止まった町は、雨が降らず、農作物が取れずに不況に陥っている小さな田舎町。そこで、いつものように集会をし、町の人々は、奇跡を期待して、なけなしのお金を献金します。そのイカサマ伝道師の前に事故で医者も見放した足の動かない少年が癒しを期待しやって来ます…。

 私がこの映画を見て、思ったことは、「『何故、こんな不幸なことが起こるんだろう?』と、思い悩み、考えることはよくあるけれど、『何故、こんな恵みがあるんだろう?』と、私たちは、思い悩み、考えることがどれだけあるだろうか?」と言うことでした。「不幸の不条理」は、よく耳にしますが、「幸せの不条理、すなわち、恵み」に対して、私たちは、どれだけ、耳にし、考えたことがあるでしょうか…?さて、この映画の結末ですが、ぜひ、DVDを借りてご欄になってください。すがすがしい結末と共にふと考えさせられることがあると思います。


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礼拝を請う人 Ⅱサムエル 24:15-19

2008年06月01日 | Celebration
一日、楽しみたかったら都会へ行け
一週間、楽しみたかったら旅に出ろ
一年、楽しみたかったら結婚しろ
一生、楽しみたかったら、嘘をつくな

 これは、「人生の喜びは人間関係の中においてにしかない」という意味だ。人付き合いは得意でないし、一人でいる方が好き、という人もいるだろう。しかしそれが「好き」と言えるのは、自分に都合良い時に一人でいられる場合だけ。この地上に自分たった一人しかいない、という状態を想定すると、そこに喜びはない。本、映画、音楽、絵画、いかなる芸術も、鑑賞する、あるいは鑑賞されるという、人間の思いの交信(=人間関係)無しには、何の感動も生まれない。

 先週に引き続き、ダビデの話からのメッセージ。偉大な業績を残し、神の子、神の友と呼ばれるダビデ。しかし私たちキリスト者は、誰でもダビデと同じ、神様に愛される子供なのだと語られた。その子供が犯す取り返しがつかないような失敗に対し、神様は取り扱い、悔い改めへの導きをくださる。

 信仰者ダビデも、逃避行を続けて窮地に陥り、疲れ果てて苦しんだ。神様への確かな信頼を持ち続けている彼でも、そんな難局では疑惑と失望が襲い掛かる。すると、人間はしばしば神様の意志からは外れた、間違った選択をしてしまう。そしてダビデも私たちも、自分の思いを強行した罪の結果を刈り取ることになる。

 本日の聖書箇所は、サムエル記の最後の箇所から。神の御心ではない人口調査というダビデの失敗に対し、神様の怒りとして災いが下される。ダビデと私たちが同じ神の子であるなら、この失敗も自らのこととして御言葉を聞き入れたい。私たちは日々、神様に対して罪を犯し、その怒りを招くことをしてしまっている。しかし神様はその怒りを憐みによって静め、赦しの恵みをくださり、神様を感謝し、賛美する礼拝の土台が据えられる。そこは、異邦人との共存共栄を図り、代価を支払って得られた場所。かつてアブラハムがイサクを献げようとしたモリヤの山であり、またイエス様の贖いが成された場所である。

 多くの民が自分の罪によって死んでいくのを目の当たりにして、悔い改めに導かれたダビデは自らの過ちを認め、神様との和解を強く望んだ。これが礼拝のベースだ。「罪を犯したのは私。赦しが必要なのは私。礼拝を捧げるべきは私。これは私の礼拝だ!」この熱いダビデの一途な思いこそ、礼拝に臨む真の基本的姿勢。ダビデの最後の失敗は、神様の憐れみと赦しの中で、礼拝の礎となる恵みへと結実しているのだ。そして見逃してはならない。礼拝や祈りの見返りとして恵みがあったのではない。神様の憐みの御心は、ダビデの悔い改めより前にあり、今やイエス様の十字架と復活において、既に私たちに与えられているのだということを。

 私たちの礼拝する場所は、神様の怒りが憐みによって乗り越えられた場所。礼拝するから、恵まれるのではない。恵みの中で、礼拝できるのだ。ダビデが主を礼拝することに熱心に、夢中になったように、涌き上がる真心をもって「真の」礼拝を捧げよう。これがキリスト者の生きる意味。



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