Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

しんがりの神 ヨハネ 20:11-16

2010年11月28日 | Celebration







ハワイに伝道旅行に行った時のこと。マウイ島からオアフ島行きに乗った飛行機の調子がどうもおかしい。何度エンジンをかけても何故か途中で止まってしまうのだ。整備員が修理して再びエンジンをかけるものの、やはり二つあるプロペラの一つが動かない。そうこうしている内に何だか焦げくさい臭いがして来るではないか?! 「主よ、どうかこの飛行機が飛ばないようにしてください!! この飛行機から降りられますように。」と私は必死になって祈った。結局その飛行機は無事、飛ばないで済んだ。

 私がこの飛行機から必死に降りたいと願ったのは、飛んでしまってからエンジンが止まったのでは遅いからである。いつエンジンが止まるか分からない飛行機の中で、どんなに機内食が美味しくても、どんなに景色が綺麗でも、どんなに映画が楽しくても、私は決して楽しむことはできない。死ぬかもしれないという不安の前には、そのような楽しみなど楽しみにはならないからである。

 しかし、よくよく考えてみると、私たちは誰一人も例外無く、死に突っ込んでいく飛行機の中の乗客と同じなのである。クリスチャンでなくても、人生それなりに楽しいことやエキサイティングなことは沢山ある。毎日楽しい食事をして、面白い映画を観て、様々な感動的な出会いがある。しかし、最後はみんな一人残らず死んでいくのだ。それはまるで機内サービスが充実しているけれど、エンジンが止って墜落の途上にある飛行機の乗客と同じではないか!?


地下700メートルの祈り
 今から約3ヵ月半程前、33人の労働者が地下700メートル下に閉じ込められるというチリで起きた落盤事故に世界中が注目していた。彼らは実に69日もの間閉じ込められていたが、全員が無事に生還することが出来た。何故のそのようなことが可能だったのだろうか?それは、地上との通気孔が有り、地下水が湧き、缶詰などの食料が避難所にはあったからである。そして、彼らが全員生還することが出来た最大とも言える理由がもう一つあった。

 それは、彼ら33人全員がクリスチャンであったことである。更に作業員の一人にプロテスタントの牧師(ホセ・エンリケス・55歳)がおり、彼の依頼によって33冊の聖書が通気孔から届けられ、彼らはで定期的に互いに励まし合い、神に救済の祈りを奉げるための礼拝を、地下700.mの下で行なっていたのである。

 そのことが、10月15日付け読売新聞の朝刊の『奇跡を生んだ団結力』という見出で、日本中に報道された。その記事には、「神が引っ張ってくれた」、「私のそばには神と悪魔がいたが、私を引っ張ってくれたのは神だった」という、作業員たちの迫真のコメントが写真付きで掲載されていた。それは神によって守られた正に奇跡の生還であった。

 さて、地下700mの下に閉じ込められていた彼らの境遇には三つの特徴があった。それは・・・

1) 彼らは自力では脱出することが出来なかった。
2) 彼らには仲間がいて互いに励ましあい、暫く生きるのに必要なものがあったが、いつまでもそれを続けていくことはできない。
3) 彼らにとって、外部から岩盤を取り除いてもらう以外に救出の道はなかった。

 地底に閉じ込められた33人の状況は、死に閉じ込められている人類の状況と同じである。私たちは地下にこそ閉じ込められてはいないが、誰一人死から自力で脱出出来る人はいない。その基本的状況において私たちは彼らと大差はないのである。また彼らに仲間がいたように、私たちにも友人たちや家族はいる。しかし、彼らとて、死の問題を解決する力は持っていない。そして彼らが外部からの救いを必要としていたように、私たちも神による救いを必要としているのである。


日本人の祈り
 日本人の祈りは、災いに遭いませにょうに『家内安全』、病気になりませんように『無病息災』、お金に困りませんように『商売繁盛』。この三つの願いに集約される。問題は、本当にこの三つが満たされたら、人は幸せになるのだろうか?ということである。残念ながら応えは否。そこには、『死』と『罪』と『裁き』という、人間には避けることが出来ない、実に重大な事実が欠落しているからである。

 この世の成功哲学や処世術は、人間は誰もがいつか死んで行く存在であるという事実と、人間は自己中心性という罪のために日々不安との内に生きていかなければならないという事実を覆い隠そうとしている。この世のどんな成功も、喜びも、慰めも、決して死の不安を超える希望には成り得ないのである。

 つまり、人生における様々な問題への解決を突き詰めると、結局それは死の問題を解決するということに他ならない。文学も、芸術も、哲学も、宗教も、結局そこに端を発していると言っても過言ではない。日頃私たちがそのようなことを考えないのは、考えても解決が見当たらないからである。しかし聖書はこの死という問題について、唯一解決を約束してくれている書物(神の言葉)である。


後ろに立たれていたイエス
 キリストが十字架刑に処せられた三日目の早朝、マグダラのマリアがイエスが埋葬された墓にやって来ると、重さ約2トンもある石の蓋が何者かによって取り除けられていた。うろたえながらマリアが墓の中を覗いてみると、何とキリストを埋葬した時に巻かれた布が抜け殻のように置いてあり、イエスの遺体が何処にもない。マリアは誰かがキリストの遺体を盗んだのに違いないと思い、悲しくなって泣いた。

 そんなマリアの後ろから、復活したイエスが彼女に話しかけた。すると彼女は驚き振り向いた。彼女はイエスと話しているのだが、自分が話している相手がイエスであることが全然分からない。しかし、マリアはそれでも必死になってイエスを求め続けていた。すると、イエスはマリアの正面に立って、「マリア」と、彼女の名前を読んだ。マリアはその懐かしい声を聞いて、「ラボニ(先生)・・・」と応えた。

 さて、イエスは何故、マリアの後ろに立たれておられたのだろうか?


イエスは、マリアが全く気付かないところで、彼女守り、支えておられた。人はその生まれもった罪の性質上、誰も見ていないと思うと、悪に走ってしまう。しかし、神は私たちの目には見えなくても、人間の視界を越えた所で、私たちを見ておられる。だがその視線は、私たちの過ちを追及し、批判し、裁くための眼差しなどではなく、ただ私たちを救うがための一心で、私たちを見ておられるのである。

 チームで山登りをするとき、熟練者は必ず列の最後につく。先頭は道案内のため、しんがりは後ろから全体を見守るためである。しんがりの人は、遅れがちな人、疲れている人、弱い人に対して特に気を配る。どうぞ覚えて欲しい。あなたが誰からも忘れられていると思っている時も、神は私たちの安全をずっと見守っておられるのである。


イエスが私たちの後ろに立っておられる理由は、私たちの人生における試練や悲しみに共感するためである。神は私たちが試練で苦しんでいる姿を、雲の上で腕を組んで眺めているようなお方ではない。後ろに立って見るということは、その人と同じ視点で見ているということである。マリアの後ろに立っておられたイエスは、マリアが見つめている対象を、同じ角度、視線で一緒になってご覧になっておられた。

 マリアが見ていたのは空っぽの墓だった。最愛のイエスが殺されてしまい、その上遺体まで盗まれてしまった。もうどうしていいのか分からない・・・、と途方にくれているマリアを、イエスは、「私は復活すると言っていたではないか」といった態度ではなく、悲しみに打ち震える彼女の後姿に心痛めておられたのである。

 人は、共通の趣味や仕事について共感することは出来る。しかし、人は他人の気持ちを共感することは非常に難しい。特にその人が大きな悲しみの中にある時、その気持ちを共感することは無理だと言っても過言ではない。何故なら、人はたとえその人と同じ経験をしたとしても、同じように感じることは出来ないからだ。しかし、イエスは私たちの気持ちを同じ環境、同じ視線で、完全に理解してくださることが出来るお方なのである。


イエスが後ろに立たれている理由は、私たちを神の方に振り返らせ、解決を示すためである。マリアの悲しみの根本的な理由は、イエスが死んだということであった。彼女は三日前にイエス処刑現場を見、その後に急いで葬られるところもじっと見ていた、だからこそ、安息日が開けた後直ぐに墓に飛んで来て、遺体を丁重に葬りなおしたいと思ったのだ。ところが、イエスは死んだままではなく、死んで甦っておられたのである。

 イエスは私たちの人生のすぐ後ろに迫っている死と、死後に定まっている裁きから私たちを救い出すために、しんがりとなって十字架に架かって下さった。「私の十字架の御業で、わたしはあなたに迫る全ての死と裁きは食い止めた、もうそれは過ぎ去り、死は恐れるに足らないものとなった。それなのにあなたは何時まで墓を見つめているのか?さあ身を翻し、永遠の命であるわたしを見上げなさい!」と私たちに語りかけておられるのだ。

 さあ、今まで神からずっと背を向けていた生活から、神の方へと向き直ろう!

 もしあなたが向き直るなら、そこにはあなたが真の自由と幸福を得るために必要な全てを、あなたに代わって成し遂げたキリストが両手を広げて待っておられる。

 真の希望を持たないまま、人生を送り続けて死に直面するほど、人間は愚かであってよいものだろうか?

 我々は皆、死ななければならない。どうしてその事実を無視したり、笑い飛ばしてしまおうとするのか?

 両手を広げてキリストを喜び迎え、キリスト者と呼ばれることを一生の内で最も誇るべき特権と考えることは、全ての人間にとって最もふさわしいことではないだろうか!

 どうぞあなたもイエス・キリストをご自分の救い主として信じ、永遠の命・真の喜び・平安を、自分のものとしてください! あなたの祝福を切にお祈り致します。



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3 コメント

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感想 (ノブオ)
2010-12-04 09:11:41
 しんがりの神とは、この内容を何度も聞き、読むほどこの意味の重さがひしひしと実感されます。イエス様は、同じ環境、視線で私達と一緒になって誰にも理解してもらえない痛みを完全に理解して下さるとは、それを理解していない我々がいること、何ともったいない話しでしょうか。それを気が付かせるために私達を振りかえさせるために後ろで守って下さっているまあ何とありがたい話ではないでしょうか。
 
 気が付くと神に背を向けて歩いていた自分がいたとならないよう少なくともこのことを知っている我々クリスチャンは、身をもって訴えかける使命があります。

 ノブオ atSF Airport
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感謝 (田中)
2010-12-04 18:22:50
ノブオさん、旅行中のコメント感謝します。日本に着かれましたら、新幹線の中からでも、ご一報告ください。

田中 at Gifu Japan
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感想 (ako)
2010-12-06 09:35:29
私は八ヶ岳の夏登山をした経験がありますが、苦しい登山の最中に、後ろから励ましの声でずいぶん頑張れたことを思い出しました。
イエス様はしんがりの神様。苦しいとき、悲しいときこそ後ろにおられ私たちを見てくださるお方。イエス様しかいなかったマリアの後ろから声をかけられたイエス様。流刑によりパトモス島にいたヨハネに後ろから語られたイエス様を思い出し、私にも、あの時、このときも、イエス様が支えてくださった、これからの後ろで支えて下さる、後ろに主がおられる安心をしっかりと頂きました。感謝します。
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