
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。― この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。― (Ⅰヨハネ1:1-2)

「いのちは、どこにあるの?」

「心臓はいのちじゃないよ」

「いのちは目に見えないけど、大切なものだよね」

「友情や、愛情や、お母さんの声みたいに」

「見えないものの中に、大切なものがあるんだよ」

「いのちは、君たちがこれから世の中で何かをするために与えられている時間のことなんだよ」

「だから、いのちは大切なことに使わなきゃいけないんだよ」
聖路加病院の日野原先生が、生涯の使命として小学生に教えている「いのちの授業」で語られている「命」についての言葉です。先生は、命を「あなたにしかできない使命のために与えられた時間だ」と仰っています。「命」について考えたことがありますか。命とは何でしょうか。日野原先生の仰ることが、すべての人にとって適当な意味ではなく、それぞれがそれぞれに知っている「命」の意味があるはずです。
日野原先生の仰るような「時間」だと思うかもしれませんし、心臓が鼓動するという機能的な事実を第一に思うかもしれません。間違いないことは、「命」は今ここにいらっしゃる方々誰もが、与えられて持っているということです。そして、「命」は何よりも大切なものです。「一番欲しいものを言ってごらん。」と言われ、お金や成功、友人や恋人、名誉、知識、楽しみ、何を願っても、それは「命」があるという前提です。
「一番欲しいもの」は「命」であるはずが、日常生活の中でその大切さを忘れ、命が危険にさらされることなどないと思い込んでいます。あまりに平和で、あまりに無関係で、あまりに当然と思っているがために。しかし、その命を生きること、また命を失うことに真っ向から直面しなければならない時が、人間には必ず訪れます。昔からご病気とは縁が薄く、命の危険にまったく気を留めなかった私に「生きること」を教えてくださった方々がいます。そして、私は今、生きています。
ゆう子さんは、私の大切なお友達です。かつて一緒に働いていた職場では上司としていろいろと教えてくださり、またプライベートでも独身一人身の私をいつも気遣い、お家に呼んでご飯を食べさせてくれたり、お泊りさせてくれたり、実際的にも精神的にもケアしてくれる、アメリカ生活のお姉さんのような存在です。一緒に働いていた旅行会社が、9-11同時テロの影響でクローズしてしまった時も、彼女自身が再就職を探すと同時に、私のことも気にして、あちらこちらを紹介してくれました。
嬉しいことを共に喜び、苦しいことを共に苦しむ、そんな家族のような関係をもう10年以上持たせていただいています。その間でも2002年からの数年間は、私が「いのちの授業 ゆう子バージョン」を体験学習させていただいた貴重な時間です。9-11同時テロ後まもなくの2002年、ゆう子さんは悪性リンパ線腫と診断されました。病院で適当な治療をしなければ、余命2年とはっきり告げられました。
悪性リンパ線種は、少し前になりますが、いかりや長介さんが亡くなったご病気です。リンパ液の癌という原発巣が特定しにくいために手術ができず、治療が難しい病気とされています。ゆう子さんの癌も、切って取り除くことはできない状態にありました。彼女は幼い頃にお母様を亡くされて寂しい思いをしていらっしゃり、病気を診断された頃に7歳くらいだった彼女の子供には決してそんな思いをさせたくないと、懸命に病気と戦いました。病院に縛られ、大量の薬に頼るような治療法ではなく、体に負担が少なくて通常の生活を続けられる自然療法をいろいろと調べ、試しました。
びわの葉療法、菜食主義、化学薬品を含まない生薬、コロンセラピー、酵素摂取など、最新の文献を読んでは問い合わせをし、有効と考えられる療法を熱心に勉強して取り入れました。その当時、私もフルタイムの職に就いておらず、時間があったので、まずはゆう子さんの病気が治ることを目標にして、調べたり励ましたり、時には一緒に療法を受けたりして彼女の闘病生活に付き添う生活でした。
ゆう子さんは元々パワフルな関西人で、闘病中も基本的にとってもポジティブで、一時は腹水が溜まって臨月のようなお腹をしていても、「妊娠していた時はもっと大きかったよ~。」と言いながら歩き回り、「生きてやる!」という意志を強くしっかりと持っていました。でも、そんな元気な彼女でも、時には気弱になり、励ましを必要とします。「命」に真剣に直面していれば、支えの言葉、支える人が欲しくなるのは当然です。
そんな時、私は彼女のそばにいることができました。ゆう子さんの病気との戦いを励まし、サポートすることができました。そして、彼女の病が癒されるを見ました。決して望んで体験できることではありません。ゆう子さんとの関係において、病気との闘いと癒しは、一生忘れることのできない、かけがえのない時間です。このことを通し、過去病気という病気をしたことがなく、「命」について考えていなかった私が、「命」の意味を考え始める機会となったのです。
もうひとつ、時期は前後するのですが、今度は私のことをお話しましょう。頑丈とも言える丈夫な私ですが、「心が死ぬ」ような思いを味わったことがあります。私は、海外で仕事がしたくてアメリカに来ることを決断しました。日本ではない「外国」での生活は小さな子供の頃からの夢でした。夢として抱き続けた憧れが私をアメリカへ駆り立てたことは事実ですが、実際にアメリカに来ることができるようになったのは、ある方のお陰でした。
ロサンゼルス在住のその人は、日本の旅行会社でOLをしていた若かりし私に、彼自身の渡米経験、アメリカでの生活を教えてくれ、私がアメリカへ来るための準備を整えてくれました。当時26歳だった私は、海外で住むならこれがラストチャンス!今決断しなければもう私は一生日本で平々凡々と生きるしかないぞ!と追い迫られる思いはありましたが、それまでの四半世紀、ずっと親元で暮らし、決してお金持ちな家ではないにしても、金銭的にも精神的にも十分与えられ、不自由ない生活をしていましたから、一人でそこから外の世界へ飛び立つのはかなりの決心が必要でした。
だから、私の新生活のために骨折ってくださったその方への強い思いがなければ、私はアメリカに来れなかったはずです。その人のことを尊敬していました。渡米を決めてからは、当時はメールなんて便利なものはないので、高い国際電話代を費やして頻繁に連絡し、その人が日本に来た時はわざわざ出向いて相談に伺いました。若い頃の、何の根拠もない思い込みって恐いもので、いつの間にか私が思い描く先には、その人とのアメリカでの結婚生活がありました。
日本に一時帰国していた彼が、ロサンゼルスに帰るというその日に合わせて、私もロサンゼルスへ移ることにしました。私のそんな独りよがりの馬鹿げた思い込みは誰にも伝えず、「仕事をしたい、海外に住みたい」という表面的第一目的だけを強調して家族を説得し、家族は娘の夢のためなら、と涙を呑んで川村家一族総出で名古屋空港までお見送りに来てくれました。出発のその日、別れの悲しさはあるにしても、私はバラ色の想像が現実になることを夢見て、名古屋から成田まで飛びました。
そして成田空港で、婚約者と一緒にいるその人にご挨拶する羽目になったのです。「絶望」とはこういうことか、と期待に胸膨らませて名古屋空港を飛び立ったほんの数時間後に思い知りました。ようやく手に入ろうとしていた素晴らしい夢と思っていたものが、まったく違う思ってもいなかった酷い現実で、目の前に現れたような感じでした。
それからしばらくのことは、あまりのショックでほとんど記憶にありません。ロサンゼルス到着後、何とか手配していたウィークリーアパートへたどり着きましたが、もう自分自身、どうしたらよいかわかりません。予定していたバラ色の将来設計は、始まるか始まらないかのうちに無残にも砕け散ったのですから。子供の頃から憧れていた海外生活は、こんなお先真っ暗状態で始まりました。
誰かに相談しなかったの?その人には何も言わなかったの?皆さん、不思議に思われるかもしれません。私自身、今はそのあまりの馬鹿さ加減が不思議でなりません。元々友達づきあいが下手で、自分の殻に籠りがちで、心のうちをさらけ出すことができないでいた結果です。この私にとっては悲惨な経験でそれを改善したかと言えば、そうではありませんでした。それからずっと、このことは誰にも語らず、もちろん表面的にはアメリカに来れてハッピーを装い、迷い道をさ迷い続けました。
時間が経つと、取り合えず普通に戻りましたが、私の心には、楔が刺さったままであるように感じていました。上手く刺されば死んでしまえたのに、致命傷にはならなかった楔。抜けば血があふれて死ぬだろう、と思いながら、自分で抜く勇気はなく、誰かに抜いてもらうつもりもなく、楔を心に刺したまま、少しずつ血が流れて死ぬのかしら?それともいつか自然にふさがるのかしら?と思いながら、この楔の痛みで何となく人間関係に線を引き、体裁だけを整え、私はどうしてここにいるんだろう?とわからないまま、考えることもしないまま、心で血を流しながら歩き続けていました。
希薄な人間関係を過ごす中、家族同様に受け入れてくれた大切な関係のゆう子さんが病気になり、闘病生活の彼女を励ますため、私は知らずと真理を口にしていました。「明けない夜は来ない。」「山登りは頂上間近が一番厳しい。そこであきらめるか、もう一歩進んで素晴らしい山頂の風景を見るか、どちらを選ぶ?」「きっと上手く行く。私は信じる。」当時はまだ御言葉を知りませんでしたから、私が使った言葉は、聖書の御言葉ではありません。でも後日、聖書にこの御言葉を見ます。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)
この御言葉を知った時、まったく後になってからですが、真理は私に語られていたことを知りました。私がゆう子さんを励ましたいと思って口にした言葉は、私自身が長く苦しんでいた心の癒しのために、神様が私にくださっていたものでした。また、祈りもありました。ゆう子さんが家族のために子供のために生きたい、と思っている切実な心を感じていたので、本来私は楔が刺さった時点で死んだはずだから、その時失わなかった命がまだあるなら、有益な使い方としてゆう子さんにあげたいと思って祈りました。
今こそこの楔を抜く時とばかりに、勇気を出して祈りました。自分が死ぬから抜くことはできないと思っていたのに、ゆう子さんを生かすためには抜いても構わないと思いました。そして必死に祈る時、全能の神様は必ず応答してくださること、願う以上のことをくださることを知ったのです。楔はなくなり、ゆう子さんの病は癒え、私は生かされたのです。

信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。(マタイ 21:22)
ゆう子さんのリンパ腫はなくなりました。そしてそのことで私は「命」の意味を考えるようになりました。聖書は「命」について語っています。失われた「命」を回復するため、取り戻すために書かれた神様の言葉です。回復しなければならない「命」とはなんだろう?その頃はまだ心に楔がささっていると思い込んでいましたから、それを知りたい一心で聖書を読みました。天地創造の神様はまだわからなくても、「命」は神様が創られるもので、神様の領域に違いありません。
そしてクリスチャンとして救いを受けることは、「いのちの書」に名を記されることであり、イエス様に信頼すると決めたその時、天の軍勢は喜び歌い、神様は「わたしの愛する子」と呼んでその力と愛を分け与えてくださり、神様との家族関係が回復すると知りました。これまで心に刺さっていた楔も古傷も汚れもすべてきれいになり、まったく新しい自分に完全に変えられて新しい「命」をいただくことも。
心の楔の存在を知っていながら、気付かないふりをして無視し続けていた私。いつか私を殺してしまうかもしれない、あるいはいつか治るのかも。そんな漠然とした思いを抱き続け、なるがままに任せてていた私は、癌と戦って、命を求めて、とうとう癒されたゆう子さんを見て、私自身が如何に「命」を軽んじていたかと思い知りました。神様がくれた「命」について、もっと知ってもっと考えてもっと真剣に向かい合おうと思ったのです。そんな知りたいと真剣に願う思いで聖書を読み始めて、そして私はクリスチャンになりました。
聖書は、様々な角度から命の大切さ、命の意味、「生きる」ということを語ります。聖書にある御言葉に触れることで、求めに応じて、真実を少しずつ、少しずつ知らされます。それが、聖書が「命」について語っているということです。2005年1月2日、「命」について神様が語ってくれることを聞こう、神様がここから教えてくれるんだ。そんな思いで聖書を読んだ途端、私の内に「命」の意味が入ったように感じました。わかったと言っても、答えを得た訳ではありません。ただ、ここに答えがあると確信できたのです。実際、今になっても「命」について、日野原先生のような素晴らしい定義付けはできていません。
しかし、「命」って何?と日々聖書に問い続け、少しずついただく答えの小さなパーツを集めて生きる。そして最後まで集めたパーツを組み合わせると、私の求めただけの真理が形作られる。それがこの次の「命」、天国での「命」を生かします。啓介先生は、聖書66巻各書がステンドグラスの1ピースで、時代も場所も異なるところにあった66ピースを組み合わせたら、イエス・キリストの御姿になりました、とよく話されますが、私の「命」もそれに似たものがあるのです。「命」は成長します。それを大切に思う私の中で、そして大切に思ってくれる周囲の人々の間で。そして成長させてくださる神様の愛の中で。
さて、「命」についてはまだ私の定義を確認中ですが、「生きる」こと、「死ぬ」ことはもう少しわかったように思います。簡単に言うと、「生きる」ことは関係の継続であり、「死ぬ」ことは関係の断絶です。私は心に傷を受けて、楔を打たれるようなショックなことに遭って心が死んだと思っていましたが、違います。私の心は、最初から死んでいたのです。相手と関係を作ることも、培うことも、育てることもせず、一方的に思いで勝手に傷を負っただけ。「生きる」とは、機能するとは違うのです。
これは私が決断した直前に、礼拝で語られたことですが、例えば五体満足で健康だけど、「命」を軽んじてテキトーな人生を送っている昔の私みたいな人と、生まれながらに病気で寝たきり生活だけど、毎朝「命」を感謝し、精一杯のできる限りをもって短いかもしれない人生を送る人。やや極端ですが、「命」を生きたのはどちらでしょう?「生きる」とは、与えられた「命」を精一杯使うこと。そして「命」は、関係の中で「生き」、永遠に存在する神様との関係の中でこそ、「生き返り続ける」ことができるのです。それが新しい「命」をいただく、ということです。
このことは、イエス様の十字架のシーンでも見ることができます。イエス様が十字架に架けられた時、その右と左に二人の強盗が十字架に架けられていました。二人の強盗は、イエス様をののしります。「神なら自分とついでに俺らも救ってみろ!」私も同じでした。心に楔を抱え、自分では何もせずにただ、神様がいるならどうにかしてよ!と文句だけ言っていたようです。しかしその内に、右の強盗はイエス様を神様と知るのです。
そしてただ、自分のことを思い出してほしい、と願います。この時、神様との関係ができたのです。祈りもしていない、洗礼もしていない、でも、確かな神様との関係です。十字架刑というのは、自分の足で身体を支え続けている間は死なないそうです。支えを失うと、身体がずり落ちて留められた手足の位置から息ができなくなって死に至ります。左の強盗は、必死に自分で自分を支え、死が間近にあっても神様を求めることができませんでした。そして無残にも、無理やり支えられないように足を折られて死にました。
右の強盗はどうだったでしょうか。私は聖書のこの箇所の意味を知った時、自分の心にあった楔がいつのまにかなくなっていることに気付き、もう楔が私を殺すことはないとわかりました。同じように右の強盗もイエス様から「今日あなたはわたしと共にパラダイスにいるだろう。」の御言葉と共に、十字架も支えも、彼をほんとうの意味で「死」に追いやるものはなかったと思います。彼は、イエス様との信頼関係を得て、「生き返り続ける命」をいただいたのですから。
人生はたかだか100年程度のものではありません。人間はたった何十年かこの世で生きて終わり、という簡単な存在ではありません。本来、神様によって与えられる「命」は永遠であり、「死」が介入することはなかったのです。目で見えないから、存在を証明できないから、そんな理由で「命」も「神様」も無視しないでください。神様なしに「命」はありません。神様なしに「生きる」ことはありません。目に見える、理解できる現状だけですべてを判断するなら、目に見えない愛も信頼も関係も人生も、何の意味もなくなります。
失うために得、別れるために出会い、苦しむために愛し、死ぬために生きる人生でしかないからです。私は今、「生きる」ために生きています。もし「生きたい」、「死にたくない」、あるいはかつての私のように「もう死んでるよ」と思っている方がいらっしゃるなら、どうぞ今すぐ神様を求めてください。イエス様を信頼してください。あなたをいつでも見ている神様は、あなたが求めるだけで、今すぐにでも「命」をくださり、あなたの「死」を滅ぼし、「生きる」喜びを体験させてくださいます。(執筆担当:睦美)

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