Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

父親の愛 申命記6:4-7

2010年06月20日 | Celebration
父の日は、今から約100年前、ワシントン州のある教会で、自分を男手一つで育ててくれた父親への感謝を表すために、何かをしたいと願っていた娘さんが、牧師にお願いして父親の誕生日に父の日礼拝を行なってもらったのが、その始まりである。当時、「母の日」は既にアメリカ社会では定着していたのだが、「父の日」がなかったため、その娘さんは「母の日」があるのなら、当然、父親に感謝する日「父の日」もあるべきだと、牧師協会へ嘆願して回ったと言う。

 「母の日」と比較すると「父の日」の存在感が非常に薄いのは、父親の愛は、母親の愛よりも目に見え、形に表われることが少ないからかも知れない。子供にとって、母親の愛は直感的に感じることができても、父親の愛を愛として理解するには時間がかかる。父の愛は、普段あまり意識されていないだけに、父の日に父親の愛を、思い返してみることは意味がある。

 何故なら、父親の愛を想うことが、父なる神の愛を想うことへとつながるからである。父親の愛が、母親の愛とは異なり、直接的に感じにくいものであるように、父なる神の愛を理解するには、じっくりと聖書に向かい合い、御言葉をかみしめる必要がある。今日は、家庭における父親の役割について、エペソ書からメッセージを取次ぐ。


諸悪の根源は父親の権威喪失
 家庭内における父親と母親の存在感の比重の差は言うまでもなく、子育ての場においても、その主役を務めているのは母親である。実際、父親の子育てに関する責務についてはマスコミではほとんど取り上げられず、特に日本では子育てのために育児休暇を取る父親のことが新聞記事になるほどなので、父親が子育ての役割を放棄しても、社会的に批判されることははっきり言ってないのが実情である。しかし、多くの社会心理学者たちは、現代に蔓延する社会問題の根源、特に青少年の犯罪や、麻薬、性的な乱れなどの源は、『家庭における父親の権威喪失にある』と結論付けている。

 かつてのアメリカは、一般的に子育てには聖書が使われていた。ところが、ある時から、「特定の権威を定めることなく、子供たちの特性に合わせて、彼らに好きなものを選ばせて勉強させればいい」という考え方が出て来た。確かに、これは良い面もあるが、結果的に楽しくなければ何もしない子どもを作り、全ての物事に対する判断基準が自分の好き嫌いの枠を超えることが出来ず、自己主張ばかり巧みで、規則とか権威というものに従うことができない人間を作るに至った。それは、彼らが最初に従うべき、父親の権威をないがしろにして来た結果である。父親の権威を理解出来ない人間が、神の権威を理解することは難しい。

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。()

 聖書は、一家の長は父親であると明言している。それは夫が妻よりも力が強いとか、収入があるからという理由ではなく、社会には秩序というものがあり、自分が従うべき規則や権威があるのだということを、家庭において教える必要があるからだ。父親には、永遠に変わらない真理を、聖書を通して、何が正しいことであり、何が正しくないことかということを、先ず自分自身が手本となって、子供たちに教える責任があるのだ。


子育てを放棄した父親の悲劇
 しかし、現実的に多くの場合、夫は仕事に忙しく、本人は子育てがしたいと思っても、状況的にそれが出来ない場合も多々ある。単身赴任ならば正に八方塞りである。しかし、理由がどうあれ、子育てを放棄した父親は、その後一貫して、家庭内における存在感を失い、妻からは愛されず、子供からも信頼されず、本来果たすべき責任を果たさなかった父親の人生は、その最終ステージにおいて、かなり厳しい現実が待っている。

 母親がやっと子育てを終えた頃、仕事のピークを越え、定年を間近に迎えた父親は、これからの人生は妻と一緒に過ごそうと思い込んでいたのは実は夫だけ。妻は今まで一切家庭を顧みず、育児や家事に関する実績は全くなく、車とゴルフと政治の話ししか出来ない夫のために、残された自分の人生を使おうなどとはサラサラ思ってない。

 今までは夫が家にいなかったから我慢できていたようなものの、毎日一緒にいられるとなると、夫との距離感は更に広がるばかり。ところが、夫はそうした妻の気持ちになど一向に解せないまま、「今まで自分が養って来たんだ!」という言葉を唯一の頼りに、濡れ落ち葉のように妻にしがみつき、こうして空虚な老後の夫婦生活が始まるのだ。

 実際、父親の役割を放棄してしまった父親は、家族の中で『最も手のかかる長男』と化す。父親の存在感の喪失は、神が創造した社会の秩序の喪失を意味し、家庭、ひいては社会を混乱させる元凶となる。また、夫自身も、本来の夫としての義務から逃げたことで罪悪感を持ち、その罪意識から逃避するために、酒、ギャンブル、不倫等の泥沼にはまるケースも決して少なくない。


一家の長は神の命令
 子どもを産むということだけならば、Sexをすれば誰だって父母になるが、それは生物学的次元の話しであり、父親、母親になるということではない。「親になる」ということは、「子育て」という大切な人生のプロセスを通してはじめ生まれるものなのである。従って、子育ては母親の仕事であると断定するのは、明らかに間違った認識である。子供が出来る前提として、父親と母親がいるということは、そこには互いに担い合うべき役割があることを意味している。

 ケネディ大統領は「私にとって、一国を治めることにもまして、私の家庭を治めることは大切なことだ」という言葉を残しているが、父親にとって、一家の長として立つことは、実は一国の大統領になることよりも大切なことである。何故なら、神は男性に「大統領になれ」とは命じてはいないが、全て男性に対して、一家の長となるように命じておられるからだ。


父親が子育てに参加することにおける父親のメリット
 父親としての自覚を持ち続けるには、家族から経済的のみならず、精神的な大黒柱として位置づけられているという認知を受けていることが条件となる。そのためには、一番大変な幼児のときから父親として子育てに参加することが妻と子供との基本的な信頼関係になる。

 父親が積極的に子育てに参加することは、何も妻や子供のためだけでなく、父親自身のためである。子育ては人間的な成熟には欠かせない必要なプロセスである。また、一番大切な時期を二人で歩んだという経験は、夫婦の絆にとってかけがえのないものとなり、豊かな夫婦関係を約束するものとなるだろう。

 家庭における父親の役割とは、相撲に例えると、土俵と行司役である。母親が安心して子育てをするためには、その基盤としての土俵が安全に機能していることが前提となる。また、妻や子供の行き過ぎや、不足している部分を、行司役である父親が監督し、修正することが必要である。但し、その父親本来の機能を、働かせるためには、父親はこの二つの御言葉に立っている必要がある。

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(エペソ5:25)

父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。(エペソ6:4)

 父親は自分の独断や理不尽な権威の行使によって、子供に否定的な感情を与えてはならない。そのような行為は子供に対して逆の否定的な反応を引き起こすからである。子供に対する躾は、御言葉がベースになければならない。「しつけ諭される」という言葉は、「思い出させる」という意味を含んでいる。つまり、子供に前向きで建設的な考えや発想を思い起こさせるということである。


父親が子育てに参加することにおける母親のメリット
 父親が子育てに介入することで、母親はとりあえず一時的子どもから離れられることができ、まずはホッと一息つくことができる。そして、子どもと少し距離を置いて見ることによって、自分の子育てとか、日々の生活内容を反省することができる。あるいは父親の前で見せる子どもの姿から、自分には見せない子どもの意外な側面を知ることにもある。このような休憩プロセスは、母親が冷静に、客観的に自分自身と自分の子育てを顧みるとても良い機会となる。

 そして何より、一番辛い時に夫が言葉だけでなく、実際の行動によって自分を援助してくれることで、夫への信頼感と感謝の気持ちが生じる。また、子育てに関する問題を、夫婦が同じ水準で話し合うことができる。アプローチが異なっても、共通の認識で子どもの成長を見ていけるということは、子どもの成長に伴い、夫婦関係も成長していくことに大きな意味がある。

 そして大切なことは、父親が子育てをするためには、妻の協力が必要不可欠だと言うこと。多忙な夫を生かすも殺すも妻の器量にかかっているのである。例え夫が単身赴任であっても、母親はことある度に「お父さんはいつもあなたのことが大好きで、あなたのことを心配しているよ」と子供に伝えることによって子供は安心し、いつも自分を陰で支えていてくれる父親のイメージを持つことが出来るのである。

 そうすれば、たとえ父親が目の前にいなくても、子供と父親の間に溝が出来ることはない。時間は長さだけではなく、内容が大切なのである。そのような貴重な時間の中で父と子の関係は育てられて行くのである。そのような環境をつくるためには、妻は夫に仕えるということが前提となる。この聖書箇所において、何故、神は夫への訓戒より先に妻に語っているのか?それは、家庭における主役が妻だからである。

妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。(エペソ5:22-23)


父親が子育てに参加することにおける子供のメリット
 母親は基本的に子どもを守ろうとする姿勢があり、子どもが怪我をしたり、病気をしないように、何よりも子供の安全を優先する。一方、父親は自由で子どもと遊んでいる内に、自分も少年に戻っていくという解放的な部分があるので、子供にとって父親と遊ぶことは母親とは違う刺激を体験することが出来る。

 こうして子供の心に父親のイメージが育ち、それが子どもの行動に影響力を持つようになると、子供は小学校、思春期、青年期の人生における節目節目に、父親の意見と母親の意見という、二つの幅のあるアドバイスを受けることができる。

 実際、良妻賢母型の子供がよく不登校や引きこもりに陥るのは、子供に母親側の価値基準しかない場合が多い。母親の価値基準を相対化する父親の価値基準があることで子供は自分を客観視でき、心に余裕を持つことが出来るのである。父親は、子供が親に対してこう悟ることが出来るように導いてあげなければならない。

子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。(エペソ6:1-3)


家族の基本は、神を神じ委ねること
 父親が自分の権威ではなく、神の権威によって子供を教え諭すということは、人生における様々な困難な問題に対して、失望することなく、諦めることなく、神の前にへりくだって祈る父親の姿を、子供はダメな弱い存在として見ることはない、返って、そんな父親の謙遜さの中にこそ、子供は一家の長としての「強さ」を発見し、尊敬を持って、そのような父親に従っていくようになるのだ。

 そして、親にとって子供に対する最も大切な務めは、子供を信じてあげること。キリストを信じることが、自分を信じ、配偶者を信じ、子供を信じることへとつながり、キリストから赦されたという深い体験が、自分を赦し、配偶者を赦し、子供を赦すことへとつながる。このキリストにある愛と赦しを共有している家庭から、引きこもりやいじめが発生することは決してない。そのような、霊に満たされた家族こそが、神の御国建設の原動力となるのである。


メッセージ(音声)はこちらをクリック!↓
http://goodnewsstation.com/celebration.html


☆Good News Stationのメインページはこちら!

最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
感想 (暢夫)
2010-06-23 13:47:26
 日本とアメリカでは、妻の就労環境の違いが、子育てに関する父親の意識に大きな影響を及ぼしていると思います。子供がいる妻にとって働きずらい日本と、共働きが必要とされるアメリカでは、大きな差があります。

 アメリカでは、夫が子育てに参加しなければ、即離婚が成立してしまい、子育てに参加することが必要条件になっています。また神様の意図が、教会を通じて普及していることも大きな違いであると思います。

 しかし前回の『聖書的子育ての勧め』に続き、過去私がたどってきたものは、ご指摘の通りであり、父親失格の判定を食らっても仕方がないと思います。

 ただし、今ここに来て最後のチャンスを与えられています。アメリカで言えば、Independentの立場の子供ですから多少状況が違うと思いますが、成長時に肝心な父親としての子育てを怠ってきたことは、確かであります。

 昨年10月の子供の件を契機にして、神様の存在の認識と相当な悔改めの機会を与えていただいたことは、幸いでした。怒らせてはいけないとは、子供のみならず、仕事でも同様です。聖霊様の助けがどうしても必要です。毎日がチャレンジです。
返信する
感想 (Ako)
2010-06-24 12:21:51
夫は妻を愛し、妻は夫に仕えること、この二つが夫婦を素晴らしくし、この二人が子供を育てていくことの素晴らしさ、祝福を教えていただきました。夫がメッセージの最中から、妻を愛しなさいという御言葉に反応し、妻を愛することを強く思ったようです。今週は子供たちとさらに遊び!楽しく過ごしている夫を見て、私は平安と幸福を味わっています。そして、夫の子育てには、妻の協力が絶対に必要で、妻が夫を尊敬し、その姿勢を子供へきちんと伝えること、大好きなデービットコケ下ろしている場合でないのだぁ~と反省。 今週のデービットさらに良い夫、良い父です。聖霊様ってすごい。感謝
返信する
感想 (睦美)
2010-06-24 13:41:52
「親になる」ということは、「子育て」という大切な人生のプロセスを通してはじめ生まれるもの。

「親になる」というこの言葉を、「キリスト者となる」と置き換えるようにして聞きました。私はクリスチャンではない両親から真理である「父母を敬え」をきっちり教えられ、身についています。そのことが「信仰」の助けとなっているとも感じ、教えてくれた父母に感謝しています。その一方で、これから私がその両親や家族を含む新生クリスチャンを生んでいく「親になる」ことを、信仰生活のプロセスを通して、また教会や父なる神様との共同作業をもって進めてこそ、「なる」のだと感じました。

そして「なる」ためには何かをするのではなく、ただ霊に満たされるという自発的ではない、乞い求める受身の姿勢が前提にあることも悔い改め、思考の反転でした。人を育てることも、また自分が育つことも自力ではない、神様の大きなバックアップ、恵みがあってこそ。いつもその神様に信頼し、育てられていくことを祈り求めます。
返信する

コメントを投稿