子供に対する親の愛は、無条件の愛である。親孝行の息子が可愛いのは言うまでもない。しかし、かと言って放蕩息子が可愛くないというわけではない。世の中の親はどの親も例外なく親バカであり、我が子が一番可愛い。そして自分の子供だけは特別だと思っている。そんな子供に対する親の愛は、神様と私たちとの愛の関係によく似ている。
日野原重明先生は、1911年生まれの御年98歳。聖路加病院の院長であり、日本最高齢のミリオンセラー作家であり、文化勲章受章者でもある。おそらく、日本で最も有名なお医者さんだろう。私たちの信仰の大先輩でもある日野原先生が、最後の命を懸けた仕事。それが、子供たちに『いのち』の大切さを知らせるために、日本全国、またアメリカやオーストラリアの小学校を巡って行なわれている『いのちの授業』である。日野原先生は90歳を超えた頃、残りの命を子供の教育のために奉げようと決心された。
日野原先生は、「10歳までの子供は皆天才だ!」と説く。子供は深い理解力と鋭い感受性と、適切な応用力を持ち、大人が到底敵わないほどの深い観点で物事を見極めている。ところがそんな天才たちも、10歳を超えるとみんな「ただの人」になってしまう。その理由は、彼らの周囲にモデルとなる 良き大人がいないためなのだそうだ。「自分もこうなりたい!」と子供に感じさせる大人がいないために、子供は天才的な力を失ってしまうのだ。では、何故私たちが子供たちにとって魅力的な大人であり得ないのか?子供たちの良きモデルとなるためにはどうしたら良いのか?日野原先生の『いのちの授業』に重ねて、三つのポイントを指摘された。
大人が子供に伝えるべきメッセージを持っていない
例えば、今私が余命一年と宣告されたとしたら、私は子供に何を残そうとするだろうか? 残すものがお金や家などの物質的なものしかなかったとしたら、それはあまりに悲惨だ。しかし実際、ほとんどの大人は、物以外の「伝えるべきメッセージ」を持っていない。それが光の存在になっていない最大の理由である。
戦争体験者である日野原先生は、日本で最初に起こったハイジャック事件、「よど号」の人質として拘束され、生死の境を彷徨う状況下で、命の大切さと真っ向から向かい合う体験をされた。機内の犯人たちが、武器や爆弾を持って命を脅かしていた中、何故か彼らに読書を許されて渡された本がドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。その冒頭は聖句から始まっていた。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)
4日ぶりに解放されて地面に降り立った時、還暦間近だった日野原先生は新しい人生の一歩を確信され、「許された第二の人生が、多少なりとも自分以外のことのために捧げられればと、願って止みません。」と会見で語られた。そしてその言葉通りに、経験から知らされた「与えられているいのちの大切さ」を伝える使命を実践されている。それが日野原先生の『いのちのメッセージ』だ。
大人が子供にどう伝えて良いのか分らない
大人はしばしば子供たちを侮り、子供は何も分っていないと思っている。とんでもない!先にも書いたように、子供の感覚機能は大人よりも遥かに優れており、目で見る情報、耳で聞く情報に非常に敏感なのだ。子供たちは、大人の嘘、取り繕い、誤魔化しなどを全てを理解し、その上で親との関係に気使って知らぬ振りをしている。実は子供たちの方が、ずっと大人なのだ。日野原先生はそんな子供たちの性質をよく知っており、子供たちに分かり易くシンプルで、それでいて興味を引く方法でメッセージを伝える。
「いのちは、どこにあるの?」
「心臓はいのちじゃないよ」
「いのちは目に見えないけど、大切なものだよね」
「友情や、愛情や、お母さんの声みたいに」
「見えないものの中に、大切なものがあるんだよ」
「いのちは、君たちがこれから世の中で何かをするために与えられている時間のことなんだよ」
「だから、いのちは大切なことに使わなきゃいけなんだよ」
そして授業の最後に子供たちと『シャボン玉』の歌を歌いながら、この歌に秘められた意味を説明する。「この歌の作者の野口雨情さんは、僅か生後7日目で亡くなってしまった愛娘に生きていて欲しかった!いのちは本当に大切なんだ!と言う願いを込めて、この歌をつくられたんだよ」と。そると、子供たちの心に、このはかないシャボン玉のいのちさえ、大切しようという思いが生まれて来るのである。
本当にいのちの大切さを知った子供は、決して人をいじめたりしない。本当にいのちの大切さを知った子供は、決して自分のいのちを断ったりはしない。本当にいのちの大切さを知った子供は、いつか必ず、永遠のいのちがあることに、気付いてくれるはず。日野原先生の『いのちの授業』には、こんな熱いメッセージが込められているのである。
大人自身が、真の希望に生きていない
子供に「勉強しなさい」と言うのは何のため?それは、良い学校へ入るためである。では、良い学校へ入るのは何のため?それは、少しでも良い仕事に就くためである。良い仕事に就くのは何のため?それは、豊かで幸せな生活を得るためである。そこで、子供に「勉強しなさい!」と言うのと、大人が豊かで幸せな姿を実際に子供に見せることと、どちらに説得力があるだろうか? 百聞は一見に如かず、子供は目で見ることによって、真に学ぶことが出来るのだ。
日野原先生が、聖路加病院の新病棟建設に携わった時、周囲の非難の声を押して、大規模災害などの緊急時には病院内のすべての空間が医療処置を行えるシステムを取り入れられた。広々としたロビー、廊下、また、病院内の礼拝堂には、全て酸素供給口が備わった病床スペースに変わる画期的最先端の設計。戦争の苦しみの中から日野原先生が抱き続けた希望は、新病棟が完成した三年後、地下鉄サリン事件の膨大な被害者640人を受け入れるという劇的な形で全貌を現し、周囲を圧倒した。
日野原先生は、聖書の御言葉を通して、真の希望とは何なのかということを知っておられる。そして、人間の「いのち」の大切さの意味を、自分の実体験を通して、知っておられる。日野原先生が何故、いのちの授業の最後に子供たちと一緒に「シャボン玉」の歌を歌うのか?それにはとても深い意味があった。
実は、「シャボン玉とんだ、屋根までと飛んだ、屋根まで飛んで、こわれて消えた」は、讃美歌461番「主われを愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れにあらじ」と旋律が同じなのである。この讃美歌461番は、幼くして死んだ少年のことを歌った歌で、野口雨情は、この讃美歌をベースに『シャボン玉』の歌を書いたのである。
「少年よ、大志を抱け!」 札幌農学校で語られたこのクラーク博士の言葉はあまりに有名だが、この言葉の真意は、「少年よ、“キリストにあって”大志を抱け!」なのである。神様にある希望を持った大人こそが、伝えるべき子大切なことを子供に伝え、真理を教え伝えることができる。そ私たち大人は、永遠の命に至る福音のメッセンジャーとして、子供たちを光輝かせるそれぞれの役目を担って行くのである。(執筆担当: 睦美)
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日野原重明先生は、1911年生まれの御年98歳。聖路加病院の院長であり、日本最高齢のミリオンセラー作家であり、文化勲章受章者でもある。おそらく、日本で最も有名なお医者さんだろう。私たちの信仰の大先輩でもある日野原先生が、最後の命を懸けた仕事。それが、子供たちに『いのち』の大切さを知らせるために、日本全国、またアメリカやオーストラリアの小学校を巡って行なわれている『いのちの授業』である。日野原先生は90歳を超えた頃、残りの命を子供の教育のために奉げようと決心された。
日野原先生は、「10歳までの子供は皆天才だ!」と説く。子供は深い理解力と鋭い感受性と、適切な応用力を持ち、大人が到底敵わないほどの深い観点で物事を見極めている。ところがそんな天才たちも、10歳を超えるとみんな「ただの人」になってしまう。その理由は、彼らの周囲にモデルとなる 良き大人がいないためなのだそうだ。「自分もこうなりたい!」と子供に感じさせる大人がいないために、子供は天才的な力を失ってしまうのだ。では、何故私たちが子供たちにとって魅力的な大人であり得ないのか?子供たちの良きモデルとなるためにはどうしたら良いのか?日野原先生の『いのちの授業』に重ねて、三つのポイントを指摘された。
大人が子供に伝えるべきメッセージを持っていない
例えば、今私が余命一年と宣告されたとしたら、私は子供に何を残そうとするだろうか? 残すものがお金や家などの物質的なものしかなかったとしたら、それはあまりに悲惨だ。しかし実際、ほとんどの大人は、物以外の「伝えるべきメッセージ」を持っていない。それが光の存在になっていない最大の理由である。
戦争体験者である日野原先生は、日本で最初に起こったハイジャック事件、「よど号」の人質として拘束され、生死の境を彷徨う状況下で、命の大切さと真っ向から向かい合う体験をされた。機内の犯人たちが、武器や爆弾を持って命を脅かしていた中、何故か彼らに読書を許されて渡された本がドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。その冒頭は聖句から始まっていた。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)
4日ぶりに解放されて地面に降り立った時、還暦間近だった日野原先生は新しい人生の一歩を確信され、「許された第二の人生が、多少なりとも自分以外のことのために捧げられればと、願って止みません。」と会見で語られた。そしてその言葉通りに、経験から知らされた「与えられているいのちの大切さ」を伝える使命を実践されている。それが日野原先生の『いのちのメッセージ』だ。
大人が子供にどう伝えて良いのか分らない
大人はしばしば子供たちを侮り、子供は何も分っていないと思っている。とんでもない!先にも書いたように、子供の感覚機能は大人よりも遥かに優れており、目で見る情報、耳で聞く情報に非常に敏感なのだ。子供たちは、大人の嘘、取り繕い、誤魔化しなどを全てを理解し、その上で親との関係に気使って知らぬ振りをしている。実は子供たちの方が、ずっと大人なのだ。日野原先生はそんな子供たちの性質をよく知っており、子供たちに分かり易くシンプルで、それでいて興味を引く方法でメッセージを伝える。
「いのちは、どこにあるの?」
「心臓はいのちじゃないよ」
「いのちは目に見えないけど、大切なものだよね」
「友情や、愛情や、お母さんの声みたいに」
「見えないものの中に、大切なものがあるんだよ」
「いのちは、君たちがこれから世の中で何かをするために与えられている時間のことなんだよ」
「だから、いのちは大切なことに使わなきゃいけなんだよ」
そして授業の最後に子供たちと『シャボン玉』の歌を歌いながら、この歌に秘められた意味を説明する。「この歌の作者の野口雨情さんは、僅か生後7日目で亡くなってしまった愛娘に生きていて欲しかった!いのちは本当に大切なんだ!と言う願いを込めて、この歌をつくられたんだよ」と。そると、子供たちの心に、このはかないシャボン玉のいのちさえ、大切しようという思いが生まれて来るのである。
本当にいのちの大切さを知った子供は、決して人をいじめたりしない。本当にいのちの大切さを知った子供は、決して自分のいのちを断ったりはしない。本当にいのちの大切さを知った子供は、いつか必ず、永遠のいのちがあることに、気付いてくれるはず。日野原先生の『いのちの授業』には、こんな熱いメッセージが込められているのである。
大人自身が、真の希望に生きていない
子供に「勉強しなさい」と言うのは何のため?それは、良い学校へ入るためである。では、良い学校へ入るのは何のため?それは、少しでも良い仕事に就くためである。良い仕事に就くのは何のため?それは、豊かで幸せな生活を得るためである。そこで、子供に「勉強しなさい!」と言うのと、大人が豊かで幸せな姿を実際に子供に見せることと、どちらに説得力があるだろうか? 百聞は一見に如かず、子供は目で見ることによって、真に学ぶことが出来るのだ。
日野原先生が、聖路加病院の新病棟建設に携わった時、周囲の非難の声を押して、大規模災害などの緊急時には病院内のすべての空間が医療処置を行えるシステムを取り入れられた。広々としたロビー、廊下、また、病院内の礼拝堂には、全て酸素供給口が備わった病床スペースに変わる画期的最先端の設計。戦争の苦しみの中から日野原先生が抱き続けた希望は、新病棟が完成した三年後、地下鉄サリン事件の膨大な被害者640人を受け入れるという劇的な形で全貌を現し、周囲を圧倒した。
日野原先生は、聖書の御言葉を通して、真の希望とは何なのかということを知っておられる。そして、人間の「いのち」の大切さの意味を、自分の実体験を通して、知っておられる。日野原先生が何故、いのちの授業の最後に子供たちと一緒に「シャボン玉」の歌を歌うのか?それにはとても深い意味があった。
実は、「シャボン玉とんだ、屋根までと飛んだ、屋根まで飛んで、こわれて消えた」は、讃美歌461番「主われを愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れにあらじ」と旋律が同じなのである。この讃美歌461番は、幼くして死んだ少年のことを歌った歌で、野口雨情は、この讃美歌をベースに『シャボン玉』の歌を書いたのである。
「少年よ、大志を抱け!」 札幌農学校で語られたこのクラーク博士の言葉はあまりに有名だが、この言葉の真意は、「少年よ、“キリストにあって”大志を抱け!」なのである。神様にある希望を持った大人こそが、伝えるべき子大切なことを子供に伝え、真理を教え伝えることができる。そ私たち大人は、永遠の命に至る福音のメッセンジャーとして、子供たちを光輝かせるそれぞれの役目を担って行くのである。(執筆担当: 睦美)
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