Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

福音としゃぼん玉 ヨハネ 12:20-26

2010年02月28日 | Celebration
子供に対する親の愛は、無条件の愛である。親孝行の息子が可愛いのは言うまでもない。しかし、かと言って放蕩息子が可愛くないというわけではない。世の中の親はどの親も例外なく親バカであり、我が子が一番可愛い。そして自分の子供だけは特別だと思っている。そんな子供に対する親の愛は、神様と私たちとの愛の関係によく似ている。

 日野原重明先生は、1911年生まれの御年98歳。聖路加病院の院長であり、日本最高齢のミリオンセラー作家であり、文化勲章受章者でもある。おそらく、日本で最も有名なお医者さんだろう。私たちの信仰の大先輩でもある日野原先生が、最後の命を懸けた仕事。それが、子供たちに『いのち』の大切さを知らせるために、日本全国、またアメリカやオーストラリアの小学校を巡って行なわれている『いのちの授業』である。日野原先生は90歳を超えた頃、残りの命を子供の教育のために奉げようと決心された。

 日野原先生は、「10歳までの子供は皆天才だ!」と説く。子供は深い理解力と鋭い感受性と、適切な応用力を持ち、大人が到底敵わないほどの深い観点で物事を見極めている。ところがそんな天才たちも、10歳を超えるとみんな「ただの人」になってしまう。その理由は、彼らの周囲にモデルとなる 良き大人がいないためなのだそうだ。「自分もこうなりたい!」と子供に感じさせる大人がいないために、子供は天才的な力を失ってしまうのだ。では、何故私たちが子供たちにとって魅力的な大人であり得ないのか?子供たちの良きモデルとなるためにはどうしたら良いのか?日野原先生の『いのちの授業』に重ねて、三つのポイントを指摘された。


大人が子供に伝えるべきメッセージを持っていない

 例えば、今私が余命一年と宣告されたとしたら、私は子供に何を残そうとするだろうか? 残すものがお金や家などの物質的なものしかなかったとしたら、それはあまりに悲惨だ。しかし実際、ほとんどの大人は、物以外の「伝えるべきメッセージ」を持っていない。それが光の存在になっていない最大の理由である。

 戦争体験者である日野原先生は、日本で最初に起こったハイジャック事件、「よど号」の人質として拘束され、生死の境を彷徨う状況下で、命の大切さと真っ向から向かい合う体験をされた。機内の犯人たちが、武器や爆弾を持って命を脅かしていた中、何故か彼らに読書を許されて渡された本がドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。その冒頭は聖句から始まっていた。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)

 4日ぶりに解放されて地面に降り立った時、還暦間近だった日野原先生は新しい人生の一歩を確信され、「許された第二の人生が、多少なりとも自分以外のことのために捧げられればと、願って止みません。」と会見で語られた。そしてその言葉通りに、経験から知らされた「与えられているいのちの大切さ」を伝える使命を実践されている。それが日野原先生の『いのちのメッセージ』だ。


大人が子供にどう伝えて良いのか分らない

 大人はしばしば子供たちを侮り、子供は何も分っていないと思っている。とんでもない!先にも書いたように、子供の感覚機能は大人よりも遥かに優れており、目で見る情報、耳で聞く情報に非常に敏感なのだ。子供たちは、大人の嘘、取り繕い、誤魔化しなどを全てを理解し、その上で親との関係に気使って知らぬ振りをしている。実は子供たちの方が、ずっと大人なのだ。日野原先生はそんな子供たちの性質をよく知っており、子供たちに分かり易くシンプルで、それでいて興味を引く方法でメッセージを伝える。

「いのちは、どこにあるの?」
「心臓はいのちじゃないよ」
「いのちは目に見えないけど、大切なものだよね」
「友情や、愛情や、お母さんの声みたいに」
「見えないものの中に、大切なものがあるんだよ」
「いのちは、君たちがこれから世の中で何かをするために与えられている時間のことなんだよ」
「だから、いのちは大切なことに使わなきゃいけなんだよ」

 そして授業の最後に子供たちと『シャボン玉』の歌を歌いながら、この歌に秘められた意味を説明する。「この歌の作者の野口雨情さんは、僅か生後7日目で亡くなってしまった愛娘に生きていて欲しかった!いのちは本当に大切なんだ!と言う願いを込めて、この歌をつくられたんだよ」と。そると、子供たちの心に、このはかないシャボン玉のいのちさえ、大切しようという思いが生まれて来るのである。

 本当にいのちの大切さを知った子供は、決して人をいじめたりしない。本当にいのちの大切さを知った子供は、決して自分のいのちを断ったりはしない。本当にいのちの大切さを知った子供は、いつか必ず、永遠のいのちがあることに、気付いてくれるはず。日野原先生の『いのちの授業』には、こんな熱いメッセージが込められているのである。


大人自身が、真の希望に生きていない

 子供に「勉強しなさい」と言うのは何のため?それは、良い学校へ入るためである。では、良い学校へ入るのは何のため?それは、少しでも良い仕事に就くためである。良い仕事に就くのは何のため?それは、豊かで幸せな生活を得るためである。そこで、子供に「勉強しなさい!」と言うのと、大人が豊かで幸せな姿を実際に子供に見せることと、どちらに説得力があるだろうか? 百聞は一見に如かず、子供は目で見ることによって、真に学ぶことが出来るのだ。

 日野原先生が、聖路加病院の新病棟建設に携わった時、周囲の非難の声を押して、大規模災害などの緊急時には病院内のすべての空間が医療処置を行えるシステムを取り入れられた。広々としたロビー、廊下、また、病院内の礼拝堂には、全て酸素供給口が備わった病床スペースに変わる画期的最先端の設計。戦争の苦しみの中から日野原先生が抱き続けた希望は、新病棟が完成した三年後、地下鉄サリン事件の膨大な被害者640人を受け入れるという劇的な形で全貌を現し、周囲を圧倒した。

 日野原先生は、聖書の御言葉を通して、真の希望とは何なのかということを知っておられる。そして、人間の「いのち」の大切さの意味を、自分の実体験を通して、知っておられる。日野原先生が何故、いのちの授業の最後に子供たちと一緒に「シャボン玉」の歌を歌うのか?それにはとても深い意味があった。

 実は、「シャボン玉とんだ、屋根までと飛んだ、屋根まで飛んで、こわれて消えた」は、讃美歌461番「主われを愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れにあらじ」と旋律が同じなのである。この讃美歌461番は、幼くして死んだ少年のことを歌った歌で、野口雨情は、この讃美歌をベースに『シャボン玉』の歌を書いたのである。

 「少年よ、大志を抱け!」 札幌農学校で語られたこのクラーク博士の言葉はあまりに有名だが、この言葉の真意は、「少年よ、“キリストにあって”大志を抱け!」なのである。神様にある希望を持った大人こそが、伝えるべき子大切なことを子供に伝え、真理を教え伝えることができる。そ私たち大人は、永遠の命に至る福音のメッセンジャーとして、子供たちを光輝かせるそれぞれの役目を担って行くのである。(執筆担当: 睦美)


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幻の3つの力

2010年02月21日 | Celebration
この教会に来る途中に新しく韓国マーケットができたのですが、半年もしないうちに閉店していました。そこから6ブロックほど先に行ったところにも韓国マーケットがあるのですが、そこはいつも流行っています。私の目には、店の大きさも、品揃えも、値段も、サービスもそれほど大差は感じられません、しかし、あるお店は流行り、あるお店はダメになるのはどうしてでしょうか?

 経営難に苦しんでいた会社が、社長が変わることによって回復したという話は良く聞きます。勿論、顧客への対応や、社内におけるコミュニケーション等々、改善すべき要素はいくつもあるでしょう。しかし、基本はもっと足元にあるのではないかと私は思うのです。私は経済・経営に関しては全くの素人ですが、「何故、こういうことが起きてくるのか?」ということを、今日は『聖書』から皆さんにお話をしたいと思います。

 今まで全くだめだった店が繁盛する店に変わったとすると、そのお店で一番変わったのは何だったかと言うと、働いている人が変わったのではないでしょうか? お店が変わったのは人が変わったからなのです。では、どうしたら人は変わるのかと考えた時、私は『イエスの弟子たち』のことを思うのです。

 イエス様には12人の弟子がいました。彼らは全員、イエス様から選ばれた人たちです。彼らは何故、イエス様から選ばれたのでしょう?彼らはお金持ちだったわけでも、特に頭が良かったわけでも、優秀だったわけでもありません。彼らはごく普通の人たち、いやむしろ逆に癖のある、問題が多い人たちだったと思います。この弟子たちがイエス様と共に過ごした3年半は、実にエクサイティングな時間でした。

 イエス様は多くの人々を癒され、数多くの奇跡を起こされました。大勢の群集がイエス様の後に付いて来きした。彼らもさぞかし自分がえらくなったような気持ちになったことでしょう。イスラエルのメシアに自分が選ばれたのですから。しかし、彼らは決して、牧師や伝道師になろうとは思っていたわけではありません。彼らは政治家になりたかったのです。イエス様こそがローマの独裁政治からイスラエルを解放し、イスラエルの王に君臨される王。それで自分たちは、官房長官だ大蔵大臣だとワクワクしていたのです。

 ところが、それから一週間後、イエス様はローマ兵に捕まり、翌朝には十字架刑にされてしまいました。弟子たちも“新しい政治的リーダー”から一転して“犯罪者”になってしまいました。今まで「イエス様のお通りだ~!」などと言っていた彼らは、蜘蛛の子を散すように一目散に逃げ、皆で部屋に鍵をかけて、ローマ兵に捕まったらどうしよう・・とブルブル震えていました。イエス様はご自分が十字架にかかることを、何回も弟子達に予告していたにも係わらず、イエス様が話されたその直後に弟子たちが話していたことは、“誰が弟子の中で一番偉いのか?”と言うことでした。

 彼らは、“イエス様から愛されたから選ばれた”ことを、“自分が特別だからイエス様から選ばれた”と勘違いをしていたのです。彼らはその出発点から間違っていますから、やる気はあるのですが、何をやっても的を外していました。ところが、今日の聖書箇所(使徒2:22-14)におけるペテロの演説は、とてもローマ兵に捕まるのが怖くてブルブル震えていた人とは思えません。ペテロは本当に、「自分の命など惜しくない、イエス様のためならたとえ火の中水の中!!」と言う勇気ある人間へと完全に変えられたのです。

 この大きな変革の理由は、その間に何か劇的な出来事があったとしか考えられません。その劇的な出来事とは何か?それは、『十字架上で死んだはずのイエス様と会ってしまった』ということです。彼は、『イエス復活』と言う衝撃的な事実によって、“永遠の命は本当にある”“神の国は実在する”ことを、目の当たりに見たのです。当時の初代教会の人たちは、このような実に生き生きとした信仰を持っていました。彼らは何故そんなに生き生きとしていたのか!? どうしたら人生を生き生きと生きて行くことが出来るのか?今日は三つのポイントで皆さんにお話します。


弟子たちは「事実」を伝えていた

日本に“幻の店長”といわれる方がおられます。この店長にかかると今まで全くダメだったお店が流行ると言うのですから、凄いですよね。しかし、そのお店を外見だけ見ていても、大きな違いは分かりません。実はこの店長のモットーは一つだけなのです。しれは、「繰り返し、繰り返し、伝えること」彼は何を伝えるのでしょうか?それは、“成すべきこと”です。

 つまり、ダメなお店では、従業員たちが成すべきことを、聞いていないか、理解していないか、行動に移せないか、そのいずれかの現状なのです。ですから店長は、彼らが成すなすべきことを、繰り返し、繰り返し、それが成すことが出来るようになるまで、徹底的に伝えます。そうすれば、皆が成すべきことを実行出来るようになり、その結果、お店が繁盛して行くのです。“幻の店長”などと聞くと、私たちはそこにどんな秘訣があるのか!? とその秘法にばかり興味を持ちます。

 しかし、よく考えてみてください。経営学の専門的なことは、大学生は皆大学で勉強しています。本屋さんに行けば、成功哲学のガイドブックなどの本は沢山出ています。しかし、その本を読めばダメなお店が繁盛するのかというと、それは全く別問題です。私たちが成すべきことは、実は私たちの足元にあるのです。

 事実は伝えれば、伝えるほど説得力が増します。逆に嘘は、伝えれば伝えるほど、ボロがでて来ます。一つの嘘を守るために、また新しい嘘をつかなければならないからです。教会の礼拝においても、牧師は「神様を愛しない、自分を愛しなさい、人を愛しなさい」と言うことを、手を変え、品を変え話しているのだけです。基本的に言っていることは同じなのです。なのに、何故礼拝が成立するのかと言うと、牧師が言っていることが事実だからです。

 結局同じ神様の話なのだけれども、繰り返し、繰り返し話すことによって、説得力が増すのです。伝道師の先生方もみんな同じ話をしているでしょう。事実を繰り返し、繰り返し伝える、それで良いのです。弟子たちもただ『事実』を伝えていました。「イエス・キリストは生きておられる!天国は本当にあるんだ! 永遠の命は本当にあるんだよ!」と。弟子たちが伝えた人々は、イエス様が生存していた同じ時代に生きていた人達だったので、嘘であれば、調べれば直ぐに分かります。だから、弟子たちは尚更、自分達が実際に見た事実を、人々に熱く伝え続けたのです。


弟子たちは「失うもの」がなかった

サウンド・オブ・ミュージック」と言う映画をご存知ですか? 恋愛あり、ユーモアあり、ハラハラドキドキあり。美しい映像と楽しい音楽で、家族全員で安心して見ることができる映画No-1です。実はこの映画のほとんどは実話なのですが、実は、この映画では触れられなかった、もっとドラマティックなことが、この家族の上に起こっていました。

 資産家だった主人公のトラップ家の財産は、イギリスの銀行に預けていたのですが、トラップ大佐は友人の銀行家から頼まれて、その友人のために全財産を、彼(オーストリア)の銀行へ移します。するとなんとその銀行が倒産してし、トラップ家は一夜にして一文無しになってしまったのです。もし、皆さんが今住んでいる家、車、銀行のお金も全部失い、今あるのはお財布に入っているお金だけ・・・ということになったらどうしますか?

 この事件で、さすがのトラップ大佐も落ち込んだそうです。明日からどうしよう。子供7人もいて・・・さぁ、ここでマリアさんが素晴らしかった。彼女は落ち込んでいた大佐(夫)に、いったい何と言ったと思いますか?ご婦人方、もし、自分の家族がそういった状況に本当になってしまったとしたら、どうご主人に言われますか?マリアさんはこう言いました。

 「あなたは今まで何のために毎日聖書を読んでいらしたのですか?」と。「あなたは自分のしたことを後悔しているのですか?あなたは自分のためではなく、友達を助けるためにそうなさったのではないですか。神様の愛を表すためにやったことであるなら、神様はそれに対して何百倍にも勝るご褒美をくださる方ではありませんか!その最高のご褒美が“永遠の命”です。何を恐れることあるのですか。」

 このマリアさんは、只者ではありませんでした。その後、彼女は大きなお屋敷の一階を礼拝堂に改造して、神学生たちに安く貸す下宿を始めたそうです。そうして毎週家で行なうようになった礼拝をきっかけに、クワイヤーがどんどん上達し、遂には公演が出来るようにまで成長しました。彼らは無事にアメリカへ亡命することができ、彼らの財産は元に戻ったそうです。

 マリアさんの人生のモットーは「神様の御心を知ること、それに向かって歩んでいくこと、そしてそれを実行することです」だったそうです。また彼女は、「私はいきなり無一文になった時、何か不思議な期待感のようなものを感じていました」とおっしゃっていました。イエス様の弟子たちもそうだったのです。弟子たちは財産や家を持っていたわけではありませんでしたが、誰にも奪われることのない、他の何物にも変えられないほどのものを持っていました。それが“永遠の命”です。ですから、彼らは何をも恐れるものはなかったのです。

弟子たちは「希望」を持っていた

皆さんは、システィーナ礼拝堂に描かれているミケランジェロの『天地創造』の絵をご覧になったことがありますか?今、世界中の名画が修復されるというプロジェクトが進んでいます。ダビンチの『最後の晩餐』もその一つですが、絵を修復したことによって、今まで分らなかった様々なことが解明されて来ました。あのお皿に何が乗っていたとか、あの人の目線がどっちを向いていたとか・・。その作業に従事している人たちを、“絵画修復師”と言いますが、彼らは、非常に多くの専門知識を持っています。

 何故なら、その絵画が描かれた時代や、場所や、どんな絵の具が使われていたのかと言うことなどを徹底的に調査し、当時使われていた同じ絵の具を作り出して、修復にあたらなければならないからです。今の絵の具を使ってしまったら、それは修復ではなく、作り変えになってしまいますから。ですから、“絵画修復師”という仕事は、芸術的なセンスに加え、科学的要素や学術的要素等が全てバランスよく持っていなければならないのです。

 この“絵画修復師”を養成している大学が日本にあります。そこの学生たちは、「自分のやりたいことが見つかるまで、取り合えず大学にでも入っておこうか・・」というような学生は一人もいません。みんな目がキラキラとしていて、学生ながらプロ意識を持ったやる人たちばかりです。何故、彼らはそんなにキラキラとしているのでしょうか?それは彼らが、「一人前の絵画修復師になって、世界の文化遺産を復興させる」という明確な使命感を持っているからです。将来に対する明確な希望は、それに対する準備期間を価値あるものに変えます。イエス様の弟子たちもそうでした。

 彼らは何に対する使命に燃えていたのでしょうか? 彼らは、「今の苦難は、永遠の神の国でイエス様と共に働くための試練であり、今はそのための準備期間だ」と考えていたのです。復活したイエス様と直接会っている彼らは、またイエス様と会えるのだと言うことを明確に知っていました。真理はいつも、私たちの足元にあります。初代教会の人たちの生き生きとした人生に、私たちも倣う者になろうではありませんか(執筆担当:Ako)

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闇から光へ ヨハネ9章

2010年02月14日 | Celebration



今日のメッセージ箇所は、ヨハネ福音書9章です。ヨハネの福音書は、全部で21章ありますが、その内のおよそ部分は、イエス様が十字架に掛かる最後の一週間のことに割かれています。そして前半の約半分には、イエス様の7つの奇跡が記されており、今日の聖書箇所はその6つ目の奇跡です。7つの奇跡の内、1章全てを使って書かれている奇跡はこの9章だけです。ですから、この9章には特に深い意味があるのです。

9章のあらすじ

 イエス様が、旅の途中で生まれつき目の見えない人と出会われ、その人の目を癒されました。生まれつき目が見えない人が見えるようになったものですから、周りの人々がとても驚きました。また、イエス様が目が癒されたことが安息日違反だとして、村の指導者であるパリサイ派の人々が騒ぎ出し、目が癒された人を問い詰めます。しかし、彼は自分の身に何が起こったことがよく分からなかったため、パリサイ派の人たちは、彼の両親をも問い詰めます。

 しかし、両親と話をしても「よく分からない」と言うことで、再び、目が癒された青年を再び問い詰めます。そのような騒ぎの中で、自分の目を癒してくださった方が、メシアであることに徐々に気付いて来た彼は、「自分を癒してくださった方は、神様から来られた方です!」とパリサイ派の人々に公言します。すると、村の実力者であり、イエス様を救い主と認めないパリサイ派の人々は、彼を村から追放します。イエス様は、追放されてしまったその青年に再びお会いになり、彼はイエス様の弟子になります。

 このお話は、パウロの回心と結果は同じですが、それに至るプロセスがとても対照的です。パウロさんの場合、突然目が見えなくなり、悔い改め、イエス様を受け入れます。一方、盲人の青年は、生まれつき盲目だったのが、目が見えるようになり、感謝してイエス様を受け入れます。律法に精通していた秀才だったパウロは、この出来事によって、イエス様が救い主であることを瞬時に理解することができました。しかし、この青年は社会的に恵まれず、知識も教養学も足らない人だったでしょう。ですから、自分の目が癒されたということが、どう言うことなのか、直ぐには理解することが出来ませんでした。

9:11 「イエスという方が・・・」
9:15 「あの方が」
9:17 「あの方は預言者です」
9:27 「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
9:33 「あの方が神のもとから来られたのでなければ・・・」
9:38 「主よ!

 最後にこの青年が「主よ!」と言った言葉は、ヨハネ20章18節で復活されたイエス様と出会ったマリアが「わたしは主を見ました!」と言った「主」と同じ言葉(理解)です。この彼の言葉の変化に、彼の内にあるイエス様に対する理解が段階を追って成長していることが分かります。それは、私たち自身がイエス様の救いを受け入れる段階と似ています。また、この盲人であった青年に対するイエス様のアプローチを見る時に、イエス様は、私たちに対してもこのようにアプローチしてくださっていることが分かります。先ず、イエス様は、この盲人の青年と旅の通りすがりでお会いになりました。そして、イエス様は、ご自身の方からその青年に「目をとめ」、「近付き」、彼の目を「癒されました」。このようにイエス様は、救いの必要な人に自ら、近付いて来てくださいます。そして、私たちと同じ立場、同じ状況に立って、私たちの気持ちを察っし、憐れんでくださり、そして癒してくださるのです。

 ここで、イエス様は、唾で土をこねて盲人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われます。本当はイエス様は、「目が見えるようになれ!」と言うだけで、彼の目を癒すことがお出来になれるにも関わらず、わざわざ、このようなことをされました。(このことが安息日論争の発端になってしまうわけですが…)しかし、この出来事がイエス様の奇跡のポイントなのです。イエス様は、癒される人の自主的な行動を促されます。ヨハネ5章のベトザタの病人にも「床を担いで歩きなさい」と言われました。私たちは、癒された後は、自分の足で歩く必要があるのです。その後、目が見えるようになった青年は、周りからいろいろ問い詰められ、遂に村から追放されてしまいます。私たちクリスチャンも、イエス様に従って行こうと決心をすると、必ず世間からの軋轢を受けます。何故なら、イエス様の価値観と世の中の価値観は全く正反対だからです。しかし、イエス様が、もう一度、彼の所に来てくださったように、私たちがイエス様を信じるが故に受ける試練に対して、励まし、助けてくださるのです。

 このように、ヨハネ9章には、イエス様に目を癒していただいた青年が、イエス様を信じ、受け入れ、従っていく歩みと同時に、イエス様が彼にどのように臨んでくださっているのかということが細かく書かれています。そして、この奇跡の出来事を通して、私たちにも同じように、イエス様が私たち一人一人に臨んでくださっていることを理解することが出来るのです。さて、ここで、ヨハネ9章の主題に入ります。生まれつきの盲人であった青年を中心に、いったい何が論争されているのでしょうか?そのことを、9章を4つに分け、各パートのテーマを見て行きましょう。

9:1-12 「イエス様が盲人の目を癒される」
「生まれつき目が見えないのは誰の罪のせいか?」

9:13-23 「パリサイ派の癒しに対する詰問」
「律法に従わない者は罪人」

9:24-34 「ユダヤ人の癒しに対する詰問」
「イエス様は罪人か、罪人ではないか?」

9:35-41 「癒された青年がイエス様から招命を受ける」
「自分は見えていると言い張る者の罪」


闇の正体は罪である
 ヨハネ9章の4つのパートにおいて論議されている主題は、『罪』についてです。生まれつき目の見えなかった青年は、目が見えないと言うことで、闇の中にいました。それに発して、「目が見えないのは、誰の罪のせいか?」と言う論争から、青年の目が癒されてからは、「安息日を守らなかったイエスは罪人か?」と言う論争に発展し、それが、目の見えているユダヤ人に対する罪に及びます。これは、単に目が見える、見えないと言うことではなく、闇に対する理解です。

 
闇の中では罪が分からない
 目が見えるようになった青年に対し、ユダヤ人やパリサイ派の人々は、目に見えるようになったのは、「どうしてか?」と言う質問を繰り返し繰り返し、しつこく聞いています。(ヨハネ9:10、15、16、17、19、26) 彼の周囲にいた人々は、青年の生来の盲目だった理由を、彼、もしくは彼の両親の罪のせいだと決め付けていました。そして、安息日に彼の目を癒したイエス様のことを罪人と決め付けていたため、彼の目が癒されたと言う事実が不思議で仕方なく、その現象を確認することに囚われてしまいました。彼らは何故、青年の目が癒されたのか、その目的が何であるかと言うことにまで考えが及びませんでした。闇の中にいたのでは、自分が闇の中にいることが分からないのです。


光と闇は交わらない
 目が癒された青年と、彼の両親の態度から、このポイントを知ることが出来ます。この奇跡は、彼にとっても、また彼の両親にとっても、最高最大の恵みでした。弟子たちの最初の質問にもあるように、この青年の家族は、「あの息子が生まれつき盲目なのは、あの家が呪われているから」と周囲の人々から言われてたに違いありませねん。それが、イエス様の癒しによって、この家族自体が開放されたのです。しかし、その恵みに対して、彼の両親は、「知りません」と言いました。自分たちが村から追放されることを恐れたからです。このことは、福音が社会に、そして家族に届かない理由を如実に現しています。

 目が癒された青年は、イエス様に癒され、従ったことによって村から追放され、家族とも引き離されることになってしまいます。ここでイエス様に従った青年と、イエス様を否定した家族と、はっきりと分けられてしまいました。それは、「神側か、サタン側か」、「光か闇か」と言う違いなのです。霊の世界において中間はありません。光と闇は決して交わることはないのです。「自分の目の前で奇跡が起これば、神を信じるよ」と言う人が世の中には大勢います。しかし、「生まれつきの盲人の目が見えるようになった」と言う奇跡を目の当たりにしているにも係わらず、多くの人々はイエス様を救い主と信じることが出来ませんでした。目の前で奇跡が起こることと、それによって神を信じることとは、全く別問題なのです。


闇はイエス様によってのみ、光に変えられる
 イエス様は、「わたしは世にいる間、世の光である(9:5)」とおっしゃいました。この言葉は、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(8:21)」という言葉の繰り返しです。生まれつきの盲人だった青年は、肉の目が開かれたと同時に、霊の目も開かれました。この世の真理は、イエス様の光によってのみ、「真理を真理として理解すること」ができるのです。そして、9章の最後に「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る(9:41)」とおっしゃいました。

 多くのユダヤ人は、「我々は神に選ばれた選民であり、我々は律法を守っているから天国に行くことが出来る」と固く信じ、疑っていませんでした。現代にも、「自分は特に悪いことをしたわけではないから、神様は私を天国に入れてくれるだろう」と思っている人々が沢山います。しかし、私たちが天国に行ける根拠は、聖書に書いてあるように、罪人の私たちのためにイエス様が十字架に架かり、私たちの罪を赦してくださった。そのイエス様を信じることによってのみ、私たちは天国に行くことが出来るのです。それ以外に天国に行ける根拠など、この世には存在しないのです。大切なことは、目に見える現象だけが全てではないと言うことです。

 たとえ、私たちの肉体の目が見えていようとも、霊の目が見えていなければ、盲目と同じだとイエス様はおっしゃっています。盲目であり、耳が聞こえないヘレン・ケラーさんは、クリスチャンでした。彼女はこんな言葉を残しています。

 「ほとんどの人は、幸せの度合いを肉体的な満足と所有物で判断しています。しかし、もし、幸せがそのような基準で測られるのならば、耳が聞こえず、目が見えない私は、部屋の隅に座り込み、腕組をしてひたすら泣くしかありません。しかし、時折、教会、集会において、罪人が立ち上がり、神の義を証しするように、苦難を負うように召命を受けた者が立ち上がり、神の義を証しすることがあります。人生の苦難に対する苦闘は、私たちに与えられた恵みの一つなのです。この苦闘は、私たちを忍耐強くし、感受性を鋭くし、神の子としてより相応しい者としてくださるのです。それは、この世の中は苦しみに満ちていることと同時に、苦しみを打ちのめすこともできることを教えてくれています」

 実は、クリスチャンである私たちも、以前は闇の中にいたのです。肉の目は見えていましたが、霊の目は閉じられ、真理を見ることも、理解することも出来ませんでした。しかし、イエス様によって闇から光へと移されたのです。クリスチャンになっても、この世で生きている限り苦難はあります。しかし、クリスチャン与えられている苦難は、闇の中で起こっている苦難とは違います。ヘレン・ケラーさんがおっしゃっているように、クリスチャンの苦難は、神様の栄光を現すための苦闘なのです。ですから、そこには必ず目的があり、私たちをクリスチャンとして成長させるための恵みが秘められているのです。

 ヨハネ福音書の9章を読み、もう一度、神様の深い恵みを思い巡らしてみましょう。私たちは、目を癒された青年のように、自分に与えられているイエス様の恵みの素晴らしさに、最初はよく分からなかったりしています。しかし、祈り、礼拝し、聖書を読み、教会の仲間たちと交わり、イエス様と共に歩んで行く内に、自分の周囲の変化に気付き、イエス様が私たちを闇から光に移してくださっていることを理解し、感謝することが出来るのです。光があるうちに、光の子として歩んで行きましょう (執筆担当: 美鈴)


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我が友イエス ヨハネ15:13-17

2010年02月07日 | Celebration
 あなたにとって「親友」の定義は何でしょうか?友人は、人生においてかけがえのない財産です。でも、今までの人生で「親友」と呼べる友は決して多くはないはず。友達とは、親子とも、夫婦とも、恋人とも違う、互いの自由意志に基づいた関係です。長年会っていなくても親友であり得るし、利害関係も束縛や強制のない全く自由な関係です。しかし、私たちはその自由さを履き違えて、時にその貴重な友を自分主体に取り扱ってしまうことがあります。世間的に「良い友達」の条件として挙げられているは、楽しい人、明るい人、気の合う人、ベタベタしない人、同じ趣味の人、空気が読める人、話しやすい人など、どれも自分にとって都合の良い人ばかり。自分の人生を楽しくしてくれる人、果たしてそれが真の友と呼べるのでしょうか? 聖書が「友」について語っているところ、となると、まず本日の聖書箇所が思い浮かびます。

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:13)

 この御言葉は福音の核であり、イエス様の愛を明確に語っている箇所です。しかし、この御言葉を、ヒューマニズムと混同してはなりません。ここで読み取るべきイエス様の思いは、天地万物を創り、時空を超越して宇宙を統べる神様が、私たちを「友」と呼んでくれていることです。世の中に宗教と呼ばれるものは山ほどありますが、信徒を「友」と呼ぶような宗教は、何処にもありません。どれも教祖を高みに置き、そこまでの長い道のりを修行して登ることを求める上下関係です。ただこの福音だけが、神様と被造物である人間を同等としてくれているのです。それは、神様が私達との間に、聖書という愛の契約を立てられたからです。

 契約とは、同等の関係でなければ成り立ちません。国家という権力と一市民の間にあるのは、契約ではなく、命令です。力関係の差があるため、反対は認めらず、有無を言わせず服従を強いられるのです。ですから、イエス様は敢えてここで友達関係を取上げ、力で押さえつける命令ではなく、自由意志の愛による十字架の力を語られたのです。イエス・キリストの十字架の愛ほど大きな愛はない、無条件に私たちを愛し、自らの意志で十字架に進まれたこの愛に勝るものはない、と教えてくださっているのです。そこから「真の友」を深く知り、その関係を愛することができるのです。そこで、聖書が語る「好ましい友」「好ましくない友」を7つずつ取上げてみましょう。

不品行な人。不節制な人。

わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。(Ⅰコリント5:11)

愚かな人。思慮のない人。

知恵ある者と共に歩けば知恵を得 愚か者と交われば災いに遭う。(箴言13:20)

怒りっぽい人。感情的な人。

怒りやすい者の友になるな。激しやすい者と交わるな。(箴言22:24)

移り気な人。精神的不安定な人。

わが子よ、主を、そして王を、畏れよ。変化を求める者らと関係を持つな。(箴言24:21)

傲慢な人。

いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。 (詩篇1:1-2)

いつも批判している人。

神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。(詩篇1:5)

信仰のない人。根本的な価値観が異なる人。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。(Ⅱコリント6:14)


友達を大切にする人。友達はかけがえのない財産という意識のある人。

どのようなときにも、友を愛すれば 苦難のときの兄弟が生まれる。(箴言17:17)

真心で接している人。誠意を持って傍にいてくれる人。

友の振りをする友もあり 兄弟よりも愛し、親密になる人もある。(箴言18:24)

妥協することなく悪を悪としっかりはっきりと、しかし愛を持って言ってくれる人。

愛する人の与える傷は忠実さのしるし 憎む人は数多くの接吻を与える。(箴言27:6)

優しく、穏やかで、バランスの取れた人。状況を客観的に見てアドバイスくれる人。

香油も香りも心を楽しませる。友人の優しさは自分の考えにまさる。(箴言27:9)

互いに成長できる人。

鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。(箴言27:17)

困った時に助けてくれる人。

倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。(コヘレト4:10)

神を畏れ、神に従っている人。

あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人 わたしはこのような人の友となります。(詩篇119:63)


ルネッサンス期の画家、デューラーとその親友のお話。デューラーもその親友も絵かきになるのが夢でした。二人共、イタリアに行って絵の修業をしたいと思っていた時、有名な画家に弟子入りすることができました。しかし二人にはお金がなく、画材どころかその日のパンすら事欠く有様。炭鉱堀の仕事を得ましたが、朝から晩までの重労働に困憊して満足に絵を描くことができない日が続きました。ある日、友は思い余って言ったのです。「このままでは二人とも画家になれない。どうだろう、まず一人が働き、もう一人がそのお金で絵を描くんだ。4年経ったら交代しよう。まず、デューラー、君が絵を描くんだ!」それから4年間、友は必死に働き、デューラーは彼に支えられて、絵の勉強に没頭しました。そして4年後、ようやく認められ始めて絵が売れたデューラーは、喜んで友に報告しました。「やったよ!絵が売れたんだ。今度は君の番だよ。さあ、絵を描いてくれ!」

 しかし返ってきたのは、思いも拠らない言葉でした。「おめでとう。それを聞いてほんとうに嬉しいよ。でも僕はもう筆を握ることができないんだ。炭坑での仕事で指が曲がってしまったよ。手も震えるし、もう絵を描くことはできないよ。でも、君が成功してほんとうによかった。」デューラーはたいへんなショックを受け、一旦は帰宅するものの、どうしても気になって、もう一度彼を訪れました。ドアを叩きましたが、誰も出ません。少し戸を開けてみると、部屋の中から小さな声が聞こえてきました。隙間から覗き込むデューラーが見たのは、友の懸命に祈る姿。彼は、歪んでしまった手を合わせ、一心に祈っています。それは、「デューラーは私のことで傷つき、苦しんでいます。自分を責めています。神様、どうかデューラーがこれ以上苦しむことがありませんように。私が果たせなかった夢の分まで、彼に祝福をお与えください。」

 デューラーは感謝と感動で震え、彼にその手を描かせてほしいと頼みました。そして描き上げたのが「祈りの手」、彼らの友情の証です。互いの内に働いたキリストの愛によって、時代を超えて私たちに感動を伝える傑作が出来上がりました。良き友であることで人生を豊かにし、良き友を持つことが人生を素晴らしいものとします。私たちも「真の友」であるイエス様の愛を体現し、感動を起こさせる作品を作り出すことができるはずです。それが真の友情なのです。(執筆担当: 睦美)


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