Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

神様からの手紙 黙示録1:1-6

2008年12月28日 | Celebration
この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。(1:3)

 2008年最後の礼拝は、黙示録からのメッセージです。黙示録は聖書全66巻の集約であり、聖書の最後を飾る巻です。聖書を読むことは私たちの祝福ですが、聖書に黙示録を朗読する者は幸いだと書いてあります。にもかかわらず、黙示録はその異色さと難解さ故に、敬遠されてしまっています。

 誰でも大好きな映画、ドラマがあるかと思いますが、大好きなのに最終回を知らないとか、最後の結末がよく分からないという人はいません。何となく知っているだけのお話を、自分が大好きな本だと言える人はいないでしょう。「あなたはクリスチャンですか?」→「ハイ!」、「聖書を読んでいますか?」→「ハイ!」、「聖書のエンディングである黙示録の意味をお分かりですか?」→「・・・・・・」これでは、聖書を神の言葉と信じているクリスチャンとは言えません。いつもあなたが持ち歩いている聖書。その最後を飾る黙示録を是非、知る者となりましょう

 今日は黙示録の2-3章に登場する7つの教会に宛てられた手紙について学びます。
著書のヨハネはイエス様と直接生活を共にして学んだ最後の弟子であり、最後の生き残りでした。この手紙は、ローマ帝国による火のような迫害時代の中で書かれました。この時、ヨハネはもパトモス島に島流しにされていましたが、その時に見た幻を、解放された後(AD96年頃)にエペソで書かれたといわれています。実際にイエス様からの教えを受けたヨハネが、イエス様が最後に幻を見せて語ったものを、7つの教会に宛てて書いた手紙、それが黙示録です。

 この手紙が差し出された7つの教会とは、ヨハネが生きていた頃、西アジア地方(今のトルコ)に現存していた教会であり、約2000年間の各時代を象徴する教会であり、また、史上に存在した全ての教会の象徴でもあります。ですから、この7つの手紙は、Good News Station Churchに、つまり、私たちの教会に宛てた手紙でもあるのです。ですから、神様から直接私たちの教会宛てに差し出された手紙をよく読んでいないということは、クリスチャンとして考えられないことなのです。では、イエス様はこの7つの教会に、何を伝えたかったのでしょうか?

エペソ教会 (初代教会を象徴)
 エペソ教会は、正しい信仰理解、立派な教会、CSの充実、よく奉仕し、誰もが文句なしの教会でした。しかし、神様は一つだけ言っておくことがあると言われました。『しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。(2:4)』素晴らしい教会なのになぜ・・・・? この教会の何処に問題があったのでしょうか? それは、神様は絶えず私たちの動機を見ておられるということなのです。神様にとって、愛がなければ無に等しく、愛がなければ、何の益にならないのです。(Ⅰコリント13:2-3) 人間社会は、経過がどうであれ、全て結果で判断しますが、神様はいつも、何をしたのか(Doing)ではなく、どうであったのか(Being)ということを見ておられるのです。

スミルナ教会 (ローマ迫害時代を象徴)
 神様から誉められている教会です。凄まじい迫害の中で、彼らは信仰を守り通しました。

ペルガモ教会 (ローマ監督時代を象徴)
ティアティラ教会 (中世暗黒時代を象徴)
 この二つの教会には、大きく二つの問題がありました。一つは、現世主義に根ざしたご利益宗教に陥ってしまっていること。つまり、二心の信仰、二股信仰です。そしてもう一つは、教会の中に密かに入り込んでいる異端の教えです。これは、サタンの実に巧妙な策略であり、本人たちは自分が間違っているとは全く思っていません。

サルディス教会 (宗教改革時代を象徴)
 ローマカトリックの支配下から、聖書中心に戻ろうとルター、カルビンなどが活躍した時代。

フィラデルフィア教会 (世界宣教時代を象徴)
 スミルナ教会と共に、神様から誉められている教会です。今までカトリックの独占下にあった聖書を、世界に宣べ伝えた時代です。ジョージ・ミュラー、スポルジョン、チャールズ・フィニー、ハドソン・テイラーは、この時代に活躍した人々です。

ラオディキア教会 (現代の教会を象徴)
 ラオディキアとは「民は裁く」つまり、民主主義の教会という意味です。ラオディキアの教会はとても裕福で、迫害もなく、彼らは自分たちは満ち足りていると思い込んでいました。でも、この教会は神様から一つも誉めらていません。民主主義の教会とは、イエス・キリスト・ファンクラブのような集まりのことです。サークルならば、忙しければ休めば良いし、集まりの中に気に食わない人がいれば、別のサークルに移っても何の問題もありません。しかし、教会はサークルではありません。教会には福音宣教という、神様から託された使命があるのです。資金や施設の充実によって、全てが満たされている中で、人中心で動いてしまう教会は、自分たちがやっている行為に満足してしまいます。そんな教会に対して神様は、はっきりとこう言われています。

あなたは、『私は金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない』といっているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目に見えない者、裸の者であることが分かっていない。(3:17) 

 私たちは、教会生活、信仰活動、修養会、祈祷会、奉仕、伝道活動などの行いをすることで、満足してはいないでしょうか? クリスチャンぽいことをしていれば、それでクリスチャンだと思っている人が沢山いるということです。何度も繰り返しますが、福音の世界は、絶えず動機が問われます。何故、クリスチャンは笑うのでしょうか? それは「愛されて嬉しいわぁ~!」という、心からの喜びがあるからです。なぜ、クリスチャンは伝道するのでしょうか? それは「神様の愛ってすごい~!」という感動を人々に伝えたいからです。喜びがないのに、無理矢理表面的に笑ってみたところで、何の意味もないのです。では最後に、この神様からの手紙の主旨を、『3つのR』でまとめてみます。

REMEMBER!
 初心忘るべからず。最初の心(愛)を、イエス様に出会ったときのことを思い出しなさい! 

REPENT!  
 神様はあなたの間違いを責める方ではありません。だから自分の間違いを認めて悔い改めなさい!

RETURN!
 そして、神様の元へ戻りなさい!

 現代の教会(ラディオキア)は、何一つ誉められませんでした。何故なら、教会なのにイエス様が居られないからです。でも、イエス様はそんな教会の戸口の前に立って、教会の戸を叩いておられるのです。戸を開けたらイエス様は何を言われるのでしょう? サークル化している教会を叱りつけるのでしょうか?いいえ、そうではありません。イエス様は、戸を開けたら私はあなたたちと一緒に食事をしようと言われておられるのです。どうぞ、最初の愛を思い出し(REMEMBER)、自分の間違いを認めて悔い改め(REPENT)、わたしたちの主であるイエス様に立ち返り(RETUREN)、主に従ってまいりましょう (Ako)

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。誰かわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(3:20) 

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聖なる静かな夜 イザヤ9:1-6

2008年12月21日 | Celebration
〔写真:クリスマスランチの模様。右手手前のクリスマスツリー・ポテトサラダに注目!〕

人類の歴史上一番有名な人は誰だと思いますか? それはイエス・キリストです。世の中に有名人は数え切れないほどいますが、その人の誕生日まで知っていて、今でも誕生日を祝われている人は、イエス・キリストの他には誰もいません。クリスチャンであっても、なくても、街中が明るくにぎわって、ホクホクと温かく、楽しいクリスマスをお祝いしています。それでは、本当のクリスマスの日、実際にイエス様がお生まれになった時は、どういう状況だったのでしょうか。イエス様は光としてこの世に来られました。でも、この日は決して明るく楽しい日ではありませんでした。

 2008年前のイスラエルはローマ帝国という強大な軍事国家の支配下にあり、この世は差別、偏見、偏狭に満ち溢れていました。貧しい人や病人は、神から呪われた者として社会から拒絶され、女性の人権など全くありませんでした。それでも、人々はそんな生活の中でも、喜びを見付けながら必死で生きていました。しかし、罪と死の暗闇の世界から人々は抜け出ることは出来ませんでした。地上はどこまでも深い闇の中にあったのです。

そんなある夜、天上と地上の世界をつなぐ一つの扉が開いて、一筋の光が地上を照らし出しました。闇の中で星がまばゆいばかりに光輝き、天使たちの歌声が響きわたりました。その驚くような光景を目にしたのは、野宿をしていた貧しい羊飼いたちでした。その同じ夜、もう一つのしるしが天に現れました。ある東の国の天文学者たちが、ひときわ明るく輝く、ふしぎな星を見つけたのです。彼らはこの星に導かれて広い砂漠をはるばる旅をして、小さなベツレヘムの村まで導かれ、そこで、ひとりの幼な子に宝をささげて帰って行きました。

 そして間もなくその扉は閉じられ、地上は再び暗闇に戻りました。地上の世界は以前と比べて何も変っていないかのように見えました。しかし、地はもはや前と同じではありませんでした。地上には、天からおくられた一人の幼な子がいたからです。それは、人類の長い歴史の中で、神様が直接地上に介入された、最初の出来事でした。

いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、御心にかなう人々に平和があるように。(ルカ2:14)

 沈黙の夜空を突き破って響き渡る天の讃美の大合唱。今まで隠されていた神の神秘の成就。その事の重大さにどよめき、神様がなさった大いなる御業を讃め頌えずにいられなかったのは、御使いたちと天の軍勢であり、地上の人間ではありませんでした。最初のクリスマスは、地上ではなく、天上において祝われていたのです。

 クリスマスの舞台は、沈黙が支配していました。そして、この驚くべき出来事を見ることが許された者たちも、やはり沈黙していました。それは人にいちいち説明したり、余計なことをしゃべる必要のない沈黙。本当の喜びに満ちた者にしかできない沈黙です。彼らの口から出て来たのは、ただ讃美と祈りでした。やがてその光は、天の扉とともに再び閉ざされ、再びこの地上を闇の力が支配しようとしました。ですが、もはや闇の力はイエス・キリストによって打ち破られたのです。

闇はこれに勝たなかった。(ヨハネ1:5)

 この事実を知った羊飼いたちは、もはや、かつて闇の中にまどろんでいる存在ではなく、喜び歌い、天の御使いたちの群れに加わりました。この羊飼いたちこそ、私たち自身の姿なのです。暗闇の世界に真の希望はありません。その世界に生きる人々は、いつも疲れきっています。しかし、世界を覆っていた闇が破られ、光に照らされた新しい生き方が生まれました。新しく希望に満ちた人々の誕生。このイエス・キリストによってのみ、私たちに救いが与えられ、ここに希望があるのです。それが、イエス・キリストの誕生を祝う、クリスマスの本当の意味なのです。(紀元前を意味するBCは、Before Christ、紀元後のADはアンノ・ドミニ、ラテン語でAfter Christという意味です)

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。(イザヤ:9:5)

 では、私たちのために、この地上に来てくださったイエス・キリストとは、どのようなお方なのでしょうか? この聖書の御言葉は、イエス様が誕生する600年以上前に、イザヤという預言者が、これから来られる救世主なるイエス・キリストの4つの特長について記したものです。

驚くべき指導者(ワンダフルカウンセラー)
 素晴らしいカウンセラーとはどういう人のことを言うのでしょうか? それは、人とよく共感出来る人のことです。私たちは、趣味や共通の話題で共感することはできますが、心まで共感し合うことはとても難しいものです。しかし、イエス様は200%、私たちの心、感情を共感してくださるお方です。イエス様が、神の子なのに王宮ではなく、貧しい中に生まれ、飼い葉桶という家畜のえさ入れに寝かされるという、境遇を通ったのは、貧しくて辛い状況の人たちの気持ちを理解するためでした。また、十字架刑という最も残酷な刑で死なれたのも、私たちの苦しみを分かるためでした。イエス様は、あなたの心を200%共感してくださいます。

力ある神 
 人生には、辛い時期を通されることがあります。とても辛い時、苦しい時があります。周りにいる様々な人が様々な形で接してくれますが、その苦しみから具体的に問題解決へと導いてくれる人はほとんどいません。しかし、イエス様は、その力があるのです。イエス様はあなたが抱えている問題を、具体的に解決へと導く力を持っておられます。

永遠の父
 私たちが持っている神様のイメージは、自分を育ててくれたお父さんのイメージに大きく影響されます。お父さんが優しい人だったら、神様も優しいイメージとなり、お父さんがとても厳しいと、その人にとって神様のイメ-ジは、厳しい存在となります。しかし、真のお父さんであるイエス様は、永遠のお父として、どんな状況でも自分の身体を楯にして、命を捨てて私たちを捨て身で守ってくださるお方です。 
  
平和の君
 人間関係の基本は家族関係、夫婦関係の中にあります。夫婦が上手く行くためには、お互いの歯車をきちんと回す事なのですが、夫と妻の歯車は全く違うものです。生まれた親も、環境も、年代、土地、国等と様々な点が異なります。これを無理に合わせようとすると、ギシギシ音を立て、お互いがダメージを受けてしまいます。この夫婦の歯車を正常に働かすためには、歯車の間にもうひとつ歯車を入れてあげる必要があります。そうすると、その歯車によって、夫は夫らしく回り、妻は妻らしく回り、夫婦が平和を持って暮らすことができるようになります。この間の歯車がイエス様です。何故、イエス様の歯車が入ると平和になるのでしょうか? それは、イエス様が夫であるあなたを造り、または妻であるあなたを造られたからです。あなたの造り主であるイエス様は、あなた以上にあなたを御存知ですから、夫婦が平和を持って歩めるように間に入ってくださるのです。イエス様は、人と人との間に立ち、この世に和解と平和をもたらすために来られたのです。

今から2008年前にイエス様が私たちすべての人のために生まれてこられました。どうぞこの方を心に迎えてください。そして、あなたの問題を全てお委ねしてください。そうすれば、必ず解決の道が与えられます。私たちの救世主・イエス・キリストを信じて、従って行きましょう! (Ako)


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神の目的と人の思い 詩篇105:16-23

2008年12月14日 | Celebration
ヨセフ物語 創世記37-50章
 創世記は天地創造に始まり、ヨセフ物語(全446節)で終わる。聖書中、最も文学的に高い統一性を持ったこの物語は、世界的な文学遺産と賞賛されてきた。
 「人類の文学史上で最も価値あり芸術の極致。」(ヴォルテール)
 「旧約聖書の人物伝の中で最も芸術的かつ最も魅力的」(ジョン・スキナー)

ヨセフの資質
 ヨセフが兄たちに恨まれた理由は、彼の性格の故ではなく、ヤコブの偏愛による。彼は苦労知らずの天真爛漫な人だったが、人を疑うとか、打算で動くとか、人の言いつけを守らないとかという我侭さはなかった。ヤコブからヘブロンの谷からシケムに送り出された時も、彼は約60キロの行程を探し続け、そこから更に10キロ離れたドタンで兄たちと会う。ヨセフは父の言いつけに従う忠実さを持っていた。(ルベンはそのことを知っていたからこそ良心の呵責に悩む)また、彼は獄に入れられた理不尽さについて一切弁解しておらず、獄に共に入れられていた給仕と料理長に「どうして今日は憂鬱な顔をしているのですか」と問いかけている。自己中心な人間からこのような言葉は出てこない。

ヨセフの夢 (37:7,9,40:8-19,41:1-26)
 神はヤコブには語りかけるが(47:2-4)、ヨセフには語りかけることも、御使いが現れることも、ヨセフが神に祈る記述さえもない。しかし、神はヨセフに夢を通して預言され、夢によってヨセフを導かれる。彼は夢によってエジプトに売られ、牢獄から出ることが出来、エジプトの宰相となった。

ヨセフの信仰
主がヨセフと共におられた。(39:2,21,23)

 ヨセフはどのような逆境の中にあっても、神の御手の中にあった。アブラハムの試練は13年(14:4)、ヨセフも13年の試練。しかし、ヨセフは牢獄に入れられても、彼は自分のいる場所で最善を尽くした。ヨセフの願いは、牢獄から出ることだったが、神の計画はもっとその先にあった。それは、ヨセフがエジプトの宰相との大臣となり、世界を飢饉から救う器として役目を担うこと。もし、この時に監獄から出ていたら、ファラオの夢を解き明かすチャンスが与えられなかった。ヨセフはファラオの前で毅然とした態度で、夢の解き明かしをした。彼は自分を誇示することなく、神に栄光を帰している。世界を支配しているのは主であり、ファラオでないという確信である。このヨセフの背後にある神の知恵と権威にファラオは驚かされ、ヨセフをエジプトのNo2の地位に就ける。ツァフェナト・パネアという名は、「秘密を解き明かす人」、ヘブル語で「世を救う人」という意味である。

裁きと赦し
わたしは神を畏れる者だ。お前たちが本当に正直な人間だというのなら、兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い。(2:18-20)

 このヨセフの言葉に、自己義認と信仰義認の対比がされている。ヨセフの兄弟たちに対する言動は、彼らに罪を自覚させ、その罪を悔い改めに導くためであった。シメオンが彼らの前で縛りあげられたことは、ヤコブと兄弟たちの愛の一致を固くした。それは、彼らが全面的に救われるために必要だった。シメオンが縛られた後、ヨセフは何度も涙を流す。(42:24,43:30,45:2,45:14-15,50:17) 特に、43:30の「懐かしさ」という言葉は、この箇所とホセア書の2回のみ用いられている言葉で、神のイスラエルに対する熱い思いが重なる。兄弟たちに対するヨセフの仕打ちは、彼らを裁くためではなく、赦すために行なわれた。この物語のテーマは、売られた者が、売った者を救うという、神の愛の摂理である。裁きなくして赦しはなく、赦しがあるからこそ、裁きがあるのである。

ヤコブの試練
 ヨセフはヤコブの愛妻ラケルが残した忘れ形見。ヤコブはヨセフを見るたびに、ラケルのことを思い出した。ヨセフをヤコブは溺愛し、自分の手の中にヨセフを握りしめていた。ヤコブが神の祝福をヨセフに受け継がせる為には、一つ神に対する大きな課題があった。それは、アブラハムがイサクをささげ、イサクがヤコブをアラムの地に送り出して、我が子を手から離したように、ヤコブも一度ヨセフを自分の手から離さなければならなかった。ヤコブは子供たちを失うことを恐れるあまり、神の計画が理解できず頑なに拒否する。(42:38) 神が一人子イエスを、十字架上で一度喪失したように。ヤコブは「押しのける者」から、イスラエル「神に勝たれる者」者に変わる必要があった。神は自分の愛するもの(偶像)を自分の手に握りしめている内は、神はその人を祝福することができない。しかし、手放した後はその何倍もの祝福を下さるのである。

神の計画と人の思い
  私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神が私をファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。(45:4-8)

恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。(50:19-20)

 ヨセフがエジプトに売られた目的は、大きく二つある。一つは数年後に起こる世界的な飢饉から、この世の人々とイスラエルを救うため。もう一つは、メシア降誕の土台となる、イスラエルの家族関係の回復のためである。その目的遂行のため、神はヨセフという人物に目を付け、彼を神の器、一国の宰相としての資質を身に付けさせるべく、徹底的に訓練する。ヤコブも11人の兄弟たちも、ファラオも、その神の目的のために用いられているのである。しかし、人は神の計画が成就するまで、その過程において、神の計画の真意を知ることはできない。神は、人間の悪と計らいを越え、それさえ用いて働かれるのである。

私たちが、このヨセフ物語で学ぶべきことは、決して目の前の現状に囚われることなく、絶えず愛と、正義と、希望の神に信頼し、自分の思いではなく、神の思いを、自分の内に実現させてください。と、祈り続けることである。

主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで。王は人を遣わして彼を解き放った。諸国を支配する王が彼を自由の身にし、彼を王宮の頭に取り立て、財産をすべて管理させた。彼は大臣たちを思いのままに戒め、長老たちに知恵を授けた。イスラエルはエジプトに下り、ヤコブはハムの地に宿った。(詩篇105:16-23)


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重荷からの解放 マタイ 11:25-30

2008年12月07日 | Celebration
 かつて犯罪の動機と言えば、お金か恨みだった。経済的逼迫から金銭を求めて、あるいは憎しみが高じて犯罪に至るケースがほとんどだった。しかし、この時代に頻発する青少年による犯罪や、無差別大量殺人は、金銭が目的でも、個人的な憎しみの結果でもない。犯罪心理学のプロが、今の犯罪には、3つ大きな原因があると言う。それは、自己憐憫、責任転嫁、そして怒りだ。

 どうして私だけがこんな目に遭う?こんな思いをしなければならない?という自己憐憫を親のせい、社会のせい、他者のせい、周囲のせいに責任転嫁する。そんなジコチューで身勝手な判定では、決して本質的な問題解決に導かれず、挙句どこにも持って行きようのない不満、恨みつらみが怒りを爆発させ、犯罪に走らせる。この奥に蟠るのは、自己アイデンティティの欠如。

 自己存在を確認することのできないことは、自分を大切にすることができないことだ。自分の価値をわからないのだから、自分以外の人間に価値を見出せるはずもない。人間の価値、命の尊さがわからない。だからこそ、平気で人を傷つける、命を奪うことができるのだ。短絡的な自己衝動だけに身を任す彼らは、自分の“その後”はもちろん、傷を負わされ、場合によってはその後の人生ががらりと変わってしまう相手や周囲のことなど微塵も考えていない。思いやれない。そんな恐るべき心の空虚が、先のない犯罪へ駆り立てる。

 この世界には、何故こんなことが起きるのか?と思う出来事がある。神がいるとは到底思えない悲惨がある。クリス・キャリア師の体験談が話された。クリス師は子供の頃、彼の父親に怨恨を持つ人間に誘拐され、頭を拳銃で撃たれた。奇跡的に命を取り留めたものの、片目と半身の自由を失い、夜も眠れない恐怖とトラウマ、精神的苦痛に3年苦しんだ。しかし参加した教会のキャンプで神様に会う。宇宙をも創造された神様に信頼し、その腕の中にいればもう大丈夫だ、という絶対的な安心を得て、トラウマから脱することができた。その後、神様と共に人生を歩み、結婚して子供にも恵まれるが、事件から22年経ったある時、犯人が見つかったと知らされる。老いて目も見えなくなった犯人は、孤独な生活を養老院で過ごしていた。面会を望む犯人を訪問したクリス師は、謝罪する犯人にはっきりと「赦し」を告げ、その後は家族ぐるみで死ぬまで世話をした。

 クリス師こそ、自己憐憫、責任転嫁、怒りを抱いて当然という境遇にあるだろう。彼はそうすることもできた。しかし彼が選んだのは、怒りや憎しみではなく、イエス様の十字架による愛だった。誰にでも満たされない思い、心の空洞部分はある。それに蓋をして頑なに癒しを拒むことを「心の要塞」と呼ぶ。大小の違いはあるにしろ、誰もが持っている間違った価値観だ。心の傷に自然治癒はなく、傷は様々な形で人生に制限を与える。自分では為す術がないのに傷を傷のまま放置して囚われ続けるか、十字架の前に置いて完全なる癒しと解放を求めるか。神様は私たちに何よりも望んでおられるのは、あらゆる束縛からの解放、自由なのだ。

□ 心の重荷から解放される7つのステップがある。
1. 自分の問題に気付き、それを認める。
2. その問題からの解放を真剣に願う。
3. その問題から必ず解放されることを信じる。
4. イエスの十字架の前に自分の問題(重荷)を置く。
5. 自分の鎧(自己主張-自己正当性)を脱ぐ。
6. 御言葉(聖書)を読む。
7. 御言葉に従う。
⇒ 解放される!

 この世の方法論では、専ら物事の解決のために何かを得ること、何かをすることを求める。弱さを隠そうとする“何か”だ。しかし本来の解放は、今持つものを捨てること、手放すことにある。私たちはあまりにもたくさんのものを握り締め、背負い続け、その結果、人生の歩みに疲れ果ててしまっていないだろうか。だから、イエス様は語る。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。(睦美)

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