Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

ラオディキアからの脱出 黙示録 3:14-22

2007年06月24日 | Celebration
 映画のような迫力あるタイトルが続く。単純ながらも「アルカトラズからの脱出」を連想し、アクション映画の主人公の気分になる。が、事はもっと深刻だ。肉体の自由を得るばかりでなく、霊の自由のことだから?もちろん、それもある。しかし、本日の聖書箇所、黙示録で記されているラオディキアがどんな状態であるか、神様の戒めが何であるか、これを学ぶことで本日のお題に真剣に向き合う切迫感を感じさせられた。

 黙示録は、聖書の最後の巻、エンディング。そこには、聖書が語る終末と再臨の大パノラマが描かれている。かつて旧約聖書時代の大預言者たちが焦がれ、しかし知りえなかったラストシーンが、今この時代に解き明かされようとしている。

「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」

 黙示録は7つの教会への書簡から始まる。7つの教会は、ヨハネが啓示を受けた当時に現存した小アジア地域の教会であり、またその後の全ての教会を示す予表であり、そして当時から今までの2千年間の各時代の教会のタイプを示しているとも言われる。その内容を見ると、7つの内2つの教会は誉められ、4つは誉められることと戒められることの両方があり、1つは何も誉められていない。最後に宛てられたラオディキアにあった教会が、何一つ誉められていないところで、これが現代の教会を指すとのことだ。ラオディキアは商業の中心地であり、黒い羊の毛織物で有名な裕福な町だった。その教会に対し、神様は「なまぬるい」と叱る。

「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。(3:16) 」

 かつて堕落しきったイスラエルの民をバビロン捕囚やアッシリアによる征服という悲惨な運命を辿らせたように、ラオディキア状態の教会もイエス様に吐き出される、見捨てられる直前という最悪の状態だ。つまり「アルカトラズからの脱出」などという格好良いものでは全くなく、言い換えれば「吐瀉物からの回復」「再利用生ゴミ」というような、もう後はない状態からの立ち返りを求められている。

 ルカ福音書18章のファリサイ人と徴税人の祈りを見る。二人とも「神様!」と呼びかけ、自分の仕えるべき方を知っていた。しかし、義とされたのは徴税人一人だけだった。ファリサイ人は、自分の義や行いを主張し、優越感と自己満足を感謝するもの、一方、徴税人はただ自分の罪を認め、神様の憐れみを乞うた。神様の義は、信仰によって恵みを受けることでしか得られない。イエス様の十字架は、行為の報酬として得られるような安いものではない。だからすべきは、「悔い改めるかどうか」だけだ。ラオディキアの教会もまた、現状に満足し、真の意味で神様を求めていなかった。

 その教会にイエス様は忠告を下さる。「信仰」を意味する「金」と、神様の「愛」による清めである「白い衣」、そして来る神の国での自分自身を見る「希望」を指す「目薬」を買うようにと。「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であること」を認め、イエス様から受ける生き方、従って歩む生き方へ方向転換するようにと。神様はラオディキアの教会をも愛するが故、叱り、戒め、とりなしてくださっているのだ。

 叱られたなら、直そう。なまぬるい信仰生活に安住せず、自分の情けない姿が見えていないことを認められるよう神様に頼ろう。イエス様の声を聞き、イエス様に心の戸を開き、イエス様と共に食事をして一体となる。それが神様を愛すること、真のキリスト者の姿だ。ラオディキアの教会には、信仰の決断が迫られているのだ。今、立ち返ろう。悔い改めよう。光の子として神様に仕えていくために。神様はこんな私達を愛してくださっているのだから。

「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」

〔写真:当時、7つの教会の中で最も繁栄を誇っていたラオディキアの街は今は廃墟と化している〕

覆いを取り除け! Ⅱコリント4:1-6

2007年06月17日 | Celebration
 4人の自分がいる。多重人格のような特別な事例ではない。誰でも、自分の中に4つの自分を持っている。
(1) 自身も知っており、他人も知っている自分。
(2) 自身は知っているが、他人は知らない自分。
(3) 自身は知らないのだけど、他人は知っている自分。
(4) 自身も他人も知らない自分。

 (1) は通常、表に出ている自分で、他人も同じように見ている自分。対して、(2)は普段表に現さず、自分一人しか知らない自分。(3) になると、自分は知らないけれど、他者は認めている美点や欠点などが例に挙がる。そして(4)は、自分を含めて誰も気づいていないが、間違いなく自分が持っている無意識の部分。後半の(3)(4)にある「自身が認めていない部分」とは、要は自分の中にあっても未知で空白な部分であり、覆いがかかっている部分だ。

 覆いがかかっているかどうか、自分ではなかなかわからない。わかっていたら、取り去るだろう。しかし私達人間は、生きている間に幾重にも覆いをかけられているのが事実だ。それは社会や人間関係から受ける痛みや傷への自己防衛に発する、あるいは自らを正当化しようとしてしまう人間の本性によるものだったりする。かかっている覆い、しかも長年共にしたものであると、取り除くのに一苦労だ。どんな悪弊であっても、習慣化したものを失うことに抵抗するのが、人間の習性だからだ。しかし、だからそのままでいいだろうか。覆いは取り除こうとしない限りかかり続ける。そして、私達の心に厚く重くのしかかり、自由を奪っていく。

 日本は、「霊的に覆われている」と言われる。現代日本文化の中には、仏教とも神道とも何とも言えない祭事や儀式が山のようにあり、神でもないものを神として礼拝する恐ろしさにさえ気づかない。「霊」について知っているようで、実はその真実に気づかない霊的文盲状態だ。専ら祈られるのは、家内安全.無病息災・商売繁盛であるが、これらを満たせば人間にとって最善の状態になるだろうか。世界には飢餓や戦争などの悲惨な事態が溢れているのに?ごく普通の現代生活をすることすら、地球や環境の破壊をもたらしているのに?自分の周囲が円満で、健康で、豊かであることを最善の状態と呼ぶのは、悲しいことに人間の自己中心性の現れでしかない。

 だから私に何ができる?個人が世界を変えることなどできやしない、と反論がある。過去、著名な心理学者、哲学者、文豪なども、ここまでは考え、上っ面現象のみの解決に空しさと限界を感じた。ほんとうに人一人には何もできないだろうか。実は、ここにも覆いがある。「神にできないことは何一つない」。だから、覆いを取り去ったキリスト者は、この難問にも立ち向かえる。神によって新生することだけが根源的な解決をもたらすことを知っているからだ。

 人間は神様に背いた。人間の罪は世界全体にゆがみを生じさせた。神様が創ってくださったものを汚した。そんな重大な罪が消えるのか?消える。それが十字架の愛の奥義。赦しを乞う人間と赦してくださる神様との和解をとりなしてくれた仲裁者、イエス様が十字架上で人間の罪を完全に清め、死を打ち負かして下さった。人間の本性には、美しくないものがある。覆い隠したいもの、目を伏せたいものが自分の中にもたくさんある。でもイエス様は、それもこれも皆ご存知だ。心配しなくても、問題点汚点はみんな筒抜け。知らぬは自分ばかりなり。だから私達は、今、覆いを取り去ろう。そうすれば、神様の赦しの宣言によって解放される。その時、人間は完全なる「自由」を得ることができるのだ。

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(第二コリント4章6節)

滝元順 リバイバル聖会

2007年06月15日 | Special
主の御名を心から賛美します!
6月15日と18日の夜に行なわれた滝元順先生をお迎えした聖会と、霊の戦いセミナーは、聖霊に満ち溢れた素晴らしい主の臨在の場となりました。奉仕をしてくだったスタッフの方々と、祈りで支えてくれた主にある霊の家族の一人一人に、感謝でいっぱいです!

 これからまた、来月お迎えする有賀先生のリバイバル聖会第二弾に向け、準備を進めてまいります。どうぞ引き続き、祈りと奉仕のサポートを宜しくお願い致します!

 


 


クリスチャンの醍醐味 Ⅰテサロニケ5:12-25

2007年06月10日 | Celebration
 祈りはキリスト者の呼吸であり、祈れることはキリスト者に与えられた特権だ。祈りは神様との会話であり、だからこそ、神様は私達が常に祈ることを切望されているのだ。その祈りに対して、神様は応えてくれるだろうか、と不安に思うことがある?思い煩うな、と御言葉は語る。

わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。(ヨハネ14:14)
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。(ヨハネ15:7)
はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(ヨハネ16:23-24)
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。(Iヨハネ5:14)

 まだまだ書き連ねれば、ページがどれだけあっても足りない。聖書には、「祈りは聴かれ、叶えられる」と繰り返し繰り返し書かれている。①祈る、②聴かれていることを知る、③そして神様がいると証しする。これがキリスト者の務めであり、醍醐味だ。この旨みを味わってこそ、クリスチャン。ステップ①で止まってしまっていると思うなら、それは祈りの姿勢の問題だ。BBCでも学ぶ「御声を聞く部屋」、これは「祈りの時の心の姿勢」を問うもの。基本の姿勢が備わっていなければ、先に進むわけがない。本日の礼拝で、祈りの姿勢19アイテムを特別公開していただいた。

 まず、基本中の基本。祈りには4つのタイプがある。

(1)「感謝」の祈り
(2)「悔い改め」の祈り
(3)「御心を求める」祈り
(4)「願い」の祈り

 これらの祈りを捧げるには、祈りの祭壇を建てる必要がある。アブラハムも、カナンの地へ導き出された際、行く先々で祭壇を作った。私達も導きの時々で、心の内を片付け、刷新し、姿勢を正そう。そのための4ポイント。

(1)祈りは前向き、ポジティブに。:
 成長には時間がかかる。しかし、いつも御顔を仰ぐ。
(2)心の内を空にする。:
 自分の思いでいっぱいになっていては、聖霊様が入る余地がない。
(3)神様の思い優先。:
 自分の道を押し進めるのではない。自分を神様の道に近づける。
(4)具体的&現実的に祈る。

 また、祈っていることが自分の思いから来ているのか、神様の思いか、この区別はとても重要。自分の思いに囚われて祈っていても、残念ながら時間の浪費。自分も神様も喜ばない。だから、神様の思いと見極めるための6点を知る。

(1)神様の栄光を現しているか。:
 一人でも多くの人に福音を伝えることに繋がっているか。
(2)人の祝福・助けとなっているか。:
 「救い」は、癒しや解放と同義。
(3)聖書と一致しているか。
(4)継続的か。:
 神様からの思いは、静かであっても内に燃え続ける。人間の感情は一時的。
(5)平安があるか。:
 理屈ではない平安を得られることは、使徒の働きからも明白。
(6)神様の思いは、自分の思いよりも遥かに巨大。私達が考える以上のことを与えてくださる。

 こうして祈った時、神様からの応答は4種類ある。
(1)Yes
(2)No
(3)今はその時ではない。待て。
(4)祈っていることについて、最適な別のものを与えよう。あるいは与えた。
これらのいずれかで、神様は「すぐ」に応えてくれている。気付かない、わからないのは、自分が自分の声だけに耳を傾け、自分の望む応えだけを待っているからだ。目を上げよう、神様の方へ。

 そして最後19番目は、100%「効かれる」特別な祈り、とりなしの祈り。ここに至ることができるのは、キリスト者の醍醐味中の醍醐味。しかし、決して簡単なことではない。それは、イエス様が今も天で私達のために続けてくださっているものと同じだからだ。24時間365日、一刻も止むことなく、自らを犠牲とし、成就するまで何があっても続ける祈り。一般に「とりなし手」と呼ばれるこの祈りは、イエス様に倣う祈りの器となり、自らの体を通して祈りを成就させる。

 何故そこまでするのか。霊のことに、肉を犠牲にする必要があるのか。それは、霊の領域であっても、聖霊様も悪霊も、肉に属する私達の意志を越えて事を成すことはないからだ。どんな恵みも、どんな誘惑も、自らの意志でNOと言えば何も進まない。それが神様が人間に与えた「自由意志」。これによって、人は信仰に入り、祈りは届く。信仰も祈りも、全て人を介在して事が成る。だから、キリスト者は暇ではない。暇なキリスト者は、キリスト者にあらず。祈れ、この一瞬に。その心の姿勢を神様は喜ばれ、御心を留めてくださるのだ。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。(Iテサロニケ5:16-19)

霊と肉のバウンダリー ローマ 6:1-11

2007年06月03日 | Celebration
 神様は日々、私達に新しい命を注いでくださっている。私達も日々のデボーションや祈りを通して神様と語り合う。その時々が日々の礼拝だ。中でも、主が復活された日曜日に、霊の家族である兄弟姉妹達と心を合わせて神様に礼拝を捧げることが出来るこの日、私達は生ける神様の臨在に触れられて圧倒される。教会はこの世にあって唯一御国に繋がるところ。そこで生きた神様の御言葉を慕い求めて、一心に耳を傾ける。

 神様が語ってくださる御言葉は、知性で理解出来るものではない。もしそうであれば、世の天才達は全員キリスト者となっているはずだ。また、御言葉は感情で受け取るものでもない。感情と信仰は決してイコールではない。御言葉は心と身体を越えて、人間の最も奥深いところで受け取るもの。霊で聞き、霊で理解し、そして霊に刻み付けるものなのだ。

 祈りの中で、礼拝の中で、聖書の御言葉(ロゴス)が、神様が私達に直接語ってくださる言葉(レーマ)となる時がある。日々目で追い、声にして、頭に蓄える「ロゴス」が、私達の内に入って霊に触れて「レーマ」となり、それが私達を霊的に生かす命として積み重ねられていく。この「レーマ」をどれだけ私達の内に内包されているか。キリスト者の人生は、実にここに懸かっている。

わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして
 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら
 分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら
 銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら
 あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。
 (箴言2:1)

 では、どうしたら「レーマ」が得られるか? 求めるしかない。ただひたすら求める。飢え渇いて求める。そして何よりも、福音を必要としている人々に語るために求める。キリスト者であるということは、自己実現のための手段や、自分の知性を飾るアクセサリーなどではない。御言葉は、闇を裂いて私達を光の中へと導き、永遠の命へと繋げるための唯一の方法である。だから御言葉は、決して耳障りの良いものばかりでない。どんな両刃の剣よりも鋭く、私達の目の前で偽りと真理を明確に分けられるのである。

 どんな人にでも、必ず選択しなければならない決断がある。それをしないでタラタラと歩いていたら、その先は永遠の滅びとなる。何かの間違いで「滅び」の代わりに「永遠の命」をいただきました、というようなウマい話ではないのだ。私達自身が一番よく知っているはずの罪の問題は、実に深刻である。だからこそ、十字架を見上げる。十字架に頼る。この罪から解放してくれるのは、十字架以外には何もない。

 その事実を認め、悔い改め、赦しを乞い、主イエスと共に歩む道を自ら選び取る決断をしなければならない。その決断によって初めて聖書は、実に「霊の領域」について書かれ、私達の真に生かすものであることを知ることが出来る。教会が信仰生活における霊と肉のバウンダリーであるとするなら、聖書は、神様が語られることの霊と肉のバウンダリー。御言葉を三人称として受け取るか、私個人の問題としての一人称として聞き従うか、これを分ける境界線がここにある。

横井先生を囲んで

2007年06月03日 | from Japan
ハレルヤ!6月3日の夜、仙台で行なわれた横井先生を囲んでの会は、祝福の内に行われました。先生と同行されたデュエン兄の証しでは、兄弟が神と出合う前の呪いの30年間の人生が、イエス・キリストの愛によって180度、祝福の人生へと変えられた様子が鮮やかに証されました。この写真は、皆との愛餐の時の模様です。詳しい内容についてはまた追ってご報告します。(及川