映画のような迫力あるタイトルが続く。単純ながらも「アルカトラズからの脱出」を連想し、アクション映画の主人公の気分になる。が、事はもっと深刻だ。肉体の自由を得るばかりでなく、霊の自由のことだから?もちろん、それもある。しかし、本日の聖書箇所、黙示録で記されているラオディキアがどんな状態であるか、神様の戒めが何であるか、これを学ぶことで本日のお題に真剣に向き合う切迫感を感じさせられた。
黙示録は、聖書の最後の巻、エンディング。そこには、聖書が語る終末と再臨の大パノラマが描かれている。かつて旧約聖書時代の大預言者たちが焦がれ、しかし知りえなかったラストシーンが、今この時代に解き明かされようとしている。
「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」
黙示録は7つの教会への書簡から始まる。7つの教会は、ヨハネが啓示を受けた当時に現存した小アジア地域の教会であり、またその後の全ての教会を示す予表であり、そして当時から今までの2千年間の各時代の教会のタイプを示しているとも言われる。その内容を見ると、7つの内2つの教会は誉められ、4つは誉められることと戒められることの両方があり、1つは何も誉められていない。最後に宛てられたラオディキアにあった教会が、何一つ誉められていないところで、これが現代の教会を指すとのことだ。ラオディキアは商業の中心地であり、黒い羊の毛織物で有名な裕福な町だった。その教会に対し、神様は「なまぬるい」と叱る。
「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。(3:16) 」
かつて堕落しきったイスラエルの民をバビロン捕囚やアッシリアによる征服という悲惨な運命を辿らせたように、ラオディキア状態の教会もイエス様に吐き出される、見捨てられる直前という最悪の状態だ。つまり「アルカトラズからの脱出」などという格好良いものでは全くなく、言い換えれば「吐瀉物からの回復」「再利用生ゴミ」というような、もう後はない状態からの立ち返りを求められている。
ルカ福音書18章のファリサイ人と徴税人の祈りを見る。二人とも「神様!」と呼びかけ、自分の仕えるべき方を知っていた。しかし、義とされたのは徴税人一人だけだった。ファリサイ人は、自分の義や行いを主張し、優越感と自己満足を感謝するもの、一方、徴税人はただ自分の罪を認め、神様の憐れみを乞うた。神様の義は、信仰によって恵みを受けることでしか得られない。イエス様の十字架は、行為の報酬として得られるような安いものではない。だからすべきは、「悔い改めるかどうか」だけだ。ラオディキアの教会もまた、現状に満足し、真の意味で神様を求めていなかった。
その教会にイエス様は忠告を下さる。「信仰」を意味する「金」と、神様の「愛」による清めである「白い衣」、そして来る神の国での自分自身を見る「希望」を指す「目薬」を買うようにと。「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であること」を認め、イエス様から受ける生き方、従って歩む生き方へ方向転換するようにと。神様はラオディキアの教会をも愛するが故、叱り、戒め、とりなしてくださっているのだ。
叱られたなら、直そう。なまぬるい信仰生活に安住せず、自分の情けない姿が見えていないことを認められるよう神様に頼ろう。イエス様の声を聞き、イエス様に心の戸を開き、イエス様と共に食事をして一体となる。それが神様を愛すること、真のキリスト者の姿だ。ラオディキアの教会には、信仰の決断が迫られているのだ。今、立ち返ろう。悔い改めよう。光の子として神様に仕えていくために。神様はこんな私達を愛してくださっているのだから。
「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」
〔写真:当時、7つの教会の中で最も繁栄を誇っていたラオディキアの街は今は廃墟と化している〕
黙示録は、聖書の最後の巻、エンディング。そこには、聖書が語る終末と再臨の大パノラマが描かれている。かつて旧約聖書時代の大預言者たちが焦がれ、しかし知りえなかったラストシーンが、今この時代に解き明かされようとしている。
「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」
黙示録は7つの教会への書簡から始まる。7つの教会は、ヨハネが啓示を受けた当時に現存した小アジア地域の教会であり、またその後の全ての教会を示す予表であり、そして当時から今までの2千年間の各時代の教会のタイプを示しているとも言われる。その内容を見ると、7つの内2つの教会は誉められ、4つは誉められることと戒められることの両方があり、1つは何も誉められていない。最後に宛てられたラオディキアにあった教会が、何一つ誉められていないところで、これが現代の教会を指すとのことだ。ラオディキアは商業の中心地であり、黒い羊の毛織物で有名な裕福な町だった。その教会に対し、神様は「なまぬるい」と叱る。
「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。(3:16) 」
かつて堕落しきったイスラエルの民をバビロン捕囚やアッシリアによる征服という悲惨な運命を辿らせたように、ラオディキア状態の教会もイエス様に吐き出される、見捨てられる直前という最悪の状態だ。つまり「アルカトラズからの脱出」などという格好良いものでは全くなく、言い換えれば「吐瀉物からの回復」「再利用生ゴミ」というような、もう後はない状態からの立ち返りを求められている。
ルカ福音書18章のファリサイ人と徴税人の祈りを見る。二人とも「神様!」と呼びかけ、自分の仕えるべき方を知っていた。しかし、義とされたのは徴税人一人だけだった。ファリサイ人は、自分の義や行いを主張し、優越感と自己満足を感謝するもの、一方、徴税人はただ自分の罪を認め、神様の憐れみを乞うた。神様の義は、信仰によって恵みを受けることでしか得られない。イエス様の十字架は、行為の報酬として得られるような安いものではない。だからすべきは、「悔い改めるかどうか」だけだ。ラオディキアの教会もまた、現状に満足し、真の意味で神様を求めていなかった。
その教会にイエス様は忠告を下さる。「信仰」を意味する「金」と、神様の「愛」による清めである「白い衣」、そして来る神の国での自分自身を見る「希望」を指す「目薬」を買うようにと。「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であること」を認め、イエス様から受ける生き方、従って歩む生き方へ方向転換するようにと。神様はラオディキアの教会をも愛するが故、叱り、戒め、とりなしてくださっているのだ。
叱られたなら、直そう。なまぬるい信仰生活に安住せず、自分の情けない姿が見えていないことを認められるよう神様に頼ろう。イエス様の声を聞き、イエス様に心の戸を開き、イエス様と共に食事をして一体となる。それが神様を愛すること、真のキリスト者の姿だ。ラオディキアの教会には、信仰の決断が迫られているのだ。今、立ち返ろう。悔い改めよう。光の子として神様に仕えていくために。神様はこんな私達を愛してくださっているのだから。
「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」
〔写真:当時、7つの教会の中で最も繁栄を誇っていたラオディキアの街は今は廃墟と化している〕