Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

坂本龍馬と福音 (ピリピ2:14-16)

2010年05月30日 | Celebration
◆日本人が理想とするリーダー 坂本龍馬

 ある世論調査で「あなたにとって理想的リーダーとは誰か?」というアンケートを取った結果、何と20代から70代の全世代でNo-1にあげられた人物がいる。その名は坂本龍馬。日本政府は彼を貨幣デザイン(千円銀貨)に抜擢した。

 今、日本は「龍馬ブーム」である。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」然り、多くの書店には、龍馬コーナーが設けられ、ここ数年で龍馬に関する本が400冊以上も出版されている。確かに日本人で、坂本龍馬の名を知らない人はいない。だが、彼が31年間の生涯で、いったい何をした人物なのかと聞かれたら、ほとんどの人は明確に答えることが出来ない。

 しかし、これほどまで多くの日本人を魅了させる坂本龍馬のリーダーシップの秘密は、いったい何処にあるのか?それは、大きく以下の3つの点にあると考えられる。

 彼が土佐藩を脱藩し、薩長連合の立役者だったということは、よく知られているが、彼はどの権威や派閥にも属さない、権力欲が全くない人物であった。大政奉還の時、西郷から新政府の人事構想を依頼された時、彼が記した人事に彼本人の名前はなかった。つまり、龍馬は、権威や主義主張、私利私欲には興味がなかったのである。

 薩長連合の仲介人となった龍馬の交渉術は、主義主張やイデオロギーなどを一切持ち出さない、実に現実的なものであった。「薩摩が欲しいのは米、長州が欲しいのは武器、しかし、互いに良い国をつくろうという志は同じ。では、互いに欠けているものを補い合い、協力し合えば良いでないか」彼は決して理想主義者ではなく、絶えず現実を踏まえて行動したリアリストであった。

 また、彼は千葉道場の剣の達人であり、何度も殺されそうな目に遭っているのにも係わらず、彼は生涯、一人も殺したことがなかった。命より名誉が優先されていたこの時代にあって、龍馬は人の命の尊さを知っていたのである。

 坂本龍馬が、明治天皇の家庭教師で、後に大きな影響を与えた、フルベッキ宣教師と長崎で接触していたことが分かっている。フルベッキは、日本の救いのために自分の一生を捧げた人物である。残念ながら、龍馬がクリスチャンであったという記録はない。しかし、不思議なことに龍馬の周りから、多くの優れたクリスチャンが輩出されているのである。


坂本家はクリスチャンファミリー 坂本直寛と坂本直

 龍馬の実姉(千鶴)の息子(甥っ子)で、後に坂本家の養子となり、正式に家督を相続した坂本直寛。彼は、薩長の専制政治に走っていた当時の明治政府に対し、土佐・高知の板垣退助が自由民権運動を起こした。直寛はこの自由民権運動『立志社』の若手運動家として活躍していた人物であった。

 彼は、キリストを救い主として、信じるには信じていたが、どちらかと言うと、理屈で反論できないから仕方なく信じているというレベルだった。また、直寛と同居していた義理の母が、大の耶蘇嫌い。ところが、その頑固な母親が、こおtもあろうに、坂本家に出入りしている魚屋から伝道されたという、思いもかけない珍事が起こったのである。

 ある日、御用聞きにやって来た魚屋が、帰りに十戒について解説した小冊子を置いて行ったのである。彼女はそんなものを置いて行かれても困ると思ったのだが、何故か受け取ってしまい、何故か読み始めてしまい、何故か読むのがやめられなくなってしまい、何故か最後まで読み切ってしまったのだ。その後、彼女の心の中には何とも言えない感情が沸き起って来た。それは「平安」ではなく「不安」であった。

 彼女は、清く聖なる神の基準を示された時、これが真実であるならば、自分は紛れもなく地獄行きであり、自分は神の前では罪人であるということがはっきりと分かったのだ。それでその日の夜、魚屋さんにもう一度来てもらって聖書を開き、神は人間を恐れさせるために罪を指摘しているのではなく、人間が自分の罪に気付くために、罪を指摘しておられるのだということを聞き、その罪から救うためにキリストが十字架に架かり、三日目に復活したことを知った。

 次の日の朝、母親は直寛にこう言った。「私は夜中に目が覚めてから、朝まで一睡も出来なかった。神のことを思いながら、気が付くとこの方を信じずにおれなくなった。そこであなたにお願いがある。私が子どもを学校へ送りに行っている間に、家の中にある仏壇やお札を全て処分しておいて下さい」と。

 その後の彼女の喜びに充ち満ちた変わり様は大変なもので、この母親の劇的変化を目の当たりにした直寛は、自らも悔い改めて牧師となり、新しい人生を生きることになる。晩年に共に暮らした兄の坂本直をはじめ、坂本家全員がキリスト者となった。つまり、坂本龍馬の家系はクリスチャンホームなのである。


日本人初の正教会司祭 沢辺琢磨

 龍馬の従兄弟にあたる山本琢磨という青年が、酔った勢いで起こした不祥事で切腹を言い渡されたという事件があった。新渡戸稲造は著書『武士道』の中で、武士たちの「名誉心の病的な行き過ぎ」を問題にしているが、一般人なら死刑とまではいかないが、藩や家の名に汚名を塗ったということで、彼には切腹が命じられたのである。その時龍馬は、琢磨の命を何とか救おうと力を尽くし、彼を北海道へ逃がし助けたのである。(2月28日放映 NHK大河ドラマ・龍馬伝・第9話)

 この北海道へ逃亡したことが、琢磨の一生を変えることになる。当時の北海道では、ロシア正教会が伝道活動をしていた。血気盛んな琢磨は彼らの活動を、日本侵略に向けた情報収集と断じ、大刀を持って教会を訪問し、「来日した意図を、正面切って司祭に問い詰めた。対する司祭は琢磨の問いに対して理路整然と答え、あなたは聖書の教えを知っているのか?と質問した。

 知らぬと答えた琢磨に「では、私たちの教えが如何なるものかを知ってから、判断しても遅くはなかろう」と諭し、確かにそれも一理あると考えた琢磨は以後、司祭の元に毎日通い、学んでいく内に聖書の教えに心服し、遂に1868年、彼は日本正教会の初穂となり、パウロという洗礼名が与えられた。

 当時、キリスト教禁教下で回収した琢磨と彼の家族に対する迫害は非常に厳しく、彼らの生活は困窮を極めた。遂に精神的に異常をきたしてしまった妻が自宅に放火をするという事件も起きた。琢磨は妻子を残して函館を一時脱出し、東北地方を布教しながら南下し、途中で何度も投獄されながらも、その名の通り、パウロさながらの伝道活動を行なう。仙台で投獄中に禁教令が解かれ、自由の身になった彼は、以前にも増して伝道に力を入れた。そして、1875年、日本人で初の正教会の司祭(沢辺琢磨)に任命される。また、琢磨が新島襄が米国へ密航するときの手助けをしたというエピソードもある。


龍馬を斬った男 今井信郎

 龍馬は1867年、幕府の京都見回り組みの隊員、今井信郎(のぶお)に暗殺される。闇に紛れながら、生き延びていた彼は、函館・五稜郭での戦いで新政府軍に捕まって取り調べを受け、龍馬の盟友だった西郷隆盛の前に引き出される。ところが、処刑確実だったこの青年の命を何と西郷が助命嘆願するのである。奇跡的に死を免れた今井は、静岡県の田舎に流される。西南戦争が起きた時、彼は九州へ向ったが、途中で西郷軍壊滅の報を知り引き返した。その時彼は自分の命を救ってくれた西郷を助けに行くのが目的であった。

 今井が生活していた静岡県の土地は、落ちぶれた下級武士たちが茶摘みをして生きながらえていた田舎村であった。そして、この土地に宣教師がやって来た。幕府側にいた人間にとって、外国人は侵略者以外の何者でもない。そこで、幕臣崩れ組は宣教師暗殺を計画し、刺客は龍馬を切った今井が適任者であることで満場一致した。

 今井は、連中を切る前に、奴らがいったいどんなことを伝えているのか、一応知っておこうと聖書を読んでみた。すると突然今井の目の鱗が落ちた・・・のではなく、彼は全く聖書を理解することが出来なかった。彼にとって聖書は、単なる子供騙し、荒唐無稽な童話の世界だった。今井は、こんな馬鹿げたことを信じている連中のために、わざわざ自分の刀を汚すことはない。嫌がらせをして追い出せば十分だと考えた。

 ところがある日、お茶の運送のために、清水港から横浜港に渡った今井の目に、たまたま横浜海岸教会の姿が映った。これが耶蘇共の集会か、迫害するネタを仕入れるために、こいつらの馬鹿げた話しをちょっと聞いて帰るかと思い、教会に入ったことが、彼の人生を180度変えた。今までバカバカしかったはずの話しが、即座に感激へと変わったのである。これこそ真理、正道であると確信した彼は、静岡に帰るないなや、今まで迫害していた宣教師の元を尋ね、自分の思いを告げ、熱心に聖書を学び、洗礼を受け、敬虔な信徒となった。

 クリスチャンとなった彼からは、今まで全身にみなぎっていた殺気が柔和へと変えられ、上から下に見下していた態度が、人に仕える態度へと変えられた。その後、彼は村会議長となって、人々に福音を伝える者となった。その後、坂本直・直寛兄弟は、龍馬の法要に今井信郎を招いた。彼ら間には敵意など微塵もない、キリストにある悔い改めの交わりであったことは言うまでもない。


クリスチャンのリーダーシップ

龍馬は、私利私欲に動じない高いビジョンを持っていた。
龍馬は、ドリーマーではなく、地に足がついたリアリストだった。
龍馬は、一度も人を殺したことがなかった。命の尊さを知っていた。

あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。(ピリピ4:5)

 坂本龍馬が、多くの人々から尊敬され、憧れの対象である理由の根はここにある。この神(人)の道に反していないと言う点において、龍馬は聖書的だった。ピリピ書は、パウロが第三次伝道旅行の際、おそらくエペソで投獄されていた時にピリピ教会宛に書かれた感謝状。獄中で書かれた別名『喜びの手紙』である。今日はこのピリピ書から、クリスチャンのリーダーシップについて確認する。


大切なことは、本人の努力や経験ではなく、どれだけ自我を捨て、神に信頼するかという信頼(信仰)力。

あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(ピリピ1:6)

 私たちは失敗するが、聖霊は失敗されることはない。日本にリバイバルの業を成就されるのは聖霊である。大切なことは、私たちが聖霊よりも前に出ないことである。


一度ぐらい人から馬鹿にされる位の内容でなければ、真の革新とは言えない。

わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)

 聖書は沢辺や今井にとって、当初は実にバカバカしいものとしか映らなかった。しかし、その聖書が彼らの人生を一変させたのである。


自分の最善ではなく、神の最善を求め、救いの一兵士として用いていただく。

あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(ピリピ2:13)

 人は自分が欲しいものを欲しいだけ、欲しい時に欲しいと思っているから、祈りが聞かれていないと考えるのである。しかし、それでは子供の祈りから何も成長していないことになる。私たちは他の人の最善のため、教会の最善のため、全人類の最善のために祈るべきである。それが最終的に自分にとっての真の最善となるからである。


迫害を受けていた多くの宣教師たちの祈りがあった。

何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。(ピリピ2:14-16)


メッセージ(音声)はこちらをクリック!↓
http://goodnewsstation.com/celebration.html



☆Good News Stationのメインページはこちら!

幸せの回復 ローマ1:20-23

2010年05月23日 | Celebration



幸せ能力の劣化

 この物が売れない時代に飛ぶように売れているi-Phoneやi-Pad。生活必需品ではないが便利で楽しい。つまり幸せの代用品である。誰もが幸せになりたいと願って知恵を身につけ、経験を積み、自分を磨いている。ところが、世の中が進めば進むほど、逆に幸せから遠のいている。精神的・肉体的免疫力が低下し、ワケのわからに病が蔓延しているように、人は幸せになるための能力がどんどん劣化している。

 例えば、人を赦す能力。幼い頃はどんなに兄弟喧嘩しても、30分もすれば仲直りして、手をつないで寝ているのに、成長して大人になればなるほど、知恵が益せば益すほど、人をゆるすことが難しくなる。感謝が出来なかったり、ごめんなさいの一言が言えなかったり、この性質はいったい何時から始まったのか?


生まれ持った罪

 赤ちゃんの「赤」の意味ご存知か?「赤の他人」は全く関係ない人のこと、「赤貧」は全く何もない貧しさ。赤ちゃんの「赤」は「全くない」という意味で、何の罪も汚れもないという意味。ところが、この赤ちゃんも、ちゃんと罪の性質を持っているのだ。

 友人のある牧師家庭のお話し。奥さんが実家で次男を産み、無事出産を終えて家に戻った時、2才の長男は久しぶりに母親に会える喜び一杯でいざ母親と対面した時、彼は抱き付きに行かなかった。抱き付きに行こうにも、別の子どもが母に抱かれていたから。彼はこの弟という見知らぬ生き物を睨み倒し、彼の目には愛情どころか嫉妬の炎がめらめらと燃え上がっていた。次に3番目の子どもを授かった時、今度は上の二人が新参者を睨み倒していた。つぶらな瞳が憎しみの目になるのを見ながら、あぁ、人間には生まれ持った罪の性質が宿っていることを認めざるを得なかった。


光が見えないのは、光がなくなったのではなく、光を遮るものがあるから

 学生時代、私の部屋は東向きの日当たりの良い部屋で、よく友人たちのたまり場になっていた。ところが、ある日突然、日当たりが悪くなり、環境が変わってしまった。部屋の直ぐ隣に4階建ての建物が立てられたのだ。それは、太陽が暗くなったのではなく、太陽と部屋の間に遮蔽物が立ちはだかったためである。この世の中のどんな人も、どのような状況にある人でも、神の光や神の祝福がなくなってしまったという人は誰もいない。ただ神とその人との間にある罪と言う遮蔽物が、光を遮ってしまっているのだ。この遮蔽物を取り除くために、この世に来てくださったのがイエス・キリストである。


人は神から離れると、人間は3つのものを失い空しくなる。

目的 (自分が出発点)
 日本ではネットで調べておいても、実際に随分迷うことがある。駅の改札口を間違うと、最初のスタート地点を間違うと、ゴールにたどり着けなくなる。人生も同じ。人は人生の目的を自分を出発点にして考える。自分は何に向いてるのか。何に興味があるのか?何をやりたいのか?それを見つけることが人生の目的!しかし、好きなことをやっているはずなのに、空しさを抱えている人はいくらでもいる。

 人間を出発点に人生の目的を探っても、本当のゴールには行き着くことは出来ない。それは出発点が間違っているからだ。椅子が出来てから椅子の用途が考えられたのではなく、用途があったから椅子がつくられたのだ。あなたをつくられた作者の意図を知ることが、自分の人生の目的を知る第一歩なのである。

(どうしたら愛されるか?)
 日本の本屋には、どうしたら愛される人になれるか。愛される女性になるためには、頼りになる男性とは?リーダーの心得とは?そんなマニュアル本ばかり。ところが、「愛するにはどうしたらよいか」について語る本はない。人は自分を愛してくれる人を愛するのだから、愛することが出来る人になればいい。

 では、愛の人とはどのような人なのか?それは無条件で、途中で切れることなく、いつまでも続き、どんな状況であろう愛し続けられる人のこと。しかし、そんな人は誰もいない。ただ、神だけがあなたを永遠に変わらない愛で愛しておられるのだ。その愛を示すために、人となってこの世に生まれ、罪なき生涯を送り、十字架であなたの代わりに罰を受けて下さったキリストこそ、神の変わらない愛の証拠なのである。

(死と分離させている)
 多くの人々は神なんかなくても十分幸せで、人生をエンジョイしているが、死ぬまでの間が充実していればいるほど、人生の最終地点である「死」とのギャップが大きくなるのではないか。人は幸せなのではない。不幸せに気付いていないだけなのだ。死という事実を否定出来ないとするならば、その途中経過がどれだけ幸せであろうとも、それは真の幸せにはなりえない。

 失うために得、別れるために出会い、苦しむために愛するのなら、何と人生は空しいものか。実は、生きるということは死ぬこと。死ぬということは生きること。人は正しい生死観を持って始めて、人生を前向き・肯定的に生きることが出来るのだ。キリストは死からよみがえられ、死を滅ぼされた。このキリストの中に、人生の真の目的と、真の愛と、真の命が備わっているのだ!


それを取り戻すためには、3つの考え方を改める必要がある。

神なんかないという考えを変える。
 ジョン・レノンのイマジン「神なんかいないって想像してご覧、天国も地獄もないってイメージしてごらん」そうイメージするとそういう生き方になる。世の中にある問題の根本原因は、神の存在を認めないことにある。借金が山のようにある人が、借金がないと考えて行動したら、借金を増やす生活を続けてしまい、やがて返済に苦しむことになる。もし、あなたに夫がいるのに、夫などいないかのように考え、行動したら、夫婦生活は必ず破綻する。

 自然や生物の細部を緻密に描く細密画法で50年以上描き続けてきた熊田千佳慕。99才で昇天した彼は、「もういつ死ぬか分からないと思うと、もう一度物をよーく見てみよう」と決心すると、年を取れば取るほど、自然がよく見えてきた。若い頃はバラの花びらはつるつるだと思っていたが、実は縮緬のようだった。その発見に彼は感動し、そう描く。彼の目には花や虫は美の極致だった。「根本は愛なんです。美しいから愛しているのではなくて、愛しているから美しいのです。」一人の画家が花びら1枚1枚を慈しんで見つめ続けたように、神は可愛い自分の子供であるあなたを愛の眼差しで見守り続けておられる方。そんな神などはいない!という捨て鉢な考え方を改め、私を愛しておられる方がいるのだという考えに変える。

自力で神の元に行こうという考えを変える。
 先程の牧師家庭の長男が事故で入院したことがあった。その時、家族は勿論、沢山のお友だちが病院にお見舞いに来た。ところが、末っ子だけは、お兄ちゃんをお見舞いに行くことが出来なかった。何故なら、彼はその時、新型インフルに罹っていたから。彼は「お兄ちゃんの所へ行く!」と切望したが、自分の病気が完治するまでは、病室に入ることは許されなかった。それと同様、100%聖い神の前に人は罪を持ったままで近づくことは出来ないのだ。いくら努力しても世の中には自分の努力だけでは通用しないことがあるのだ。自分の力で何でも出来るという、無知で傲慢な考えを改める。

キリストについての考えを変える。
 この世で世界一有名で、世界一誤解されているのがイエス・キリストである。彼はキリスト教の開祖、立派な人、偉い人、教師、哲学者等々。しかしその実体は、彼はあなたと神の間に立ちはだかる「罪」を取り除くために、この世に来られた生ける神の子。キリストはあなたの罪のすべてを背負ってあの十字架に架かり、あなたの代わりに罪の刑罰を引き受け、いのちをもって償って下った。そして、死んで三日目に復活し、人間の努力では解決出来ない罪と死の問題に決着をつけた。誰でも、このイエス・キリストを自分の救い主として信じるなら、神はその人の心の内に新しい命と救いを与えて下さるのだ!


メッセージ(音声)はこちらをクリック!↓
http://goodnewsstation.com/celebration.html



☆Good News Stationのメインページはこちら!

日本の霊的壁 (仏教の実態)

2010年05月16日 | Celebration
宗教性と宗教哲学

 「分け登る峠の道は、多けれど同じ高嶺の月を見し哉」仏教にもキリスト教にも、人に迷惑をかけるような教えはないのだから、それぞれ自分に合った宗教をすれば良い。結局、辿り着く所は一つなのだから。これが一般的な日本人の宗教観である。この指摘について、多くのクリスチャンが返答出来ないでいる。

 宗教には、宗教性・文化性(どのように生きるか?・生活するか?)と、宗教哲学(何故、そのように生きるのか?)の、二つの側面がある。どの宗教においても、その宗教性・文化性において悪質なものはほとんどない。何故なら、悪を教える宗教に、進んで参加する人などいないからである。この宗教性と宗教哲学を家に例えると、宗教性は家屋、宗教哲学は土台にあたる。

 通常、私たちが家を購入する際、家を買う際の条件に土台は入らない。しかし、建築の専門家に言わせると、家は土台が全てなのである。どれだけ美しく快適な家であっても、土台が腐ってぐらついているような家を誰が買うだろうか?どれだけ広く美しいお屋敷であろうが、砂の上に建てられた家には何の価値もなく、それは逆に人生における大きな損失になる。大切なことは、表面的な宗教性の部分を見て判断するのではなく、その宗教の存在理由となる宗教哲学の部分を見極めることなのである。

 例えば、殺人否定については、仏教もキリスト教も同じである。問題は、何故殺してはいけないのかという理由である。仏教は、殺人は自分の得にならず、成仏することが出来ないからであり(自己中心)、キリスト教は、人間を創造された神の意思に反するからである。(神中心)何故なら、それをすると殺された人は勿論、殺した当人も、社会も、神も、苦しむことになるからである。

 また、仏教には「A:己の欲せざる所人に施す勿れ」と教え、キリスト教は、「B:自分がして欲しいことを人にもしてあげなさい(使徒20:35)」と教えている。一見同じ教えであり、表現の違いだけに思えるが、実はその内容は大きく異る。文面だけで判断すると、Aの方が簡単で問題が発生し難い。人が嫌がることは、大体共通しているからだ。これが仏教の知恵である。

 ところがBの場合、好きなことは人によって異なるので、相手が何をして欲しいのかという、相手の気持を察し、必要を聞くという、能動的な態度が必要となる。つまり、Aは、人の嫌がることをすることは自分の得を積むことにはならないという「己」が原点であり、Bは自分を愛するように、人を愛しなさいという「愛」が原点である。仏教はあくまで自分の救いが目的であり(仏教徒は慈善事業をしない)、キリスト教は自分を愛するように、人を愛することが目的なのである。

仏教哲学と歴史

 仏陀はBC560年、現在のネパールに居住していた釈迦族という種族の王子として生まれた。(釈迦は種族の名称で、仏陀・釈尊は、悟りを開いたとか、目的を達成したという意味で本名はゴータマ・シッタルーダ)彼は王宮の4つの窓から見た、捨て子、身寄りのない老人、病人、死にそうになっている人たちを見て、悲惨な世の中の現実を知り、人生における苦しみの原因と目的を求め、29歳で妻と子供を捨てて出家し、35歳で悟りを開き、80歳で豚肉による食中毒で死んだと伝えられている。彼の思想は、人生の根本問題は、生老病死

愛別離苦(愛する者と別れなければならない苦しみ)
怨憎会苦(会いたくない人と会わなければならない苦しみ)
求不得苦(求めても得ることが出来ない苦しみ)
五陰盛苦(人間の肉体(五感)故に生じる苦しみ)

 の苦しみ(四苦八苦)であり、そこから解放される為の知恵(八正道)正見(理解)、正語(言葉)、正命(生活)、正念(気使い)、正業(行為)、正定(精神)、正思(思想)、正精進(努力)を説いた人生哲学である。このように仏教の目的は、人生における「苦」からの解放である。そのために、苦しみの原因を考察し、修行し、良い輪廻に生まれ変わり、最終的に涅槃に入ることなのである。

十二縁起(因縁)・仏教の人生観
無明 (煩悩)
行 (行為)
識 (胎内で受けた最初の一念)
各色 (胎内での発育)
六処 (目耳鼻舌身意を持って胎内を出る)
触 (物事に触れて感知する)
受 (快楽を求める)
愛 (異性を求める)
取 (物名色欲)
有 (自業自得)
生 (輪廻転生)
老死(老いて死に来世に生まれまわる)

 確かに仏陀の教えは、優れた思想ではあったが、一般向けではなかった。現在、仏陀の教えに最も近いとされる日本の禅宗は、ただひたすら座禅である。しかし、仕事の合間に座禅というわけにはいかず、出家しないことにはどうにもならない。明日の食事の心配をしている人たちに、煩悩について問いても何の助けにもならない。仏陀と同じように修行をしなければ、悟りが開けないのが仏教である。こうして仏陀の教えは、ごく一部の人々によって継承されなかった。

 そして仏陀の死後、およそ500年を経て「仏陀の教えは万人の為のものであり、一部の人間が独占しているのはおかしい!」という宗教改革が起こった。しかし、仏陀は生存中、経典教義といったものを何ひとつ残していなかった。従って、一般大衆によって蜂起したこの宗教運動は、仏陀の正統的継承者と呼べる指導者と、その教えの基礎となる経典が存在しなかったため、各リーダー達の主義主張や都合によって様々な分派に分れていった。

 こうしてその土地の民族宗教や、生活習慣に順応した仏教は、形を変えて幅広い地域に浸透し、中国、チベット、日本にまで伝えられた。しかし、原型をとどめないまでに変形した仏教は、逆にインドではヒンズー教に吸収されてしまう。これが世に言う大乗仏教である。日本で有名な般若心経や、チベット密教は、仏教とヒンズー教と景教が融合して出来たものである。


日本伝来

 AD538年(飛鳥時代)、日本に初めて輸入された仏教は、仏像と経典のセットであった。当時、神殿と言えるような立派な建造物など一つもなく、石や大木に短冊を巻いた自然崇拝レベルだった日本は、金ピカの仏像と難解だが、この世の知恵を全て集結させたような経典に度肝を抜かされた。しかも「これを拝めば国は安泰である」という、当時の文化使節団会長であった百済王からの提言もあり、日本は国家安泰・鎮護のために仏教を政治的に取り入れたのである。

 その後日本では急速な勢いでお寺や仏像が建造されていったが、仏教が日本の民間レベルまで降りてきたのは、戦争や飢饉で社会的不安が最高潮となった平安後期から鎌倉にかけてである。浄土真宗、禅宗、日蓮宗など、鎌倉新仏教と言われる日本の仏教は、ほとんどこの時代に誕生し、それ以後、現代に至るまで大きな変革は見られていない。

涅槃と六道輪廻

 人は死後、天国か地獄かのいずれかに行くという、キリスト教の生死観のように、仏教も人は死後、極楽か地獄かのどちらかに行くと考えている人が多い。しかし、それは仏教のことを全く知らない人の発想である。人は輪廻をくり返しながら修行をするのだから、人は死んだら、その六道輪廻天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)の世界にいずれかに行くことになるのだ。

 仏教とは、苦しみから満ちた人生から解放されるためには、どうしたら良いのか?その目的を達成するために、どのように修行すべきかを教える宗教である。その目的は、この世において、無我の境地(自分の存在がなくなる)に到達するまで修行し、解脱(成仏・仏になる)し、涅槃(何も存在しない)の世界に入る(入滅)ことである。

 仏教の最終目的地である「涅槃」への入り口となるのは、人間界のみである。天界は最も高位な世界ではあるが、ここも修行の場であり、この六道輪廻は全て、苦しみの世界である。つまり、この苦しみの世界から逸脱するためには、自分の存在を無くす以外に方法はないために、人は涅槃の世界を目指して必死に修行するのである。この涅槃の世界とは、全く何も存在していない世界のことである。従って、いくら拝んでも、崇拝しても、入滅した仏陀も、仏となった故人も、何処にも存在していないのである。

賽の河原と自業自得

 日本語には、「賽の河原」という、「報われない努力」を表現する形容詞がある。これは三途の川の河原で、子供が一生懸命、石を積んで塔をつっているのだが、完成する前に鬼が塔を崩しに来て、石積み作業は永遠に続く。これは、早死にして修行を中断し、親を悲しませたという重罪を課せられた子供が、苦しみを受けている光景である。六道輪廻は、このような暗く陰惨な世界である。

 どんな人格者であっても、生涯に一度でも殺生をすると人は地獄に行かなければならない。何故なら人は何に生まれ変わっているのか分からないからである。飲酒も食肉もSEXも地獄行きの重罪である。女性は特に業が深く、もう一度人間界に男性になって生まれ変わり、更に修行を積まなければ救われない。

 ちなみに地獄には8段階あり、一番軽い地獄でも、1兆5千万年間の修行が必要だと言う。このような世界でいったい誰が救われるのだろうか?人は生前の自分の行いによって、基本的な裁きは決まっている(自業自得)のだ。しかし、そのような絶望的状況の中で、苦肉の策として考え出された二つの方法がある。

追善供養

 人は死後、死んだ当日(初七日)から数えて49日の間に、7日毎に7回裁判(5回目の裁判官が閻魔大王)が行なわれ、その間に故人の遺族が行なった善行が、故人の行いとして投影され、裁判が有利には運ばせることが出来るのである。但し、追善供養は裁判の当日である7日目毎で出なければ全く効果はなく、判決が下った49日以降も同様である。

 日本で常識のように行われている1周忌や7周忌などの年季供養は、寺のお布施儲けのために坊さんが考え出したものであって、追善供養の効果は全くない。(経典に明確に記してある)また、天界行きと地獄行きの人は、初七日の裁判(書類審査)の段階で決定され、自殺者は問答無用で地獄に行かなければならない。追善供養が有効なのは、地獄行きと天界行き以外の人に限られている。

 人間は苦しみの原因を考察し、修行することによって悟りを得ることが仏教の目的であり、その悟りはあくまで自分の努力・修行によって会得するものなので、拝めば極楽に行ける(成仏できる)という浄土真宗の他力思想とは全く相反する。そもそも浄土真宗にせよ、仏陀の教えにせよ、人間の魂が仏壇やお墓にいてはおかしいのである。

位牌

 宗教改革以前のヨーロッパで、教会がとんでもない金額で庶民に売りつけていた免罪符の実態を聞けば、「何と馬鹿げた話だろう」と思うのが当然である。その免罪を21世紀の今日、未だにとんでもない値段で売られている国(しかも先進国)が世界に一つだけ存在している。それが日本という国である。

 この位牌は、先祖崇拝を尊ぶ儒教から来たもので、仏教とは何の関係もない。位牌とは、儒教の教えを何年間も修業し、習得した者にのみ授与された白木の証書で、その証書と人の魂が木に宿るというヒンズー教の思想が結びついたものが日本の位牌である。この板に書かれた戒名(浄土真宗では法名)の字数によって、六道輪廻への行き先が左右されるので、故人を成仏させるためにはかなりの予算が必要となる。"信士"なら10万、"院殿大居士"だと100万、今戒名は今はインターネットでも購入が可能で、予約をすればディスカウントがもらえる。

 何故仏壇を拝むのか? それは、先祖の霊が仏壇の中の位牌に宿っているからである。何故葬式でお坊さんが拝むのか?それは、身体から離脱した魂を戒名に書かれた位牌に移すためである。しかし、仏教の教えによると、死んでから49日以内に人の魂は、六道輪廻の何れかに行くわけなので、位牌は50日目以降、全く意味を失っていることになる。また、お盆は地獄の釜の蓋が開いて、故郷に帰って来た亡者の魂を供養することが目的なのだから、仏壇やお墓の前でいくら拝んでも、故人を供養することにはならないのである。

嘘も方便

 日本の葬式費用は、世界で最も高いことで有名である。100-400万円は普通にかかる。その葬式費用の中で最も高いのが、お布施や戒名である。何故、そのようなデタラメが公然と行われているのか?それは、仏教には、たとえ真理を隠してでも、その人が仏教に帰依さえ出来ればその方が良いという「嘘も方便」という考え方があるからである。遺族にとってどんな無理であっても、遺族から少しでもお布施を出させてあげることが、故人の功徳につながり、その方が相手のためになるからなのである。

 この嘘も方便の思想は、お坊さんの欺瞞的な生活に拍車を駆けることになる。例えば、お坊さんが飲んでいるのは酒でなく「般若湯」であり、彼らが食べている肉は兎ではなく、鶏(兎は一羽-二羽と数える)である。また、寺には女性を近付けることが出来ないので、寺では男色が公然と行なわれていた。万葉集にはお坊さんの性的相手を務める男子のことを儚んで詠まれた歌がある。

縁日

 蚊を殺すと-100、蛙を殺すと-500、嘘をついたら-1000と言ったように、人間は罪を蓄積し続けている。しかし、縁日で一度お参りすれば、+2000、お賽銭を出せば+6000というポイントが、罪の借金から引かれることが出来る。特に、浅草のほおずき市などの特別な縁日(4万3千回供養)に行ってお参りすれば、4万3千ポイントという、大きなご利益を得ることが可能となるのである。

浄土思想と福音

 日本の民間宗教として最も根付いているのは、浄土思想を提唱する浄土宗と、浄土真宗である。この二つの宗教に共通していることは、衆生(現世)において確かなものは何一つない。自分は救いを達成し得ない凡夫(罪人)であることを認め、ただ救いのために念仏を唱えなさいという「他力本願」である

□浄土宗の開祖・法然(1133~1212)の三心
1) 至誠心:救いを求める
2) 深信:救いを信じる
3) 廻向(えこう)発願心:浄土中心の人生

□浄土真宗の開祖・親鸞の思想
1) 凡夫(罪人)は無明(無知)と渇愛(肉欲)からは逃れられない。
2) 修行によっては誰も救われない。阿弥陀仏の恩恵によってのみ人は救われる。
3) 善人が救われるのなら、罪を自覚している悪人も救われる。

○キリスト教との共通点
1) 極楽(天国)の存在
2) 人は皆、罪人(凡夫)である。
3) 人は皆、修行(行い)では救われない。
4) 人は皆、阿弥陀仏(キリスト)に帰依(南無)すれば救われる。

○キリスト教との相違点
1) 人がいくら祈っても、そこに「悔い改め」がない限り救われない。
2) 「聖霊」の存在。

 「穢土」は、人間が住む穢れた世界で、「浄土」は、阿弥陀仏、弥勒菩薩、観音、如来などの神々が住む穢れのない浄化された世界である。ところが、六道輪廻において浄土という世界は存在しない。実は、浄土という思想は、仏教の教えではなく、中国でつくられたものなのである。

仏教と景教

 浄土思想を日本に輸入したのは、AD804年、遣唐使として中国に渡った空海である。無名の一修行僧だった空海は30歳で中国に渡った。当時の長安には様々な宗教が存在していたが、その中の一つにマリア崇拝を否定し、カトリックから異端と迫害されたネストリウス派(キリストは神格と人格の2つに分離され、神格は福音書に宿り、人格は消えた肉体に宿っていた)というキリスト教の一派(景教)が中国(唐)に守られ、太秦(ローマ)寺で布教活動をしていた。

 当時、中国における仏教は、かなり世俗的に堕落しており、空海は、当時異端とされていた密教と景教と法華経を持って、20年滞在する予定を変更し、僅か2年で帰国し、この3つの宗教を融合させた天台宗の開祖となった。また、当時の中国には、30年以上厳しい修行を重ねた末に、善導(613-681)が確立した中国浄土宗が存在していた。

 仏教史学の権威、アルティ博士は、阿弥陀仏の教義はインドで発生したものではなく、当時、中国に伝えられていたキリスト教(景教)に起因する。と述べている。また、インドで35年間宣教師として働いたジョン・スチュワート師は、『景教徒の事業/The Works of the Nestrians』という著書の中で、東方伝道に向ったトマスは、アッシリア、インド、チベットを経て、中国に渡り伝道した。AD72年、インドのミラポール(旧マドラス、現在のチュンナイ)で殉教し、今でもそこに「トマスの丘」と呼ばれる場所がある。と記している。

 親鸞(1173~1262)が学んだ『世尊布施論』は、仏教の経典ではなく、7世紀に中国語に訳された景教の経典である。『世尊』はイエスのことで、内容はイエスの「山上の垂訓」から、イエスの生涯、教え、救い等について述べられている。「南無阿弥陀仏(私は阿弥陀仏に帰依します)」という、救い主の名を呼べば救われるという思想は仏教にはない。ちなみに「阿弥陀」とは、無限の光・永遠の命を意味し、「景教」は中国語で「光・命の宗教」という意味である。

 ザビエルは日本滞在中、「浄土真宗の教えが、あまりにルターの教えに似ているので驚いたと」いう記述を残している。また、長安(現在の西安)にある「大秦景教流行中国碑」によると、当時景教は、「真宗」とも呼ばれていたことが分る。このように、中国における大乗仏教には、トマスや東方キリスト教会や景教が伝えていた聖書の教えが、大きく影響しているである。

祈りの目的

 日本に限らず、人々の祈りは、病(無病息災)、貧(商売繁盛、災(家内安全)に要約出来る。つまり病貧災から、自分と自分の家族が守られるようにとの願いである。だが問題はそれで人は本当に幸福になれるのか?と言うことである。答えは「No」である。何故なら、ここには、とても重要な要素が欠けているからである。

 それは、問題が生じる原因となる「」と、人生の最終地点である「」と、永遠の命の入り口となる「裁き」である。いくらこの世の現象だけを追いかけても、その元となる根本的な問題に焦点を当てない限り、真の解決にも幸福にも至らない。仏教の本質も、福音の本質も知らない多くの人たちは、この段階で迷い右往左往している。

 仏教には、「天国」という教理がないため、人間は生と死をくり返し、修行をしながら最終的に「無」になることしか、救われる道はないと説く。つまり、仏教の目的は、人生の現象によって生じる「苦」からの解放である。一方、キリスト者の目的は、人生の苦しみの原因が「罪」であることを悟り、その自分の罪を悔い改め、自分の創造した神に立ち返ることによって、「罪」から解放され、罪のない永遠の神の国に帰ることである。


結論

 日本人の生死観は、インドの輪廻転生、中国の儒教や祖先崇拝、日本のアニミズムなどのミックスであり、宗教レベルまで至っていない非常に稚拙な内容である。人や自然が簡単に神になり、真実よりも和が優先され、体裁が本音を覆い隠す。皆がご利益を求めて宗教に近づくが、少しでも窮屈になれば距離を置く。彼らにとって宗教は、生活のためのものであり、死は忌むもの、穢れているものとして、日常生活から分離されている。このような精神構造が、一家に仏壇と神棚が同居しているという、日本人以外には通用しいデタラメさとなって象徴されているのが、偽らざる日本人の実態である。

 日本人に親しみのある、弁天、毘沙門天、大黒天などの七福神や、寅さんで有名な帝釈天はヒンズー教の神であり、仏陀が拝む対象となってしまった仏像の製造は、ヘレニズム文化の影響である。このように、仏教、ヒンズー教、儒教、神道、そして景教が渾然一体となったのが日本の仏教であり、その実体を知っている人はほとんどおらず、また誰もこのことについて疑問すら持っていない。初詣(神道)も、法事(仏教)も、クリスマス(キリスト教)も、日本人にとってはあくまで生活習慣であり、信仰ではないからだ。それもご先祖のためと言うより、世間体のためである。

 私たちクリスチャンは、聖書信仰を持っているが、人は誰しも、自分以外の何かを信仰している。それが、仏教、イスラム教、哲学、世の中の権威、世間体、流行であれ、人はそれが本当に信仰するに足りるものであるのかどうか、検証すべきである。人はいつか必ず、自分の力や意志では、どうしようも出来ない状況(死)に直面することになるからである。

 多くの日本人は、「多分自分は天国に行ける」か、「死んだら全て消滅する」と考えている。しかし、問題はそう考えている「根拠」はどこにあるのか?どこからその情報を引っ張って来たのか?確かに仏教において「無・涅槃」は目指す目的だが、誰もが行けるところではない。実在の人物ではない阿弥陀仏が導く遥か西方にあるという浄土を、あなたはどうやって信じているのか? しかし、イエス・キリストは十字架の三日後に甦り、そして今も生きておられる歴史上の人物である。

 正しい生死観を持つことこそ、私たちに与えられた「生」を、目的を持って、有意義に生きることが出来るのだ。聖書の中心は「愛」である。世の中にある様々な問題の原因を、あなたは「愛」の欠如によるものだと思うか、「修行」の欠如だと思われるか?その答えを、もうあなたは既にお持ちのはずである。



☆Good News Stationのメインページはこちら!

教会のはじめ ローマ16:1-16

2010年05月09日 | Celebration
聖書と女性に対する洞察

 教会活動は女性達の働きによって支えられている。イエスの伝道旅行も、女性の弟子達によって支えられていた。(ルカ8:1-3 使徒2:44-47)彼女達は十字架のイエスを最後まで見守り、イエスを埋葬し直したいと心から願い、そして復活のイエスと出会った。彼女達は本当にイエスを愛していたのだ。彼女達の理屈を超えた信仰、大地に根の生えた愛は、男性にはとても太刀打ちできないものがある。

 当時、女性には仕事も人権もなく、人前では喋るなと言われていた時代の中で、聖書には、生き生きとした女性活動家の姿を見ることが出来る。ローマ16章でパウロが挨拶した30人近い人達の3分の1が女性なのだ。その中には、ローマの皇室にいた女性、ヘロデ家にいた女性、そして女性の使徒がいたことが分かる。また、この挨拶文の最初に記されているのが、パウロを命懸けで守ったフェベとプリスキラという女性である。

 フェベは、ローマ書を託したほどに、パウロが大きな信頼を置いていた女性。プリスキラは、ローマの皇室で最初にクリスチャンになり、後に殉教したアシリウス・グラブリオというローマ執政官の長女である。クリスチャンとしての父親の生き様を目の当たりにしていた彼女は、ユダヤ人のアクラと結婚し、ローマのユダヤ人退去命令によって夫婦でコリントに渡り、そこでパウロと出会う。

 パウロの伝道魂に撃たれ、またパウロはアクラと同業者(天幕張り)だったこともあり、彼らはパウロを自宅に招き生活を共にした。パウロがコリントを離れ、エペソに渡った時も彼らはパウロに同行した。彼らは、雄弁家アポロを教えたほどの知性と教養、そして信仰と実行力に富んだ夫婦であった。

 アクラとプリスキラに関する記述は、聖書に計6回(ローマ16:3、Ⅰコリント18:19、Ⅱテモテ4:19、使徒18:2-3,18,26)登場し、内4回は、プリスキラとアクラとなっている。つまり、彼女は森本春子師のような存在であったと考えられる。ちなみにヘブル書の執筆者はプリスキラではないかという説がある。

 パウロに師事し、雄弁家アポロを教えるほどの信仰を有し、ユダヤ人の伝統・習慣風習に通じ、緻密な確信を持ってこの書簡を書き上げたのは、プリスキラであったとする可能性は否定出来ない。聖書の一巻を、神が女性の手によって記されたとする斬新な説には、思いがけない感動がある。

 また、パウロはローマを訪れることを強く願い、最後までその訪問の実現に祈りと命を捧げていた。一度も行ったことのないローマに彼がそれほど心を寄せていた理由は、コリントとエペソで生活を共にしたプリスキラからの情報が、パウロに大きな影響を与えたと考えるのが自然であろう。

 彼らは行く先々で自宅を開放し、家庭的で暖かい雰囲気の中で人々に福音を伝えて行った。以下のⅠコリント16章の御言葉は、彼らの家の教会に関する最初の記述である。家の教会こそ、教会の原点であり、彼らはその家の教会の創始者であった。パウロが教会建築設計者なら、彼らは教会建築施行者。プリスキラとアクラは、パウロとは別の役割を神から与えられ、両者の見事なコラボレーションによって、異邦人教会は世界へと広がって行ったのである。

命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。 (ローマ16:4)

アクラとプリスキラが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。(Ⅰコリント16:19)

 さて、プリスキラとアクラはどのような夫婦だったのだろうか?彼らは深い知識と教養、そして信仰の持ち主だったが、彼らはあくまで一般信徒であり、ごく普通の仲の良い夫婦だった。勿論、世の中に問題のない夫婦はあり得ず、彼らにも様々な問題があったはずである。しかし、彼らは神の御心が何処にあるのかという、共通した確信を持っていた。それが、彼らが自分たちの家を神の教会として人々に開放し続けることができた理由である。


御心に対する洞察

 クリスチャンがよく使う「霊的」という言葉は、具体的には何を意味するのだろうか?「霊的」とは、「神の御心が成就する」ということなのである。つまり、霊的とは、神の御心的ということであり、クリスチャンの霊的生活とは、神の御心に添った生活を意味するのである。

 夫婦問題に対する神の御心は、「夫婦関係の改善」以外の何ものでもない。それに至るための方法が、「 夫は妻を愛しなさい。妻は夫を敬いなさい(エペソ5:22,25)」である。女性は愛されることによって生き甲斐を感じ、男性は必要とされ、頼りにされ、誉められることによって生き甲斐を感じるからである。

 例えば、「夫との時間が十分に持てない」ということが妻の不満の理由である場合、夫が部屋に閉じこもって祈ってばかりいたのでは、この問題は決して解決することはない。勿論、問題となった原因に気付き、悔い改め、改善するための力をいただくために祈ることは必要である。

 しかし、「夫婦関係の改善」という神の御心を成すためには、夫婦が互いに実践すべき事がある。何故なら、この場合における神の御心の成就とは、夫婦が互いのコミュニケーションスキルを磨くことを通して成されるからである。

 従って、部屋の中で夫が祈っている行為は霊的で、夫が上司と折衝し、早く帰れるように努力している姿を世俗的と捉えるのは、クリスチャンがよく陥る大きな過ちである。夫が祈っていることと同様、夫が上司と折衝することも、神の御心を成就するための必要な行為であり、こうした夫の努力こそ、「妻を自分の体のように愛しなさい」という神の御言葉の実践であり、御心的、霊的行為なのである。 


確信に対する洞察

 ところが、神の御心が何処にあるのかが明白なのに係わらず、何時まで経っても問題解決に兆しが見えないことがある。それは多くの場合、その問題を自分と神との関係だけに限定し、「御言葉を信じてさえいれば、神が何とかしてくれる」と、御言葉に自分の思いを投影し、御言葉が示す意味を片方しか捉えていないことにある。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。(マタイ10:37)
自分の家族の世話をしない者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。(Ⅰテモテ5:8)

不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(ローマ4:5)
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。(ヤコブ2:17)

 このように、聖書には、一見意味が相反するような御言葉がある。それは、神が一つの真理を私たちに教えるために、様々な角度から御言葉を示されているのである。しかし、御言葉が示す意味を片方しか捉えていないと、もう片方の御言葉を聞いた時、今までの確信が簡単に揺らいでしまう。つまり、その確信は、神に対する確信ではなく、自分に対する確信なのである。

 クリスチャンだから、リーダーだから、母親だから、と言う義務感や建前が先行し、本当に自分が向かい合うべき現実から目を反し、霊的化行為に逃避している場合、表面上は霊的に見えたとしても、実際の生活態度は非常に未熟であるという現実になる。

 そのような態度でいると、今の状況に対して、「神は何を望んでおられるのか?」という、根本的な指針を見失ってしまう。しかし、「愛」が動機なのであれば、それを実行するために、必然的に生活全体から、聖書全体から物事を見て、そこから答えを導き出そうとするはずであり、そこに「義務感」が入り込む余地はないのである。(執筆担当 睦美)

各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。(Ⅱコリント9:7)


〔写真:パウロとプリスキラ夫婦が出会ったコリントの街の遺跡〕

メッセージ(音声)はこちらをクリック!↓
http://goodnewsstation.com/celebration.html



☆Good News Stationのメインページはこちら!

裸足の伝道者 マタイ10:7-15

2010年05月02日 | Celebration



サンダー・シング(Sundar Singh)は、タゴール、ガンジーらと共にインド三大聖人の一人であり、今世紀中、『最もキリストに似た人物』と言われた伝道者である。1889年、北インド(ヒマラヤ)地方のランプールという小さな村で、シーク教徒(ヒンドゥー教とイスラム教の融合を目指した宗教)の裕福な地主の息子として生まれる。敬虔なシーク教徒の母親から感化を受け、彼はキリスト教を邪教と断じ、聖書を焼いたりした。

 しかし彼は、ヒンドゥー教のグルーや、シーク教のサドゥからの教えを受けても心の平安は得られず、いつも満たされない切実な精神的な渇きがあった。ある日の夜中の3時に冷水を浴び、「神よ、あなたが本当にいらっしゃるなら、私に救いへの道を示してください。もし答えをいただけないのなら、私は命を絶ちます!」と激しく祈った。すると4時半頃、祈っていた彼の部屋中が栄光に満たされ、「何故あなたは私を迫害するのか」という声が聞こえた。それは彼が待っていたヒンドゥー教の神でも、イスラム教の神でも仏陀でもなく、今迄反逆し続けていたイエス・キリストだった。「私の主よ!」キリストを拝した彼の心は言いようのない喜びと平安に満たされ、一夜にして彼の人生は一変した。

 そして、聖書を貪るように読み、キリストに仕えることを決意した彼は、托鉢僧(サドゥ)の衣を着て、聖書1冊、毛布1枚以外は何も持たず、神にのみ頼り、北インド、ネパール、ブータン、ビルマ、チベット等の未開の地に死を覚悟で伝道旅行をした。彼は何度も山賊、おいはぎ、毒蛇、猛獣、厳しい気候などの苦難に遭い、特に入国して伝道すれば死刑になるという藩王国や、チベットにおける凄まじい迫害に何度も遭ったが、その度に彼は救い出され、如何なる時も平和な喜びに満たされていた。

 やがて、そんな彼の噂を聞いた世界各国のクリスチャン団体から招きが殺到するようになり、彼は2度ヨーロッパを伝道旅行し、1919年に日本にも訪問した。「彼はキリストの光を世界にあらわした。彼と共にある時は、人は自分自身を忘れ、彼をも忘れ、ただキリストだけを思った」これが彼と出会ったことがある人々の共通した印象だった。しかし、1929年、サンダー・シングはチベット伝道に発ったまま消息を断った。享年40歳だった。



わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。(Ⅰコリント2:13)

 肉体の目で見えるものは地上のものだけであり、神や霊的な存在は見ることが出来ない。しかし、霊の目が開かれれば、霊である神をはっきりと見ることができる。その霊の目には、人間の知識とか経験とは全く関係がない。サンダー・シングは、福音を把握するには人間の頭による思想や論理では限界があるとし、霊的直観(インスピレーション)を重んじた。

 色彩に関する様々な知識を持っている盲人と、実際に目で色彩を見ている人と、どちらが色彩について知っていると言えるだろうか?色彩に関する知識をどれだけ知っていようと、実際に色彩を目で見ない限り、真の意味で色彩について知っているとは言えない。それと同じように、聖書に精通し、神に関するあらゆる知識を持っている神学者と、実際に神と出会った人と、どちらが神について知っていると言えるだろうか?知識や経験によって立てられた論理や教理は様々な疑惑、批判、議論が伴う。しかし、神と出会った人たちとの間には、そのようなものが介在する余地は一切ない。

 もし、真の幸福が人間の思考によるものだとしたら、世の中の哲学者や宗教家たちには幸福がありあまっているはずである。しかし、キリスト者は別として、この世の学者たちは、彼ら独自のルールを貫くことによって得られるつかの間の充実感を除けば、幸福とは全く縁がない。いつしか宗教は単なる知識・学問となり、「神について」知っていても、「神と出会ったことがない人たち」が、議論や批判に明け暮れ、様々な派閥や闘争を生みだしていった。真の幸福に到達するために必要なのは知識や学問ではなく、一人一人が神と交わり、神と直接体験することから始まるのだ。

花について知るためには、長い時間を必要とします。
しかし、花の美しさを知るには一瞬もかかりません。
それこそが、花が存在している意味です。神も同じことなのです。



真理 
私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の元に行く事が出来ない。(ヨハネ14:6)

 サンダー・シングは生涯どの教派にも属さず、誰の弟子にもならず、また自分も弟子をとらず、「私の教師はキリストのみ。私は一人の単純なキリスト教徒に過ぎません」と言っていた。彼は一時神学校に通ったものの、得るものはあまりなかったと退学。彼は、「キリストの足下で祈りをささげる、これこそ世界一偉大な神学校です」と語った。

 私たちが何が正しく、何が間違っているかというような議論や批判は真理ではない。私たちがたとえ論理的に説明できなくても、語らずに黙っていても、キリストの愛の人格に変えられれば、それこそが真理の印である。教会が多くの派閥に分かれているのは、あまりに頭で考え過ぎているからである。一人一人がキリストを愛し、祈りを通して交わり、キリストに似た者と変えられて行くことが中心となれば、教会にはおのずと共通点が見い出せるはず。逆に言えば、それ以外のことは実に些末なことなのだ。

真理とは、あなたが何を知っているかではなく、あなたがどのような人間であるかなのです。



罪はもはや、あなたがたを支配することはないからです。(ローマ6:14)

 闇とは何か?闇の定義とは何か? 光は、光子というものが存在しているように実在しているが、「闇は光の欠如」としか定義できない。では、罪の定義とは何だろうか?罪は神が創造されたものではなく、神以外に創造する存在はない。つまり、罪は創造による実体ある存在ではなく、創造されたものを破壊するという、欺瞞的状態の呼び名にすぎない。つまり、愛が欠如した状態。それが罪なのだ。罪とは、神の意志を捨て、自分勝手に生きること。自分の欲望を満たすために真理をも捨て去り、それが幸福だと考える。しかし、それは無秩序以外の何ものでもない。実は、霊的進歩とは関係がないこの世の進歩は、偽物であり、サタンの欺きなのだ。

 何故なら世の中における進歩は、他人に損失を与えずには遂げられない。社会の競走は、他の人々の敗北があってその人の勝利となる。世の中のビジネスは、他の人々の損失によってその人の利益となる。しかし、人が霊的に成長することは、他の人々の成長をも助けることにつながる。人のために働くことで、自分が知らない内に助けられている。これが、天国へと繋がる教会における真の進歩・真の成長なのである。


祈り
聖霊の導きの下に祈りなさい。(ユダ20)

 伝道旅行中、夜中の3時ごろから祈っているサンダー・シングに、「あなたは何故、祈りにそんなに時間をかけているのか?」と聞いた人がいた。すると彼はこう答えた。「私は集中するのに15分から20分かかるのです。それから祈り始めるのですが、言葉は一切使いません。祈っている内に私は愛するイエスがとても身近に感じ、両手をイエスの両手に置きます。朝がきて祈りをやめなければならない時期になると、私はイエスから離れるのがとても辛くなります」

 彼は自分の元に相談に来た牧師たちに対して、いつもこう答えていた。「もっと祈りなさい」。霊的な事柄(聖書)を解決するために必要なのは、知識や経験ではなく、聖霊との交わりです。今のキリスト教界に決定的に不足しているのは「祈り」です。人は祈りに費やすべき時間を、新聞を読むのに使いすぎています。彼のメッセージは、「もっと祈りなさい」ただこの一言に尽きる。祈りとは、自分の知恵を放棄し、神に聞こうとすること。信仰を頭から霊に移行させることが大切なのである。

 祈りとは、キリスト者の呼吸のようなもので、それは霊的生命にとっての空気、水や光のように欠かせないもの。それを絶えず供給し続ければ、霊は植物のようにすくすくと成長し、幸福に満たされるばかりか、キリストに似た人格にまで変えられて行く。しかし、それがなければ、霊の生命はたちまち衰え、様々な誘惑や悪い習慣の罪の虫に蝕ばまれ、遂には死んでしまうのだ。

祈りによって神の計画を変えることは出来ません。
祈りによって、その人自身が変えられるのです。


毎朝、神の御言葉を静かに瞑想し、祈ることに時間を割きなさい。
そうすれば、あなたの人生は驚くほど変わるでしょう。



メッセージ(音声)はこちらをクリック!↓
http://goodnewsstation.com/celebration.html



☆Good News Stationのメインページはこちら!