◆日本人が理想とするリーダー 坂本龍馬
ある世論調査で「あなたにとって理想的リーダーとは誰か?」というアンケートを取った結果、何と20代から70代の全世代でNo-1にあげられた人物がいる。その名は坂本龍馬。日本政府は彼を貨幣デザイン(千円銀貨)に抜擢した。
今、日本は「龍馬ブーム」である。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」然り、多くの書店には、龍馬コーナーが設けられ、ここ数年で龍馬に関する本が400冊以上も出版されている。確かに日本人で、坂本龍馬の名を知らない人はいない。だが、彼が31年間の生涯で、いったい何をした人物なのかと聞かれたら、ほとんどの人は明確に答えることが出来ない。
しかし、これほどまで多くの日本人を魅了させる坂本龍馬のリーダーシップの秘密は、いったい何処にあるのか?それは、大きく以下の3つの点にあると考えられる。
彼が土佐藩を脱藩し、薩長連合の立役者だったということは、よく知られているが、彼はどの権威や派閥にも属さない、権力欲が全くない人物であった。大政奉還の時、西郷から新政府の人事構想を依頼された時、彼が記した人事に彼本人の名前はなかった。つまり、龍馬は、権威や主義主張、私利私欲には興味がなかったのである。
薩長連合の仲介人となった龍馬の交渉術は、主義主張やイデオロギーなどを一切持ち出さない、実に現実的なものであった。「薩摩が欲しいのは米、長州が欲しいのは武器、しかし、互いに良い国をつくろうという志は同じ。では、互いに欠けているものを補い合い、協力し合えば良いでないか」彼は決して理想主義者ではなく、絶えず現実を踏まえて行動したリアリストであった。
また、彼は千葉道場の剣の達人であり、何度も殺されそうな目に遭っているのにも係わらず、彼は生涯、一人も殺したことがなかった。命より名誉が優先されていたこの時代にあって、龍馬は人の命の尊さを知っていたのである。
坂本龍馬が、明治天皇の家庭教師で、後に大きな影響を与えた、フルベッキ宣教師と長崎で接触していたことが分かっている。フルベッキは、日本の救いのために自分の一生を捧げた人物である。残念ながら、龍馬がクリスチャンであったという記録はない。しかし、不思議なことに龍馬の周りから、多くの優れたクリスチャンが輩出されているのである。
◆坂本家はクリスチャンファミリー 坂本直寛と坂本直
龍馬の実姉(千鶴)の息子(甥っ子)で、後に坂本家の養子となり、正式に家督を相続した坂本直寛。彼は、薩長の専制政治に走っていた当時の明治政府に対し、土佐・高知の板垣退助が自由民権運動を起こした。直寛はこの自由民権運動『立志社』の若手運動家として活躍していた人物であった。
彼は、キリストを救い主として、信じるには信じていたが、どちらかと言うと、理屈で反論できないから仕方なく信じているというレベルだった。また、直寛と同居していた義理の母が、大の耶蘇嫌い。ところが、その頑固な母親が、こおtもあろうに、坂本家に出入りしている魚屋から伝道されたという、思いもかけない珍事が起こったのである。
ある日、御用聞きにやって来た魚屋が、帰りに十戒について解説した小冊子を置いて行ったのである。彼女はそんなものを置いて行かれても困ると思ったのだが、何故か受け取ってしまい、何故か読み始めてしまい、何故か読むのがやめられなくなってしまい、何故か最後まで読み切ってしまったのだ。その後、彼女の心の中には何とも言えない感情が沸き起って来た。それは「平安」ではなく「不安」であった。
彼女は、清く聖なる神の基準を示された時、これが真実であるならば、自分は紛れもなく地獄行きであり、自分は神の前では罪人であるということがはっきりと分かったのだ。それでその日の夜、魚屋さんにもう一度来てもらって聖書を開き、神は人間を恐れさせるために罪を指摘しているのではなく、人間が自分の罪に気付くために、罪を指摘しておられるのだということを聞き、その罪から救うためにキリストが十字架に架かり、三日目に復活したことを知った。
次の日の朝、母親は直寛にこう言った。「私は夜中に目が覚めてから、朝まで一睡も出来なかった。神のことを思いながら、気が付くとこの方を信じずにおれなくなった。そこであなたにお願いがある。私が子どもを学校へ送りに行っている間に、家の中にある仏壇やお札を全て処分しておいて下さい」と。
その後の彼女の喜びに充ち満ちた変わり様は大変なもので、この母親の劇的変化を目の当たりにした直寛は、自らも悔い改めて牧師となり、新しい人生を生きることになる。晩年に共に暮らした兄の坂本直をはじめ、坂本家全員がキリスト者となった。つまり、坂本龍馬の家系はクリスチャンホームなのである。
◆日本人初の正教会司祭 沢辺琢磨
龍馬の従兄弟にあたる山本琢磨という青年が、酔った勢いで起こした不祥事で切腹を言い渡されたという事件があった。新渡戸稲造は著書『武士道』の中で、武士たちの「名誉心の病的な行き過ぎ」を問題にしているが、一般人なら死刑とまではいかないが、藩や家の名に汚名を塗ったということで、彼には切腹が命じられたのである。その時龍馬は、琢磨の命を何とか救おうと力を尽くし、彼を北海道へ逃がし助けたのである。(2月28日放映 NHK大河ドラマ・龍馬伝・第9話)
この北海道へ逃亡したことが、琢磨の一生を変えることになる。当時の北海道では、ロシア正教会が伝道活動をしていた。血気盛んな琢磨は彼らの活動を、日本侵略に向けた情報収集と断じ、大刀を持って教会を訪問し、「来日した意図を、正面切って司祭に問い詰めた。対する司祭は琢磨の問いに対して理路整然と答え、あなたは聖書の教えを知っているのか?と質問した。
知らぬと答えた琢磨に「では、私たちの教えが如何なるものかを知ってから、判断しても遅くはなかろう」と諭し、確かにそれも一理あると考えた琢磨は以後、司祭の元に毎日通い、学んでいく内に聖書の教えに心服し、遂に1868年、彼は日本正教会の初穂となり、パウロという洗礼名が与えられた。
当時、キリスト教禁教下で回収した琢磨と彼の家族に対する迫害は非常に厳しく、彼らの生活は困窮を極めた。遂に精神的に異常をきたしてしまった妻が自宅に放火をするという事件も起きた。琢磨は妻子を残して函館を一時脱出し、東北地方を布教しながら南下し、途中で何度も投獄されながらも、その名の通り、パウロさながらの伝道活動を行なう。仙台で投獄中に禁教令が解かれ、自由の身になった彼は、以前にも増して伝道に力を入れた。そして、1875年、日本人で初の正教会の司祭(沢辺琢磨)に任命される。また、琢磨が新島襄が米国へ密航するときの手助けをしたというエピソードもある。
◆龍馬を斬った男 今井信郎
龍馬は1867年、幕府の京都見回り組みの隊員、今井信郎(のぶお)に暗殺される。闇に紛れながら、生き延びていた彼は、函館・五稜郭での戦いで新政府軍に捕まって取り調べを受け、龍馬の盟友だった西郷隆盛の前に引き出される。ところが、処刑確実だったこの青年の命を何と西郷が助命嘆願するのである。奇跡的に死を免れた今井は、静岡県の田舎に流される。西南戦争が起きた時、彼は九州へ向ったが、途中で西郷軍壊滅の報を知り引き返した。その時彼は自分の命を救ってくれた西郷を助けに行くのが目的であった。
今井が生活していた静岡県の土地は、落ちぶれた下級武士たちが茶摘みをして生きながらえていた田舎村であった。そして、この土地に宣教師がやって来た。幕府側にいた人間にとって、外国人は侵略者以外の何者でもない。そこで、幕臣崩れ組は宣教師暗殺を計画し、刺客は龍馬を切った今井が適任者であることで満場一致した。
今井は、連中を切る前に、奴らがいったいどんなことを伝えているのか、一応知っておこうと聖書を読んでみた。すると突然今井の目の鱗が落ちた・・・のではなく、彼は全く聖書を理解することが出来なかった。彼にとって聖書は、単なる子供騙し、荒唐無稽な童話の世界だった。今井は、こんな馬鹿げたことを信じている連中のために、わざわざ自分の刀を汚すことはない。嫌がらせをして追い出せば十分だと考えた。
ところがある日、お茶の運送のために、清水港から横浜港に渡った今井の目に、たまたま横浜海岸教会の姿が映った。これが耶蘇共の集会か、迫害するネタを仕入れるために、こいつらの馬鹿げた話しをちょっと聞いて帰るかと思い、教会に入ったことが、彼の人生を180度変えた。今までバカバカしかったはずの話しが、即座に感激へと変わったのである。これこそ真理、正道であると確信した彼は、静岡に帰るないなや、今まで迫害していた宣教師の元を尋ね、自分の思いを告げ、熱心に聖書を学び、洗礼を受け、敬虔な信徒となった。
クリスチャンとなった彼からは、今まで全身にみなぎっていた殺気が柔和へと変えられ、上から下に見下していた態度が、人に仕える態度へと変えられた。その後、彼は村会議長となって、人々に福音を伝える者となった。その後、坂本直・直寛兄弟は、龍馬の法要に今井信郎を招いた。彼ら間には敵意など微塵もない、キリストにある悔い改めの交わりであったことは言うまでもない。
クリスチャンのリーダーシップ
◇龍馬は、私利私欲に動じない高いビジョンを持っていた。
◇龍馬は、ドリーマーではなく、地に足がついたリアリストだった。
◇龍馬は、一度も人を殺したことがなかった。命の尊さを知っていた。
あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。(ピリピ4:5)
坂本龍馬が、多くの人々から尊敬され、憧れの対象である理由の根はここにある。この神(人)の道に反していないと言う点において、龍馬は聖書的だった。ピリピ書は、パウロが第三次伝道旅行の際、おそらくエペソで投獄されていた時にピリピ教会宛に書かれた感謝状。獄中で書かれた別名『喜びの手紙』である。今日はこのピリピ書から、クリスチャンのリーダーシップについて確認する。
大切なことは、本人の努力や経験ではなく、どれだけ自我を捨て、神に信頼するかという信頼(信仰)力。
あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(ピリピ1:6)
私たちは失敗するが、聖霊は失敗されることはない。日本にリバイバルの業を成就されるのは聖霊である。大切なことは、私たちが聖霊よりも前に出ないことである。
一度ぐらい人から馬鹿にされる位の内容でなければ、真の革新とは言えない。
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)
聖書は沢辺や今井にとって、当初は実にバカバカしいものとしか映らなかった。しかし、その聖書が彼らの人生を一変させたのである。
自分の最善ではなく、神の最善を求め、救いの一兵士として用いていただく。
あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(ピリピ2:13)
人は自分が欲しいものを欲しいだけ、欲しい時に欲しいと思っているから、祈りが聞かれていないと考えるのである。しかし、それでは子供の祈りから何も成長していないことになる。私たちは他の人の最善のため、教会の最善のため、全人類の最善のために祈るべきである。それが最終的に自分にとっての真の最善となるからである。
迫害を受けていた多くの宣教師たちの祈りがあった。
何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。(ピリピ2:14-16)
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ある世論調査で「あなたにとって理想的リーダーとは誰か?」というアンケートを取った結果、何と20代から70代の全世代でNo-1にあげられた人物がいる。その名は坂本龍馬。日本政府は彼を貨幣デザイン(千円銀貨)に抜擢した。
今、日本は「龍馬ブーム」である。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」然り、多くの書店には、龍馬コーナーが設けられ、ここ数年で龍馬に関する本が400冊以上も出版されている。確かに日本人で、坂本龍馬の名を知らない人はいない。だが、彼が31年間の生涯で、いったい何をした人物なのかと聞かれたら、ほとんどの人は明確に答えることが出来ない。
しかし、これほどまで多くの日本人を魅了させる坂本龍馬のリーダーシップの秘密は、いったい何処にあるのか?それは、大きく以下の3つの点にあると考えられる。
彼が土佐藩を脱藩し、薩長連合の立役者だったということは、よく知られているが、彼はどの権威や派閥にも属さない、権力欲が全くない人物であった。大政奉還の時、西郷から新政府の人事構想を依頼された時、彼が記した人事に彼本人の名前はなかった。つまり、龍馬は、権威や主義主張、私利私欲には興味がなかったのである。
薩長連合の仲介人となった龍馬の交渉術は、主義主張やイデオロギーなどを一切持ち出さない、実に現実的なものであった。「薩摩が欲しいのは米、長州が欲しいのは武器、しかし、互いに良い国をつくろうという志は同じ。では、互いに欠けているものを補い合い、協力し合えば良いでないか」彼は決して理想主義者ではなく、絶えず現実を踏まえて行動したリアリストであった。
また、彼は千葉道場の剣の達人であり、何度も殺されそうな目に遭っているのにも係わらず、彼は生涯、一人も殺したことがなかった。命より名誉が優先されていたこの時代にあって、龍馬は人の命の尊さを知っていたのである。
坂本龍馬が、明治天皇の家庭教師で、後に大きな影響を与えた、フルベッキ宣教師と長崎で接触していたことが分かっている。フルベッキは、日本の救いのために自分の一生を捧げた人物である。残念ながら、龍馬がクリスチャンであったという記録はない。しかし、不思議なことに龍馬の周りから、多くの優れたクリスチャンが輩出されているのである。
◆坂本家はクリスチャンファミリー 坂本直寛と坂本直
龍馬の実姉(千鶴)の息子(甥っ子)で、後に坂本家の養子となり、正式に家督を相続した坂本直寛。彼は、薩長の専制政治に走っていた当時の明治政府に対し、土佐・高知の板垣退助が自由民権運動を起こした。直寛はこの自由民権運動『立志社』の若手運動家として活躍していた人物であった。
彼は、キリストを救い主として、信じるには信じていたが、どちらかと言うと、理屈で反論できないから仕方なく信じているというレベルだった。また、直寛と同居していた義理の母が、大の耶蘇嫌い。ところが、その頑固な母親が、こおtもあろうに、坂本家に出入りしている魚屋から伝道されたという、思いもかけない珍事が起こったのである。
ある日、御用聞きにやって来た魚屋が、帰りに十戒について解説した小冊子を置いて行ったのである。彼女はそんなものを置いて行かれても困ると思ったのだが、何故か受け取ってしまい、何故か読み始めてしまい、何故か読むのがやめられなくなってしまい、何故か最後まで読み切ってしまったのだ。その後、彼女の心の中には何とも言えない感情が沸き起って来た。それは「平安」ではなく「不安」であった。
彼女は、清く聖なる神の基準を示された時、これが真実であるならば、自分は紛れもなく地獄行きであり、自分は神の前では罪人であるということがはっきりと分かったのだ。それでその日の夜、魚屋さんにもう一度来てもらって聖書を開き、神は人間を恐れさせるために罪を指摘しているのではなく、人間が自分の罪に気付くために、罪を指摘しておられるのだということを聞き、その罪から救うためにキリストが十字架に架かり、三日目に復活したことを知った。
次の日の朝、母親は直寛にこう言った。「私は夜中に目が覚めてから、朝まで一睡も出来なかった。神のことを思いながら、気が付くとこの方を信じずにおれなくなった。そこであなたにお願いがある。私が子どもを学校へ送りに行っている間に、家の中にある仏壇やお札を全て処分しておいて下さい」と。
その後の彼女の喜びに充ち満ちた変わり様は大変なもので、この母親の劇的変化を目の当たりにした直寛は、自らも悔い改めて牧師となり、新しい人生を生きることになる。晩年に共に暮らした兄の坂本直をはじめ、坂本家全員がキリスト者となった。つまり、坂本龍馬の家系はクリスチャンホームなのである。
◆日本人初の正教会司祭 沢辺琢磨
龍馬の従兄弟にあたる山本琢磨という青年が、酔った勢いで起こした不祥事で切腹を言い渡されたという事件があった。新渡戸稲造は著書『武士道』の中で、武士たちの「名誉心の病的な行き過ぎ」を問題にしているが、一般人なら死刑とまではいかないが、藩や家の名に汚名を塗ったということで、彼には切腹が命じられたのである。その時龍馬は、琢磨の命を何とか救おうと力を尽くし、彼を北海道へ逃がし助けたのである。(2月28日放映 NHK大河ドラマ・龍馬伝・第9話)
この北海道へ逃亡したことが、琢磨の一生を変えることになる。当時の北海道では、ロシア正教会が伝道活動をしていた。血気盛んな琢磨は彼らの活動を、日本侵略に向けた情報収集と断じ、大刀を持って教会を訪問し、「来日した意図を、正面切って司祭に問い詰めた。対する司祭は琢磨の問いに対して理路整然と答え、あなたは聖書の教えを知っているのか?と質問した。
知らぬと答えた琢磨に「では、私たちの教えが如何なるものかを知ってから、判断しても遅くはなかろう」と諭し、確かにそれも一理あると考えた琢磨は以後、司祭の元に毎日通い、学んでいく内に聖書の教えに心服し、遂に1868年、彼は日本正教会の初穂となり、パウロという洗礼名が与えられた。
当時、キリスト教禁教下で回収した琢磨と彼の家族に対する迫害は非常に厳しく、彼らの生活は困窮を極めた。遂に精神的に異常をきたしてしまった妻が自宅に放火をするという事件も起きた。琢磨は妻子を残して函館を一時脱出し、東北地方を布教しながら南下し、途中で何度も投獄されながらも、その名の通り、パウロさながらの伝道活動を行なう。仙台で投獄中に禁教令が解かれ、自由の身になった彼は、以前にも増して伝道に力を入れた。そして、1875年、日本人で初の正教会の司祭(沢辺琢磨)に任命される。また、琢磨が新島襄が米国へ密航するときの手助けをしたというエピソードもある。
◆龍馬を斬った男 今井信郎
龍馬は1867年、幕府の京都見回り組みの隊員、今井信郎(のぶお)に暗殺される。闇に紛れながら、生き延びていた彼は、函館・五稜郭での戦いで新政府軍に捕まって取り調べを受け、龍馬の盟友だった西郷隆盛の前に引き出される。ところが、処刑確実だったこの青年の命を何と西郷が助命嘆願するのである。奇跡的に死を免れた今井は、静岡県の田舎に流される。西南戦争が起きた時、彼は九州へ向ったが、途中で西郷軍壊滅の報を知り引き返した。その時彼は自分の命を救ってくれた西郷を助けに行くのが目的であった。
今井が生活していた静岡県の土地は、落ちぶれた下級武士たちが茶摘みをして生きながらえていた田舎村であった。そして、この土地に宣教師がやって来た。幕府側にいた人間にとって、外国人は侵略者以外の何者でもない。そこで、幕臣崩れ組は宣教師暗殺を計画し、刺客は龍馬を切った今井が適任者であることで満場一致した。
今井は、連中を切る前に、奴らがいったいどんなことを伝えているのか、一応知っておこうと聖書を読んでみた。すると突然今井の目の鱗が落ちた・・・のではなく、彼は全く聖書を理解することが出来なかった。彼にとって聖書は、単なる子供騙し、荒唐無稽な童話の世界だった。今井は、こんな馬鹿げたことを信じている連中のために、わざわざ自分の刀を汚すことはない。嫌がらせをして追い出せば十分だと考えた。
ところがある日、お茶の運送のために、清水港から横浜港に渡った今井の目に、たまたま横浜海岸教会の姿が映った。これが耶蘇共の集会か、迫害するネタを仕入れるために、こいつらの馬鹿げた話しをちょっと聞いて帰るかと思い、教会に入ったことが、彼の人生を180度変えた。今までバカバカしかったはずの話しが、即座に感激へと変わったのである。これこそ真理、正道であると確信した彼は、静岡に帰るないなや、今まで迫害していた宣教師の元を尋ね、自分の思いを告げ、熱心に聖書を学び、洗礼を受け、敬虔な信徒となった。
クリスチャンとなった彼からは、今まで全身にみなぎっていた殺気が柔和へと変えられ、上から下に見下していた態度が、人に仕える態度へと変えられた。その後、彼は村会議長となって、人々に福音を伝える者となった。その後、坂本直・直寛兄弟は、龍馬の法要に今井信郎を招いた。彼ら間には敵意など微塵もない、キリストにある悔い改めの交わりであったことは言うまでもない。
クリスチャンのリーダーシップ
◇龍馬は、私利私欲に動じない高いビジョンを持っていた。
◇龍馬は、ドリーマーではなく、地に足がついたリアリストだった。
◇龍馬は、一度も人を殺したことがなかった。命の尊さを知っていた。
あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。(ピリピ4:5)
坂本龍馬が、多くの人々から尊敬され、憧れの対象である理由の根はここにある。この神(人)の道に反していないと言う点において、龍馬は聖書的だった。ピリピ書は、パウロが第三次伝道旅行の際、おそらくエペソで投獄されていた時にピリピ教会宛に書かれた感謝状。獄中で書かれた別名『喜びの手紙』である。今日はこのピリピ書から、クリスチャンのリーダーシップについて確認する。
大切なことは、本人の努力や経験ではなく、どれだけ自我を捨て、神に信頼するかという信頼(信仰)力。
あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(ピリピ1:6)
私たちは失敗するが、聖霊は失敗されることはない。日本にリバイバルの業を成就されるのは聖霊である。大切なことは、私たちが聖霊よりも前に出ないことである。
一度ぐらい人から馬鹿にされる位の内容でなければ、真の革新とは言えない。
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)
聖書は沢辺や今井にとって、当初は実にバカバカしいものとしか映らなかった。しかし、その聖書が彼らの人生を一変させたのである。
自分の最善ではなく、神の最善を求め、救いの一兵士として用いていただく。
あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(ピリピ2:13)
人は自分が欲しいものを欲しいだけ、欲しい時に欲しいと思っているから、祈りが聞かれていないと考えるのである。しかし、それでは子供の祈りから何も成長していないことになる。私たちは他の人の最善のため、教会の最善のため、全人類の最善のために祈るべきである。それが最終的に自分にとっての真の最善となるからである。
迫害を受けていた多くの宣教師たちの祈りがあった。
何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。(ピリピ2:14-16)
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