今、日本で公開されている映画『ザ・ブック・オブ・エリ』主演はハリウッド俳優としては珍しい敬虔なクリスチャンのデンゼル・ワシントン。この映画は、世の終わりが来た後に生き残ってしまった人たちの間に、たった一冊だけ残された聖書をめぐってストーリーが展開される。題材としては非常に面白いが、地上が終わってしまった後で、いくら「聖書とは何か!」と騒いでも仕方がない。私たちはこの世が終わる前に、聖書とは何かということを知らなくてはならないのだ。
終末に関する預言は黙示録だけではなく、聖書全体から預言がされており、福音書にもしっかりとが記されている。たとえばマタイの24章。オリーブ山に座っておられるイエス様のところに弟子たちが来て、「世の終わりが何時なのですか? その印(しるし)は何ですか?」と質問した。するとイエス様はこう答えられた。
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第一期 (24:4-14) 迫害下のリバイバル(生みの苦しみの初め)
1) 偽預言者による惑わし:4-5(マコ13:6、ルカ21:8)
2) 戦争の騒ぎと噂:6(マコ13:7、ルカ21:9)
3) 民族紛争と飢饉と地震:7(マコ13:8)
4) 迫害による背信と混乱:9-10
5) 天からのすさまじい前兆:ルカ21:10-11
6) 不法が蔓延し愛が冷える:11
7) 福音が全世界に宣べ伝えられる:14
第二期 (4:15-28) 7年の大艱難時代
不幸な身重の女と乳飲み子を持つ女:19-20
(迫害に耐えられない結実していない律法的・霊的幼子の教会)
神は選ばれた者(クリスチャン)のために期間を縮めてくださる:22
悪魔は選ばれた者(クリスチャン)を出来れば惑わそうとする:24
第三期 (4:29-31) 主の再臨
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イスラエル地方の気候は、乾季と雨季の二つに分かれている。4月と10月の年に2回、滝のようなどしゃ降りの雨季があり、その間の5月中旬から10月中旬にかけての約半年間は、ほとんど雨が降らない乾期である。種まきの時に、土地を柔らかくし、発芽させるために降る雨を『前(春)の雨』と言い、豊かに実を結ばせるために降る収穫の雨を、『後(秋)の雨』と言う。つまり、ペンテコステにおける聖霊降誕の『前の雨』から、暫く続いた乾期の後、主が最後の収穫の時に降らせてくださる最後の恵み雨が『後の雨』である。
この後の雨こそ、最終的な世界規模のリバイバルである。この時期に、それまで限られた人物にしか与えられなかった霊の賜物が、求めるクリスチャン全てに与えられるようになる。特に終わりの時に用いられる賜物が『預言』である。リバイバルのために祈る教会や信徒は多い。しかし、迫害、戦争、地震、飢饉等の災害、また、預言や霊の見分け等に対する祈りの備えと、預言が成されている教会は実に少ないのである。
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神のご計画に目を向けると、アダムからノアまで約千年、ノアからアブラハムまで約千年、アブラハムからダビデまで約千年、ダビデからイエスまで約千年、そして教会が誕生してからもう直ぐ2千年が終わろうとしている。多くのクリスチャンが終末時代の後に、神の御国が到来すると考えているが、実はそうではない。黙示録をよく読むと、終わりの時、つまり主の再臨の後、神は『千年王国』という暫定的な神と人間の世界を置かれているのである(黙示録20:1-6)。『千年王国』とは何なのか?何故神はこのような世界を創られたのだろうか?
神は地球を6日間で創造され、7日目に安息された。『安息(ラ・アソート)』と言う言葉には、「成長するため、再生するため」と言う意味があり、これは『再創造(Re-Creation)』つまり、新しく創造するための期間(休み)なのである。神はサタンに縛られた6千年間の時を閉じられて、新しい御国建設のために、千年間の再創造のための休息を取られるのである(Ⅱペテロ2:8)。こうして、神のタイムテーブを見てみると、“主の時が近い”ということが分かる。
「私の霊をすべての人に注ぐ!」と主は言われる。今、全て求めているクリスチャンに、主の霊が注がれている。だからこそ、今、土砂降りの聖霊の雨の時に霊の賜物を求めよ!私たちは、収穫の後の雨の時代。つまり、“最終的な世界リバイバルの時”に生かされているのである。
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黙示録は、聖書の約束と預言の成就であり、全66巻の総括-完結編(旧約から348回引用)である。黙示録がなければ、聖書は結論のない書物になってしまう。黙示録を読まずして、聖書を読んでいることにはならない。また、聖書の総集編である黙示録は、聖書全体とリンクしており、黙示録だけを読んで、理解することは難しいは。黙示録を正しく理解するためには、聖書全体をバランス良く読み、総合的に理解することが必要とされる。
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聖書は自分の先入観や道徳観念を入れないで、先ずそのまま読むことが大切である。聖書が、地上の3分の1が焼けるというのなら、文字通りそうなり、海の3分の1が血に変わる(8:8)と言うのなら、文字通りにそうなるのである。
例えば、黙示録には、人間の3分の1を殺す2億の軍隊が登場するが(9:15-16)、本書が記された2千年前の全世界人口は1億人足らず、兵隊同士の剣と弓の戦争で、2億の軍隊が人間の3分の1が殺すことなど到底理解不可能であり、人々はこれは、何かの喩えであると考えていた。
しかし、第二次世界大戦における原爆投下以来、黙示録に対する理解が大きく変わった。現在の中国の総人口は約14億人、多くの国民が飢えや災害で苦しんでいる中、中国政府は、年間一千億ドルという莫大な軍事費を投入している。今や、黙示録に記されている数字は、決して喩ではなく、現実のものとなっているのである。
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黙示録には、様々な解釈の方法がある。代表的なものとしては、これは2千年前に起こった出来事だと考える「過去派」、教会史全般の中で起こることだと考える「歴史派」、将来的に起こることだと考える「未来派」、そして、黙示録にある記述は歴史的事件とは関係なく、神の世界が象徴的に記されていると考える「霊解派」がある。しかし、黙示録の意味を、そのいずれかに限定させてしまうことは、明らかな間違いである。
1章19節に、「見たこと(1章)を、今あること(2-3章)を、今後起ころうとしていること(4-19章)を書き留めよ」 とあるように、黙示録は、過去に起こったこと、現在起きていること、これから起こることが、立体的(螺旋状)に記されている。例えば、7つの教会は、黙示録が執筆された当時に、西アジア地方(現在のトルコ)に現存していた教会であり、また、2千年間の各時代を象徴する教会であり、また、現在地上に存在している教会のタイプでもあるのだ。
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手紙の主旨:「悔い改め、勝利を得よ!」
共通の言葉:「私はあなたの行いを知っている」、「耳のある者は聞きなさい」
私たちの応答:Remember(初心を思い出し)、Repend(悔い改め)、Return(神に立ち返れ)
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BC1200年から美術工芸の街として栄え、高原に位置する難攻不落の要塞都市として知られていたが、恵まれた自然要塞に安住し、過去に二度(BC6にペルシア、AD3にローマ)に征服された。この街には、キュベレという女神を祭った神殿があった。AD17の大地震以降、この街は二度と甦ることはなかった。ることは正しくても、実行が伴なっていない言行不一致の教会。何故、宗教改革の教会が、言行不一致なのか?
現在のプロテスタント教会の柱は、宗教改革の理念と同じく、「信仰のみ」、「聖書のみ」、「万人祭司」である。私たちはこれを当然のことと受けとめているが、実際は、信仰のみと言いながら、救いに条件をつけ、聖書のみと言いながら、教会の伝統や教理を聖書よりも上に置き、万人祭司と言いながら、キリストを証ししていない。それが、「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」という意味である。
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BC150年ごろ創立され、AD5年頃に繁栄を極めた小アテネとも言われた街。この街で使用されていたコインのデザインは開かれた扉。それは、開かれた福音の戸を意味する。(3:8)多くの人は、大きな教会の大きな出来事、大きなイベントの何か新しい教えを求める。しかし、その多くは生きているようで、実は死んでいるのだ。
終わりの時に生きるキリスト者は、小さな群れであっても、主に拠り頼み、主に忠実である教会である。大きなホールで行なわれるイベントに参加することで、信仰を求めるのではなく、普段の生活で自分の信仰を証しして行くことが遥かに大切である。
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