Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

黙示録講解説教Ⅴ 黙示録3:1-13

2010年06月27日 | Celebration



 今、日本で公開されている映画『ザ・ブック・オブ・エリ』主演はハリウッド俳優としては珍しい敬虔なクリスチャンのデンゼル・ワシントン。この映画は、世の終わりが来た後に生き残ってしまった人たちの間に、たった一冊だけ残された聖書をめぐってストーリーが展開される。題材としては非常に面白いが、地上が終わってしまった後で、いくら「聖書とは何か!」と騒いでも仕方がない。私たちはこの世が終わる前に、聖書とは何かということを知らなくてはならないのだ。

 終末に関する預言は黙示録だけではなく、聖書全体から預言がされており、福音書にもしっかりとが記されている。たとえばマタイの24章。オリーブ山に座っておられるイエス様のところに弟子たちが来て、「世の終わりが何時なのですか? その印(しるし)は何ですか?」と質問した。するとイエス様はこう答えられた。

 
マタイ24章の預言

第一期 (24:4-14) 迫害下のリバイバル(生みの苦しみの初め)

 1) 偽預言者による惑わし:4-5(マコ13:6、ルカ21:8)
 2) 戦争の騒ぎと噂:6(マコ13:7、ルカ21:9)
 3) 民族紛争と飢饉と地震:7(マコ13:8)
 4) 迫害による背信と混乱:9-10
 5) 天からのすさまじい前兆:ルカ21:10-11
 6) 不法が蔓延し愛が冷える:11
 7) 福音が全世界に宣べ伝えられる:14

第二期 (4:15-28) 7年の大艱難時代

 不幸な身重の女と乳飲み子を持つ女:19-20
 (迫害に耐えられない結実していない律法的・霊的幼子の教会)
 神は選ばれた者(クリスチャン)のために期間を縮めてくださる:22
 悪魔は選ばれた者(クリスチャン)を出来れば惑わそうとする:24

第三期 (4:29-31) 主の再臨


始めの雨と後の雨

神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、その時には、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。(使徒2:17-21/ヨエル3:1-5)

 イスラエル地方の気候は、乾季と雨季の二つに分かれている。4月と10月の年に2回、滝のようなどしゃ降りの雨季があり、その間の5月中旬から10月中旬にかけての約半年間は、ほとんど雨が降らない乾期である。種まきの時に、土地を柔らかくし、発芽させるために降る雨を『前(春)の雨』と言い、豊かに実を結ばせるために降る収穫の雨を、『後(秋)の雨』と言う。つまり、ペンテコステにおける聖霊降誕の『前の雨』から、暫く続いた乾期の後、主が最後の収穫の時に降らせてくださる最後の恵み雨が『後の雨』である。

 この後の雨こそ、最終的な世界規模のリバイバルである。この時期に、それまで限られた人物にしか与えられなかった霊の賜物が、求めるクリスチャン全てに与えられるようになる。特に終わりの時に用いられる賜物が『預言』である。リバイバルのために祈る教会や信徒は多い。しかし、迫害、戦争、地震、飢饉等の災害、また、預言や霊の見分け等に対する祈りの備えと、預言が成されている教会は実に少ないのである。


今こそ最終的な世界リバイバルの時

 神のご計画に目を向けると、アダムからノアまで約千年、ノアからアブラハムまで約千年、アブラハムからダビデまで約千年、ダビデからイエスまで約千年、そして教会が誕生してからもう直ぐ2千年が終わろうとしている。多くのクリスチャンが終末時代の後に、神の御国が到来すると考えているが、実はそうではない。黙示録をよく読むと、終わりの時、つまり主の再臨の後、神は『千年王国』という暫定的な神と人間の世界を置かれているのである(黙示録20:1-6)。『千年王国』とは何なのか?何故神はこのような世界を創られたのだろうか?

 神は地球を6日間で創造され、7日目に安息された。『安息(ラ・アソート)』と言う言葉には、「成長するため、再生するため」と言う意味があり、これは『再創造(Re-Creation)』つまり、新しく創造するための期間(休み)なのである。神はサタンに縛られた6千年間の時を閉じられて、新しい御国建設のために、千年間の再創造のための休息を取られるのである(Ⅱペテロ2:8)。こうして、神のタイムテーブを見てみると、“主の時が近い”ということが分かる。

 「私の霊をすべての人に注ぐ!」と主は言われる。今、全て求めているクリスチャンに、主の霊が注がれている。だからこそ、今、土砂降りの聖霊の雨の時に霊の賜物を求めよ!私たちは、収穫の後の雨の時代。つまり、“最終的な世界リバイバルの時”に生かされているのである。


黙示録の預言

 黙示録は、聖書の約束と預言の成就であり、全66巻の総括-完結編(旧約から348回引用)である。黙示録がなければ、聖書は結論のない書物になってしまう。黙示録を読まずして、聖書を読んでいることにはならない。また、聖書の総集編である黙示録は、聖書全体とリンクしており、黙示録だけを読んで、理解することは難しいは。黙示録を正しく理解するためには、聖書全体をバランス良く読み、総合的に理解することが必要とされる。


黙示録の記述はその通りに起こる

 聖書は自分の先入観や道徳観念を入れないで、先ずそのまま読むことが大切である。聖書が、地上の3分の1が焼けるというのなら、文字通りそうなり、海の3分の1が血に変わる(8:8)と言うのなら、文字通りにそうなるのである。

 例えば、黙示録には、人間の3分の1を殺す2億の軍隊が登場するが(9:15-16)、本書が記された2千年前の全世界人口は1億人足らず、兵隊同士の剣と弓の戦争で、2億の軍隊が人間の3分の1が殺すことなど到底理解不可能であり、人々はこれは、何かの喩えであると考えていた。

 しかし、第二次世界大戦における原爆投下以来、黙示録に対する理解が大きく変わった。現在の中国の総人口は約14億人、多くの国民が飢えや災害で苦しんでいる中、中国政府は、年間一千億ドルという莫大な軍事費を投入している。今や、黙示録に記されている数字は、決して喩ではなく、現実のものとなっているのである。


黙示録は立体的に読む

 黙示録には、様々な解釈の方法がある。代表的なものとしては、これは2千年前に起こった出来事だと考える「過去派」、教会史全般の中で起こることだと考える「歴史派」、将来的に起こることだと考える「未来派」、そして、黙示録にある記述は歴史的事件とは関係なく、神の世界が象徴的に記されていると考える「霊解派」がある。しかし、黙示録の意味を、そのいずれかに限定させてしまうことは、明らかな間違いである。

 1章19節に、「見たこと(1章)を、今あること(2-3章)を、今後起ころうとしていること(4-19章)を書き留めよ」 とあるように、黙示録は、過去に起こったこと、現在起きていること、これから起こることが、立体的(螺旋状)に記されている。例えば、7つの教会は、黙示録が執筆された当時に、西アジア地方(現在のトルコ)に現存していた教会であり、また、2千年間の各時代を象徴する教会であり、また、現在地上に存在している教会のタイプでもあるのだ。


黙示録の手紙

 手紙の主旨:「悔い改め、勝利を得よ!」
 共通の言葉:「私はあなたの行いを知っている」、「耳のある者は聞きなさい」
 私たちの応答:Remember(初心を思い出し)、Repend(悔い改め)、Return(神に立ち返れ)

  エペソ教会 →初めの愛を忘れていないか?(△)
  スミルナ教会 →恐れるな!死に至るまで忠実であれ!(◎)
  ペルガモの教会 →信仰的妥協をしていないか?(△)
  テアテラの教会 →不品行・偶像礼拝に陥っていないか?(△)
  サルデスの教会 →信仰を建前にしていないか?(△)
  フィラデルフィアの教会 →主を証し続けよ!(◎)
  ラオデキアの教会 →自己欺瞞に陥っていないか?(X)
 
  この手紙のメッセージを、全て私たちは読みすごしてはならない!


サルデス (宗教改革時代の教会)

 BC1200年から美術工芸の街として栄え、高原に位置する難攻不落の要塞都市として知られていたが、恵まれた自然要塞に安住し、過去に二度(BC6にペルシア、AD3にローマ)に征服された。この街には、キュベレという女神を祭った神殿があった。AD17の大地震以降、この街は二度と甦ることはなかった。ることは正しくても、実行が伴なっていない言行不一致の教会。何故、宗教改革の教会が、言行不一致なのか?

 現在のプロテスタント教会の柱は、宗教改革の理念と同じく、「信仰のみ」、「聖書のみ」、「万人祭司」である。私たちはこれを当然のことと受けとめているが、実際は、信仰のみと言いながら、救いに条件をつけ、聖書のみと言いながら、教会の伝統や教理を聖書よりも上に置き、万人祭司と言いながら、キリストを証ししていない。それが、「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」という意味である。

白い衣:黙示7:14、19:8 キリストの血によって清められた聖徒の正しい行ない。
命の書:黙示20:15 この世の知恵を得る前に、命の書に名を書き記せ!


フィラデルフィヤ (世界宣教時代の教会)

 BC150年ごろ創立され、AD5年頃に繁栄を極めた小アテネとも言われた街。この街で使用されていたコインのデザインは開かれた扉。それは、開かれた福音の戸を意味する。(3:8)多くの人は、大きな教会の大きな出来事、大きなイベントの何か新しい教えを求める。しかし、その多くは生きているようで、実は死んでいるのだ。

 終わりの時に生きるキリスト者は、小さな群れであっても、主に拠り頼み、主に忠実である教会である。大きなホールで行なわれるイベントに参加することで、信仰を求めるのではなく、普段の生活で自分の信仰を証しして行くことが遥かに大切である。

ダビデの鍵: エルヤキムは、南ユダ王国のヒゼキヤ王の家臣で、ダビデの子孫。フィラデルフィヤの教会には、伝道の鍵が預けられていた。(イザヤ22:22)その理由は、この教会は非力だが、御言葉を守り、イエスの名を告白していたからである。フィラデルフィヤの教会は、小さくて貧しい教会であった。

サタンの会衆に属する者:ユダヤ人でありながら、イエスを信じていない者は、たとえアブラハムの子孫でも、サタンの支配下に属する。

神の名:神の子としての権威、エルサレムの名→天国の市民権、

わたしの新しい名:キリストの花嫁として名前


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父親の愛 申命記6:4-7

2010年06月20日 | Celebration
父の日は、今から約100年前、ワシントン州のある教会で、自分を男手一つで育ててくれた父親への感謝を表すために、何かをしたいと願っていた娘さんが、牧師にお願いして父親の誕生日に父の日礼拝を行なってもらったのが、その始まりである。当時、「母の日」は既にアメリカ社会では定着していたのだが、「父の日」がなかったため、その娘さんは「母の日」があるのなら、当然、父親に感謝する日「父の日」もあるべきだと、牧師協会へ嘆願して回ったと言う。

 「母の日」と比較すると「父の日」の存在感が非常に薄いのは、父親の愛は、母親の愛よりも目に見え、形に表われることが少ないからかも知れない。子供にとって、母親の愛は直感的に感じることができても、父親の愛を愛として理解するには時間がかかる。父の愛は、普段あまり意識されていないだけに、父の日に父親の愛を、思い返してみることは意味がある。

 何故なら、父親の愛を想うことが、父なる神の愛を想うことへとつながるからである。父親の愛が、母親の愛とは異なり、直接的に感じにくいものであるように、父なる神の愛を理解するには、じっくりと聖書に向かい合い、御言葉をかみしめる必要がある。今日は、家庭における父親の役割について、エペソ書からメッセージを取次ぐ。


諸悪の根源は父親の権威喪失
 家庭内における父親と母親の存在感の比重の差は言うまでもなく、子育ての場においても、その主役を務めているのは母親である。実際、父親の子育てに関する責務についてはマスコミではほとんど取り上げられず、特に日本では子育てのために育児休暇を取る父親のことが新聞記事になるほどなので、父親が子育ての役割を放棄しても、社会的に批判されることははっきり言ってないのが実情である。しかし、多くの社会心理学者たちは、現代に蔓延する社会問題の根源、特に青少年の犯罪や、麻薬、性的な乱れなどの源は、『家庭における父親の権威喪失にある』と結論付けている。

 かつてのアメリカは、一般的に子育てには聖書が使われていた。ところが、ある時から、「特定の権威を定めることなく、子供たちの特性に合わせて、彼らに好きなものを選ばせて勉強させればいい」という考え方が出て来た。確かに、これは良い面もあるが、結果的に楽しくなければ何もしない子どもを作り、全ての物事に対する判断基準が自分の好き嫌いの枠を超えることが出来ず、自己主張ばかり巧みで、規則とか権威というものに従うことができない人間を作るに至った。それは、彼らが最初に従うべき、父親の権威をないがしろにして来た結果である。父親の権威を理解出来ない人間が、神の権威を理解することは難しい。

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。()

 聖書は、一家の長は父親であると明言している。それは夫が妻よりも力が強いとか、収入があるからという理由ではなく、社会には秩序というものがあり、自分が従うべき規則や権威があるのだということを、家庭において教える必要があるからだ。父親には、永遠に変わらない真理を、聖書を通して、何が正しいことであり、何が正しくないことかということを、先ず自分自身が手本となって、子供たちに教える責任があるのだ。


子育てを放棄した父親の悲劇
 しかし、現実的に多くの場合、夫は仕事に忙しく、本人は子育てがしたいと思っても、状況的にそれが出来ない場合も多々ある。単身赴任ならば正に八方塞りである。しかし、理由がどうあれ、子育てを放棄した父親は、その後一貫して、家庭内における存在感を失い、妻からは愛されず、子供からも信頼されず、本来果たすべき責任を果たさなかった父親の人生は、その最終ステージにおいて、かなり厳しい現実が待っている。

 母親がやっと子育てを終えた頃、仕事のピークを越え、定年を間近に迎えた父親は、これからの人生は妻と一緒に過ごそうと思い込んでいたのは実は夫だけ。妻は今まで一切家庭を顧みず、育児や家事に関する実績は全くなく、車とゴルフと政治の話ししか出来ない夫のために、残された自分の人生を使おうなどとはサラサラ思ってない。

 今までは夫が家にいなかったから我慢できていたようなものの、毎日一緒にいられるとなると、夫との距離感は更に広がるばかり。ところが、夫はそうした妻の気持ちになど一向に解せないまま、「今まで自分が養って来たんだ!」という言葉を唯一の頼りに、濡れ落ち葉のように妻にしがみつき、こうして空虚な老後の夫婦生活が始まるのだ。

 実際、父親の役割を放棄してしまった父親は、家族の中で『最も手のかかる長男』と化す。父親の存在感の喪失は、神が創造した社会の秩序の喪失を意味し、家庭、ひいては社会を混乱させる元凶となる。また、夫自身も、本来の夫としての義務から逃げたことで罪悪感を持ち、その罪意識から逃避するために、酒、ギャンブル、不倫等の泥沼にはまるケースも決して少なくない。


一家の長は神の命令
 子どもを産むということだけならば、Sexをすれば誰だって父母になるが、それは生物学的次元の話しであり、父親、母親になるということではない。「親になる」ということは、「子育て」という大切な人生のプロセスを通してはじめ生まれるものなのである。従って、子育ては母親の仕事であると断定するのは、明らかに間違った認識である。子供が出来る前提として、父親と母親がいるということは、そこには互いに担い合うべき役割があることを意味している。

 ケネディ大統領は「私にとって、一国を治めることにもまして、私の家庭を治めることは大切なことだ」という言葉を残しているが、父親にとって、一家の長として立つことは、実は一国の大統領になることよりも大切なことである。何故なら、神は男性に「大統領になれ」とは命じてはいないが、全て男性に対して、一家の長となるように命じておられるからだ。


父親が子育てに参加することにおける父親のメリット
 父親としての自覚を持ち続けるには、家族から経済的のみならず、精神的な大黒柱として位置づけられているという認知を受けていることが条件となる。そのためには、一番大変な幼児のときから父親として子育てに参加することが妻と子供との基本的な信頼関係になる。

 父親が積極的に子育てに参加することは、何も妻や子供のためだけでなく、父親自身のためである。子育ては人間的な成熟には欠かせない必要なプロセスである。また、一番大切な時期を二人で歩んだという経験は、夫婦の絆にとってかけがえのないものとなり、豊かな夫婦関係を約束するものとなるだろう。

 家庭における父親の役割とは、相撲に例えると、土俵と行司役である。母親が安心して子育てをするためには、その基盤としての土俵が安全に機能していることが前提となる。また、妻や子供の行き過ぎや、不足している部分を、行司役である父親が監督し、修正することが必要である。但し、その父親本来の機能を、働かせるためには、父親はこの二つの御言葉に立っている必要がある。

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(エペソ5:25)

父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。(エペソ6:4)

 父親は自分の独断や理不尽な権威の行使によって、子供に否定的な感情を与えてはならない。そのような行為は子供に対して逆の否定的な反応を引き起こすからである。子供に対する躾は、御言葉がベースになければならない。「しつけ諭される」という言葉は、「思い出させる」という意味を含んでいる。つまり、子供に前向きで建設的な考えや発想を思い起こさせるということである。


父親が子育てに参加することにおける母親のメリット
 父親が子育てに介入することで、母親はとりあえず一時的子どもから離れられることができ、まずはホッと一息つくことができる。そして、子どもと少し距離を置いて見ることによって、自分の子育てとか、日々の生活内容を反省することができる。あるいは父親の前で見せる子どもの姿から、自分には見せない子どもの意外な側面を知ることにもある。このような休憩プロセスは、母親が冷静に、客観的に自分自身と自分の子育てを顧みるとても良い機会となる。

 そして何より、一番辛い時に夫が言葉だけでなく、実際の行動によって自分を援助してくれることで、夫への信頼感と感謝の気持ちが生じる。また、子育てに関する問題を、夫婦が同じ水準で話し合うことができる。アプローチが異なっても、共通の認識で子どもの成長を見ていけるということは、子どもの成長に伴い、夫婦関係も成長していくことに大きな意味がある。

 そして大切なことは、父親が子育てをするためには、妻の協力が必要不可欠だと言うこと。多忙な夫を生かすも殺すも妻の器量にかかっているのである。例え夫が単身赴任であっても、母親はことある度に「お父さんはいつもあなたのことが大好きで、あなたのことを心配しているよ」と子供に伝えることによって子供は安心し、いつも自分を陰で支えていてくれる父親のイメージを持つことが出来るのである。

 そうすれば、たとえ父親が目の前にいなくても、子供と父親の間に溝が出来ることはない。時間は長さだけではなく、内容が大切なのである。そのような貴重な時間の中で父と子の関係は育てられて行くのである。そのような環境をつくるためには、妻は夫に仕えるということが前提となる。この聖書箇所において、何故、神は夫への訓戒より先に妻に語っているのか?それは、家庭における主役が妻だからである。

妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。(エペソ5:22-23)


父親が子育てに参加することにおける子供のメリット
 母親は基本的に子どもを守ろうとする姿勢があり、子どもが怪我をしたり、病気をしないように、何よりも子供の安全を優先する。一方、父親は自由で子どもと遊んでいる内に、自分も少年に戻っていくという解放的な部分があるので、子供にとって父親と遊ぶことは母親とは違う刺激を体験することが出来る。

 こうして子供の心に父親のイメージが育ち、それが子どもの行動に影響力を持つようになると、子供は小学校、思春期、青年期の人生における節目節目に、父親の意見と母親の意見という、二つの幅のあるアドバイスを受けることができる。

 実際、良妻賢母型の子供がよく不登校や引きこもりに陥るのは、子供に母親側の価値基準しかない場合が多い。母親の価値基準を相対化する父親の価値基準があることで子供は自分を客観視でき、心に余裕を持つことが出来るのである。父親は、子供が親に対してこう悟ることが出来るように導いてあげなければならない。

子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。(エペソ6:1-3)


家族の基本は、神を神じ委ねること
 父親が自分の権威ではなく、神の権威によって子供を教え諭すということは、人生における様々な困難な問題に対して、失望することなく、諦めることなく、神の前にへりくだって祈る父親の姿を、子供はダメな弱い存在として見ることはない、返って、そんな父親の謙遜さの中にこそ、子供は一家の長としての「強さ」を発見し、尊敬を持って、そのような父親に従っていくようになるのだ。

 そして、親にとって子供に対する最も大切な務めは、子供を信じてあげること。キリストを信じることが、自分を信じ、配偶者を信じ、子供を信じることへとつながり、キリストから赦されたという深い体験が、自分を赦し、配偶者を赦し、子供を赦すことへとつながる。このキリストにある愛と赦しを共有している家庭から、引きこもりやいじめが発生することは決してない。そのような、霊に満たされた家族こそが、神の御国建設の原動力となるのである。


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三人の献身 ルカ10:38-42

2010年06月13日 | Celebration




献身と礼拝

 献身という言葉を広辞苑で引くと、「身を捧げて尽すこと。自己の利益を顧みないで力を尽すこと。自己犠牲」とある。つまり、日本語では、「献身=自己犠牲」というイメージがあるので、「献身」というと、何か自分には関係のないこと、特別に信仰深い限られた人たちのことだと捉えられている。しかし、聖書が言う献身とは、何も特別な生き方のことではなく、神を信じる者全ての人にとってのスタンダードな生き方。ある意味当たり前の生き方という意味である。

 パウロは、すべてのクリスチャンに向かって、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。(ローマ12:1)」と献身の生活を勧め、それが、私たちの「成すべき礼拝」だと言った。つまり、言葉を代えれば、礼拝とは献身であり、自分自身を神に献げることのない礼拝は、礼拝ではないということである。イエスが律法学者たちを批判されたのは、正にこの点であり、いくら表面的に完璧な礼拝を献げていようが、その礼拝に献身の姿勢が欠けているのなら、それは礼拝にはならない。献身こそが礼拝の本質なのである。

 つまり、礼拝とは、日曜日の午前中90分だけのことではなく、日々、イエスにと共に生きていこうとする生活への姿勢が、礼拝中心の生活・献身の生活ということなのである。献身とは決して特別な行為のことではなく、日々、イエスと共に生活するということである。その意味において、私たちは、献身ということを、もっと身近な自分のライフ・スタイルとして捉えるべきである。

 私たちが属する南部バプテスト連盟は会衆制の教会である。教職者だけが献身して、信徒が献身していない教会というのはおかしい。信徒も牧師も皆神を第一にして生活しており、万人が祭司の働きを担うのだから、皆で教会を担い合おうというのが、バプテスト教会の主旨である。その前提として、教会員は皆献身しているということがあるのだ。

 今日は、献身とは何か?ということについて、“マルタの献身”、“マリアの献身”、そして“ユダの献身”から学ぶ。この三人の組み合わせは、意外と思われるかも知れないが、彼らは同じ時、同じ場所、同じ状況の中で、彼らの本心が神によって、照らし出されているのである。


マルタとマリア

 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)

 このマルタのマリアの話しは、ルカだけにたった5節記載されている記事だが、あまりに有名な箇所である。よく教会で、「彼女はマリアタイプよね」とか、「私はマルタ型だから」と言いながら、本当に忙しく教会の奉仕のために、働いておられる姿をよく目にする。この忙しく働き回るマルタと、静かにお祈りするマリアという対照的なイメージは、教会においてはかなり定着している。

 ここでイエスはマリアの方を誉めているものの、かと言って、マルタのような人がいなければ、教会は愛餐会も行なうことが出来ない。事実、マルタは、「人をもてなす」という、聖書の最も大切な教えを実践しているのである。この話を聞いて、一生懸命働いているマルタに同情する人は多い。実際、彼女がいなければ、イエスの一行は休むことも、食事もすることも出来なかったのだから。

 この外向的で行動派のマルタと、内向的な思索好きなマリアという、この姉妹の対照的な気質の違いがあり、無論、イエスはそのどちらも愛されていたことは言うまでもない。イエスは決してマルタの行為自体を否定しているのではない。であれば、イエスはマルタに「あなたもマリアと同じようにしなさい」と言われただろう。では何がマルタの何が問題だったのか?


マルタの問題

 マルタの問題は、奉仕という行為自体は素晴らしいのだが、「多くのことに思い悩み、心を乱していた」ことにある。心を乱しているということは、心が神から離れているということである。つまり、彼女は働けば働くほど、その本来の目的から離れてしまっていたのだ。一生懸命神に奉仕しているつもりが、心の中で自分の予定や計画などの思い入れの方が大きくなり、それが自分の思い通り行かないから心が乱れてしまう。そして遂にその不満は爆発し、マリアにではなく、イエスにぶつけたのである。「主よ、私だけ働いているのを見て、何とも思いませんか!少しはマリアに手伝うようにおっしゃってください!」と。

 ここでイエスはマルタに、「マルタ、マルタ」と呼びかけている。これは、ルカ22章31節でペテロに「シモン、シモン」と呼びかけ、使徒9章4節で、パウロに「サウル、サウル」とイエスが呼びかけておられるのと同じ言い方である。この名前を繰り返して呼ぶという呼びかけは、決して叱責ではなく、そこには相手に対する憐れみと希望が込められているのである。

 では、ここでマリアが取った行為に目を留めて見よう。マリアが主の「足もとに座って(10:39)」という「足元」という言葉は、使徒22章3節で、パウロが「ガマリエルの元で先祖の律法について厳しい教育を受けた」の「元で」と同じ言葉である。つまり、マリアがした行為はイエスの弟子としての態度であった。

 ここで問われているのは、静かに祈るとか、聖書を読むとかという、宗教的な行為なのではなく、イエスの「弟子」としての正しい姿勢なのである。イエスがここで彼女たちに心から望んだことは何だったのか?それは、「イエスの弟子となること」つまり、イエスの御言葉を聞きに従うこと。それが、最も大切なことだと、イエスは言われたのである。

 マルタは優秀な人であったが、今目の前にいるイエスが何を本当に望んでいるのかということを、考える心の余裕がなかった。確かに彼女なりの精一杯の善意ではあったものの、この時点で未だ彼女は、自我の思い込みから抜け出せていなかったのである。


エルサレム教会の問題 

 神が私たちに望んでおられる献身には三つある。それは、「神への献身」、「教会への献身」、そして「社会への献身」である。この三つの献身は三つで一つであり、どれ一つ欠けてはならない。そして、最も大切なことは、献身には順序があり、この順序を間違えると総崩れになってしまうということである。

 ここでイエスが「大切なことはただ一つだけ」と言われた大切なこととは、神に信頼し、御言葉に聞き従って生きること。つまり、「神への献身」である。神への献身が先ず最初にあり、それが教会への献身につながり、その教会が社会に対する献身の業を行なうのである。

 このマルタとマリアの対比は、教会と信徒の献身という意味において、とても重要な意味を持っている。実は、このベタニアの家で起きたことが、エルサレム教会の中で最初に起った問題だったのである。

 それは、同じルカが書いた使徒6章1-7節、エルサレム教会に人が増え、食事の分配のことで問題が起きた時、教会のリーダーたちは、「神の言葉をないがしろにして食事の世話をするのは好ましくない」と言って7人の執事を再選し、「祈りと御言葉の奉仕に専念する」ことになったという出来事である。

 この2節にある「食事の世話」の「世話」と言う言葉と、ルカ10章6節のマルタが「もてなした」という言葉には、「ディアコニア・奉仕」と言う同じ言葉が使われている。つまり、エルサレム教会は、この食事の奉仕という場で起きた問題の解決策として、「霊と知恵に満ちた」御言葉の世話係が、食事の世話係りを兼任することになった。つまり、教会の奉仕は、先ず御言葉を第一とする神への献身者でなければ、ならないということなのである。

 教会での奉仕が、先ず自分と神との関係において、神の必要に応えるために行なっている奉仕であるなら、その奉仕の内容が何であろうが、たとえその奉仕を誰も手伝ってくれなくても、全く気にはならないはずである。何故なら、それは神が私に依頼してくれた奉仕なのだから、感謝してそれを行なうことが出来る。ところが、神の必要より先に、人の必要に応えようと行う奉仕は、やっている内に、必ず自分がしている奉仕の内容や、他の人の奉仕の具合が気になってしまう。そして、「どうして私だけが」とか、「何故あの人は何もしないのだろう」という疑問や不満が必ず湧いて来てしまうのである。

 つまり、マルタは、神の必要に応える前に、人の必要に応えようとしたのである。ここでイエスが問題とされたのは、「奉仕」か「祈り」かという二者選択ではなく優先順位である。そしてもう一人、この優先順位を間違えてしまったが故に、自ら人生を崩壊させてしまった人物がいる。イスカリオテのユダである。


ユダの献身

 おそらく彼は、聖画などに描かれているような、見るからに卑怯そうで、詐欺師のような風貌ではなかった。それどころか彼は12弟子の中では、最も真面目で、最も頭も良く、最も信頼されていた人物であったと思われるのである。

 何故なら、最後の晩餐の席で、イエスが裏切り者はユダであることを明確に示しているにも関わらず、弟子たちは全員、イエスが言っていることが理解できなかった。(ヨハネ13:21-29)また、12弟子にはマタイというお金に関するプロがいたにも関わらず、経理をしていたのはユダであった。これらのことは、よほどユダが周囲から信頼に足りる人物だと思われていたことを物語っている。

 ある説によると、ユダは熱心党のシモンのように、イスラエル新政府建設を目的とした、過激な民族抵抗組織に属していたのではないかと言われている。(イルカリオテには「刺客」と言う意味もある)いずれにせよ、ユダには、今のこの社会を変えたい、自分はこの世で何かを成し遂げたいという熱い思いがあり、彼はイエスこそが今のイスラエルを革命に導くリーダーと期待していた。革命を起こすには資金が必要である。だからこそ、ユダは弟子たちの中で最も真面目で、最も献身的だった。だから他の弟子たちは、このコチコチで真面目一方なこの男が、イエスを裏切るなどとは夢にも思わなかったのである。

 ところが、イエスは群衆の注目を集めてはいたものの、お金を集めることもせず、組織をつくることもせず、街の有力者どころか、どう見ても、革命の戦力などにはなりそうにもない社会の弱者たちとばかり交わっている。こうしてユダのイエスに対する疑惑が、だんだんと彼の心の中で膨らんで行った。

 何故なら、彼には自分はこの世で何かを成し遂げたいと言う、社会に対する献身の熱意があったのだが、その彼の献身には、神への献身も、教会への献身も欠けていたのである。その土台のなさ故に、彼の人生は脆くも崩れ去った。このマリアとユダの献身に対する態度の違いは、ヨハネ12章1-8節に記されているベタニアでの出来事に明確に表れている。


ユダの躓き

 ここでのマリアの行為に対して、最初に非難の声を上がたのがユダである。「なぜ、この香油を3百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか!?」このユダの言葉を、私たちは単純に非難することは出来ない。300デナリというお金は、一家族が一年間暮らせるだけの金額であり、そんな大金(3-4万ドル)を一瞬にして使い切るなど、普通に考えれば浪費としか思えないからである。

 しかし、この時マリアは愛しか見ていなかった。そして、ユダは4万ドルというお金しか見ていなかったのである。マリアとユダの対照的な姿が照らし合わされた。ユダは自分の意見に自信を持っていた。ところが、イエスはユダの主張を退けてマリアを弁護した。その時に、ユダが大いに落胆したであろうことは想像に難くない。そしてそれは、ユダがイエスを心の中で見限った瞬間だった。

 ここでもう一度繰り返す。献身には、「神への献身」、「教会への献身」、「社会への献身」の三つがあり、それはどれ一つ欠けてはならず、この三つの献身には順序があり、その順序を間違えると全てが崩れてしまうのである。


献身はクリスチャンとしての正道

 どっぷりとこの世に浸かっておきながら、こんな私を恵んでくださいと祈っても、神は祝福しようがない。私たちは、この世に倣うのではなく、何が神の御心なのかを絶えず祈り求め、神の御心に自分を従わせて生きること。それが献身であり、そのような姿勢に神の恵みが豊かに注がれて行くのである。それが「神への献身」である。

 そして、教会から切り離された献身、キリストの体を立てあげることのない献身というものは存在しない。自分は何か人よりも特別に献げている、努力している、何かを成している、というような思い上がりは、献身とは無縁である。体は互いに補い合って、動いているのであり、周りを無関係に大きくなるのは、癌細胞だけである。つまり、私たちにとって献身とは、修行でも、自己実現でも、教会奉公でもなく、キリストの体の一部となって、輝いて生きること。それが、「教会への献身」である。

 従って献身とは、単に自分の願いや思いを遂げる生き方ではなく、自分の役割を知り、賜物を知り、互いにキリストの体としての成長を願い、世のため、人のために精一杯自分を献げて生きて行く人生。神の最善のために生きることが、自分にとっての最善となる。それが私たちの「社会に対する献身」である。

 実際、私たちクリスチャンにとって、歩むべき道は二つしかない。それは世に倣うか、神に倣うか。献身するか、献身しないか、そのどちらかであって、その中間はないのだ。そして既に私たちはそのどちらかの道を歩んでいる。献身とは、私たち全てのクリスチャンに求められている正道なのである。

 神は私たちが自力で、そのような献身の道を選ぶことが出来ない弱い存在であることを知っている。だから神は私たちに聖霊を送ってくださった。つまり、献身とは、自分の努力で才能で出来ることではなく、聖霊に導かれて初めて、そのような生き方を実践することが可能となるのである。

 私たちの祈りが、「主よ、私を恵んでください。私を祝福してください」から、「主よ、あなたの喜びが、私の喜びとすることができますように、私の心を変えてください!」という祈りに変えられた時、主と共に教会を立て上げていくという、喜びの献身生活が始まって行くのである


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時は神なり 詩編90章

2010年06月06日 | Celebration



■『時』に関するC.S.ルイスの洞察

 C.S.ルイスが、『詩編を考える』という本を書いているが、この本の最後に、『時』ということについて、実にユニークな見解が記されている。「私たちは、もうこんなに大きくなって?とか、何で時が経つのは早いのだろう!」と、我々はよく驚きの声を上げる。時間と言うこの上もなくありふれた経験が、ひどく珍しいものであるかのように驚かされるといった按配だ。だが、これはよく考えて見ると、実に不思議なことである。

 何故なら、それは魚が『どうして水ってこんなに濡れているんだろう?』と、しょっ中考えているようなものだからである。しかし、もし魚がやがて陸地に住む生物として運命付けられているとしたら、魚が水が濡れていることに驚いたとしても、無論、何も不思議なことはない」とこの本はここで終わっている。

 この話しでC.S.ルイスは何が言いたかったのだろうか? 彼はイエス・キリストの弁証家である。つまり彼の結論は、「だから神はいる」、「だから天国は存在する」ということなのである。


■ユダヤ人の時空感覚

 創世記1章5節の第一日目の創造で、神は『時』を創造された。時間というものは、太陽や、空気や、自然環境と同様、人間が生活するために、神が創造されたものなのである。ギリシア語の『時』と言う言葉には、『カイロス(神の時)』と『クロノス(人の時)』という二つ概念があるが、実はヘブル語には、大文字と小文字の区別がないように、現在形と未来形という時制の区別もないのである。

 つまり、彼らは現在のことを未来のことにように、未来の事を現在の事のように語るのである。例えば、ユダヤ人が友人と待ち合わせしていて、1時間経ってもその友人が来ない場合、私たち日本人なら、彼はもう来ないと判断する。ところが、ユダヤ人は待ち続ける。何故なら、「彼(友人)は来る ”He comes.” のだから」。彼らには、“He will come.” 彼は来るだろう。」という未来の区別がないので、ユダヤ人は、その友人が実際に来ていなくても、あたかも来ているかのような態度を示すのである。

 私の友人が、メシアニックジューの友人の家に食事に呼ばれた時、その友人が、「ところで私たちの家族は、900年前にシナイ山で…。」などと話し始めた時、何を言っているのか理解出来なかったそうである。90年だったらまだ分かるけど..。つまり、彼らは、こういった時空の感覚の中で生きているのである。私たちにとっては果てしない昔の出来事を、今の自分と直結させて考えているのである。

 これは日本人には、なかなか理解出来ない感覚だが、ここで大切なことは、ヘブル語の『時』には、『永遠』という概念が埋め込まれているということである。つまり、一分であろうと、一時間であろうと、一年であろうと、一世紀であろうと、「今、ここに約束がある。」という、クロノスを超越した時間空間を、聖書は創り出しているのである。

 教会が様々な困難に遭っている時、「こんなに待っているのに主は来てくださらない…。」と私たちは、呟きたくなる。ところが、神の時空において、主の再臨は既に完成されているのである。その完成された神の御国の幻を見ながら、私たちは日々の困難を耐え忍ぶように召され、また耐え忍ぶ力が与えられているのである。


■ヘブル文学の最高峰 詩編90章のテーマは『時』

 詩編はヘブル語で「テリヒーム」と言い、「ハレルヤ」とほぼ同義語である。英語の「プサーム」は、ギリシア語の「プサスモイ・奏でる」という意味から来ている。この90章は、詩編全150章中、唯一、作者モーセと記されている章である。クリスチャンを10年やっている(?)人でも、詩編にモーセの作品があると聞いて驚かれる人も少ないないが、一般的にヘブル社会では、90-100迄がモーセの章と言われており、確かに95章8-11節等の内容を見ると、それも頷ける。

 実は、ヘブル語の 「の」、「のために」「による」 は、前置詞として同じ意味を持つので、「モーセの歌」とも、「モーセのための歌」とも取れるのだ。そしてこの90章は、詩編の中でも、「比類なき気高さに溢れた最も感銘深い詩」、「ヘブル文学の最高峰」と謳われている詩である。この「ヘブル文学の最高峰」が謳ったテーマ。それが『時』であった。
今日のメッセージは、聖書が語る『時』に関して、私たちが認識すべき3つの点について語る。


■8万ドルの4行

 今から約半世紀前のアメリカ経済の高度成長期、多忙を極めていたアメリカのある製鉄会社の社長は、当時の有名な経営コンサルタント、ハイビー・リー氏に電話をかけて時間管理の秘訣について尋ねた。「今、私の会社は順調に儲かっていて申し分ないが、このままでは、私のプライベートな時間を全く持つことが出来ず、家族は破綻してしまいます。出来れば、私はあなたの所に行って教えを請いたいのだが、その時間すらない。だから、どうか私に時間を有効且つ効果的に使うための実践方法を教えて欲しいのです。」

 するとハイビー氏は、「高くつきますよ」「いやいや、お金のことなど言ってはいられない。いくら高くても結構です」すると間もなく、ハイビー氏から社長宛に一通の封筒が届いた。中に入っていたのは二枚の手紙。一枚目はたった4行も文字。そしてもう一枚は、当時のお金で約8万ドルのコンサルタント料の請求書であった。

寝る前に次の日にすべきことを熟考する。
それを6つくらいに絞り込んで、優先順位を付ける。
翌日それを書いた紙をポケットに入れて出社する。
会社に着いたら、その紙に書いた通りに必ず一つずつ実行する。

 社長は、このたった4行に8万ドルを支払った。この話しを聞いて、「こんなことに8万ドルも払うなんて、信じられない」 と思う人もいれば、「理屈では分かっているが、問題はそれをやるかやらないかだ」と悟る人もいるだろう。事実、その8万ドルは、後にその10倍以上の成果をもたらしたと言う。時間の使い方が、私たちの人生を変えて行くことは、確かな事実である。


Ⅰ.人生とは時間であり、時間とは命のこと

 昔、日本では人生50年と言われていたが、今はおよそ80年。この人生80年とは、はれっきとした時間のことであり、それは有限である。人生とは、神から与えられた時間のこと。人生とは時間であり、時間とは命のことなのである。

 また、一つボタンのかけ違えてしまうと、また全てのボタンを外して、また最初からかけ直さなければならないように、日常生活においても、仕事においても、動作は一緒でも順番を違うと大変なことになる。ボタンをかけている動作は同じでも、かけ方を間違うと、全てやり直さなければならなくなってしまうからである。

 ハイビー・リー氏が、「必ず書いた通りに一つずつ実行する」と4行目に書いた項目には、実に深い意味が含まれている。人生という限られた時間の中で、優先すべき事を優先し、どうでも良いことは捨てていくことは、実に重要な作業である。つまり、私たちが何に時間を使っているのかということは、何に対して自分の命を使っているのかということと同じなのである。


Ⅱ.人は自分がすべきことを知っていながら、楽な方を選択する

 人は朝起きてから夜寝る時まで、自分の生活の中でやっていることには全て、順位が付けている。その優先順位は、ほとんどの場合、無意識の内に付けられているのだが、その選択基準は現実的に多くの場合、目先にある物なのである。例えば、すごくお腹が減っていると、もうすぐ食事の時間だと言うのに、つい目の前にあるドーナツに手が出てしまう。これが人間の性なのだ。

 つまり、私たちは普段、頭ではまともなこと考え、口ではまともなことを言ってはいても、いざ実際の行動となると、その場限りのことをやってしまうのだ。先を見て我慢するということが、なかなか出来ないのである。楽なことと苦しいこと。人はどちらを先に選ぶか?それは間違いなく楽な方である。つまり、私たちは日々生活の中で、やるべきこととは知ってはいても、ついつい先延ばしにしてしまうという性質を持っているのである。

 私たちは誰もが、当たり前のように明日はやってくると考えている。しかし、実際はそうではない。私たちは何時、何処で、どんな形で自分に死が訪れるか、全く分からないのである。人は必ずしも年をとってから死ぬのではない。ある日突然、死が私たちに訪れるかも知れないのである。

 もし今日、半年後にあなたに『死』が訪れるとしたら、あなたは残された時間をどう使うだろうか?誰とどのような時間を過ごすだろうか?自分に残された時間が僅かであることを知らされれば、誰だって、自分にとって本当に大切な事だけを厳選して、行動するようになるはずである。今まで同様、TVゲームや、日本のTVドラマに熱中したりしている人がいたら、その人は精神異常である。

 ところが、人間というものは、「死は何時訪れるかも分かりませんよ」と言われたくらいで、自分の死について真剣に考えることは出来ないのである。そう言われても、「それは確かにそうだけれど、まぁ、今日明日ということはないでしょ」と考えるのが普通なのである。これが私たちの『死』と『主の再臨』に対する捉え方の現実である。そして実際に『死』と『再臨』の現実が自分の目の前に迫った時に初めて、人はあわてふためくのである。


Ⅲ.神の国と神の義を第一に求める

 イエス・キリストは、自分が何時、何処で、どのように死ぬのかと言うことを知っておられた。その点において、私たちとは状況が全く違う。自分は間もなく十字架にかかって死ななければならない。そのことをはっきりと知っていたイエスは、どのように3年半の伝道生涯を過ごされたのだろうか?イエスがいつも第一優先としていたのは、神の国と神の義である。それがどれほど大切なのかというと、自分の全財産を売ってでも買うべきものだとイエスは言われた。

 「神の国と神の義を第一に求める」このことは、今まで繰り返し、繰り返し、言ってきたことであり。そんなことは、言わなくても誰だって分かっている。しかし、ここでもう一度、私たちは自分の優先順位と、イエスの優先順位について真剣に考えなければならない。何故なら、人が物事を選択する背景には、神の導きと共に、それを阻止して人を破滅に陥れようとしている悪魔の力も働いているからである。

 神が人間と関わっておられるように、神の対極にいるサタンも、人間と関わっている。悪魔礼拝でもしていない限り、人は誰も自分が悪魔に仕えているなどとは夢にも思っていない。ところが、神と悪魔の真ん中の位置というものは存在せず、霊の世界においては中間というものはないのだ。つまり、人間は神側の支配下か、悪魔の支配下か、その二つの内のどちらかなのである。

 マタイ16章21-23節で、イエスが十字架と復活の預言された時、ペテロはイエスに「とんでもない、そんな事はあってはなりません!」と言った。確かに人間的な観点からすると、神の子であり、救い主であるイエスが、この世で最低最悪の十字架刑に架かるなど、あってはならないことである。つまり、ペテロは人間的には、至極当然のことを言ったまでなのだ。

 ところが、そう言ったペテロにイエスは何と言われたか?「サタン、引き下がれ、あなたは神を思わず人のことを思っている!」イエスはペテロのことを、何とサタン呼ばわりしたのである。つまり、普段私たち人間が考えていることと言うのは、得てしてサタン側に騙された考えなのである。

 私たちは、両足を片方ずつ、神と悪魔に突っ込んだまま、天国に行くことは出ない。神側に付く者は、常に自分の価値観と優先順位を、神側に置かなければならないのだ。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とルカ17章21節でイエスが言われたのは、聖書が語る『神の時・神の国』は、これから将来起こることであると同時に、既に私たちの内で始まっているという宣言である。この地上に流されることなく、天国人としての選択をいつも心掛けるようにしよう!


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