Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

慰めの人 (Ⅱコリント1:4-7)

2008年08月31日 | Celebration
わたしちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。(Ⅱコリント1:3)

バルナバ(使徒言行録4:36)は、「慰めの人」と呼ばれた人物で、パウロやペテロのように、目立ってはいませんが、新約聖書の影の立役者と言っても過言ではない人です。もし、バルナバがいなければ、かつて迫害者のリーダーだったパウロを、教会が受け入れなかった可能性は十分に考えられます。また、バルナバは相談役としてパウロと決別した若いマルコを支え、その結果、マルコは四福音書の先駆けとなったマルコの福音書を書くことが出来たのです。つまり、バルナバは、新約聖書成立の多大な貢献者であり、バルナバが苦難や人間関係の軋轢の中で人々に差し伸べ続けた「慰め」は、聖書の根底に流れる源流となりました。

 当時のコリントの街は、風紀が乱れ、偶像崇拝が蔓延したどこか現代日本を思わせるような街で、教会内にも不品行、不平等、無秩序が入り込んでいました。パウロはこの手紙の前に、厳しい戒めの手紙や涙の手紙を書き送り、愛弟子を遣わして戒めの言葉を伝えましたが、問題は容易には解決されず、長年の応酬にパウロもコリント教会の人々も疲れ果てたその時、「神の慰め」がもたらされ、「和解と慰めの手紙」と呼ばれるこの手紙が書かれました。

 「慰め」を受けたパウロは冒頭で喜びの声を上げ、続く本日の聖書箇所の4節中に、「慰め」を幾度も繰り返して強調しています。「慰め」とは何でしょうか。原語では「パラクレーシス」と言い、「パラクレオ=傍に呼ぶ」という動詞から発しています。同様の語源を持つものに「聖霊様=パラクレートス=助け手」があります。つまり「慰め」とは、傍にいてその人に応えてあげる、受け入れてあげることなのです。パウロに示されたように、神様の慰めは、私たちにも約束されています。神様の愛は私たちに絶えず注がれており、私たちは神様の慰めで取り囲まれていることを知っているはずです。そして、神様の願いは、私たちを「慰めの子」とすることです。

慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。(イザヤ40:1)

 しかし私たちは、なかなか人を慰めることができません。苦難や悲しみの中にある人を見て慰めようとしつつも、自分の意見や判断基準が先に出て、結果的に、逆に相手に怒りや失望を与えてしまうこともしばしばです。だからこそ、神様の愛の源流である「慰め」をしっかりと知ることが大切です。今日のメッセージは、「何故人は慰めを必要としているのか?」「どうしたら人は慰められるのか?」「そもそも慰めとは何なのか?」について、⑤つのポイントを語られました。

(1)人は誰もが慰めを必要としている。
 私たちが直面している現実です。イエス様の時代もまた、多くの人々が飼う者のない羊のように弱り果てた状態でした。イエス様は彼らを見て、深く憐れまれ、癒し、御言葉を通して生きる希望と喜びを教えられました。今の時代も同じことが言えます。人間はさまざまな苦難に遭い、悲しみ、人生の真の目的を持たないまま彷徨っています。人間が生きるためには「慰め」が必要です。

(2)神様は私たちに「慰めよ」と命じられている。
 思いやり、いたわり合い、受容や励ましによって力と希望を回復させることが慰めです。そして何よりも“神の家族”の内に慰めがあります。私たちに必要な真の慰めは、「慰めよ」と仰る神様に立ち返るところから与えられることを知り、弱さや問題に不満を持つ人々を慰めて、魂の平安へと導くこと。これが父なる神様の願いです。

(3)自分の経験を用いる。
 人から慰められた経験のない人が、人を慰めることはできません。苦しみの渦中にある人、悲しんでいる人を最も慰めることができるのは、同様の苦しみ、悲しみを経た人なのです。神様は、誰をも愛しておられ、どんな経験をも無駄にされることはありません。苦しみの経験は、他の人を慰めるためにあるのです。

(4)自分の失敗を恥じ、隠さない。
 慰めは、取り繕いではありません。真の癒しを得るには自分の持つ傷を認めることが必要なように、自分の失敗を隠さずに相手と共有することができてこそ、真の慰めとなります。弱いところに神様が働かれるからです。

(5)自分自身が先ず神様からの慰めを受ける。
 御言葉には力があります。しかし、私たちの言葉に力がないと感じることがしばしばあります。何故?言葉に実体がなく、自分のスタンスを譲らないからです。経験を活かさず、失敗を見過ごし、癒されたつもり、大丈夫な感じ、治った思い込み。それは、神様の慰めを拒んでいることです。慰めを受けていないのです。御言葉は誰のために語られているでしょうか。慰めを受けるべきは誰でしょうか。その答えを知り、「あなた」に語られる慰めの言葉を受ける時、神様の慰めが「あなた」を通して流れ出します。

 神様にとって、私たちは大切な一人一人であり、その苦しみや悲しみを決して無駄にされません。辛い経験は、ほんとうに大切なものは何なのか、という問いに辿り着くための入口です。そこから「真理」に従う時、すべての苦難は祝福に変えられます。イエス様の十字架によって、その苦難が全人類の救いに変えられたように。

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〔写真:仁ちゃんBirthdayの一コマ)

2人の主人 マタイ6:19-24

2008年08月24日 | Celebration
先週の礼拝で、「神様における選択は、2つに1つ、中道はない」ことを分かち合いました。神様の支配の中に生きるか?サタンの支配の中に生きるか? 生か?死か?祝福か?呪いか?神様は、私たちにその選択を委ねておられます。モーセは遺言として、申命記30章15-20節でそのどちらかを選びなさいと言っていますし、ヨシュアも同じように、ヨシュア記24章14-15節で、それを自分の意志で選ぶように言っています。

 一般的に言っても、私たちは、呪いより祝福を選ぶことは確かです。誰も、災いは欲しくありませんし、幸せになることを望みます。しかし、現実を見ると、私たちは、呪いを取っています。何故、祝福を取らずに呪いを取ってしまうのでしょうか?「『祝福』と『呪い』」は、「『神』と『富』」と言い換えることができます。こう考えてみますと、現実的に私たちは、「神様」より、「富」を選んでしまうことが圧倒的に多いことがわかります。しかし、マタイ19章の「金持ちの青年」のたとえにあるように、「金持ちが天の国に入るのは難しい」のです。

金持ちが神の国に入るのよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。(マタイ19:16-30)

 ここでイエス様は、「金持ちが天の国に入るのは難しい」と言う意味ではなく、「不可能」だとおっしゃっているのです。それでは「富」とは、何でしょうか?「富」に対する私たちの姿勢が問われます。「『お金』を『自分のもの』」と思うか、「神様からの『預かり物』」と思うかによって富に対する姿勢、考え方、扱い方が変わります。「クリスチャンでお金持ち」と言うことは、クリスチャンである私たちの理想ですが、私たちは、持っているもの全てが、神様から与えられているもの、この人生での預かりもの、と考え、神様のために使っているでしょうか?

 お金、そのものは、無機質です。良いものでも、悪いものでもありません。しかし、サタンが、お金を利用して、人を神様から遠ざけようとさせます。イエス様は人間として生きている時、アラム語を使われました。「富」は、アラム語で「マモン」と言い、「強欲をつかさどる偶像の神」と言う意味がありました。神様は、時間を越えて、遍在することが可能ですが、サタンにはその能力がありません。ですからサタンは、多くのものを利用します。お金もその一つに数えられます。この御言葉には、金銭欲への警告が書かれています。

金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害な様々の欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。(Iテモテ6:9-10)

 現実に、今まで地上で起こった戦争や紛争のほとんどに利権が絡んでいると言ってもいいでしょう。それでは、私たちは、どうしたら、「富」の束縛、誘惑から解放されて生きることができるでしょうか? その秘訣が、今日の聖書箇所である、マタイ6章19-24節に記されています。

あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。(マタイ6:19-21)

 自分自身に問いてみましょう。今、自分の心に思い浮かぶものは、何でしょう?それが、私たちが「第一優先にしているもの」です。私たちの本音は、どこにあるのでしょう?本音を知るということは、とても大切なことです。自分の目の前に見たこともないような大金が目の前にあったら、どうするでしょうか?しかし、私たちは、裸で生まれて来て、裸で死にます。この世の物は、何一つ持って行くことができません。ヤコブ4章13-17節には、自分の命がどうなるか、わからないのですから、主の御心を求めることを大切にしなさいとあります。続いて、以下の御言葉には、21節を受けて、金銭への態度が実生活に強く影響することが記されています。

体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。(マタイ6:22-23)

 ユダヤ人の表現に「気前がいい人」を「目が明るい人」と言います。反対に、「けちな人」を「目が濁っている人」と言います。神様との関係が良い人は、人間関係も良く、その秘訣は、神に仕えることです。(マタイ6:24)それでは、クリスチャンは、お金持ちになることはできないのでしょうか?そんなことは、決してありません。マタイ6章25-34節には、「働いていない鳥や花でさえ、神様は、生かしてくださっている。神様を第一としているクリスチャンはもっと価値があり、全てのものが与えられる」と記されています。

 神様を第一優先とするクリスチャンは、神様がその人の人生を豊かに祝福してくださると保証してくださっているのです。クリスチャンが神様を試すことは罪です。しかし、神様は、私たちクリスチャンが、什一献金(じゅういちけんきん=収入の十分の一を献金として献げること)を持って試しても良いこと、そして、神様は、必ず、天の窓を開いて、祝福を限りなく注ぐことをお約束くださっています。(マラキ3:10)

 どちらか1つを選ぶことは、とても大変なことです。しかし、クリスチャンは、いつも天国への希望を持っています。この世にある人生がつらくても、神の国で永遠の命と祝福を得る方がどんなに幸いでしょう。この世は、限りがありますが、神の国は、永遠に続くのです。この世にある人生がどんなに快適でも、死んで、永遠の滅びと苦しみの中で過ごすのとどちらがいいでしょう?私たちは、今、この人生で、その決断をする必要があります。

 そして、その決断をした私たちを、神様が放っておかれることは決してありません。イスラエルの人々がエジプトから脱出した時、昼は「雲の柱」、夜は「火の柱」がイスラエルの人々を導きました。マナが天から降って来て、荒れ野でのイスラエルの人々の食生活を支えました。カナンの地では、十戒が記された石板を収めた契約の箱とそれを安置した幕屋が、イスラエルの人々の生活の中心におかれ、カナンの地は、乳と蜜の流れる豊かな土地で、多くの産物でイスラエルの人々の生活を支えました。

 現代は、イエス様を信じるクリスチャン、一人一人に与えられた聖霊様によって、導かれ、教会に集う、兄弟姉妹によって、励まし合い、助け合うことができます。聖書も私たちのクリスチャンライフを正しく導いてくれます。私たちは、決して一人ではありません。マタイ7章13-14節にあるように、この世の人生で神様を第一にすることを選ぶことは、狭い門を通るようなものです。この世の人生で神様以外のものが良く見えることが沢山あります。私たちは、神様以外のものに心を奪われることは、とても簡単で広い門を通るようなものです。天国は、誰にでも用意されています。しかし、それを選ぶことは、私たちにとって、時として簡単ではないことをこの聖書箇所は語っています。ですから、神様に従うことを明確に選び取り、神様に依り頼みつつ、祝福された人生を歩んでいきましょう!

二つの人生 Ⅱテモテ4:6-8

2008年08月17日 | Celebration



 人間にとって、人生におけるいちばんの困難は、何でしょう?おそらくそれは「死」という現実でしょう。人間は、生まれてきたら、必ず死にます。「死」は、私たちの人生に決定的な打撃を与えます。ところが、一般的に私たち、日本人の「死」に対する態度は、以下の3つであると言ってよいでしょう。
1つ目は、「縁起でもない」と回避してしまう。
2つ目は、「日常生活が忙しくて、考えられない。」
3つ目は、「どうせ、死ぬなら人に迷惑をかけずに、ぽっくりといきたい。」と言うあきらめ。
どれも死に対して、受身な態度です。このような態度は、「生死観」のあいまいさから起こります。

 しかし、死を怖がらない人は誰もいません。人は皆死ぬのが怖いのです。地震や火事があったら、まず、身の安全を確保しようとほとんどの人は必死に逃げます。これは、「死」への恐怖から起こる行動です。何故、人は「死」を恐れるのでしょうか?それは、死んだ後、どうなるのかよくわからないからです。人は死んだら終わりではないと言うことを本能的に知っているのです。人は、自分がわからないものや理解できない状況に怖れを感じます。ですから、死んだら、自分がどこに行くのかわからない、どうなるのかわからないことに恐れを感じるのです。

 私たちは、正しい「生死観」を持つ必要があります。正しい「生死観」をこの世に提供できるのは、聖書だけです。それでは、聖書の「生死観」とは、どう言うものでしょうか?それは、クリスチャンがこの世において、どのように生きているかと言うことにつながります。パウロさんが、今日の聖書箇所である、テモテ第二の手紙を書いた時、彼は、牢獄に囚われ、処刑を待っている時でした。それは、現代の死刑宣告を受けた受刑者が死刑執行日を待っている状況と全く同じです。しかし、彼は、人を殺した凶悪犯罪者ではなく、イエス・キリスト様の御名によって伝道した故でした。パウロさんと一般の死刑受刑者の違いは、今日の聖書箇所のⅡテモテ4:6-8を読んでみると、彼は全く「死」を怖れていないことが分かります。

「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(Ⅱテモテ4:6-8)

 あなたは、「『死』を怖れる人生」と、「『死』を怖れない人生」、どちらの人生を送りたいと思いますか?今日は、「何故、クリスチャンは、死を恐れないで生きることができるのか?」その4つの理由をみなさんと共に分かち合いたいと思います。

1)死の正体を知っている

 パウロさんは、先に記したⅡテモテと共にフィリピ信徒への手紙も獄中で記しました。その手紙は、「喜びの書簡」とも呼ばれています。死を目前にしたパウロさんが「喜んでいる」こと、そして、フィリピのクリスチャンたちにも同様に「喜びなさい」と勧めています。いったいどうしてパウロさんは、自分の「死」を前にして人々に喜びを分かち合うことができたのでしょうか!?

 パウロさんは、「死」の正体が何であるか知っていたのです。そのことをパウロさんは、使徒言行録26章1-18節で語っています。パウロさんは、最初、クリスチャンを迫害していました。パウロさんは、ステファノの殉教に立ち会いますが、クリスチャンは、イエス様を否定して生きるよりも、喜んで死ぬことができる人々で、彼の目には、不思議に映りました。彼は、益々、クリスチャン迫害に力を入れますが、ダマスコの途上で、死んだはずのイエス様に、それも白昼、大勢の人々がいる中、出会います。その時、パウロさんは、はっきりと悟るのです。「『死』は死ではない」と言うことを。「クリスチャンは、イエス様の復活に預かって、肉体の死を体験しても死なない」と言うことを。パウロさんは、Ⅱコリントの信徒への手紙4章14節で、そのことについてこのように記しています。

「主イエスを復活させた神が、 イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」

2)死は天国への入り口

 私たちは、「私たちの人生は、この世だけ、死んだら全てが終わる」と思いがちです。しかし、そうではありません。礼拝の中でもよくお話しする、「エネルギー保存の法則」によると、全ての物質は、形が変わってもエネルギーとして存在し続けます。水が蒸発したからなくなったとは、私たちは思っていません。水が蒸発しても水蒸気として存在しています。人間も同じです。人間の肉体が滅びても、人間の「霊」も存在し続けます。肉体を持った人生は、70年から80年ほどですが、霊だけの人生は、永遠に続きます。そして、霊だけの人生には、天国と地獄が存在します。そして、天国であれ、地獄であれ、この地上の人生を終えた次の世界は、永遠に続くのです。

 一般的に私たちは、死ぬまでに、こんなことをしよう、あんなことをしようと、考えますが、クリスチャンは、死後の世界、永遠に続く世界のためにこの人生を歩みます。すなわち、クリスチャンにとって、「今ある人生は、死後の世界(=天国)へ行くまでのリハーサル」なのです。フィリピ信徒への手紙3章20節では、「わたしたちの本国は天にあります。」と書かれています。これは、パウロさんの確信、クリスチャンの知っている事実です。「死」は、この世の人生と次の人生との間にある「接点」です。そして、クリスチャンは、その死後の世界、「天国」こそが、自分たち住むべき所として考えているため、死を恐れないのです。

3)死後は安息

 先に記したことを踏まえ、死は、この世の人生から、もう一つの人生、クリスチャンにとっては、「天国」と言われる所に移る通過点です。Ⅱテモテへの手紙、4章6節に「世を去る時が近づきました。」とありますが、この「世を去る」と言う言葉には、「家畜の軛の結び目を解く」、「天幕をたたむ」、「船出のために繋がれたロープをはずす」と言う意味があります。

 パウロさんは、フィリピの信徒への手紙1章20-25節で、伝道におけるこの世の迫害から解放されて(=死んで)、神の元へ行くのも、生きてこの世でイエス様を宣べ伝えることも、どちらも益になるから、どちらを選んでいいかわからないと言っています。クリスチャンにとっては、この世の中は悪魔に支配されているため、生き難い場所です。ですから、クリスチャンにとって、この世を去るとは、まさに「家畜が軛から解放される」、「天幕をたたんで、新しい土地に行く」、「繋がれたロープをはずし、船出する」そして、神の国で安息することを意味しています。

4)死後、全てが明らかにされる

 この「世を去る」と言う意味は、もう一つあり、ギリシア語で「アナルヨ」と言います。この「アナルヨ」と言う言葉は、「分析する=Analyze」と言う言葉の語源です。「アナリスト=Analyst、評論家」と言う言葉も、この「アナルヨ」から来ています。つまり、「世を去る」と言う意味は、「明らかになる」と言う意味があります。この世の中には、戦争や、無差別殺人、飢餓、災害など、不条理なこと、疑問に思うこと、納得のいかないことが沢山あります。しかし、世を去った時、全てが神様の元でそれらのことが明らかにされるのです。神様の深い計画は死後明らかになるのです。それは、クリスチャンであろうと、ノンクリスチャンであろうと神様が愛であり、義であることが、死後、明確になるのです。ですから、「死」は、損失でもなく、悲劇でもなく、クリスチャンには、希望なのです。

 クリスチャン作家である、三浦綾子さんは、20代の頃から死に至るような病気に何度もなっていました。しかし、彼女は、生前、自分が神様からえこひいきされているほど愛されていると言いました。「死」を前にすると、その人自身の本質が出ます。クリスチャンにとって、死に至る病が癒されても主に感謝、癒されなくても主に感謝なのです。

 人間の「死後の世界」について、はっきりと私たちに教えてくれているのは、「聖書」だけです。その聖書によると死は、悲劇でも損失でもなく、「希望」です。私たちはこの希望に向かって歩んでいくと共に、死後についての正しい知識を知らない人々に、その確かな希望を伝えていきましょう!

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ヤロブアムの道 列王記下17:18-23

2008年08月10日 | Celebration
皆さんは、旧約聖書に登場する人物の中で、「悪人」と言うと、誰を思い浮かべますか? ダビデが戦ったゴリアテ、北イスラエル王国のアハブ王、ユダを滅ぼしたネブカドネツァル王等々、何人か名前が出てくると思います。今回の礼拝の副題には、「救いを妨げるもの」とありますが、それが、「ヤロブアムの道」です。「ヤロブアム」とは、北イスラエル王国の初代の王様の名前ですが、北イスラエル王国が約200年間存在する中で、常に「ヤロブアムの道」と言う言葉が聖書の中に記されています。それは、「神様から離れてしまった罪」、いわゆる「呪い」を意味しています。(列王記上15:34、16:2、16:19、16:26、22:53、列王記下10:28、13:2、13:6、14:24、15:24、15:28、17:21-22)

 ヤロブアム王は、いったいどれほど恐ろしい王様だったのでしょう? 実はそうではありません。彼はソロモン王の重臣だった人で、真面目で、有能で、民からも尊敬を受けていた人でした。そして、預言者アヒヤから神様から、ソロモン王亡き後、イスラエルを治めるように指名されるほどの人物だったです。(列王記上11:26-35)

 それが、なぜ、悪の象徴のような「ヤロブアムの道」とまで言われるようになってしまったのでしょうか? ソロモン王の死後、彼の息子のレハブアムが王様になりますが、それまでイスラエルの民は、過酷な労働と重税を強いられていました。そこで彼らは、ヤロブアムと共に、今まで課せられていた労働や軛を軽くしてくれるようにレハブアムに頼みます。ところがレハブアムは、「民に仕えれば、民があなたに仕えるでしょう」という長老の提言を無視して、自分と共に育った若者の勧めに従って、イスラエルの民に更なる重い軛を負わせようとしました。そうしてイスラエルの民たちは、レハブアムの支配から離れ、ヤロブアムを王とした新しい国を立てることになったのです。(列王記上12:3-20)

 北イスラエル王国の王様となったヤロブアムは、ある日こう考えます。「この民がいけにえをささげるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダの王レハブアムに向かい、彼らはわたしを殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰ってしまうだろう。」そして、彼はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り、イスラエルの人々にこの金の子牛を礼拝するように言います。(列王記上12:26-30) 彼にとっては、イスラエルの民がユダ王国に戻らないための政治政策だったのでしょうが、神様の目には偶像崇拝であり、北イスラエル王国の罪の源になる出来事でした。

 神様は、ヤロブアムの元に神の人を遣わし、警告をしますが、ヤロブアムは、自分の手が萎えても、自分の罪を悔い改めることはしませんでした。(列王記上13:1-7、33-34)更に、ヤロブアムは、自分の息子が病気になっても、神様の前にへりくだり、罪を悔い改めることをしませんでした。むしろ、自分の奥さんを変装させて、神の人の所に送り、息子の病気に着いての託宣を求めようとしました。そのようなヤロブアムに神の人は、「主は、ヤロブアムが自ら犯し、またイスラエルに犯させた罪のゆえに、イスラエルを引き渡される。」と預言します。(列王記上14:1-16)

 ヤロブアムは確かに優秀でした。しかし、彼は神様に従うことをしませんでした。彼は、ソロモン王の後継者として、神様から選ばれたのにもかかわらず、神様に頼らず、自分の力で、自分の判断で、国を治めようとしました。このことが結果的に恐るべき偶像礼拝を招き、それがイスラエルを滅びに招いたのです。さて、このようなイスラエルの歴史から私たちは、何を学ぶことができるのでしょうか?

 人間は、誰しも、悪いことをしたくない、良いことをしたいと思っています。しかし、良いことが出来ないことの方が多いのです。遅刻しないようにしようと思っても、ついつい、約束の時間が守れない。悪い言葉を言ってはいけない、いい言葉を言おうと思っても、ついつい、悪い言葉を使ってしまう。クリスチャンであるならば、神様に従っていこうと思っても、神様の御心とは、違った方向に歩んでしまっている、神様と離れた歩みをしてしまう。このように神様と私たちの間を阻む、私たちにとっての「ヤロブアムの道」は何なのでしょうか? 今日は、神様と私たちの間を妨げる5つ障害について分かち合いましょう。

1)世界観
 これは、私たちが持っている価値観と言い換えてもいいでしょう。私にとって、この世の中で、何が価値あるのか、ないのか?私にとって、この世の中で、何が大切で、何が大切ではないのか?私は、世界が偶然できたと考えるのか?それとも、神様によってできたと考えるのか?自分は、何のために生きているのか?私たちが持っている世界観がどれほど、人道主義に溢れ、すばらしく、世界中の人々から絶賛されても、イエス・キリスト様にない世界観は、私たちの救いを阻みます。この世で、人がうらやむような成功を収め、生活をして、人から賞賛を受けても、死んで後、天国に行けなければ、全ては、無意味です。この世のものに囚われるのではなく、イエス様にある世界観が私たちには必要なのです。

2)生活習慣
 朝寝坊、長電話、長ビデオや長ゲーム、飲酒、喫煙、私たちには、知らず知らずに慢性化してしまっている生活習慣があります。また、盆踊りや縁日、仏壇に手を合わせる、お墓参りをする、初詣などに行く等々・・・多くの日本人にとっては生活習慣化されている行事ですが、これらは明白な宗教行為であり、偶像崇拝です。そして、これらの習慣は、神様と私たちの関係を明らかに妨げるものです。先に記した、「世界観」が私たちの生活習慣に意識的にも、無意識的にも大きく影響しています。「罪を犯さず、真面目に生きていれば、天国に行ける」と思って、一生懸命努力して、生活しても、残念ながら、天国には行けません。天国に行くには、イエス様に自分の罪を告白し、赦していただき、これからの人生をイエス様に従って歩んで行こうと言う決断が必要です。

3)罪
 日本人にとって「罪」とは、「犯罪(Crime)」を意味しますが、本来の罪の意味は、「神から離れている(Sin)」ことを指します。私たちが普段特に罪意識を感じていない「嫉妬」、「打算」、「怠惰」、「貪欲(むさぼり)」、「個人主義」、「物質主義」、「自己否定」、これらは全て、自ら招き入れている罪です。

4)傷
 「憎しみ」、「怒り」、「自己憐憫」、「被害妄想」、「トラウマ」、「依存症」、これらは全ていつか自分が受けた心の傷によって引き起こされています。自分では、気付いていない未だ癒されていない傷に、自分が支配されてしまい、神様との関係が妨げられます。

5)サタンの働き
 先に記した4つの要素にサタンは取り憑きます。私たちの世界にも、「この地上で物を落とすと必ず、下に落ちる」などの法則があるように、霊の世界にも法則があります。サタンは、私たち人間が、イエス様に基づいていない世界観や生活習慣を持っていたり、イエス様によって癒されていない罪や傷を持っていたりすると、そこに取り憑いて、神様と私たちとの関係を妨げようとします。自分の中にサタンが入り込んで来る理由が何なのかをしっかりと把握し、それらのものをイエス様によってきちんと処理することでサタンの働きを封じ込めることができます。

 神様は、決して私たちに災いを与えることはありません。神様は、私たちの前に祝福と災いが置かれていて、どちらかを選ぶのは、私たち自身の選択に任されています。(申命記11:26-28)しかし、私たちは、どうしても、祝福と呪いの真ん中を行こうとしてしまいがちです。婚前交渉や同姓愛に対して、神様ははっきり「罪」だとおっしゃっているにもかかわらず、教会やクリスチャンの中には、それを認めることが寛容だと勘違いしていることがあります。

 私たちクリスチャンは、不倫や、婚前交渉や、同性愛に陥っている人々を裁くのではなく、また、感情によって擁護するのでもなく、先ずその行為自体が神様の道に反する『罪』であることを明確にしておく必要があります。私たちは、どうしても楽な道を辿ろうとしてしまいがちです。朝、早起きして礼拝に行くことより、ゆっくり寝ていた方が楽です。教会で、気の合わない人と一緒にすごすより、他の場所で、気の合う人と一緒にいる方が楽です。聖書を読むより、テレビドラマを見ていた方が楽しいかもしれません。

 しかし、死んだ後、永遠の喜びに満ちた天国で過ごすのと、永遠の苦しみに満ちた地獄で過ごすのと、どちらがいいでしょうか?この世の中は、いつかなくなります。無限の苦しみの中で過ごすぐらいなら、限りある人生の中でいくらかの苦しみを体験する方がよっぽどましでしょう。そして、クリスチャンには、神様にある労苦、軛(くびき)は、無限の喜びへと変えられる過程です。神様は決して、私たちに負えない労苦、軛(くびき)を負わせることはしません。むしろ、イエス様にある労苦、軛は、軽いのです。(マタイ11:30)

今週もイエス様と共に神様の道を歩んで行きましょう!



〔第一のポイント部分〕



〔第二のポイント部分〕

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対神対人関係 イザヤ58:9-12

2008年08月03日 | Celebration

「あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば、『わたしはここにいる』と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことをあなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は真昼のようになる。主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたを潤された園、水の涸れない泉となる。人々は、あなたの古い廃墟を築き直し、あなたは世々の礎を据え直す。人はあなたを『城壁の破れを直す者』と呼び、『道を直して、人を再び住まわせる者』と呼ぶ。」(イザヤ58:9-12)

ここ数ヶ月、日本では無差別殺人事件が数多く、起きています。多くの殺傷事件の要因には、金銭的関係、個人的怨恨が見られますが、最近の事件は、そのどちらにも当てはまりません。秋葉原で起こった、通り魔殺人事件の犯人は、サイトの掲示板に数え切れないくらい書き込みをしたけれど、誰からも応答がなかったこと、事件を起こして、取調べを行なった警察官が初めて、自分の話をきちんと聞いてくれたと語っています。社会学的、教育学的、心理学的、精神医学的にこのような凶悪犯罪に対する解明はされていくと思いますが、このような事件の犯人たちは、「自分が認められていない」と言う不満が、怒りに変わり、それが、このような犯罪を引き起こす大きな要因に感じられます。

 それでは、神様を知っている私たち、クリスチャンは、このような社会の中で、何を提供できるのでしょうか?クリスチャンは、神様から与えられている霊的側面で物事を考えることができます。この霊的側面が、このような惨事を起こさない根本的解決になるのです。
今日は、この霊的側面から見た対神関係のポイントを2つ、対人関係のポイントを2つ分かち合いましょう。

対神関係その① 「あなたは価値があると言ってくれる方が存在する」

 一般的に私たちは、「全ての人間には、価値がある」と考えています。私たちは、子供の頃そのように教えられてきましたし、また、教える立場におられる方もいらっしゃるでしょう。しかし、現代の世の中は、「勝ち組」、「負け組」などと言う表現が横行しています。本当に全ての人間に価値があるのでしょうか?何を根拠に人は、人に対して、「あなたは価値がある」と言えるのでしょうか?この世の中の価値は、全て相対的です。政治的価値も、社会的価値も、流行も常に変わり続けています。普遍的価値はこの世には、存在しません。ですから、人間が他の人間の価値を計ることは、不可能なのです。しかし、神様は、私たち一人、一人を愛し、この世に意味ある存在として生命を与えてくださいました。神様は、私たち、人間の一人、一人の価値をご存知です。そして、神様は、私たち一人、一人にこのように語りかけてくださっています。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)

対神関係その② 「神様の私たちに対する愛は無条件=恵み」

 前にも記したように、人は、その時代の価値観で人を判断してしまいます。「○○大学を卒業した」「年収の多い人が素晴らしい」「会社でいちばん、早く出世した」など、など。しかし、それは、その人の行動の結果です。現代の世の中は、「~ができれば、価値がある」言う、その人の行動の結果で価値を計ります。新興宗教と呼ばれる宗教団体の中にもそのような価値観がまかり通っています「いくらお布施をすれば、救われる」とか、中には、入信するのに試験がある宗教団体もあるそうです。

 しかし、イエス・キリストの父なる神様に愛されるため(救われるため)には、そんなことをする必要は一切ありません。ありのままの私たちで、神様から受け入れられるのです。この2つのポイントである神様の愛を私たちは、自分の心にしっかりと受け止めることによって、「自分には、価値がない」と落ち込むことがなくなります。神様と私たち、個人の関係、「対神関係」がしっかりと保たれることによって、私たちは初めて、この世の価値観の中での人との関係、「対人関係」を豊かに保つことができます。

対人関係その① 「他者との比較は無意味」

 神様は、私たち一人、一人を愛し、この世に意味ある存在として生命を与えてくださいました。この世に生を受けた私たちには、それぞれの目的があります。神様は、一人として同じ人を創造していません。人は、それぞれ、違う目的のために創られていますから、他の人と自分を比べる必要は、ありません。椅子もテーブルも「家具」と言われますが、椅子とテーブルは、作られた目的がそれぞれ違います。ですから、椅子とテーブルを比べても意味はありません。同じように、私たちと他の人は、同じ人間ですが、創られた目的が違うのです。むしろ、自分が何の目的のために生命を与えられたのか?その目的を明確にする必要があります。その目的を見つけられていなければ、私たちを創られた神様に聞いてみましょう。神様は、必ず教えてくださいます。

 パウロさんは、異邦人の救いのために働かれた伝道師です。彼は、自分の人生の目的を知り、その行程を走り抜いたと断言しています。(Ⅱテモテ4:7)また、彼は、私たちが、自分の人生を終えた時、神様が与えてくださった目的において自分自身について申し述べる必要がある(ローマ14:12)とおっしゃっています。対神関係で記したように、神様は、私たちを他の人とは、比べません。ただ、神様は、私たちが与えられた目的に対し、どうであったかを判断されます。

対人関係その② 「道は尊厳にして、犯すべからず」

 「道」とは、「人生の目的の行程」です。私たちの人生の目的は、「人生で、自分は何が得られるか?」と言うことよりも、「人生で、自分は何が与えられるか?」と言うことが大切です。これは、クリスチャン、ノンクリスチャンに関わらず、この世界で大きな成功を収めている人々に共通する「人生の法則」です。なぜなら、「人生で、自分は何が与えられるか?」と言う、法則は、「神の真理」だからです。

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失うものは、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(マルコ8:35-36)

 私たちの人生は、神様のため、社会のため、人のために生きることによって、社会の幸せ、人の幸せ、自分の幸せになるのです。それが、「神の真理」、「人生の法則」です。クリスチャンである私たちは、これらのことをすでに知っています。ですから、私たち、クリスチャンが、教会が持っている、この解決をしっかり理解し、まだ、神様を知らない人々、自分自身の価値を見出せずに苦しんでいる人々に伝えていきましょう!



〔Good News Station 8/03/08 礼拝メッセージから 田中啓介牧師(5:05min)〕


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