Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

天国への橋渡し ルカ23:32-49

2008年01月27日 | Celebration
 クリスチャンにもいろいろな人がいます。また、教会もいろいろな教会があります。しかし、イエス様の十字架の理解は、同じである必要があります。イエス様の十字架こそが「天国への橋渡し」です。今日は、ルカによる福音書23章32-49節を通して、イエス様が十字架にかかられた時、発せられた7つの言葉を通して、十字架=救いの本質を田中啓介牧師に語っていただきました。

 イエス様の十字架上の7つの言葉は、福音の本質でもあります。ですから、もし、信仰生活の中で、イエス様に対する疑いや失望を感じた時、イエス様を知らない人からイエス様のことを聞かれた時、この7つの言葉によってイエス様がどれだけ私たちを愛してくださっているかを理解し、豊かな信仰生活、また一人でも多くの方に福音を伝えて歩んでいくことができるのです。

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」(ルカ23:34)

 この言葉は、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれたものなら、自分を救うがよい。」と言った、議員や民衆、すなわち、神を冒涜し、神様であるイエス様を今、まさに殺そうとしている人々に対して発せられた言葉でした。この言葉から、イエス様は、自分を冒涜している人々、敵対している人々に対しても、とりなしをされています。イエス様は、まさに全人類のとりなしをされたことがわかります。

はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)

 この言葉は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った、一緒に十字架につけられた犯罪人に対して発せられた言葉でした。死ぬ間際に人間は、その人の持っている本質が出ると、よく言われます。イエス様の右の十字架に架かった犯罪人は、自分のやったことの報いを受けていることを認め、悔い改め、イエス様に告白をします。彼には、利害関係の計算は、ありませんでした。イエス様の左の十字架に架かった犯罪人のように、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と毒づくこともできました。しかし、彼は、真の悔い改めに導かれたのです。そして、イエス様は、彼に対してこの言葉をかけました。まさに「主の御名を呼ぶ者は、皆、救われる」(ヨエル3:5)と言う御言葉の成就でした。

婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」 「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

 この言葉は、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、発せられた言葉です。この弟子は、一般的にヨハネであると言われていますが、定かではありません。ヨハネの黙示録12章を注意深く読むと「母」は、「教会」を意味します。イエス様は、固有名詞で記されていない弟子に「母」を託されたのは、ご自分の弟子(現代の私たちも含む)、全てに「教会=イエス様のご自身の働き、伝道」を託されたのです。それは、私たち、クリスチャンが「互いに愛し合うこと」をイエス様が十字架の死に至るまで望んでいたことです。

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)
(マルコ15:34にも同じ言葉が記されていますが、マタイはヘブル語、マルコはアラム語で記されています。)

 イエス様が十字架につけられたのは、神様の計画でした。それは、全人類の罪の贖いを罪のない神の御子であるイエス様の命を捧げることになされたものです。イエス様が十字架につけられた時、イエス様は、人間として十字架の痛みを体験されました。また、父である神様の全人類の罪に対する怒りを体験されました。父である神様と子であるイエス様は、どんな時も一緒でした。しかし、十字架につけられている時のイエス様は、私たちの罪を負われていたため、聖であり、義である神様は、はじめて父である神様と子であるイエス様の関係を断たれたのです。聖書の中に、昼の12時ごろであるはずなのに全地が暗くなり、それが3時まで続いたと書かれています。(ルカ23:44)光である神がご自身を隠されたことにより、全地が暗くなったのです。

渇く」(ヨハネ19:28)

 イエス様の十字架上の痛み、苦しみは、人間の持つ肉体的な痛み、苦しみと共に、いつも共にいた父である神様との関係の断絶による精神的な痛み、苦しみでもありました。そのことが、「渇く」と言う言葉に表されたのです。私たちは、自分の救いに関してよく考えます。それでは、神様の私たちに対する救いに関してどうでしょう?救われることは、恵みです。良い行いも、多額な献金も必要ありません。ただ、イエス様に自分の罪を告白し、悔い改め、イエス様に共にこれからの人生を歩んでいただくことをお願いすればいいのです。そのために神様が払った犠牲は、どんなに大きいものだったのでしょうか?イエス様が十字架に架からなければならなかったほどの私たちの罪の大きさ、重さ、深さはどれほどだったのでしょうか?

 神様は、「義」です。ですから、人間の罪を見過ごすことはできません。しかし、神様は、「愛」です。ですから、愛する人間を滅ぼすことはできません。この二つの事実の中で神様は、どれだけ苦しまれたことでしょう。神様は、義を立てると共に人間を滅ぼさないために神ご自身が自ら(イエス・キリスト様)を罰せられたのです。真の愛は「義」に裏付けられています。「愛」には、責任が伴っています。神様の「愛」は、私たちの考えや思いをはるかに超える形で表されています。それが、十字架上のイエス様です。自らの命さえも犠牲にされる愛なのです。

成し遂げられた。」(ヨハネ19:30)

 この言葉は、ギリシア語の会計用語、「テテレスタイ=完済した」が使われています。完済、すなわち、「全ての負債が一銭残らず完全に支払われた」。それは、私たちの罪が、イエス様の十字架上の贖いによって完全に赦されたと言うことを意味しています。十字架上の出来事は、全て旧約聖書の詩篇22編に記されていることです。イエス様の十字架上の贖いは、神様の計画であったことがここで明白にされています。十字架は、義の勝利、復活は、勝利の宣言なのです。

父よ、私の霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

 イエス様が十字架上の贖いを終えられた時、イエス様は、地上での目的を果たされました。そして、再び、父である神様の元にイエス様の霊は戻られました。それは、十字架にかかられていた時に4番目に発せられた「わが神、わが神、…」と父である神様におっしゃった言葉とは、違い、「父よ」といつもイエス様がおっしゃる言葉になっています。その時、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」と聖書に書かれています。神殿の垂れ幕の向こうは、大祭司しか、それも、決められた時にしか、神様に捧げ物を捧げるために行くことができませんでした。垂れ幕は、神様と私たちの間を隔てていたものです。しかし、イエス様が十字架上の贖いを完了された直後、神様と私たちの間を隔てていた垂れ幕が真ん中から避けたと言うことは、「私たちと神様の間を隔てる物は、何もなくなった」と言うことの象徴です。イエス様の十字架上の贖いによって、私たちは、大祭司を立てる必要もなく、自ら、神様の御前に行くことができるのです。

 今週も、イエス様の十字架上の7つの御言葉とその内にある神様の深い愛を覚えつつ、神様に仕えつつ、イエス様のことを来るべき代に語り伝え、その成し遂げてくださった恵みの御業を全ての人に告げ知らせましょう

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放蕩の後 ルカ15:11-24

2008年01月20日 | Celebration
「聖書の中で最も大切な神様の命令は何でしょうか?」 この問いにあなたは何とお答えになりますか? 聖書の中にある神様の命令は、いくつかあります。

モーセさんが荒野で神様から与えられた十戒(出エジプト20:2-17)。
イエス様が天に昇られる前にお弟子さんにおっしゃった大宣教命令(マタイ28:18-20)。
律法学者がイエス様に聞いた第一の掟と第二の掟(マルコ12:28-34)。

 それらの命令は、勿論どれも大切ですが、今日はこの御言葉から、田中啓介牧師を通してメッセージをいただきました。

「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)

 もし、私たちが、聖霊に満たされていないクリスチャンであったら、クリスチャンとして歩む日常は、とても大変です。なぜなら、ガラテヤ5章17節に書かれているように「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」とあります。肉と霊を持つクリスチャンは、肉の望むところ、すなわち、肉欲や欲求、自己中心的な思いと、神様が望むこと(肉の望むところと反すること)が自分の中にあり、絶えず、反するため、自分だけの力で、神様の命令を行なおうとすると、生活の中で矛盾や困難が生じます。

 しかし、聖霊に満たされると、クリスチャンは、人知では計れない神様の力を受けます。その神様からいただいた力によって、聖書の中にある全ての神さまの命令を遂行することができるのです。ですから、聖霊を受けることは、とても大切であり、だからこそ、神様は、私たち、クリスチャンに「霊の導きに従って歩みなさい」と命令されたのです。

 「聖霊を受けている人」=「クリスチャン」です。なぜなら、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(Iコリント12:3)と聖書に書かれています。ですが、私たち、人間は、どのクリスチャンが、どれだけの聖霊様を受けているかは、分かりません。それは、神様だけがご存知です。ですから、「聖霊を受けているか、受けていないか」で霊の家族として裁きあうことがないように努めましょう。しかし、聖霊様に満たされている度合いによってそれぞれのクリスチャンライフは異なります。神様ともっと深い関係を望み、神様が私たちに望んでいらっしゃる心、行動を伴ったクリスチャンになりたいと願っていらっしゃる方は、もっと、聖霊様に満たされることを切に願いましょう!

 それでは、どうしたら、もっと、聖霊に満たされることができるのでしょうか?「聖霊に満たされること」は、「泳ぎ方を習うこと」に似ています。どんなに本を読んで勉強したとしても、どんなに理論や技術を知っていたとしても、実際に水の中に入って経験してみなければ、泳げるようにはなりません。聖霊に満たされるためにも、自分自身がまず神様(聖霊様)の中に飛び込んでみる決心が必要です。そのために必要な5つのポイントがあります。そのポイントを今日の聖書箇所である、ルカによる福音書15章11-24節の『放蕩息子』のお話から学んでいきましょう。

1)罪を告白する

  信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主に癒していただくために罪を告白しあい、互いのために祈りなさい。」(ヤコブ5:15-16)

  自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は、真実な方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Iヨハネ1:8-9)

 この2つの御言葉は、信仰を持った私たち、すなわちクリスチャンに向けて語られています。イエス様を受け入れても私たちは、この世で肉体を持つ限り、罪を犯します。ですから、犯してしまった罪を告白し、神様から赦しをいただきましょう。

2)罪を放棄する

 この世で肉体を持つ限り、イエス様を受け入れているクリスチャンも、受け入れていないノンクリスチャンも罪を犯すと言うことについては、同じです。しかし、イエス様を知っている、クリスチャンは、イエス様を通して、罪を告白し、赦していただけることを知っています。すなわち、クリスチャンは、自分が罪を犯しているかどうか、と言うことを知っていると言うことです。罪は、滅びに至ります。ですから、イエス様は、姦淫を犯した女性に対して、こうおっしゃっています。

私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してならない。(ヨハネ8:11)

 罪のある所には、聖霊様は働けません。なぜなら、三位一体の聖霊様は、父なる神様、イエス様が義であると同様に、義であるからです。いつまでも、罪の中に自らを置くクリスチャンであるか?それとも、聖霊様を受けて、祝福を受けるクリスチャンであるか、神様は、私たちにその選択を任せていらっしゃいます。

3)自分を明け渡す

 「置換の法則」をご存知ですか?水がいっぱいに入ったコップに氷を入れると、水は、溢れてこぼれてしまいます。「二つの物体は、同時に同じ空間を占めることができない」と言う法則です。私たちは、日常生活の中でこの法則をよく理解しています。クリスチャンとして、神様の御心を生活の中で実践していきたいと思う反面、「自分は、こう言う事がしたい、ああ言う事もしたい。」と言う、思いでいっぱいになってしまっていませんか?

 そう言った状態では、神様の御心を教えてくださる聖霊様は、自分の思いでいっぱいになってしまっている私たちの中には、入ってくることができません。それが、たとえ、罪ではなくても、です。神様の思いと自分の思いが一致しているかどうか、吟味する必要があります。神様の思いは、私たちを祝福したいという思いです。

 私たちの思いの中には、幸せになりたい、祝福を受けたいという、思いがありますが、その思いは、神様の完全な計画と比べると決して、完全ではなく、自己中心的なものから離れることができません。ですから、まず、私たちは、自分の思いを主の前に明け渡し、神様の思い、聖霊様が入りやすい状態に私たちがなる必要があります。すると、神様の私たちの思いを越えた祝福で満たされるのです。

4)神様に従う

また、神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。(使徒5:26)

 聖霊様に満たされるポイントは、このように聖書にはっきりと書かれています。自分を明け渡したクリスチャンに聖霊様は、豊かな満たしを与えてくださいます。その中で、神様の御心、神様が、私たちそれぞれにして欲しいことを語られます。その語りかけに耳を傾け、従っていきましょう。すると、聖霊様は、益々、私たちを満たしてくださいます。

5)神様を信じ続ける

 これらのポイントを理解し、実行しても、時として、私たちは、また、罪を犯してしまうことがあります。また、これらのポイントを実行しても、聖霊様の満たしを実感できない時もあります。疑いや失望を感じることがあるかもしれません。しかし、それは、サタンが神様と私たちの関係を邪魔しようとして起こることです。ですから、神様を信じ続けることが大切なポイントです。神様を信じて、私たちの全てを神様に委ねた時、私たちは、聖霊様の満たしを受け、神様の人知では計り知れない、力を受けるのです。

 放蕩息子は、父親が生きている時にその財産を分けるように要求したという、通常ユダヤ社会では(現代においてもですが)考えられないことをします。それだけでなく、その財産を全部無駄使いしてしまい、最後には豚のエサで飢えを凌ぐまでに落ちぶれてしまいます。そこで彼は、やっと我に返るのです。ここで彼は罪の告白をします。

「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格は、ありません。雇い人の一人にしてください』と。」(ルカ15:18-19)

そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。(ルカ15:20)

 とあります。彼は、自分の罪を放棄したのです。そして、父親に会い、父親の前で、罪の告白をします。彼の告白には、自分を明け渡し、雇い人の一人となって父親に従うことが表されています。それに対して、彼の父親の態度はどうだったでしょう?父親は僕(しもべ)たちにこう言いました。

急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来てほふりなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったからだ。」そして祝宴を始めた。(ルカ15:22-24)

 神様の私たちに対する態度は、いつも私たちを愛し、私たちが神様の所に戻って来るのを今か、今かと、期待して待っておられます。そして、雇い人の一人でいいと思って、帰って来た放蕩息子は、息子として、そして、いちばん良い物を与えられ、迎えられたのです。私たちは、この『放蕩息子』の立場と、自分の立場を重ねることができるでしょうか? 切に聖霊様を求めましょう。このように約束してくださる神様を信じ、聖霊様に満たされた歩みをしていきましょう!

神様が私たちを聖霊様で満たしたい」と言う願いと、「私たちが聖霊様で満たされたい」と言う願いと、どちらが強いでしょうか?神様の願いの方が、私たちの願いより強いのです。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカ11:13)

 〔写真:レンブラントの放蕩息子〕

愛の軛(くびき) マタイ11:25-30

2008年01月13日 | Celebration
 「クリスチャンになったら、神様が言った事を守らなければならなくて自由がなくなる?」「クリスチャンになったら、お酒も、煙草もダメ!日曜日は、礼拝で遅くまで寝てられないから大変?」そんな思いに囚われていませんか??

 また、神様が言っていること、聖書が言っていること、教会の牧師さんやクリスチャンが言っていることに対して、「確かにそれは、正しいし、いいことだし、できたらいいよね・・・、でも、現実問題、それって、今の私には、むずかしい・・・。」そんな思いに囚われていませんか?確かにクリスチャンになって、問題が解決するよりも悩みが増えてしまったという方々も多くいらっしゃると思います。神様の価値観と自分の価値観がなかなか実生活の中で一致できない、神様の価値観の中で歩んでいきたいと思っているけれど、なかなかそれが実行できない方々もいらっしゃると思います。

 素晴らしい伝道者であったパウロさんもそのギャップに苦しんだ一人です。(ローマの信徒への手紙7:18-19)それでは、どうしたら、「クリスチャンになったら自由がなくなる」と考えている方たちやクリスチャンとしての歩みに息苦しさを感じている方たちに「クリスチャンになる喜び」や「クリスチャンとしての喜びの歩み」を理解していただけるのでしょうか?クリスチャンになっても私たちは、人間です。

 「大変!」「どうしよう!」「困った!」と思うことがたくさんあります。しかし、クリスチャンの特権は、そんな状況に立った時、静まって神様の御声を聞くことができます。神様の御声は、いろいろなことを通して聞くことができます。聖霊様が直接、語ってくださることもありますし、礼拝のメッセージから、語られることもあります。しかし、私たちがすぐに、いつでも、はっきりと分かる形で語られるのは、聖書からです。

 さて、今日のメッセージの聖書箇所は、マタイ11章25-30節。とても有名な箇所です。とかく、ストレス、問題の多い現代社会、クリスチャンであっても、クリスチャンでなくても、肉体的、精神的に疲れます。そんな疲れた私たちに対して、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)とおっしゃってくださっています。

 今、背負っているあなたの問題は、何ですか?あなたの重荷は、何ですか?イエス様は、その問題、重荷を持ってわたしのもとに来なさいと、おっしゃってくださっています。この世の中は、「~ができなければ受け入れられない」とか、「~を持っていないと認められない」とか、「こんなことをしてしまう人は、だめだ」などと言う条件によって人を判断したり、また、人に判断されたりします。その条件は、無数にあり、その条件に私たちは、振り回され、疲れてしまいます。しかし、イエス様は、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。そして、私たちを回復に導く休息を与えてくださるのです。

 また、休ませてくださるだけではありません。私たちが、持っている問題、重荷を解決に導いてくださるのです。イエス様は、どのように私たちの問題や重荷を解決に導いてくださるのでしょうか?マタイの11章29節以下にその方法が書かれています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:29-30)イエス様は、柔和で謙遜な方です。そのイエス様から学ぶことによって安らぎが得られるとおっしゃっています。

 それでは、「イエス様の軛を負う」とは、どう言うことでしょうか?「軛(くびき)」と言う言葉をご存知ですか?「軛(くびき)」とは、「2頭の牛やろばなどの首につけて、鋤(すき)や車を引かせるために使用する木製の道具」のことです。現代は、牛やろば以上に動力のある農作業機械や自動車がありますが、聖書の時代は、牛やろばは重要な動力であり、2頭を一緒に働かせるために使う「軛(くびき)」は、大切な道具だったのでしょう。

 また、申命記22章10節には、異種の動物、力差のある動物を同じ「軛(くびき)」につなぐことを禁じています。それほど、「軛(くびき)」につながれて働く動物には注意が払われていました。また、聖書では、「軛(くびき)」は、「隷属」、「苦役」、「律法の制限」、「罪の重荷」を象徴する言葉です。大工さんであったイエス様は、「軛(くびき)」作りも当然されたと思います。イエス様は、作られた「軛(くびき)」は、働く動物たちに負担を掛けることがなく、動物たちの働きも最大限に引き出されたに違いありません。

 「イエス様の軛を負う」とは、「イエス様が共に歩んでくださる」と言うことです。神様であるイエス様が、私たち、一人、一人と共に歩んでくださるのです。先の申命記に書かれているように「軛(くびき)」につながれる動物は、同じ力、同じ種類である必要がありました。しかし、神様であるイエス様は、私たち以上の力を持っていらっしゃいます。そのイエス様が敢えて私たちに寄り添って歩んでくださるとおっしゃるのです。また、イエス様と共につながれている私たちの「軛(くびき)」は私たち一人一人にイエス様がオーダーメイドで作ってくださるものです。ですからその「軛(くびき)は負いやすく、荷は軽い」のです。

 このようにイエス様は、イエス様ご自身から共に歩もうと、私たちに語りかけておられます。私たちは、一人で自分の重荷を負う必要も、一人で無理をする必要もないのです。イエス様と共に歩む決心をしましょう。すると、イエス様の私たち一人一人に対する「軛(くびき)」を負ことにより、イエス様からたくさんの祝福を知ることができます。それは、私たちが想像する以上の祝福であり、私たちの心に安らぎが得られるのです。今週もイエス様がいつも、私たちの隣に寄り添い、私たちと共に働いてくださることを覚えて歩んでいきましょう (文とイラスト・田中美鈴


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証言する教会 ゼカリヤ3:6-8

2008年01月06日 | Celebration
2008年、最初の礼拝メッセージは、ゼカリヤ書3章6-8節から「教会の使命」についてです。教会の使命とは何でしょうか?それは教会に繋がる一人一人である私たちが「証言」することです。私たちは何を証言するのでしょう? 私たち「教会」が証言すべきことが2つあります。一つは、「イエス・キリストは主である」と言うこと。もう一つは、「主の日は近い」ということです。この2つの使命を全うするため、私たちの教会は、今の時代に対して力強く証言し続けて行かなければなりません。私たちの教会が、「証言する教会」へと成長するための大切なポイントが4つあります。

1)時代に対する深く鋭い洞察力
 現代の教会とペテロさんやパウロさんが活躍した初代教会(使徒の時代)を比べると、福音の広がり、救われる人々の数、教会の勢いに対してかなりの格差を感じます。なぜ、初代教会の時代は、現代ほど、情報ネットワークが確立されていないのにもかかわらず、福音が広がり、一日に救われる人々が何百人、何千人と起こされたのでしょうか?それは、証言する人々、教会の「主の再臨」に対する緊迫感が強かったからではないでしょうか?初代教会に比べ、現代の教会の方が、「主の再臨」の日に近いのは確実です。「主の再臨」それは、イエス様が天に上げられたのと同じ有様でまたおいでになる(使徒1:11)と言うことです。この「主の日」に関しては、教派によって様々な見解がありますが、キリストにある教会ならば、以下の3つの点においては、共通の理解があります。(マタイ24:3-44)

① イエス・キリストの再臨
② イエス・キリストを信じている人と信じていない人との分割(裁き)
③ 神の御国の到来

 イエス様は、なぜ、もう一度、この世界にお戻りになるのでしょうか?それは、「救いの完成」を意味しています。イエス様ご自身、マルコ13章3-27節で、この時がどういう日であるか、語られています。現代社会を見ると、イエス様が語られているように、世界中で戦争や紛争、そして、凶悪な殺人が繰り返されており、ある所では、飢餓で多くの人が死んでいます。現代は、文明や科学が、多大な進歩をしているかのように見えますが、環境破壊が進み、大気や水は、汚染され、エイズや癌などの病気は、増え広がっています。その中で、貧富の格差は増大し、必ずしも、世界中の人々が幸せに暮らしているとは、言えません。私たちは日々、それぞれが、「正しい」、「善」だと言う、考えに従って生きていますが、それは、自己中心の域から決して、抜け出すことはできないのです。

2)聖書に対する正しい理解
 それでは、自己中心から脱却できない私たちは、どうしたら、真に「正しいこと」、「善」を選択し、行動することができるのでしょうか?真に「正しいこと」、「善」ができるのは、神様だけであり、その神様をこの世に現したのがイエス・キリスト様です。神様、イエス・キリスト様を表しているのが聖書です。聖書が私たちに真理を表しています。ですから、私たちが聖書の真理に立った時にはじめて、真の「正しさ」「善」を理解することができるのです。

 皆さんは、「主の再臨」に対してどのようなイメージをお持ちでしょうか?主の再臨は、この世の終わりを意味しています。(マルコ13:3-27)「この世の終わり」と言うと、全てのものが崩壊してしまう、何か恐ろしいイメージがありますが、イエス様を信じ受け入れたクリスチャンにとっては、神の御国の到来を意味します。今、この世の中にあるものは、不完全なものにすぎません。そして、主が再臨する時、「主の日」が来る時、不完全なものがなくなり、完全なものが現われるのです。

3)地上の価値観から天国の価値観への転換
 自分の価値観と神の価値観の違いに気づいた時、常に神の価値観に自分の価値観を合わせていく必要が生じます。なぜなら、先ほどにも記したように私たちの価値観は、「完全な」正しさでも、善でもないからです。神様だけが「完全な」正しさと善、つまり、「義」を持ち合わせているのです。それでは、どうしたら、わたしたちは、神の価値観に立った歩みができるのでしょうか?

 神様、見えない神様が人となって現われてくださったイエス・キリスト様を信じ、イエス様の体である、教会に繋がることです。教会には、イエス様を信じている神の家族がいます。神の家族は、愛し合い、助け合い、励まし合い、教え合い、戒め合い、神様の御旨を行なう働きを共にします。そして、神様が与えてくださっている御言葉、聖書を読み、学び、祈ることです。これらの歩みの中で、私たちは、神様の価値観を知り、その価値観に自分の価値観を合わせていくことができます。

4)主の再臨に対する思いを実生活に反映させる
 神様の価値観を理解すると、実生活もその価値観に従って考え、行動することができるようになります。イエス様は、私たちに「主の日」が必ず来ることを教えてくださいました。しかし、イエス様は、その日がいつ来るかは、だれにも分からない、ただ、神様だけがご存知であるから、目を覚ましていなさい、用意していなさい。その日は、思いがけない時に来るからとおっしゃっています。ですから、日々の生活の中で、イエス様に会う用意をしましょう。そして、一人でも多くの人々が、イエス様を信じ、共に主の再臨の日を喜びを持って迎えられるように先に救われた者として、2008年、新たに「証言するクリスチャン」、「証言する教会」として共に成長して行きましょう!

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キリスト者にある7つの喜び Ⅰテサロニケ5:12-24

2008年01月01日 | Celebration
キリスト者とは? 『神様に愛され、共に永遠の命に生きる喜びの集団』である。しかし、年末礼拝では、宮川牧師から「クリスチャンになっても苦しみはある。」と衝撃の事実を告げられた。しかし、確かにそうなのだ。クリスチャンになれば、人生から苦しみ、悲しみ、試練がなくなるわけではない。であるならば、クリスチャンになる意味がどこにあるのか?それは、その試練を耐え抜く力と、苦難に優る喜びが与えられるからだ。『クリスチャンに与えられた7つの喜び」の源を、元旦礼拝で確認させていただいた。

感謝する喜び
 物が溢れ、何不足ないこの世に生きる人間は、自らの環境、必要、健康が与えられたものであることを忘れてしまっている。もらうものだけ受け取り、感謝すらできない。しかし、天地創造の神様を知るキリスト者は、「生かされている」こと、すべてが神様によって与えられた恵みであることに感謝ができる。「感謝」は、豊かな人生の最も大切なエッセンスだ。

祈ることができる喜び
人間は嘘では祈れない。祈りは、神様の力をこの世に適用させる驚異の業であり、キリスト者だけがこの特権を得て、用いることができる。「祈りの力」は、半端ではない。

赦すことができる喜び
 ほとんどの心の悩みは、人間関係ストレスによることが多い。それは、人を赦すことができないからだ。赦しは忘れること、あきらめることではない。赦しは、確かな意志なしにはあり得ないのだ。真の意味で人を赦すことは、自分自身が赦された経験を持つ者にしかできない。神様から赦され、自分の恥を神様が負ってくださっていると知るキリスト者は、人を赦すことができる。その上にこそ、真の人間関係、仲間関係が生まれる。

真理を得る喜び
 感覚の満足、感情の充足は、人生の目的ではない。そこに生きる喜びはない。人生にほんとうに大切なもの、真の目的は、「世のため、人のため、神のために生きること」。この真理をわかって人生を献げるキリスト者は、喜びに満ちた人生を送ることができる。

聖霊様が内住する喜び
 キリスト者は、神様を信じた時に聖霊様をいただいている。神様を信じ、愛し、従ううちに、内なる聖霊様によって、自らが聖められていき、良いもの悪いものを見極める力を得るようになる。真の意味でのスピリチュアル・カウンセラーとは、キリスト者に他ならない。

癒しを体験する喜び
 真理を知ることによって、自分自身を捕らえていた枷から解放される。不要な囚われから解き放たれ、自由を得、自然に心が癒される。肉体の癒しにも繋がる。この癒しの体験が、人生に喜びをもたらしていく。

永遠の命を得た喜び
 肉体は滅びる。しかし、魂は永遠に続く。目に見えるものがすべてではない。人間の本性は肉体ではなく、霊というエネルギー体なのだ。キリスト者は、御国で永遠の命を持つ。

 喩え話をしよう。ある場所に人々が暮らしている。美味しい食事があり、望みの物は何でも揃えられ、エンターテイメントも限りなく楽しく、エキサイティングに時を過ごすことができる場所。しかし、そこは死刑囚のための刑務所だ。どんなに美味しいものを食べられたとしても、欲しい物は何でも得られたとしても、死を前にした時、どんな快楽も、感覚や感情の満足も意味を成さなくなる。必要なものはただ一つ、「神様による救い」だけだ。キリスト者はその救いを得、完全なる喜びに満たされている。だからこそ告げ知らせるのだ、この福音、「Good News」を

どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。(Ⅰテサロニケ5:23-24)

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