


世の中に数多ある宗教は、すべて「教え」を信じている。仏陀の教え、アラーの教え、某教祖の教え。しかし、クリスチャンはイエスの教えを信じているのではない。復活のイエス様を知っているか否か、だ。復活は教えられてわかることではない。教理でもない。これは事実だ。そして復活なしには福音、完全な救いと永遠の命にはなり得ない。他宗教と同じことになる。「十字架と復活」こそが、クリスチャンが伝えるべき、


「





復活がわかって初めて十字架がわかる。そして復活のイエス様に会える。「續エマオの旅人」では、復活がわかるためのキーワードは、「一緒に」

そしてもう一つ、更に具体的に実践するためのキーワードは、

聖書を全体的に理解するための5ポイント。





そしてこの5ポイントを行っているのが教会だ。教会にはイエス様がいらっしゃる。イエス様が愛した教会には、たとえイエス様が目に見えなくても「愛し愛されている」関係がそのままあり、そこにイエス様が生きておられる。家族と一緒で、物理的な距離が離れていても愛の関係は変わらない。メッセージも聖書の学びも人生を変える命の時間だ。そんな教会で、イエス様と「一緒に」いて、話を聞き、聖書を学び、感動して留まり、お食事を分け合う。教会に必要なのは正確なプログラムではない。ただ、このポイントだけだ。

前回も引用した芥川の文章のように、今まで意気消沈して暗い二人の弟子が、生き生きと燃える人に変えられたその感動に触れた時、私たちの心も燃える。「感動」は人を変える。そしてクリスチャンの感動は一時的なものではない。それは、真の感動とは、環境や状況で生じる一時的なものではなく、イエス様に愛されることで生まれるものだからだ。感動のない人生なんてつまらない。感動したことがないなら、ぜひ教会へ!教会の使命は、あなたと「一緒に」感動ある人生を送ること。そのための家の教会です。









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以下、復活メッセージの歴々。

http://blog.goo.ne.jp/goodnewsstation/e/13be77b1d7949a5d1e442f4b349499ae

http://blog.goo.ne.jp/goodnewsstation/e/85cadd23f02e7d963d6568dc191aa959

http://blog.goo.ne.jp/goodnewsstation/e/07e81eb9898fe2f3c6300bd6cf13fdd2

http://blog.goo.ne.jp/goodnewsstation/e/c8aa432b33571dd768fd4d8fd02ed570

https://youtu.be/CJzfJ4_Qz3U

https://youtu.be/WPlIZZAL36Y
復活シリーズ:ニューバージョン「エマオの旅人」は、レンブラント他、多くの絵画にもあるルカ24章のストーリー。今日新たに教えられたポイントは以下の通り。

これは、今までくらーーーい顔で、不安そうに怯えていた人が、イエス様と出会うことで生き生きと燃える男に変えられた話。
ロサンゼルス教会には上の絵がある。そのためか、私の中では、「くらーーーい顔で歩いていた二人」の印象が薄かった。イエス様と語らいながらのんびりと歩く道のり、、、いいなぁ、とまで安直に考えていた。でもそうではなかった。イエス様と出会って変えられ、方向転換する「弟子」の話なのだと知らされた。一枚画が、暗



エマオは、エルサレムより10キロ程西にある場所。二人はエルサレムを出て西へ向かって歩いていた。神の国は、朝日の出る方向である東にある。一方、西は日が沈む方角であり、二人は闇に向かって歩いていたのだ。少し前には、意気揚々とエルサレム入城をイエス様と一緒に果たし、歓声と希望の中にいたはずなのに、、、と思いながら、人を避けて失望と落胆に向かって歩いていた二人だった。「


これはイエス様が復活された当日夕方のこと。この日、二人はイエス様復活のことを女たちから聞いて知った。でも、二人は復活を信じていなかった。これは、現代も同じ。復活を信じていないクリスチャンの顔だ。罪に苛まれ、暗い顔のまま、当てもなく信仰から遠ざかるように歩いている。彼らにとって、すべては既に終わってしまった出来事。イエス様との関係は自分の身に起きたことではあるが、全部終わった「過去」のことで、その言葉には意味も目的もない。私の「証し」はそうではないか。イエス様は復活されて、今なお生きておられ、もうすぐに再臨される私の王、と「今」を語っているだろうか。



その後、二人は泊まることもせず、すぐにエルサレムに引き返して行った。西へ向かっていたのを、180度転換し、東のエルサレムに一目散に戻って行った。そして戻ったエルサレムで、二人はまたイエス様に出会う。悔い改めを示す言葉、『メタノイア』の意味は方向転換。しかし、方向を変えるだけではなく、実際に戻っていくことが必要だ。


そして、一番のキーポイント!二人の内、一人はクレオパと名前が記されている。そして、もう一人は?もう一人の名前は、一生懸命探したところで聖書に書いてはない。書いていないのは、理由がある。それはこのもう一人が「私」だと気付くため。クレオパと私とイエス様の話として読まなければ、神様からのメッセージはわからない。聖書は、「私」に書かれたものだ。第三者視点では、決してわからない。イエス様は、「私」のために十字架につき、贖いの業を成し遂げてくださったのだから。


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物質的領域と人間的領域の相互作用は、何世紀にも亘って研究をされてきているが、殊、霊的領域と人間的領域の研究になると、現代に至っても尚、まったく無視されている。しかし、目に見えない世界を信じる人は年々増加し、50年前から数えると倍増というデータもある。霊的世界について、聖書ははっきりと語っている。そのポイントを確認しよう。





神様という言葉に抵抗のある人はほとんどいないが、話が天使とか悪魔とかになると、途端に荒唐無稽な御伽噺のように捉えられてしまう。この世界には、光と影、陰と陽、表と裏、 善と悪、男と女、のように必ず二つの対照がある。つまり神が存在しているのなら悪魔も存在し、神に仕える天使がいるのなら、悪魔に使える悪霊も存在する。天使や悪魔は、単に人間の心や善と悪とを象徴的に擬人化したものではない。創世記から黙示録まで、聖書は霊の世界の存在について繰り返し言及し、悪魔について警告しているにも係わらず、教会がこの事について論じないのは、この段階で悪魔の策略に陥っているのだ。犯罪を企む者にとって最も都合が良いのは、自分の存在と自分の目的を相手に知られないこと。私たちに対する悪魔の第一の働きは、自分の存在を隠すことなのだ。




「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません!」と豪語したペテロには、仲間を出し抜こうとする抑揚した感情があった。「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と呟くユダの正論には、自らの誤魔化しの奥にある隠れた心の動きがあった。私たち自身、時に自分の心の動機がわからないまま、言葉を発することがある。この世界、どこを見てもすべて正論が前提で動いている。政治も経済も道徳も。そしてあのイスラム国や北朝鮮であっても、彼らの「正論」によって動いているのだ。その歪んだ確信による「正論」が人を殺している。どこの国も、誰もが自分たちの正当性を主張する。しかしその正論に決定的に欠けているものがある。そこには愛が存在しない。

正論の応酬に、「愛」など持ちだせばせせら笑われるだろう。それくら、まったく愛が欠如している。国家間レベルから日常生活に至るまで、正論を振りかざす側と振りかざされた側のやり取りは平行線を辿るのみで、根本的な解決の糸口にはならない。こうして、世の中の正論を巧妙に用いながら、私たちを不幸と混沌へ陥れて行くのが、サタンの奥深いやり口なのだ。
サタンの究極の目的は、人間を苦しめることでも、殺すことでもない。一生、家庭や財産に恵まれていても、最後に神様との関係がなければ、サタンの勝ちであり、すべてを、命すら失っても、最期に主を呼び求めればサタンの負けなのだ。サタンは、神様の最後の審判の時、自らが滅ぼされてしまうことを知っている。だから、一人でも多くの人間を道連れにしようと必死に、ありとあらゆる手を使って唆してくるのだ。


つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。(ロマ6:16)




神様側についているために、必要なのは、イエス様に繋がっていること!ただそれだけ。サタンが最も敵視しているのは、クリスチャンの存在。他の人々は策略が功を奏して、知らずと悪魔陣営に繋がってしまっているのだから。ペテロの手紙は、各地に離散していて仮住まいしている選ばれた人たち、つまりクリスチャンに対してのメッセージだ。上記2つは良く知られているッ御言葉だが、前後して繋がっていることに気付いている人は少ない。聖句は呪文ではない。前後、そして全体の内容と意味を正確に把握理解することが大切だ。
ここで、悪魔に食い尽くされそうになっているのは、すぐ前にある思い煩いを任せることができないクリスチャンのことだ。神様と言う最強の味方を知りながら、日々悩みの連続、思い煩いの山。これら悩み煩いが不信仰となって、悪魔が噛みつく餌になる。クリスチャンの最も弱い部分につけ込み、躓かせようと、悪魔が狙う。実に「躓き」のギリシャ語は、スキャンダルの語源であり、人間が神様に躓くことが元祖スキャンダル、という訳だ。
神様に完全に委ねた途端に、サタンは手出しすること適わず、イエス様の前には何もできなくなるのだ。この戦いは、イエス様によってすでに勝利が決定している。決して侮ってはならないものの、神の子にとって悪魔は恐れる対象ではない。ただ、イエス様と繋がっていることだけに、気を配ればよいだけだ。

「全ての人に要請されている最も重要な決断は、心の底からイエスキリストに対する態度を決断することである。 一切のことがそれに懸かっている。」聖書ハンドブックを著したヘンリー・ハーレーの言葉通り、誰もがこの決断に日々直面する。そのことに、あなたの人生の一切が懸かっている。受難週の今、イエス様の言葉を聞いてほしい。「あなたの罪は赦された。今日、あなたはパラダイスにいる。」この言葉をあなたが選び、確実にあなたのものになりますように。Happy Blessed Easter!




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聖書は少年法について何と言っているのか、子供は罪を犯しても許されるのか、今の世相を反映した質問が牧師に投げかけられる。少年犯罪の相次ぐ昨今、日本では少年法改定、選挙権年齢の引き下げの動きがあり、巷では喧々諤々と議論が交わされている。
18歳未満を「児童」と定義し、その権利を包括的に定めた国際条約によって、児童に死刑は適用されていない。この国際条約に批准している多くの国で、18歳未満は死刑にはならない。現在の日本では、性別を問わず満20歳以上の者が「成年者」とされており、それ以下の「少年=未成年者」には、原則的に刑事処分ではなく保護更生のための処置、量刑の緩和などの配慮が規定され、「少年法」で定められている。が、成人に達する年齢は、世界的にメジャーなのが18~21歳で、統計によると18歳が圧倒的に多い。同時に刑法でも18歳以上に死刑が適用されることになる。
昨今の議論の中、その筋の専門家の意見として、少年犯罪抑制のための3つの力が挙げられていた。が、日本を代表するような犯罪学権威のご高察に対抗し、一民間牧師えんぢぇるのシニカルな反論がある。






少年法は、未成年者の人格の可塑性に着目するが故に作られている。また一つ一つの事件で、本来見るべき点は、年齢や何をしたかではない。少年であれ、成年者であれ、その動機においてそれが人間成長における未熟さ故なのか、人格的欠陥の故なのか。対処はそれによって変わるはず。そしてクリスチャンであれば、知っている。誰もが、同じ状況にいつ何時立つかわからないことを。犯罪も日常生活の小さく見える事件も、その要因は「怒り」という誰もが持つ感情から起こる。今や世界中に怒りが渦巻いている。そしてその渦は、平凡な生活を送っているはずの私たちをも巻き込む。わかっていても制御が困難な「怒り」は私たちが常に対処しなければならない切実な問題なのだ。
怒りの以下の4つに起因している。Hungry(飢餓感)、Anger(怒り)、Tired、(疲れ)、Stress(ストレス)。それぞれの頭文字をとってHATSと覚えられる。必要が満たされない時、大切にされていないと感じた時、疲れ果てた時、過大なストレスに、これらマイナスエネルギーが蓄積され、何かの拍子にその導火線に火が付き、爆発する。怒りと悲しみは表裏一体の関係にある。しかし、悲しみ要因は誰も大差ないのに対し、怒りは人によって非常に様々で複雑だ。あの人は何故あんなことで起こっているのか?と感じることは少なくないだろう。というのは、怒りと言うのは二次的感情であり、潜在意識の中に蓄積されたある感情によって二次的に起こるものだからだ。爆発の凄まじさに、しばしば火のついた導火線にばかり注意が注がれるが、実は爆発するのは導火線ではなく、その先のダイナマイトだ。それこそが、怒りの原因である第一次感情である。
例えば、夜遅く帰宅した娘に父親が怒る。「何故、こんなに遅くなったんだ!」この怒りを表した言葉の奥には、娘を心配する心、愛情がある故だ。しかし厳しい言葉で耳に届いたばかりに、娘は反撃。更に言い返して怒りの爆撃応酬となる。こうなると手が付けられない。夫婦でも、友人でも、類似の経験は一度はお持ちだろう。、世の家庭内戦、社会戦争、そして教会内紛争然り、これで怒りを繰り返している。
人生、寂しい、哀しい、辛い、期待はずれ、何で分かってくれないの!?の連続である。だが、それでいちいち爆発していたのでは、いくら体があっても持たない。そういった感情を制御出来るようになるのが、「大人」になると言うこと。何が自分をそうさせるのか?その自分の一次感情を、一度自分に問いかけ、そこを辿ってみると大抵はそこには何か深い根っこがある。その人が何に対して怒るのか?という所に、その人が本来解決すべき問題が潜んでいるのである。
安全な人生を送るための指南書とも言える箴言には、多くの怒りに対しての警鐘となる御言葉がある。








聖書は怒り自体を罪とはしていない。イエス様も怒られた記述もある。しかし、問題は怒りをどう表すかにによっては、そこに罪が生じることがあるということだ。ということで、怒りに対する7つの対処法伝授!

瞬間的怒りの持続時間は6秒だそうだ。怒りがこみあげたら深呼吸して、心を落ち着かせて7秒祈る。

怒りの対象を目の前にしたままでは、収まるものも収まらない。怒り爆発の寸前、真っ先にすべきはひとまずその場を離れること。衝動的な行動を起こさずに済む。

怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェソ4:26)

怒りの最中は正常な精神状態ではない。一旦口にした言葉は、簡単に取り消すことができない。

親が子に対し、叱ってもよいが、怒ってはダメ。叱るは教育だが、怒るは感情。怒ると叱るがこんがらがっていては子供に伝わらない。

人前で起こるのは、感情制御できない子供と同じだ。その代償は高い。

怒っている人の頭の上には、「私は正しい」の錦の旗が堂々とはためいている。が、それは正しいことか?感情に支配される前に、なぜ憤っているのか?をチェックするのは賢明だ。
言うは易し、行うは難し。怒りのコントロールは難しい。しかし難しいことだからこそ、そこに神様の救いを求めることができる。誰もが怒りから解放される必要がある。過ちを犯した時、「お前はもうダメだ。生きていられないよ。」と囁くのは悪魔。私たちの主、イエス様は、こう仰る。





危機管理の危機、クライシスという言葉は、ギリシア語のクリノーという言葉が語源である。
クリノーとは「分ける・分割する」という意味だが、日本語の聖書は、このクリノーを「裁き」と訳している。
この世界はいつか、光と闇との二つに分割される。
その時が人間にとって最も大切な瞬間である。
私はギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。(ローマ 1:14)
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クリノーとは「分ける・分割する」という意味だが、日本語の聖書は、このクリノーを「裁き」と訳している。
この世界はいつか、光と闇との二つに分割される。
その時が人間にとって最も大切な瞬間である。



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ラファエロ、ミケランジェロ、ゴッホ、シャガール等々、これらの巨匠たちの残した数々の作品の素晴らしさは、日本でも有名である。しかし、彼らの作品における多くのテーマのは、聖書の世界を描き出したものであり、聖書が分からなければ、理解できないものである。残念なことに、多くの日本人は知的レベルは高くても、聖書知識が決定的に欠如しているため、これらの作品の真意を理解する事ができないでいる。
日本でも非常に有名な彫刻の一つロダンの「考える人」は独立した作品ではなく、“地獄の門”という大作の一部分である。「地獄とは何なのか?何故人は地獄に落ちなければならないのか?最終的に人が地獄で苦しまなければならないのなら、その人生にいったい何の意味があるのか?」地獄で苦しむ人々の前で人は考える。この作品のテーマは、人生に対する深刻な問題定義なのである。
自分は死んだ後どうなるかと考えたことがない人はいないだろう。しかし、いくら考えても死後の事は誰にも分からないし、結論も出ない。従って今ある生を精一杯生きるしかない。宗教に頼るのもいいが、結局は本人の努力と考え方次第。これが一般的意見。はっきり言えば、誰も地獄の話など聞きたくないし、天国と地獄の二者選択について望んで考える人など誰もいない。教会でも裁きや地獄に関するメッセージはほとんど聞かれない。だが実は人間にとって、これ以上に重要な問題はないのである。
2007年のギャラップ調査によると、アメリカ人の7割が地獄の存在を信じており、信じていない人は2割。良く分からない人が1割。日本人の場合、神や死後の世界を肯定する人の多くは、自分は天国に行けると考えている。また、仏教思想の影響か、死後は何もなくなり、無に帰ると考えている人も多い。そのどちらも、現世と来世との関連については考えていない点において一致している。
日本で自殺者が後を絶たないのはその為であり、地獄に対する意識はアメリカ人と比較するとかなり低い。しかし、自分は罪人ではないから天国に行ける。人は死んだら無になり、何も残らないのだから、身代わりの死など余計なお世話。信じる必要などはない。と考える根拠は何処にあるのか?また、それが正しいと、何故言えるのか?
昨年、アメリカで、「地獄での一日-死から命・希望へ」という本が話題になった。発砲事件に巻き込まれ、27日間の昏睡状態から、生還したマシュー・ボツフォールド氏の体験談である。彼は新聞のインタビューで、「あなたは事故に遭う前、神様や地獄の存在を信じていましたか?人々に何を告げたいですか?」との質問にこう答えている。
「いいえ、私は信じていませんでした。神は存在するのだろうとは思っていましたが、そのひとり子との関係性については全く無関心でした。私自身が私の神のような感じで生きていました。 私は自分が体験するまで「地獄が本当に存在する」などとは思っていませんでした。しかし、地獄は本当に深刻な場所であり、私たち人間が存在してはいけない所です。神様は誰にも地獄に落ちてほしくないと思われているはずです。
全ての人類がイエス・キリストを通して悔い改め、神の元に来てほしいと願っておられるはずです。私はイエス・キリストが神のひとり子であり、そのひとり子との関係を築いていくべきだと信じています。このイエスとの関係を築くことが重要であり、そのことによってイエスの御言葉をより深く知るようになって行きます。すべてはイエスと私たちの関係性にかかっているのです。地獄は本当に存在しており、そしてそこでは永遠の苦しみがあります。このことを私は全ての人たちに知ってほしいのです。」
では、イエス様ご自身は、地獄の存在について、どのように言っておられたのか?その言及は実に明白で、議論や解釈を挟む余地は全くない。(マルコ9:42-48)イエスは、五体満足で地獄に行くのなら、片腕を失くしても天国に行った方がいい。言い換えれば、この世でいくらお金があっても、死んで地獄に行くならそれが何になる?この世の苦しみは地獄の苦しみと比べたら、全く取るに足らない!「そこは蛆が尽きることも、火も消えることもない」と、イエスはあえてこのような最大級の表現を使い、何を犠牲にしても地獄は避けるべき場所であることを警告された。何故か?地獄への道は広いが、天国への道は狭く細く、その道を行く人は少ないからだ(マタイ7:13-14)
しかし、人は何とつまらない理由で地獄に行ってしまうのだろうか!? 人を教会に誘う時、皆がこう言う。「習い事を始めたばかりで行けない」、「会社の付き合があって」「日曜くらい家でのんびりしたい」・・・。しかし、習い事をやめる、人付き合いをやめる、酒・煙草をやめることが、地獄を回避するための条件などでは全くないのだ。
神は誰も地獄に行くことなど望んでいないし、神が人を地獄に落とされるのではない。人は自ら地獄に行くことを選んでしまうのである。神などいない。イエス・キリストなど知らない・必要ない・自分とは関係ない。と、いう判断を現世において下した人は、来世でも、その人が下した判断通りになる。ということなのだ。
人間の人生には、選択出来るものと、出来ないものがとある。自分が生まれた時代・国・親・性別等は選択することは出来ない。しかし、仕事、結婚相手、住んでいる土地・家などは選択の結果である。人生には、非常に重要な分岐点がいくつかある。
この世に生まれて来たこと。
人は人と共に共生して生きて行かなければならないこと。
死ななければならないこと。
しかし、私達は自分が生まれて来たことを、呪うことも出来るし、感謝することも出来る。人と共生することを、否定的に捉えることも出来るし、肯定的に捉えることも出来る。そして、死を不安と絶望で迎えることも、確信と希望で迎えることも人間には出来る。つまり、確かに私達には選択不可能だった事であっても、それをどう受け止め、どう生きるかは、本人の考え方・生き方にかかっているのだ。更に聖書はこのように語る。
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私達は全ての人の中で最も惨めな者です。(Ⅰコリント15:19)
今、多くの教会で、福音が自己啓発や成功哲学のように語られている。「スポーツは身体にいいよね!宗教も生活にいいよね!」というレベルの、自分達の生活をよりよくするための耳障りの良いキリスト教。そこでは再臨も、来るべき神の裁きについても語られることはない。パウロはここで、「もしそうであるなら、クリスチャンに意味はない!」と言っているのである。もし、私達クリスチャンの標準が、この地上に限られるのなら、私達の行動は自己中心的となり、キリストの証人として誤解・中傷されるより、世間に波風立てることなく、自分の身の安全を考えるようになってしまうからだ。
実は、人間にとって最も重要な人生の分岐点がもう一つある。それは、「
人の魂は永遠に生きる」という事である。クリスチャンが永遠の命と言う時には、神と共に天国で生きる事を意味する。それ以外の魂は、地獄という苦しみの世界で生き続けるのであって、一度生まれた魂は消滅することはないのだ。問題は、その魂が永遠の天国で生きるのか、永遠の地獄で生きるのか?ということである。人間にとって、このこと以上に重要な決断はなく、その選択は、私達がこの地上で生きている間に決定される。
では、天国に行くためにはどうしたら良いのか?その質問をイエスに直接投げかけた人の話が、聖書に記録されている。それがルカ10章25-37節にある有名な「良きサマリア人の喩え話」である。仏教の教えでは、一度でも殺生(人でなくとも)をした人、酒を飲んだ人は地獄行きとなる。聖書も罪人は天国に行くことが出来ないと教えている。何故か?天国には警察はないからである。そもそも罪人が天国にいたら、そこはもはや天国ではない。では、いったい誰が天国に行けるのか?そこでイエスは、天国に行く方法が二通りあることを教えている。
一つは、良きサマリア人のように、掛け値なしの徹底した善を行うこと。イエスは28節で、「それを実行すれば命が得られる」と明言しているからだ。確かに世の中がそのような人たちばかりだったら、イエスが十字架につく必要などはなかっただろう。そもそも、イエスを殺そうなどと考える人間は存在していないのだから。
しかし、それは幻想とも言うべき理想論である。良きサマリア人のような人間は、現実にこの世にはいない。だが、存在しなければならない!そういった存在を目指そう!これがこの世のヒューマニズムである。そうする為には滝に打たれ、異性を遠ざけ、断食をし、座禅をし、自分の内の煩悩(自我)を徹底的に消し去る修行が必要だ。
もう一つの方法は、自分の自己中心性と己の力の限界を悟り、自分の罪のために十字架で死んでくださったイエス・キリストを信じ、従うことである。日本人的に言うと、イエス・キリストに帰依する。日本人は、「南無阿弥陀仏」と何の抵抗も疑問もなく祈ることが出来るのだから、「イエス・キリストに帰依します」とも祈れるはず。但し、祈りは念仏とは違うので、意味も分からずにただお題目を唱えれば救われるわけではない。
祈りは、生きた神とのコミュニケーションであり、そこには嘘偽りのない人格的交流がなければならない。南無とは帰依する。阿弥陀仏とは、古代サンスクリット語のアミダーバーを漢字にしたもので、その意味は「永遠の命」。その永遠の命の根拠が、聖書に記されている天地万物を創造された神なのだと、聖書は言っているのだ。
そして福音は浄土宗・浄土真宗と同様、人間側の修行や努力は一切要求していない。だから福音・良い知らせなのである。従って37節、「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスの言葉は、修行や道徳の勧めではなく、自己正当化している律法学者の偽善を見抜き、「本当にあなたにそれができるのか?そんな努力は無駄だからやめなさい。あなたが言った隣人とは、この私のことである。私を信じ、私に従いなさい。」それが、この文脈の真意である。
人は何故教会に来ないのか?その理由を極言すれば、死後の世界観が曖昧だからである。もし、聖書が語る世界観・生死観が事実であることが判明したとしたら、教会はその日から天国の切符を求めて、長蛇の列が出来るだろう。しかし、それは神の御心ではない。神は私達が自主的に自分の自己中心性に気付くことを求めておられるからである。 「
悔い改めよ!天の御国は近付いた!」(マタイ4:17)これが、イエスが最初に人々に向かって公然と語られた福音である。そして、「
天の国を学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(マタイ(のみ)13:52) と喩えられた。
人はある年齢になると、様々なものを吸収し、取り入れるという段階から、自分にとって不必要なものを、切り捨てて行くという段階に以降する。自分の倉から、大切なものと不必要なもの振り分けることは、本人以外には出来ない。それを認識する判断と決断こそが、真実を探求する基となる。イエスの地獄に関する言及は、「神を信じなければ地獄行き!」といった未信者に対する警告ではなく、人々に福音を伝える使命を担った弟子達に対し、福音を語ることの大切さと、天国への鍵を預けられた者としての責任の重さを語られた言葉である。
福祉活動やボランティアが、「可哀想」だけで出来ないように、強い者が弱い者を哀れむかのような上目視線では、老人介護も、福祉も成り立たない。真の福祉活動とは、彼らと共に生きることである。福音宣教も同じ。私達は地獄へ行く可愛そうな人たちに伝道するのではない。伝道とは、神の恵みによって罪赦された者の喜びと開放感を、人々に分かち合う。いや、分かち合わざるを得ない。ただそれだけのことである。
私たちは人々に福音を語る時に、躊躇してしまうことがある。十字架と復活を語ることを恐れ、福音を当たり障りのないこの世的な話題に摩り替えたりしてしまったりする。しかし、立場を変えて考えてみると、彼らが福音を聞くことが出来る機会が、彼らの人生にいったい何回あるのだろうか?彼等はそのことに気付いていないが、彼らにとって私達との会話は、永遠の命を得られるか否かの実に重要なチャンスなのである。
イエスは地獄の話の最後を、「塩」に喩えて語られた。「人は皆、火で塩味を付けられる」とは、試練によって私達クリスチャンが練られ、聖化されることである。旧約聖書(民数18:19、歴下13:5)には、不変の友情の象徴である「塩の契約」が記されている。塩は、混沌とした時代に浸透して、この世の腐敗を防ぐ働きをする。しかも、自分自身は姿を消し、相手を引き立たたせる。
「
自分の内に塩を持ちなさい」また、マタイ5章13節、「
あなた方は地の塩である」とは、自分自身の信仰を吟味し、世の中に出て行って、「
いつも塩で味付けされた快い言葉で語りなさい(コロサイ4章:6節)」という使命を私たちは与えられているのである。
兄弟たち、素手に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが真で復活されたと、わたしたちは信じています.神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる暇で生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主語自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っているものが、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。(Ⅰテサロニケ4:17)
「地獄」の存在も、この聖書に記されている「携挙」という出来事も、あり得ない、人間的には全くの想定外である、しかし、東北大震災も、福島第一原発の放射能汚染が事実であったように、それはこれから本当に起って来る事実なのである。福音は、足しても、加えても、薄めてもいけない。何故なら、わたしたちの説得力ではなく、御言葉そのものにパワーがあるからである。そして、聖書に記されている世界観・死生観を正しく理解すること。それが人生を真の意味で有意義なものとし、また、人々を伝道する上において極めて重要なポイントとなる。事実、私達はその世界に向かって、今を生きているのだから。ハレルヤ!!
日本でも非常に有名な彫刻の一つロダンの「考える人」は独立した作品ではなく、“地獄の門”という大作の一部分である。「地獄とは何なのか?何故人は地獄に落ちなければならないのか?最終的に人が地獄で苦しまなければならないのなら、その人生にいったい何の意味があるのか?」地獄で苦しむ人々の前で人は考える。この作品のテーマは、人生に対する深刻な問題定義なのである。
自分は死んだ後どうなるかと考えたことがない人はいないだろう。しかし、いくら考えても死後の事は誰にも分からないし、結論も出ない。従って今ある生を精一杯生きるしかない。宗教に頼るのもいいが、結局は本人の努力と考え方次第。これが一般的意見。はっきり言えば、誰も地獄の話など聞きたくないし、天国と地獄の二者選択について望んで考える人など誰もいない。教会でも裁きや地獄に関するメッセージはほとんど聞かれない。だが実は人間にとって、これ以上に重要な問題はないのである。
2007年のギャラップ調査によると、アメリカ人の7割が地獄の存在を信じており、信じていない人は2割。良く分からない人が1割。日本人の場合、神や死後の世界を肯定する人の多くは、自分は天国に行けると考えている。また、仏教思想の影響か、死後は何もなくなり、無に帰ると考えている人も多い。そのどちらも、現世と来世との関連については考えていない点において一致している。
日本で自殺者が後を絶たないのはその為であり、地獄に対する意識はアメリカ人と比較するとかなり低い。しかし、自分は罪人ではないから天国に行ける。人は死んだら無になり、何も残らないのだから、身代わりの死など余計なお世話。信じる必要などはない。と考える根拠は何処にあるのか?また、それが正しいと、何故言えるのか?
昨年、アメリカで、「地獄での一日-死から命・希望へ」という本が話題になった。発砲事件に巻き込まれ、27日間の昏睡状態から、生還したマシュー・ボツフォールド氏の体験談である。彼は新聞のインタビューで、「あなたは事故に遭う前、神様や地獄の存在を信じていましたか?人々に何を告げたいですか?」との質問にこう答えている。
「いいえ、私は信じていませんでした。神は存在するのだろうとは思っていましたが、そのひとり子との関係性については全く無関心でした。私自身が私の神のような感じで生きていました。 私は自分が体験するまで「地獄が本当に存在する」などとは思っていませんでした。しかし、地獄は本当に深刻な場所であり、私たち人間が存在してはいけない所です。神様は誰にも地獄に落ちてほしくないと思われているはずです。
全ての人類がイエス・キリストを通して悔い改め、神の元に来てほしいと願っておられるはずです。私はイエス・キリストが神のひとり子であり、そのひとり子との関係を築いていくべきだと信じています。このイエスとの関係を築くことが重要であり、そのことによってイエスの御言葉をより深く知るようになって行きます。すべてはイエスと私たちの関係性にかかっているのです。地獄は本当に存在しており、そしてそこでは永遠の苦しみがあります。このことを私は全ての人たちに知ってほしいのです。」
では、イエス様ご自身は、地獄の存在について、どのように言っておられたのか?その言及は実に明白で、議論や解釈を挟む余地は全くない。(マルコ9:42-48)イエスは、五体満足で地獄に行くのなら、片腕を失くしても天国に行った方がいい。言い換えれば、この世でいくらお金があっても、死んで地獄に行くならそれが何になる?この世の苦しみは地獄の苦しみと比べたら、全く取るに足らない!「そこは蛆が尽きることも、火も消えることもない」と、イエスはあえてこのような最大級の表現を使い、何を犠牲にしても地獄は避けるべき場所であることを警告された。何故か?地獄への道は広いが、天国への道は狭く細く、その道を行く人は少ないからだ(マタイ7:13-14)
しかし、人は何とつまらない理由で地獄に行ってしまうのだろうか!? 人を教会に誘う時、皆がこう言う。「習い事を始めたばかりで行けない」、「会社の付き合があって」「日曜くらい家でのんびりしたい」・・・。しかし、習い事をやめる、人付き合いをやめる、酒・煙草をやめることが、地獄を回避するための条件などでは全くないのだ。
神は誰も地獄に行くことなど望んでいないし、神が人を地獄に落とされるのではない。人は自ら地獄に行くことを選んでしまうのである。神などいない。イエス・キリストなど知らない・必要ない・自分とは関係ない。と、いう判断を現世において下した人は、来世でも、その人が下した判断通りになる。ということなのだ。
人間の人生には、選択出来るものと、出来ないものがとある。自分が生まれた時代・国・親・性別等は選択することは出来ない。しかし、仕事、結婚相手、住んでいる土地・家などは選択の結果である。人生には、非常に重要な分岐点がいくつかある。



しかし、私達は自分が生まれて来たことを、呪うことも出来るし、感謝することも出来る。人と共生することを、否定的に捉えることも出来るし、肯定的に捉えることも出来る。そして、死を不安と絶望で迎えることも、確信と希望で迎えることも人間には出来る。つまり、確かに私達には選択不可能だった事であっても、それをどう受け止め、どう生きるかは、本人の考え方・生き方にかかっているのだ。更に聖書はこのように語る。

今、多くの教会で、福音が自己啓発や成功哲学のように語られている。「スポーツは身体にいいよね!宗教も生活にいいよね!」というレベルの、自分達の生活をよりよくするための耳障りの良いキリスト教。そこでは再臨も、来るべき神の裁きについても語られることはない。パウロはここで、「もしそうであるなら、クリスチャンに意味はない!」と言っているのである。もし、私達クリスチャンの標準が、この地上に限られるのなら、私達の行動は自己中心的となり、キリストの証人として誤解・中傷されるより、世間に波風立てることなく、自分の身の安全を考えるようになってしまうからだ。
実は、人間にとって最も重要な人生の分岐点がもう一つある。それは、「

では、天国に行くためにはどうしたら良いのか?その質問をイエスに直接投げかけた人の話が、聖書に記録されている。それがルカ10章25-37節にある有名な「良きサマリア人の喩え話」である。仏教の教えでは、一度でも殺生(人でなくとも)をした人、酒を飲んだ人は地獄行きとなる。聖書も罪人は天国に行くことが出来ないと教えている。何故か?天国には警察はないからである。そもそも罪人が天国にいたら、そこはもはや天国ではない。では、いったい誰が天国に行けるのか?そこでイエスは、天国に行く方法が二通りあることを教えている。
一つは、良きサマリア人のように、掛け値なしの徹底した善を行うこと。イエスは28節で、「それを実行すれば命が得られる」と明言しているからだ。確かに世の中がそのような人たちばかりだったら、イエスが十字架につく必要などはなかっただろう。そもそも、イエスを殺そうなどと考える人間は存在していないのだから。
しかし、それは幻想とも言うべき理想論である。良きサマリア人のような人間は、現実にこの世にはいない。だが、存在しなければならない!そういった存在を目指そう!これがこの世のヒューマニズムである。そうする為には滝に打たれ、異性を遠ざけ、断食をし、座禅をし、自分の内の煩悩(自我)を徹底的に消し去る修行が必要だ。
もう一つの方法は、自分の自己中心性と己の力の限界を悟り、自分の罪のために十字架で死んでくださったイエス・キリストを信じ、従うことである。日本人的に言うと、イエス・キリストに帰依する。日本人は、「南無阿弥陀仏」と何の抵抗も疑問もなく祈ることが出来るのだから、「イエス・キリストに帰依します」とも祈れるはず。但し、祈りは念仏とは違うので、意味も分からずにただお題目を唱えれば救われるわけではない。
祈りは、生きた神とのコミュニケーションであり、そこには嘘偽りのない人格的交流がなければならない。南無とは帰依する。阿弥陀仏とは、古代サンスクリット語のアミダーバーを漢字にしたもので、その意味は「永遠の命」。その永遠の命の根拠が、聖書に記されている天地万物を創造された神なのだと、聖書は言っているのだ。
そして福音は浄土宗・浄土真宗と同様、人間側の修行や努力は一切要求していない。だから福音・良い知らせなのである。従って37節、「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスの言葉は、修行や道徳の勧めではなく、自己正当化している律法学者の偽善を見抜き、「本当にあなたにそれができるのか?そんな努力は無駄だからやめなさい。あなたが言った隣人とは、この私のことである。私を信じ、私に従いなさい。」それが、この文脈の真意である。
人は何故教会に来ないのか?その理由を極言すれば、死後の世界観が曖昧だからである。もし、聖書が語る世界観・生死観が事実であることが判明したとしたら、教会はその日から天国の切符を求めて、長蛇の列が出来るだろう。しかし、それは神の御心ではない。神は私達が自主的に自分の自己中心性に気付くことを求めておられるからである。 「


人はある年齢になると、様々なものを吸収し、取り入れるという段階から、自分にとって不必要なものを、切り捨てて行くという段階に以降する。自分の倉から、大切なものと不必要なもの振り分けることは、本人以外には出来ない。それを認識する判断と決断こそが、真実を探求する基となる。イエスの地獄に関する言及は、「神を信じなければ地獄行き!」といった未信者に対する警告ではなく、人々に福音を伝える使命を担った弟子達に対し、福音を語ることの大切さと、天国への鍵を預けられた者としての責任の重さを語られた言葉である。
福祉活動やボランティアが、「可哀想」だけで出来ないように、強い者が弱い者を哀れむかのような上目視線では、老人介護も、福祉も成り立たない。真の福祉活動とは、彼らと共に生きることである。福音宣教も同じ。私達は地獄へ行く可愛そうな人たちに伝道するのではない。伝道とは、神の恵みによって罪赦された者の喜びと開放感を、人々に分かち合う。いや、分かち合わざるを得ない。ただそれだけのことである。
私たちは人々に福音を語る時に、躊躇してしまうことがある。十字架と復活を語ることを恐れ、福音を当たり障りのないこの世的な話題に摩り替えたりしてしまったりする。しかし、立場を変えて考えてみると、彼らが福音を聞くことが出来る機会が、彼らの人生にいったい何回あるのだろうか?彼等はそのことに気付いていないが、彼らにとって私達との会話は、永遠の命を得られるか否かの実に重要なチャンスなのである。
イエスは地獄の話の最後を、「塩」に喩えて語られた。「人は皆、火で塩味を付けられる」とは、試練によって私達クリスチャンが練られ、聖化されることである。旧約聖書(民数18:19、歴下13:5)には、不変の友情の象徴である「塩の契約」が記されている。塩は、混沌とした時代に浸透して、この世の腐敗を防ぐ働きをする。しかも、自分自身は姿を消し、相手を引き立たたせる。
「




「地獄」の存在も、この聖書に記されている「携挙」という出来事も、あり得ない、人間的には全くの想定外である、しかし、東北大震災も、福島第一原発の放射能汚染が事実であったように、それはこれから本当に起って来る事実なのである。福音は、足しても、加えても、薄めてもいけない。何故なら、わたしたちの説得力ではなく、御言葉そのものにパワーがあるからである。そして、聖書に記されている世界観・死生観を正しく理解すること。それが人生を真の意味で有意義なものとし、また、人々を伝道する上において極めて重要なポイントとなる。事実、私達はその世界に向かって、今を生きているのだから。ハレルヤ!!

人生で一番大切なものは「命」ではなく、「使命」である。「命」はその「使命」を果たすために与えられた時間のこと。
「幸福」とは、その使命に殉じて生きている時に自然と湧き上がる充足感のことであり、「幸福」そのものが人生の目的ではない。
従って、求めるべきものは、人生の「幸福」ではなく、人生の「使命」。
人生に必要な「4つの<し>」を合わせれば,必然的に「しあわせ(幸せ)」は生まれる!
エンジェル師によるクリスチャン人生指南の真骨頂!


日本人の祈りは、家内安全、無病息災、商売繁盛に要約される。つまり災いに遭わず、健康で、お金に困らないこと、それが日本人の考える「幸せ」だ。では例えば、最近流行のAKB48の親衛隊活動に夢中になっているお父さん。顔の色艶良く、追っかけできるほど金銭的時間的余裕がある。好きなことに熱中して、災いなど感じない。しかし、そこに人生を賭ける自分の父親をほんとうに「幸せ」と言えるだろうか。本人が満足ならよい?それは他人だから言えることであって、身内に対しては言えるはずなどない。では「幸せ」とは何か。
聖書が語る「幸せ」は聞いてびっくり、愕然とするものだ。イエス様は開口一番こう仰った。「幸いなるかな、貧しき者よ!悲しむ者よ!」初めて聞く人には、時には何度聞いても理解できないだろう。なぜお金がなくて幸いなのか。なぜ災いなどに苦しみ悲しんで幸いなのか。日本人の祈りの真逆と言って良い内容だ。それは、日本人の祈りが表面的な現象を整えるものに過ぎないからだ。人生には絶えず問題がある。大なり小なり、健康、金銭、人間関係諸々について問題がある。その問題と思っていることは、実は問題の基にある原因によって発する現象の数々なのだ。原因を見ることなく、現象にのみ囚われてあたふたし、基を断つことなく、続く表層現象に追われて対応している。ここに根本的な解決への途はなく、現象がなくなることもない。そして真の解決に至らなければ、最終的にはすべての人に定められた「死」によってすべての現象は終わる。聖書は語る。

「死」について尋ねると、およそ次の4つの反応が返ってくる。①縁起が悪いから考えない




幸せに導かれるクリスチャンの使命には、何が必要か、を4つの「し」として語られた。


真理とは、揺らぐことのない物事の根本原理のこと。真実とは、真理によって実際に起こされる事実のこと。嘘でない人生を築くには、確固たる真理が先ず必要である。真理とは、御言葉通りイエス・キリストに他ならない。イエス様を自分の人生の内に受け入れる時、幸せへの一歩を進み出す。


弟子とは、御言葉を正しく理解し、御言葉を実生活に応用させて生き、そこに実際的な解放が起きていることを見る人。イエス様を信じるとは、知識として知るとか、感情で慕うことではない。人生の主(キュリオス)とすること。主とは、生活のすべてを完全に抑えている人であり、初代教会時代にはローマ皇帝を指していた。大衆が皇帝に平伏す中で「わが主はイエス様のみ!」と叫び、その通り従い続けたのがクリスチャン。クリスチャンは、イエス様を自分の人生の主権者としている人。その時、イエス様の弟子として、主の御業が始まるのだ。

信仰とは、本来勉強するものではない。信仰とは、聖書の言葉をただ信じること。「聖書はこう書いてあるけど、、、でもねぇ。」とよく言ってしまう。それは、「この件については聖書より私の考えが正しい。」という自己主張だ。まず、聖書の言葉を信じる信仰に戻る。そして信仰が確立していくのだ。「幸いなるかな、貧しき者よ!悲しむ者よ!」間違えてはならない。イエス様は、貧しさや悲しさを幸いと仰ったのではない。神様からは悪いものは何も出ない。悪い局面にある時、それらに対する信仰的決断と能動的対応を求められる。その決断と対応が幸いなのだ。信仰とはしがみつくことではなく、信頼すること。母猿のお腹にしがみつく子ザルのようではなく、母ネコにくわえられて運ばれる子猫のような「ネコ型信仰」。決して落とさない父なる神様に信頼し、御言葉に従って生きることこそ、幸いへと導かれていく。

ヘブル語で平和を意味する「シャローム」には、心の安らぎ以上に、幸せな良い実際の暮らしというような、生活に根ざした安らぎを意味する。つまり、神様と共に生きることによって生まれる心の平安が、個人のみならず、家庭、教会、社会、世界に実質的に生み出す現実的な働き、真理による真実が、シャロームなのだ。また、ギリシャ語の平和は、「エイレーネー」という言葉だが、これは当時の社会背景も重なり、戦争と戦争の間で戦いがない状態を指す。
聖書では、この「シャローム」と「エイレーネー」が合わさって、人と人、人と神との間に敵対関係がないことによって生まれる心の状態と平和な生活という意味を含んでいる。精神的状態ばかりでなく、実質的な生活においても平穏である状態。イデオロギーや方法論では、真の平和は生まれない。だからクリスチャン一人一人は、出て行って福音を伝え、弟子を作り、真の平和の王であるイエス・キリストの証をし続け、「シャローム」を広げていく。方法はそれぞれ違えども、これを社会に対して示すことがクリスチャンの使命だ。
4つの「し」=「しあわせ」の歩みは小さく、目標達成に程遠いように見える。しかし、リバイバルは想定外の出来事だ。あの地震と津波が、人間の予想を超えたものであったように。アブラハムへの約束は常識を遥かに超えていたものであったように。しかしそれは必ず来る、と聖書は語る。極小に見える「シャローム」の営みが、神様の偉大な全人類救済計画に加わえられ、一人一人が用いられる。ハドソン・テーラーは、「枝になりきることが本望。伝道生活の実現はこれだ。」と言った。枝には枝にしかできない使命がある。
真理であるイエス様を人生の主とし、真実の御言葉に信頼し、「シャローム」を実現させる。それが迫り来るリバイバルに対する実際的な準備、神様の道を備えることなのだ。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。



