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「癒されたい!」、「解放されたい!」と思ったことがありますか?『過去の苦い思い出』、『癒しがたい心の傷』、『現在も囚われているマイナス感情や行動』、『心の葛藤』・・・。現代は、正に『癒しと解放』を必要としている時代です。田中啓介牧師は、「聖書は、人の癒しと解放について書かれた書です。」と、このメッセージで語ってくださっています。それでは、神様のおっしゃる『癒しと解放』とは、どういうことなのでしょうか?そのことを『ナアマンの解放』と言うメッセージから共に考えていきましょう。
ナアマンは、アラムの国の軍司令官。今で言う官房長長官、国の重臣ですね。でも、ナアマンは重い皮膚病にかかっていました。ある時、ナアマンの妻の召し使いであるイスラエルの少女が、「ご主人様がサマリアの預言者のところに行けば、皮膚病が癒されるでしょう。」と彼に提言しました。それを聞いたナアマンは王様のもとに行き、王様からイスラエルの王様に手紙を書いてもらい、イスラエルに送り出してもらいました。
イスラエルに着いたナアマンがイスラエルの王様に会いに行くと、王様は、「お前は言いがかりをつけに来たのか!」と全く取り合ってもらえません。それを聞いた預言者・エリシャは、ナアマンを自分の所に連れて来るように言います。そうしてナアマンがエリシャの家の入り口に来ると、エリシャは使いの者をやり、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」と伝言を伝えました。
ところが、それを聞いたナアマンは怒ってしまいます。なぜなら、彼は、エリシャが自ら出て来て、患部に手を当てて癒してくれることを期待していたのですが、ただ、使いの者が来て、ヨルダン川に行って体を洗えと言うのです。ヨルダン川は、それほど大きな川ではありません。場所によっては、飛び越えられるほどの幅しかない川なのです。沢山水が流れているわけではありませんから、汚く濁っています。そんな川で体を洗っても、かえって、体が汚れるだけで皮膚病が治るとはとても思えない。ナアマンは憤慨してその場を立ち去りますが、彼の家来が近付いて主人をいさめます。ナアマンは家来の話を聞き、エリシャから言われた通りに、ヨルダン川に七度、身を浸しました。そうして、彼の皮膚病は完全に癒されたのです。(列王記下5:1-14)
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神様から『癒しと解放』を受けるための3つのポイントは・・・
1)私たちの思いが私たちの行動を決め、人生を構築する
2)本質が何なのかを知る(自分の思いより神の思いを優先する)
3)謙虚にへりくだる
ナアマンは、自分の召し使いである少女の言葉に耳を傾け、イスラエルに行くことをアラムの王様に願い出、敵国の王に頭を下げ、預言者・エリシャの家の前までやって来ました。ナアマンの「皮膚病を治したい」と言う『思い』が、イスラエルに行くと言う『行動』を起こさせたのです。この一歩がなければ、ナアマンの病が癒されれることはありませんでした。
私たちの思いは、どこにあるのでしょう? 自分自身が抱えている問題が神様によって解決されることを信じていますか? 聖書には『人は自分の蒔いたものは、また刈り取ることになる』(ガラテヤ6:7)とあります。仏教用語にも『因果応報』と言う言葉がありますよね。私たちの思いが、私たちの行動を決定し、その行動が結果を導き出すのです。
自分の抱えている問題が自分の手に余るような大きなものでも、神様に『癒しと解放』を真剣に祈り求めるなら、神様は必ず私たちを病から癒し、あらゆる束縛から解放してくださいます。神様は、私たちを愛してくださっています。私たちが生き生きと神様の与えてくださった人生を歩むことを神様は、誰よりも望んでいらっしゃいます。私たちの解放を阻む理由は、神様側には何もないのです。
しかし、ここで、一つの問題が生じます。私たちの思いは、いつも、私たちにとって良い結果をもたらすでしょうか? ナアマンは、エリシャが自ら出て来て、彼の患部に手を当てて癒してくれることを願っていました。しかし、エリシャは、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。と、使いの者を通してナアマンに言っただけでした。
ナアマンは怒りました。はるばる他国から、癒しを求めてエリシャの家の前まで来たというのに、エリシャからは挨拶の一つもない。手を置いて祈ってくれるのでもない、ナアマンはひどく自分のプライドを傷付けられたのです。ナアマンは折角、癒しの入り口迄来たのにも関わらず、本来癒しとは全く関係のないことに腹を立て、癒しの機会を自ら棒に振ろうとしました。
ナアマンの目的はただ一つ、病が癒されることです。挨拶どうのとか、プライドがどうしたとかと言うことは、癒しとは全く関係がありません。確かにエリシャの行動は、ナアマンの期待に沿うものではなかったかも知れません。ですが、エリシャは「ヨルダン川に行って七度身を浸しなさい」と、ナアマンが癒される方法をちゃんと提示しているのです。
私たちは、この時のナアマンのように、あまりに自分の思い、プライド、都合に囚われているのではないでしょうか? 私たちの思いには、限界があります。しかし、神様は私たち一人一人を創造された、全知全能のお方です。神様を第一優先にする時、私たちの思いをはるかに超える奇跡がもたらされるのです。
そして最後に私たちは、『へりくだる』必要があります。ナアマンは、汚れたヨルダン川に身を浸すなんてばかばかしいと、最初は怒りましたが、結局彼は、家来の言葉を聞き入れ、それを実行しました。また、彼はヨルダン川に身を浸すために、自分の身につけている物を全て取らなければなりませんでした。
いつも鎧や勲章に身を固めたプライド高き軍人である彼が、裸になって皮膚病に侵された肌をさらけ出したということは、ナアマンのとって万の大軍と戦うよりも勇気が必要だったことと思います。これは、彼が自分の弱さをあらわにし、へりくだったことを意味します。『へりくだる』と言うことは、自分のありのままの姿をあらわにするということです。
そして、なおかつ、ヨルダン川と言う、死海(世界でいちばん低い所)に流れ込む川に身を浸すと言うことは、自分の身体をいちばん低くしなければならないことを表しています。これこそ『真にへりくだる』ということの象徴ではないでしょうか?
私たちが心からの素直な願いを神様に差し出す時、神様は、私たちにどうしたら良いかを教えてくださいます。そして、私たちが、神様の思いをへりくだって行う時、真の『癒しと解放』が与えられます。全知全能の神様が私たちの祝福のために共に歩んでくださることを覚えて歩んでまいりましょう!