Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

旧約の中の新約 エレミア31:31-34

2007年09月30日 | Celebration
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 聖書には「旧約」と「新約」の二つがある。「約」は「訳」ではなくて、約束の「約」。神様が「新しい契約を結ぶ」と本日の御言葉で語られたように、神様が人間と交わした「旧(ふる)い契約」と「新しい契約」が聖書のメイン・テーマ。聖書は、神の民となるための約束の書なのだ。

 欧米諸国と異なり、日本人は契約観念が希薄だ。単一民族で基本的思考が同一であり、主張することが「和」の精神に相反すると見なされること、コネ社会であること、長年の封建関係による不完全な個の確立等々がその理由の根底にある。

 だから、多くの日本人は「契約」を、支配的、威圧的、束縛的なものと感じてしまう。日本で聖書が受け入れられない第一の理由はここにあるのかもしれない。しかしこの神様との契約関係の理解は、福音の核となる大切な概念である。だから、誤解をなくして契約本来の意味を正確に理解しよう。

 誤解1:契約は本来、対等な力関係間で為されるもの。支配者と被支配者間には契約ではなく、従属か死の二択しかない。つまり創造主と被造物間に契約があるのは、神様の恩恵に他ならない。神様は、私たちを守るためにこの契約を作られたのだ。

 誤解2:意識していなくても、社会生活に契約は不可欠だ。交通ルールも、法規条令も契約の内。こういった取り決め事項は円滑に共同生活を営む上で絶対必要であり、違反者には距離を置き、契約破棄にペナルティが伴うのは当然。間違えてはならない、ペナルティが目的ではない。生活を守るための防御策として。神様との契約も同じで、外れることは途方もない、滅びと言うペナルティが課される。旧約聖書のイスラエルの民の歴史から、その事例を十分過ぎるほど学ぶことができる。

 誤解3:新しい契約下では、イエス様と私たちの関係は夫婦関係に喩えられている。夫婦間の契約とは、愛と信頼の上に互いに仕え合うこと。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)」とイエス様が仰ったように、愛は律法を包括する。神様との契約は愛に根差している。

 誤解4:私たちの救い、購い、赦しは、契約の上に継続して成り立っている。旧約に書かれている幕屋での礼拝、聖霊時代の教会での礼拝、そして天上での礼拝は繋がっている。一貫したこれらの礼拝によって、永遠の命が約束され続けている。その背後にあるイエス様のとりなしによって。

 イエス様は、最後の晩餐の席で弟子たちにこう語られた。 「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。(ルカ22:20)」

 私たちはこの契約を心に刻んで、新生する。そして、愛し愛される神様との契約を守っていくのだ。その時、神様が応えて下さる。 「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」と。

証しメッセージ フィリピ2:12-13

2007年09月23日 | Celebration
願いをあきらめてしまっていませんか?「神様はすべてをご存知で、私たちの内に働いて思いを起こしてくださいます。」と、過去の出来事を通して知った神様の御業と導きのお証しでした。

主はすべての国を超えて高くいまし
主の栄光は天を超えて輝く。
わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。
主は御座を高く置き
なお、低く下って天と地を御覧になる。
弱い者を塵の中から起こし
乏しい者を芥の中から高く上げ
自由な人々の列に 民の自由な人々の列に返してくださる。
子のない女を家に返し
子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ
(詩篇113:4~9)

天国の住人と管理人 ヘブル 12:22-28

2007年09月16日 | Celebration
 損得勘定。それは人間の多くの行動エネルギーの源であり、本性である。教会に閑古鳥が鳴いているのも、ここに理由がある。世の人々は、教会こそがこの世で最も『得』な場所であることを知らないからだ。何故知らないか。人は死んだらどうなるかをわからず、わかろうともせず、死後の世界に対する認識が曖昧なまま人生を送るからだ。知らないこと、また知りえないことを追求せず、日々の雑事にのみ追われ行く刹那的短絡人生。まさに聖書にあるとおり。

もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。(Ⅰコリント15:32)

 神様が創造された人間はそんな軽く、浅いものだろうか。天国も地獄も御伽話だろうか。イエス様の十字架は茶番劇だろうか。聖書は生ける神様の言葉。神様は、人間に知ってもらいたいことを語られる。自然を通し、人間を通し、啓示を通し、そして聖書を通して。聖書には、「生と死」について幾度となく記されている。イエス様は「死」との戦いに勝利されて復活された。神様は何度も、そして何としてでも、「永遠の命」と「永遠の滅び」について私たち人間に知らせようとなさっているのだ。聖書に触れ、「死後の世界」の正しい知識と明確なヴィジョンを持ってはじめて、この世に生かされている真の意味がわかり、生きがいを知る。その時、私たちの過ごしている一瞬、一時、一日は、決して消えたり「無」になるものではなく、日々一刻一刻の思いと歩みが、かの裁きの日に神様の前に献げられるものであることを実感できるのだ。

 ルカ16章にある金持ちとラザロの話を取り上げて、「死後の世界観」を確認する。「天国」と「楽園」は違っており、また旧約聖書時代やユダヤ人が死後の世界とする「陰府(よみ)」と、永遠に神様から離れてしまう「地獄」も違う。「天国 (Heaven)」、「楽園 (Paradise)」、「陰府 (Hades)」、「地獄 (Hell)」はそれぞれ別物と聖書は教えてくれる。聖書が言う『死』には、霊が肉体から分離する『肉体の死』と、霊が神から分離する『霊的死』の二つがある。この金持ちがいる場所と、ラザロのいる場所、これらの「死後の世界」を垣間見、知ることができる。エルサレムよりもヨルダン河よりも、私たちがいずれ行く天国のことを、もっともっと知ろう。聖地旅行や巡礼パンフレットを見る前に、知るべき答えはすべて聖書にある。

(1) 救いとは何なのか?
(2) 救われるにはどうすればよいのか?
(3) 救われた後はどうすればよいのか?

 聖書の奥義は、この3点に要約される。この神様の思いをどれだけ受け取れるかが、キリスト者としての資質に磨きをかける。イエス様を信じていれば、天国への切符を持つ。(1)(2)をクリアして、晴れて天国住人になることができる。ハレルヤ! しかし嘆くべきことに、世の多くのクリスチャンがここで歩みを止めてしまっている。つまり、自分の救いだけで手一杯で、他人の救いにまで手が回らないのだ。キリストの弟子たる者、これではいけない!(3)へ進んで、天国の管理人とされよう。

わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。(ヨハネ8:31)

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:18~19)

 今や収穫の時。収穫は福音の鎌を持つ弟子に任された務め。神の国を広める務めを遂行する時に得る充足感こそ、キリスト者の幸福となる。実は自らのためではなく、それを取って食べる他の人のためだ。「受けるよりも与える方が幸いである。」、この言葉が真実だ。御言葉に聞き従おう。神様の思いに応じた労苦は、何一つ無駄になることはない。神様は私たちの一挙一動をすべて見ておられ、私たちと共に喜びたいと望んでおられるのだから。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。(ローマ8:14、16~17)

選ばれし者の責任 ヨハネ10:22-30

2007年09月09日 | Celebration
 あなたの人生が最期を迎える時、周りに誰がいるだろう?愛する家族?友人たち?仕事仲間?そばにいて欲しい誰かが共にいるなら、幸いだ。しかしそれでも「死」の訪れは、愛する者との離別による圧倒的な孤独を人間に感じさせるだろう。そして、その先には二つの世界がある。神様との完全なる離反による暗闇の世界と、神様と共にいる光に満ちた希望の世界。ここでキリスト者は否が応でも気付くはずだ、真の神様と出会っていること、そして心を分かち合う霊の家族が共にいるという奇跡の意味を。

 人生において誰と出会うか、ということは思っている以上に大切だ。人間は触れるものに影響されるからだ。キリスト者は、信仰へ導いた仲間と出会い、神様に出会った。神様の声を聞いたのだ。しかし、その声が聞こえない人がいる。耳を閉ざしている人がいる。救いを得ていない人たちだ。どうして彼らには声が届かないのか。届いている。ただ、彼ら自身が持っている「神様」概念に合致しないという理由で、それを「神様の声」と認められないのだ。二千年前、イエス様を認めなかったユダヤ人たちもそうだった。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』

 「神はいない」「神がいるかどうか、わからない」「神はいるが、イエス・キリストとは限らない。」救いを得られていない人はこのように語る。それは、単に自分の望み通りの「カミ」を求めているだけではないだろうか。自分にとって一番都合よく、自分を一番正当化してくれる「カミ」を。それは「神」ではなく、自我の投影でしかない。真の神様は、私たち人間の理解、都合、理屈を遥かに超える。全知全能、すべてのものの創り主なる神様だ。創られた人間が、創った神様を理解して超えていくということがあるだろうか。

天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。

 私たちはどうしてキリスト者となったのか。答えはひとつ。神様の声を聞いたからだ。羊飼いの呼ぶ声を聞いた羊のように。羊という動物は、角も牙もなく、雄叫びや吠え声もなく、逃げるにしても鈍足で、方向音痴に加えて帰巣本能も持っていない。羊飼いが共にいてくれなければ、餌を探すことも、生きていくこともできない、ほんとうに弱い動物なのだ。そんな羊の秀でた一芸は、自分の羊飼いの声を聞き分けることができる、ということ。そして羊飼いは、自分の羊を見分けることができるそうだ。羊飼いにとっては、“十把一絡げ”ではない。大切な一頭一頭として慈しみ、命を懸けて守ってくれる。それが羊を愛するよき羊飼い。そしてこれが、私たちと神様の関係。キリスト者は、愛する父なる神様の声を聞き分けることができたのだ。

 人間の罪は、神様との関係の断絶をもたらした。神様との関係喪失は、人間同士の関係破綻にも及んだ。定められた秩序を壊し、カインとアベル、イサクとイシマエルの兄弟関係は神様に背き続けた結果だ。しかし神様は回復のために、敢えて黙され、人間を信頼してくださった。人間の力に任せてくださったのだ。そして数々の苦難を経てヤコブとエサウが和解したことによって、人間は神様との和解に向かい始めた。確かに回復への一歩を踏み出したのだ。

 その後も羊飼いの声を聞かずに弱り果て、滅んでいく羊のために、命を捨てたなだめの祈りの実践者、イエス様は、「わたしがあなたがたを選んだ」、「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」と羊を安心させてくださった。そして、十字架上でその責任を完遂された。ならば、選ばれた私たちの責任は?選ばれた主の羊がすることは?羊のできることは、ただ一つ。無い牙を研ぐことをせず、逃げ足の速い鹿やウサギを真似ることもせず、神様が与えてくださった素晴らしい素質を働かすこと。そして、羊飼いの声を聞き分け、どこまでも付いていくのだ。さあ、主に従っていこう、緑の牧場、憩いの汀まで。

ナアマンの解放 Ⅱ列王5:9-14

2007年09月02日 | Celebration
「癒されたい!」、「解放されたい!」と思ったことがありますか?『過去の苦い思い出』、『癒しがたい心の傷』、『現在も囚われているマイナス感情や行動』、『心の葛藤』・・・。現代は、正に『癒しと解放』を必要としている時代です。田中啓介牧師は、「聖書は、人の癒しと解放について書かれた書です。」と、このメッセージで語ってくださっています。それでは、神様のおっしゃる『癒しと解放』とは、どういうことなのでしょうか?そのことを『ナアマンの解放』と言うメッセージから共に考えていきましょう。

 ナアマンは、アラムの国の軍司令官。今で言う官房長長官、国の重臣ですね。でも、ナアマンは重い皮膚病にかかっていました。ある時、ナアマンの妻の召し使いであるイスラエルの少女が、「ご主人様がサマリアの預言者のところに行けば、皮膚病が癒されるでしょう。」と彼に提言しました。それを聞いたナアマンは王様のもとに行き、王様からイスラエルの王様に手紙を書いてもらい、イスラエルに送り出してもらいました。

 イスラエルに着いたナアマンがイスラエルの王様に会いに行くと、王様は、「お前は言いがかりをつけに来たのか!」と全く取り合ってもらえません。それを聞いた預言者・エリシャは、ナアマンを自分の所に連れて来るように言います。そうしてナアマンがエリシャの家の入り口に来ると、エリシャは使いの者をやり、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」と伝言を伝えました。

 ところが、それを聞いたナアマンは怒ってしまいます。なぜなら、彼は、エリシャが自ら出て来て、患部に手を当てて癒してくれることを期待していたのですが、ただ、使いの者が来て、ヨルダン川に行って体を洗えと言うのです。ヨルダン川は、それほど大きな川ではありません。場所によっては、飛び越えられるほどの幅しかない川なのです。沢山水が流れているわけではありませんから、汚く濁っています。そんな川で体を洗っても、かえって、体が汚れるだけで皮膚病が治るとはとても思えない。ナアマンは憤慨してその場を立ち去りますが、彼の家来が近付いて主人をいさめます。ナアマンは家来の話を聞き、エリシャから言われた通りに、ヨルダン川に七度、身を浸しました。そうして、彼の皮膚病は完全に癒されたのです。(列王記下5:1-14)

 神様から『癒しと解放』を受けるための3つのポイントは・・・

1)私たちの思いが私たちの行動を決め、人生を構築する
2)本質が何なのかを知る(自分の思いより神の思いを優先する)
3)謙虚にへりくだる

 ナアマンは、自分の召し使いである少女の言葉に耳を傾け、イスラエルに行くことをアラムの王様に願い出、敵国の王に頭を下げ、預言者・エリシャの家の前までやって来ました。ナアマンの「皮膚病を治したい」と言う『思い』が、イスラエルに行くと言う『行動』を起こさせたのです。この一歩がなければ、ナアマンの病が癒されれることはありませんでした。

 私たちの思いは、どこにあるのでしょう? 自分自身が抱えている問題が神様によって解決されることを信じていますか? 聖書には『人は自分の蒔いたものは、また刈り取ることになる』(ガラテヤ6:7)とあります。仏教用語にも『因果応報』と言う言葉がありますよね。私たちの思いが、私たちの行動を決定し、その行動が結果を導き出すのです。

 自分の抱えている問題が自分の手に余るような大きなものでも、神様に『癒しと解放』を真剣に祈り求めるなら、神様は必ず私たちを病から癒し、あらゆる束縛から解放してくださいます。神様は、私たちを愛してくださっています。私たちが生き生きと神様の与えてくださった人生を歩むことを神様は、誰よりも望んでいらっしゃいます。私たちの解放を阻む理由は、神様側には何もないのです。

 しかし、ここで、一つの問題が生じます。私たちの思いは、いつも、私たちにとって良い結果をもたらすでしょうか? ナアマンは、エリシャが自ら出て来て、彼の患部に手を当てて癒してくれることを願っていました。しかし、エリシャは、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。と、使いの者を通してナアマンに言っただけでした。

 ナアマンは怒りました。はるばる他国から、癒しを求めてエリシャの家の前まで来たというのに、エリシャからは挨拶の一つもない。手を置いて祈ってくれるのでもない、ナアマンはひどく自分のプライドを傷付けられたのです。ナアマンは折角、癒しの入り口迄来たのにも関わらず、本来癒しとは全く関係のないことに腹を立て、癒しの機会を自ら棒に振ろうとしました。

 ナアマンの目的はただ一つ、病が癒されることです。挨拶どうのとか、プライドがどうしたとかと言うことは、癒しとは全く関係がありません。確かにエリシャの行動は、ナアマンの期待に沿うものではなかったかも知れません。ですが、エリシャは「ヨルダン川に行って七度身を浸しなさい」と、ナアマンが癒される方法をちゃんと提示しているのです。

 私たちは、この時のナアマンのように、あまりに自分の思い、プライド、都合に囚われているのではないでしょうか? 私たちの思いには、限界があります。しかし、神様は私たち一人一人を創造された、全知全能のお方です。神様を第一優先にする時、私たちの思いをはるかに超える奇跡がもたらされるのです。

 そして最後に私たちは、『へりくだる』必要があります。ナアマンは、汚れたヨルダン川に身を浸すなんてばかばかしいと、最初は怒りましたが、結局彼は、家来の言葉を聞き入れ、それを実行しました。また、彼はヨルダン川に身を浸すために、自分の身につけている物を全て取らなければなりませんでした。

 いつも鎧や勲章に身を固めたプライド高き軍人である彼が、裸になって皮膚病に侵された肌をさらけ出したということは、ナアマンのとって万の大軍と戦うよりも勇気が必要だったことと思います。これは、彼が自分の弱さをあらわにし、へりくだったことを意味します。『へりくだる』と言うことは、自分のありのままの姿をあらわにするということです。

 そして、なおかつ、ヨルダン川と言う、死海(世界でいちばん低い所)に流れ込む川に身を浸すと言うことは、自分の身体をいちばん低くしなければならないことを表しています。これこそ『真にへりくだる』ということの象徴ではないでしょうか?

 私たちが心からの素直な願いを神様に差し出す時、神様は、私たちにどうしたら良いかを教えてくださいます。そして、私たちが、神様の思いをへりくだって行う時、真の『癒しと解放』が与えられます。全知全能の神様が私たちの祝福のために共に歩んでくださることを覚えて歩んでまいりましょう!